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2014年9月25日

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◆スコットドッコイ!

 さて、前回も話題にしたスコットランドの独立の是非を問う住民投票は9月18日に実施され、蓋を開けてみたら10ポイントほどという思いのほかの差をつけて「独立反対」が多数を占めた。9月初めについに賛成が反対を上回って大騒ぎとなり、キャメロン首相ら政治家たちも慌てて現地入りして独立反対を呼びかけ、ついには女王エリザベス2世までが「慎重に判断を」という遠回しな言い方ながら独立への懸念を表明する事態にもなったのだが、投票直前までは反対が少し巻き返して賛成を数%上回る程度だったのでどっちに転んでも僅差だろうとの予測があった。しかし現実の投票になってみるとやはり独立を躊躇する無党派層が多く投票したらしい。開票の序盤で独立賛成派の地盤でも反対が上回ってしまう結果が出た時点で各メディアは「流れは決まった」と報じていた。独立賛成派が多かったのは大都市部くらいで、人口とは別に地域的には圧倒的に反対が多かったようにも見える。独立賛成派にとっては直前に盛り上がっただけに結構ショックだったのではなかろうか。

 ただ、なんとなくそんな結果になるんじゃないか、との観測が多かったのも事実。何事にも敏感な読みをする市場関係者は最初からこんな結果だろうと予測していて特に大きな動きは見せなかったし、イギリス名物のブックメイカーの賭け率も反対派の勝利の方が率が低かった(つまりそっちが有力と見られていた)。似た前例として、カナダのケベック州(フランス系住民が多い)の独立を問う住民投票でも事前はもっと優勢と見られていた独立派が結局過半数はとれなかったケースも引き合いに出されていた。
 まぁ冷静に考えればスコットランドだけでやっていくというのはいろいろと経済的に難しいところはあるだろう。スコットランドの名物で重要な輸出品であるスコッチ・ウイスキーの業者団体が明確に独立反対を表明したのも、意外と影響が大きかったんじゃなかろうか、などと酒好きは思っちゃうのだが(笑)。それにしてもNHKときたら、このニュースにからめて「国内の反応」として次の朝の連ドラゆかりの地やらドラマの監修者やらを引っ張り出して盛大に宣伝に利用してましたな(笑)。

 前回「現実的な話をすると、僅差で否決された方がスコットランドに見返りが大きい」ってな話を書いた。そして実際にキャメロン首相は自治権の拡大を約束するなど「アメ」をいろいろ提示し、反対多数を勝ち取ったわけなんだけど、その差が10ポイントというのはかなり微妙な結果。僕自身は5%以内の僅差で否決になるんじゃないかと読んでいたので結構開いちゃったと思ったのだが、実際独立否決の結果にホッとしたイギリス政界もこの数字に強気になったのか、キャメロン首相の提示した「アメ」について反対の声も上がりだした。スコットランド以外の地域との釣り合いの問題もあるし、当初の自治権移譲話もなんだか雲行きが怪しくなって来たんじゃ…?なんて報道も出て来ている。スコットランドに自治権を拡大する以上はイングランドにもそれをしないと、ということになるのだが、そのイングランドへの自治権拡大の法案についてはイングランド出身の議員しか参加できないという方向が示され、スコットランドでは強いがイングランドでは少数派の労働党が反発しているという話もあった。こんなところにも「イギリス」が実質イングランドであることの矛盾が垣間見える。
 あれこれ問題は出て来ているが、だからといってスコットランドがもう一度投票やり直し、ってわけにもいきそうにない。住民投票が実現したこと自体が異例の事態だったわけで、少なくとも今後一世代はやらない(およそ30年くらいだろうか?)と決められてもいるので、独立派にとっては当分チャンスはめぐってこない。「独立したスコットランドにしか帰らない」と言ってるらしいショーン=コネリーなんか、有言実行であれば生きているうちには帰れそうにない。

 さて、スコットランドがもし独立なんてことになると、他のEU内での独立運動を刺激してしまうのでは、という声もあった。特にスペインからの独立運動が盛んなカタルーニャ地方ではスコットランドの動きに大いに注目が集まっていて、結局独立が否決されると独立派指導部からはかなり露骨に悔しがる声が上がっていた。
 それでもカタルーニャ議会は独立の是非を問う住民投票を定めた条例を成立させた。しかしスペイン政府はこの条例を「憲法違反」と批判し、そもそも住民投票自体を違法なものとして認めない姿勢を示している。カタルーニャは経済的自立の可能性はスコットランドよりはるかに高く、スペインとしては断固認めるわけにはいくまい。
 毎日新聞が記事にしていたが、実は日本でも他人ごととは思われていなかった。政府関係者や与党政治家たちの間ではスコットランド独立が沖縄独立論に火をつけるのではないかと懸念する声も実際にあったようなのだ。前回も書いたがほんの150年前まで独立国だったわけだし、その後の歴史的経緯もあって決して多数派ではないものの「沖縄独立」の声自体は根強く続いているのは確か(余談だが、「ゴルゴ13」の一編で沖縄出身の優秀な幹部自衛官が独立を画策、旧王族関係者の依頼でゴルゴが阻止する、というものがあった)。今度の一件は、世界中どこでも現在の枠組みの国家なんてのが所詮は共通幻想に基づいたあぶなっかしいものだということを分からせてくれたし、自国内における少数派勢力に対する対応について考えさせるきっかけにはなっただろう。

 ところでCNNによると、スコットランド独立の是非を問う投票が行われた同じ日、スコットランドの名門ゴルフクラブ「ロイヤル・アンド・エンシェント・ゴルフ・クラブ・オブ・セントアンドルーズ」で、ある重大な決定に関するクラブ会員による投票結果が明らかにされた。これまで男性に限っていた同クラブの会員について、やっと女性にも門戸を開くことを認めた、というのである。これまでも女性のプレー自体は可能だったが、クラブハウスに入ったりクラブの意思決定に参加するといったことは認められていなかったのである。まだそんなのが、と思ってしまうところだが、女性差別というよりは、なまじ伝統あるクラブだけに昔からの伝統をそのまんまにしていた、ということなのだろう。そういやタイガー=ウッズも「アメリカにはまだ黒人が入ることを認めないゴルフ場がある」なんて発言もしていたな。
 なお、この女性会員を認める件についての会員投票は、全投票数の85%という圧倒的多数が賛成で、独立騒動ほどはモメなかったようである。



◆「李香蘭」も歴史の彼方へ

 前回の「史点」アップ直前にひとつの訃報が飛び込んできた。元女優でワイドショー司会者にして元参議院議員であった山口淑子さんが94歳の高齢でついに亡くなったのだ。もちろん彼女は「山口淑子」としての後半生だって十分に有名なのだが、やはり戦前の一時期に「李香蘭」の名で活躍した大スターとしての知名度の方が抜群に高い。あまりに有名であるために彼女を主人公にした舞台やTVドラマが作られたほか、戦中満州を題材にしたフィクション作品でもしばしば顔見せ的に登場しており、ずいぶん前から史実と創作のはざまを揺れ動く「歴史人物」と認識されていたように思う。名前だけ拝借した「二次利用」のケースもあるので、つい先日まで存命だった実在人物であることを知って驚いた若い世代も少なくなかったんじゃなかろうか。

 李香蘭こと山口淑子が生まれたのは1920年。生まれも満州の撫順で、父親は当時の中国通の一人で、満州に渡って「満鉄」の日本人たちに中国語を教える仕事をしていた。この手の中国通にはいろんなタイプがあるのだが、彼女の父親は非常に親中国的姿勢で、それは娘の淑子にも強い影響を与えているようだ。この父親が中国人の李際春という将軍と親しく、淑子をその義理の娘扱いとし(親同士が義兄弟的関係になる際、互いの子に名をつけるという習慣があるそうで)、その際につけられた名前が「李香蘭(リー=シャンラン)」だった。
 こういう環境にあったため彼女は日本語も中国語(北京語)も完璧なバイリンガルとなり、北京の女学校(ミッション・スクール)で中国人に囲まれて中国名で学んでいた。日中戦争勃発前年の1936年にその女学校で「もし日本軍が迫ってきたらどうするか」との同級生たちの問いに「北京の城壁に立つ」と答えたとの逸話がある。18歳の時に初めて日本に渡ったが、中国人と思い込んでパスポートを見た入管職員から「支那語をしゃべって恥ずかしくないのか」と怒鳴られ、日本の中国人蔑視ぶりにショックを受けたとの体験も話しており、そうした事例を彼女は戦後もあちこちで語っている。

 18歳の時の1938年に「満州映画協会(満映)」専属の中国人歌手・俳優「李香蘭」として華々しくデビューする。「満映」は日本の国策映画会社で、そのトップに謀略活動で名高い甘粕正彦がいた(その地位に据えたのが満州国建設に深く関わった現首相の祖父・岸信介)。「満映」は国策映画会社であるだけに日本の大陸進出を肯定し「五族協和」スローガンを宣伝する映画を製作する狙いがあったわけだけど、その中で「李香蘭」はそのずば抜けた美貌(現在見られる各種写真でもそれは良く分かる)と歌唱力、中国人そのものとしか思えない北京語が重宝され、「日本に理解を示す中国人」という役回り(台湾先住民の役も演じている)が国策に沿うと同時に娯楽映画のスターとしても「満映」の大きな財産となった。
 実際、当時の李香蘭は満州・日本で大変な人気で、中国の映画会社と満映合作のアヘン戦争映画(日本側としては「反英」プロパガンダのつもりが中国側では「抗日」の比喩ととった)に出演したことで中国でも大変な人気者となっている。中国でも彼女は完全に中国人と思われており、記者会見で中国の記者から「なぜ日本のプロパガンダ映画に出るのか、中国人の誇りはどこへ捨てた」と問い詰められて「二十歳前後の分別のない頃の過ち。二度としません」とはっきり答え、喝采を浴びたという逸話もある。

 1945年8月に敗戦となり、満州国も満映も崩壊。甘粕は服毒自殺した(この現場に名匠・内田吐夢監督が居合わせた事実をつい先日読んだ内田吐夢伝で初めて知った)。李香蘭を妹のようにかわいがったという川島芳子は「漢奸(売国奴)」として処刑され、李香蘭も中国人と思われていたため、やはり同列の「漢奸」として処刑されかかったが、戸籍謄本が届けられて日本人であることが立証され、処刑は免れることになった。しかし戦中の活動はやはり彼女には深い負い目となったようで、戦後は自らの体験に基づいて積極的に日本の侵略行為を認め、日中の橋渡し役を自ら任じて数々の発言を行っている。

 戦後は日本に帰り、本名の「山口淑子」の名前で芸能活動をしている。黒澤明が脚本に関わり、谷口千吉が監督した「暁の脱走」で朝鮮人の従軍慰安婦役を自ら買って出たが(彼女自身、多くの悲惨な境遇の慰安婦たちを見たと証言し、後年支援活動にも関わっている)、当時のGHQはその設定に難色を示して単なる慰安訪問の歌手に変えさせている。黒澤明監督作品では、松竹映画「醜聞(スキャンダル)」にのみ出演していて、黒澤映画の顔・三船敏郎(調べてみたら同い年だった)と共演している。この映画での山口淑子は有名美人声楽家の役で、画家役の三船と偶然旅先の宿で一緒にいるところを写真に撮られて「熱愛」とスキャンダル報道をされてしまい、裁判に訴えるという展開。ちなみに彼女の出演作で僕が見てるのはこれ一作だけだったりする。
 戦後も日本のみならず海外作品にも出演するなどかなりの活躍ぶりで、彫刻家イサム=ノグチと結婚して離婚、その後外交官と結婚など、プライベートでも波乱万丈だった。再婚を機に女優業を引退したが、1969年からTVワイドショー「3時のあなた」の司会者として活躍、1973年に「連合赤軍事件」が起こると、当時ベイルートにいた赤軍メンバー重信房子に電話インタビューを行い、「赤軍派が仲間を殺しまたのをご存じですか。ご意見をお聞かせ下さい」と突撃で感想を求めるなんて「歴史的」な一幕も演じている。TV番組の企画で北朝鮮を訪問して金日成主席に面会したこともあり、この時のことらしいのだが(あるいは後の議員訪朝団のときか)向こうから「李香蘭さん」と呼びかけられ(金日成も満州にいた時期に彼女の映画を見ていたのだ)、過去の負の記憶を思い起されて非常に恥入ったと何かでコメントしているのを見たことがある。

 1974年には田中角栄から頼まれて自民党から参議院全国区に立候補、人気ワイドショー司会者だけにあっさり当選(この参院全国区はタレント候補が多くて有名だった)、政治家としてのキャリアも歩むことになる。参院議員を三期18年つとめて1992年に政界引退。その後は先述の慰安婦問題にも関わり、償い事業の平和基金の呼びかけ人にもなっている。
 その後はあまり表に出て来なかった気がするのだが、東京新聞に出ていた話では2005年に当時の小泉純一郎首相の靖国神社参拝騒動に関する取材に対し「自国の加害行為に目をつぶり、独り善がりの美しい歴史につくり変えてはいけない」「『アジアを解放するための戦争だった』というのは後から付けた理屈だった。日本には当時、アジア蔑視の考え方があったのに、『アジア解放』と言っても理解されない」と発言したという。そういうこともあってだろう、今回の訃報の対して中国政府が公式に追悼コメントを発している。

 この「史点」もなんだかんだで長くやってて、張学良とか宋美齢とか、「まだ生きてたの?」と思っちゃうような現代中国史の人物たちの訃報を扱ってきたが、「李香蘭」の訃報もその系統と言っていいだろう。同時に戦後日本の政治史、芸能史、外交史の断面を飾る存在でもあった。「先の大戦」もこうして確実に歴史の彼方の記憶になっていってしまっている。



◆名画が叫びをあげている

 絵画史で「印象派」といえば、マネモネルノアールゴッホなどなど大物ぞろいで重要なグループとされているが、出てきた当初の世間的評判はかんばしいものではなかった。それまで絵画と言えばまるで写真のように写実的に描くのが当たり前だったところへ、彼らはいかにも絵の具を塗りたくったような「絵」を描いた。いま「写真のように」と書いちゃったが、まさにその写真が登場したために絵画の方向転換を余儀なくされた現象とも言える。実は「印象派」という名前も彼ら自身が名乗ったものではなく、彼らのような傾向の絵の展覧会を見た新聞記者が、モネの作品「印象・日の出」を引き合いにして「彼らは“印象”派だ」と記事の中で揶揄したのがきっかけとされている。
 この「印象・日の出」、ネット検索をかければいくらでも画像が拝めるが、その記者の気分もわからないではない。霧の立ち込める朝のルアーブル(セーヌ川河口の港町)の港に朝日が昇って来る光景を、まさに絵の具を塗りたくって「ぼんやり」と描いた作品で、実のところ今日の僕らが見ても「なんだか雑な絵だな」と思っちゃうはず。しかしこの作品が、作り手も命名者も意図せぬところで「印象派」の名前の由来となっちゃったのである。

 この「印象・日の出」は1872年と日付があり、その時の「印象」をもとに1873年に描かれたとされている。するってぇとアルセーヌ=ルパンが生まれる前の年だな、とつぶやいちゃうのがルパンファンのサガというやつだが、あの美術品鑑賞眼の高い泥棒ルパンも印象派の絵画に興味を示した様子はなく(「怪盗ルパンの館」というサイトでルパンの盗品が調べられるぞ!)、20世紀初頭まで印象派絵画の一般的扱いはやっぱり低かったということなんだろう。なお「印象・日の出」は1980年に実際に盗難にあい、1990年に取り返されている。
 それはそうと、この「印象・日の出」だが、「日の出じゃなくて、日の入りなんじゃないの?」というイチャモンが古くからあったそうで。絵を見ればお分かりになるが、この絵では太陽が水平線近くに上がっているように見え、水面にその赤い光が反射している。この絵のモデルとなっているルアーブルはフランス西部の大西洋に面する待ちだから、普通に考えると水平線は西にあるものと考えてしまう。西から日の出があるわけないから、これは「日の入り」なのではないか、との声があったのだ。しかしモネは明確に「日の出」と題しているわけで、勘違いとも思えない。地図を見るとルアーブルはセーヌ河口にあり、見る角度によっては日の出がこんなふうに見えるんじゃないかと。
 それでとうとうアメリカはテキサス州立大学の天文学者がこの問題に決着をつけるべく、モネが当時泊まっていたルアーブルのホテルの部屋からこのような「日の出」が見えるのがいつなのかを計算した。そして「1872年11月13日午前7時35分」ごろならこうなる、という精密な結果を打ち出したのだそうな。何年か前に「巨人の星」はどの星なのか、漫画の絵から推理した話もあったっけな、と連想してしまった。


 さて印象派で最大の大物と言えばやはりゴッホになると思うのだけど、その作品の「色あせ」が進んでいる、という話題もあった。ネタ元はAFP=時事配信の記事。
 ゴッホといえば「ひまわり」が有名だが、その「ひまわり」に使われた黄色は当時市販が始まっていた顔料「カドミウムイエロー」が使われている。この顔料は空気に触れることで輝きを失い、紫外線にさらされると茶色がかってくるという。このため専門家の間では「ひまわり」はゴッホが描いた当時の色からずいぶん「色あせ」を起こしているはずだと指摘されているという。
 同じ「カドミウムイエロー」は同時期の他の名画にも使われている。ムンク「叫び」シリーズといえば数々のパロディに利用されているためやたら知名度の高い作品だが、こちらも「カドミウムイエロー」が使われていてすでに色あせ・変色が起こっているという。同じ時期に活動しているマチスピカソも同じ顔料を使用していて、この19世紀末から20世紀初頭の時期の絵画はそれ以前の時代のものと比べて劣化が早い、と専門家は指摘しているそうで、こうした合成顔料の中にはわずか20年で劣化してしまうものもあって、すでにオリジナルの色合いが失われている恐れがある。だから専門家たちはその分析・対策のために多額の予算をくれと言っている、という趣旨の記事だった。
 こうした「色あせ」現象、別に絵画だけの話ではない。カラー映画もフィルム劣化による色あせが昔から問題になっていて、かつては公開中にすら「色あせ」が起こり、黒澤明なんか「今が見ごろ、って看板を出せ」と言ってなかなかカラーに手を出さなかったくらい。最近よく聞く「デジタルリマスター」の作業でも公開当時の色合いの再現が大きな課題となっている。
 その黒澤が訪米中にいきなり会いに来て猛烈な勢いでカラー映画の色あせ対策の必要性を必死に訴えたのが映画監督のマーティン=スコセッシ。その印象のあまりの強烈さに黒澤は自作「夢」の中で彼にゴッホを演じさせている。なぜか英語を話すヘンなゴッホだったけど(笑)。あれ、脱線のつもりが話がしっかりつながってしまった。


 ゴッホといえば、こんな話題が日経新聞に出ていた。「焼失したゴッホの『ひまわり』を複製で再現」という話題だ。
 ゴッホの手になる「ひまわり」は複数存在し、一応全部で7作品あると確認されている。そのうち1枚は1920年に武者小路実篤ら白樺派の運動で日本に買い取られ(当時の金額で二万円。今ならだいたい二億円にあたる)、兵庫県芦屋市に置かれたために「芦屋のひまわり」と親しまれていたという。しかし残念なことに1945年8月6日の阪神空襲で焼失、色どころか本体そのものが永遠にこの世から消え失せてしまった。
 その「芦屋のひまわり」を復活させよう、という計画が持ち上がっているというのだ。どうやるのかというと、実はこの「芦屋のひまわり」、幸いなことに貴重なカラー写真が残っているのだ。これをもとに複製絵画の陶板画として「芦屋のひまわり」の原寸大複製を作成、10月から徳島県鳴門市の大塚国際美術館で展示されることになった。
 そういやゴッホが自分で切り落とした「耳」を、3Dプリンターで「再現」して展示、なんて少々気色のわるいニュースもあったなぁ…



◆歴史映画ではこんなことも

 珍しく韓国紙「中央日報」日本語版からのネタ。韓国で大ヒットしている歴史映画「鳴梁(ミョンリャン)」に対し、登場人物の子孫が「先祖を悪者扱いされた」と怒って裁判を起こしたという話題だ。
 「鳴梁」とタイトルを聞いただけで何がテーマの映画か分かった人は多少朝鮮史通。豊臣秀吉による朝鮮侵攻が行われていた1597年10月、朝鮮水軍の英雄・李舜臣(イ=スンシン)がたった13隻の小船団を率いて鳴梁の海峡地形を巧みに利用し300隻以上の日本水軍を撃破した。絵に描いたような少数が多数を打ち破る大逆転勝利ということもあって韓国では李舜臣を象徴する大人気の一戦で、そりゃ映画にすれば当たるだろう。「日本海大海戦」みたいなもんだと思えばいいんだが、こんなのも日本のマスコミの手にかかると「抗日映画ヒット」と見出しにされてしまうのが何ともはや。
 歴史映画マニアとしてはぜひ見てみたいものだが、日本上陸するかなぁ(同じ監督の「神弓」は上陸してたが見逃してる)。鳴梁海戦は80年代に作られた「朝鮮王朝五百年」シリーズの「壬辰倭乱」で見たことがあるし、韓国版「戦国自衛隊」みたいな映画「天軍」でも若き日の李舜臣が陸戦で鳴梁海戦みたいな作戦を立ててタイムスリップした現代韓国軍人たちを喜ばせていて、その鳴梁海戦に実際に赴く場面が映画のラストになっていた。それだけあっちではおなじみということである。

 その大ヒット映画にイチャモンをつけたのは、映画中に登場する実在武将・「楔(ペ=ソル)の子孫たち。「楔は実際に李舜臣からよく思われてなかったようで、彼の日記の中でも敵におびえて病気を理由に逃亡する臆病者のように書き記されている。だから映像作品でもよくは描かれないだろう、とは思ったのだが、中央日報の記事によるとどうもこの「楔が李舜臣を暗殺しようとして亀甲船を焼き払う(鳴梁海戦時に李舜臣名物の亀甲船が出てないことにつなげる創作かな?)というオリジナル展開があるらしく、その記事を書いた記者も映画を見ながら子孫が怒るんじゃないかと予測したと書いていた。
 確かにその部分は明白なフィクションなので、子孫たちは「話を面白くするための歴史事実の歪曲」と批判し、上映中止要請まで行ったが、映画製作者側が「ドキュメンタリーではなく映画として見てほしい」と応じると余計に怒り、「虚偽事実の適示による死者の名誉毀損」で刑事告訴することにしたのだそうだ。
 中央日報のその記事によると、朱子学の伝統もあってか先祖をことのほか大事にする韓国ではこの手の歴史創作物に対する訴訟は結構あるらしい。その記事の記者も以前法曹界を担当していてそうしたドロドロの事例を多く見ており、「自国の歴史小説は書くまいと決心した」とまで書いていた。だが記事の趣旨としてはそうした傾向を批判し、事実との違いはあっても創作物は創作物と認めて過剰な圧力は避けるべき、との主張になっていて、なかなか面白く読ませてもらった。

 別にこの手の話は韓国だけではない。あの「タイタニック」だって船員の一人がパニックになって乗客を撃ち殺してしまうシーンを入れて子孫から批判され謝罪している。ニクソンやサッチャーなど現代史人物を主役にした映画は遺族から批判されることはしばしばだし、日本では田中角栄を主役とする映像作品が繰り返し企画されながら遺族の姿勢のために実現していないと言われている。おもに近現代史が絡むとこの手の問題がよく起こるが、もっと昔の話でもモメることはやはりある。
 歴史ものの小説や映画・ドラマでフィクションが入らないことのほうが珍しいし、物語である以上誰かが悪役周りをさせられやすいというのは事実。それに賛否両論は当然起こるだろうけど、作品そのものをつぶすようなやり方はやっぱり感心しないんだよな。


2014/9/25の記事

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