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2015年3月20日

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◆今週の記事

◆遅れたぞ武蔵!

 「史点」更新もずいぶん遅れましたが(笑)。

 たぶん中途半端に詳しい日本知識を持つ外国人には、「ほう、戦艦に昔の剣豪の名前をつけたのか」と思ってる人が多いんじゃないだろうか。外国には例が多いが、日本では実在人物の名前を軍艦につける趣味はなく(うっかり沈没でもした場合、その名前の人に申し訳ないから、との説あり)、たいてい山の名前や旧国名がつけられている。戦艦「武蔵」はもちろん現在の東京都と埼玉県にあたる「武蔵国」から来ているわけだが、考えてみれば宮本武蔵の「武蔵」だって国名が由来なんだからもとはおんなじと言える。

 今回、「戦艦武蔵発見!」のニュースを聞いた時、吉川英治の小説「宮本武蔵」の巌流島のシーンにひっかけてこんなタイトルを思いついたのだが、あとから原文を確認してみると佐々木小次郎は「遅れた」ではなく「怯(おく)れたか」、つまり「怖くなったのか」と呼びかけているのだった。何度も映像化されててこのセリフも出て来るんだけど、なんとなく「遅いぞ」というニュアンスで言ってるように思いこんでいた。
 その吉川版「宮本武蔵」は巌流島の決闘が終わって「けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。」という文でかなり唐突に終わる。まぁこの唐突感がかえって余韻を高めてくれるわけだが、このたび海の奥底で武蔵が見つかったと聞いてこの一節が妙に符合するな、と思ったものだ。もちろん百尺どころか1000mもある海底だけど。

 戦艦大和は有名だが、同じ「大和型」の巨大戦艦、いわば「双子の姉妹」みたいな関係にある武蔵についてはあまり知られていなかった気がする。今回の発見でにわかに注目を集めてしまったが…「艦これ」ブームにもマッチしてしまったし。 
 ずいぶん前の「こち亀」で武蔵と大和の違いをマニアックに解説する回があったが、実のところ相当なマニアでないとその違いを見分けることは難しい。先ほどこの件についてググってみたら10年も前の2ちゃんねるのスレッドが見つかり、そこでは「艦首に穴が開いているほうがヤマト」「大和は関西弁、武蔵は標準語」「ホテルなのが大和、旅館なのが武蔵」「元ボクサーが大和、正道会館が武蔵」「有名なのが大和、有名じゃないのが武蔵」「大和じゃない方が武蔵」…etc.とネタ大会となっていて爆笑してしまった。そういや今度のニュースではNHKまでが武蔵と間違えて大和の写真を使っていたとか。
 僕はと言えば、たまたまなのだが吉村昭の小説「戦艦武蔵」をずいぶん前に読んだことがあった。これは小説というより記録文学といったジャンルのもので、長崎の造船所における戦艦武蔵の建造開始からレイテ海戦での撃沈までを綿密な取材に基づいてまとめた作品だ。これを読んでいたのでこの戦艦の「艦生」のだいたいのところは知っていた。

 第二次大戦の直前、日本海軍はアメリカを仮想敵として空前の規模の巨砲戦艦を建造する計画を立てた。それが「大和型戦艦」というやつで、まず呉の海軍工廠で「大和」が、それから長崎の三菱重工造船所で「武蔵」が建造された。1940年に武蔵の進水式が極秘で行われた時には、その巨大さのあまり狭い長崎の湾内に高波が発生、対岸に床上浸水の被害が出た、なんて話も吉村昭の本で知ってたまげたものだ。
 大変な予算をかけて建造された大和と武蔵だが、太平洋戦争では実のところほとんど活躍はしていない。どちらも「切り札」というか「出し惜しみ」で温存された気配もあったし(だから「大和ホテル」「武蔵御殿」と揶揄されたわけで)、そもそも日本軍自身が開戦時に示したように時代は航空戦力重視で、いわゆる「大艦巨砲」の時代は過ぎ去っていたからだ。太平洋戦争の帰趨を決したミッドウェー海戦の現場にも出ていないし、結局自慢の巨砲を一発も打つことなく1944年10月24日、「レイテ沖海戦」の一部をなすシブヤン海海戦において、武蔵はいわば「おとり」役をつとめて大量の魚雷と砲撃をくらい、およそ1000人の乗組員ともども海底に沈められてしまった。吉村昭の本だと、あまりに武蔵が巨大なので沈没時に巻き込まれかねず、僚艦もなかなか救助に近寄れなかったとか。
 酷なようだが多額の費用と多大な手間をかけた割にほとんど役に立たずに沈んでしまった、と言っていい。姉妹艦である大和はもうちょっと先まで生き延びたが、結末は全く無意味な「水上特攻」だったんだから似たようなものだ。


 さて大和の方はずっと前に発見されているのだが、武蔵はこれまでその位置すらつかめていなかった。それがこのたびマイクロソフトの創業者の一人である大富豪ポール=アレン氏による大掛かりな探査で「発見」にいたった。かつての「敵国」の一大富豪の手によって発見されちゃうというのも驚きだったが、その映像をネット生中継で世界中が見物できた(僕も一部見ていた)というのも凄い話。ほんの70年ほどの間に世の中変わるところはおっそろしく変わるものだ。
 で、このアレン氏の所有し、武蔵探索で大活躍したスーパーヨット「オクトパス」(日本語訳「タコ」だと急にユーモラスになるな)がまた凄い。大きさは個人所有ながら世界有数の規模、ヘリや潜水艦までついていて建造費2億5000万ドル(今のレートなら約300億円。ちょっと調べたらメジャーリーグ全球団の収益と同じだそうな)、維持費だけで毎年2000万ドル(約24億円)かかるという、大変な代物。いや〜〜個人がこんなものを持てる国とは戦争しても勝てませんわ、と思わされてしまう。この「タコ」、少なくとも武蔵よりは役に立ってるよな。

 ちょうど今年は戦後70周年という節目でもあり、よけいに印象的な「再浮上」だった(ホントに浮上するのは無理っぽいが)。元武蔵乗組員の90過ぎのご老人達も何人かテレビに出ていて、さすがに存命の方も少なくなってるようなのだが、逆にほんのつい最近のことでもあるんだよな、と思わされた。



◆最古の「ヒト」?

 人類の進化の歴史を知れば、地球の歴史上ではほんの短い期間の話とはいえ、現在唯一「人間」とみなされている種「ホモ・サピエンス」にいたるまでにいろんな「人類」がいたことが分かる。近いところでネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)、さかのぼって北京原人(ホモ・エレクトス・ペキネンシス)やらジャワ原人(ホモ・エレクトス・エレクトス)なんかがそうなのだが、これらは生物学の分類では学名に冠せられているように「ヒト(ホモ)属」という枠組みに入れられている。これまで最古とされる「ヒト属」は、タンザニアで発見された「ホモ・ハビリス」で、およそ23〜240万年前のものとされている。
 もちろんその先祖もいるわけで、それがアウストラロピテクスなど「猿人」グループになるのだが、こちらは「アウストラロピテクス属」という別グループに分けられていて「ヒト属」ではない。ただしどちらも「ヒト科ヒト亜科ヒト族ヒト亜族」に入ってるんでまぁヒトみたいなものだ。ついでに言えば「ヒト族」のくくりではチンパンジーが、「ヒト亜科」のくくりではゴリラが、「ヒト科」のくくりではオランウータンが同じグループに入る。現生人類でもときどきサルだのゴリラだのとあだ名されるヒトが出るが、そもそも生物学的にもかなり近い種なのである。それにしても「アウストラロピテクス属」と「ヒト属」の違いが何で決まっているのか、僕にもよく分からない。

 さて3月4日の科学誌「サイエンス」に、「最古の『ヒト属』の化石が発見された」とする論文が載った。発見されたのは2013年、場所はエチオピア北東部のアファール州、化石は歯のついた顎の骨の一部だった。その特徴から「ヒト属」と判断されたらしいのだが、とりあえず現時点ではどの種のものかは分からないとのこと。しかし地層などから280万年前に生息していたと推定され、これまでヒト属の最古とされた「ホモ・ハビリス」より4、50万年ほど古い時代になる。数字だけみるとついつい「たった50万年」などと感じてしまうが、現生人類が世界に散らばって文明を築くようになってから1万年も経ってないkとを考えれば気の遠くなるような時間だ。

 ところで「アファール州」という名前に聞き覚えがある人も多いはず。そう、同じエチオピアのアファール州では「アウストラロピテクス属」のうち、もっとも時代が近いとみられるおそよ320万年前の「アファール猿人(アウストラロピテクス・アファレンシス)」が発見されているのだ。この「アファール猿人」、「ルーシー」ちゃんという名前をつけられた「女性」が含まれることでも有名。
 発見場所が近いだけに気になるのが、この「アファール猿人」と今回見つかった「最古のヒト属」の関係だ。その年代差が40万年程度に縮まったことになり、猿人から「ヒト」へのステップを示す「ミッシング・リンク」を埋めるものになるのではとの期待も出ているようだ。この論文の中心執筆者であるブライアン=ビルモア氏は「進化の過程が比較的速やかに進行したことが示唆されている」と言ってるそうで、化石人類の進化過程はまだまだ新たな見地が出てきそうだ。


 さて更新をさぼっていた間の1月末に報じられた話題なのでニュースとしては時間をさかのぼってしまうのだが、「原人」の発見話ということで上記の話から年代順になる。
 1月27日付の「ネイチャー・コミュニケーションズ」電子版に、「台湾沖の海底から原人の化石発見」という記事が掲載された。最初この見出しを見た瞬間は「行方不明の北京原人の骨でも引き上げたか?」と思ってしまったが、見つかったのは北京原人とも、ジャワ原人とも、さらにはひょっとしてインドネシアで数万年前まで生息していた?との説もあるフロレス原人とも異なる、「アジア第4の原人」だとされている。
 見つかったのは台湾本島と澎湖諸島の間の海底から。漁船の底引き網に引っかかって引き上げられ、収集家が保管していたという。これまた下顎の右半分の骨の化石だという。なんで海底からそんなものが出るのかといえば、日本列島と同様、かつて台湾も大陸と陸続きになっていたためで、同じ海底からは古いゾウの化石なんかも出るのだそうだ。顎の骨の特徴から北京原人ともジャワ原人とも異なる系統と判断され、さらには化石に含まれるフッ素の分析やら地質的な考慮などから「およそ19万年前以降」と、結構新しい時代のものであると推定されるという。20万年前以降となると現生人類以前に広範囲に広がったネアンデルタール人と生息時期がかぶることにもなり、先述のフロレス原人ともども、人類史の多様さをうかがわせる例となりそうだ。でも結局、今の人間は同じ種だけなんだよなぁ。
 

 さらに時代を下って、現生人類の生活に関するある研究も発表された。もっともテーマは「ヒト」ではなく「イヌ」のほう。
 イヌは人間が最初に飼いならした動物と言われている。もともとは野生のオオカミだったわけだが、もともと彼らはリーダーに忠実に従う習性があり、ヒトにもよくなつく。そこで両者の関係が始まった、というのが通説だ。これまでイヌの家畜化(いや、オオカミの家畜化かな?)は数万年前、つまり狩猟採集段階の時代に始まったと考えられていたのだが、「もっとあとの時代らしい」とする研究がオンライン科学誌「サイエンティフィック・リポーツ」に2月5日に発表された。
 なんでも、これまでもっとも古い時代の「イヌ」の頭骨とされていたものは約3万年前に生きていたと推定されていたそうだ。だから人間とイヌとのつきあいも3万年以上、と考えられてきた。しかしこの研究チームは化石人類の鑑定に使われるスキャン技術や3D視覚化ソフトを利用してイヌとオオカミの頭骨を96%の精度で見分ける技術を開発、それによって「3万年前のイヌ」の頭骨を再鑑定してみたところ、実は「オオカミの頭骨」だったと判明したという。つまり3万年前に「イヌ」はいたという証拠はなくなってしまったわけ。
 そうなると現時点で確認される「イヌ」の頭骨で最も古いものはおよそ1万5000年前のものになるという。人類がぼちぼち定住や農耕を始める時期にあたり、人間とイヌのつきあいの歴史はグッと縮まってしまうことになる。もちろん見つかっている骨だけが根拠なので、今後ひっくり返される可能性も十分ある気がするが…。



◆愉快政界勘違い

 東北地方の有力紙・河北新報が報じたところによると、宮城県名取市の佐々木一十郎市長が市の広報の昨年12月号に載せたコラムの中で「1951年5月3日の米上院軍事合同委員会公聴会でのマッカーサーの証言」からの抜粋として、「先の大戦はアメリカが悪かったのです。日本は自衛戦争をしただけです」「東京裁判はお芝居だったのです」ようなことをあのダグラス=マッカーサーが発言したと紹介したそうな。ああ、古びたネタなんだけど信じてる政治家ってやっぱり結構いるんだなぁ。発言の原文まで調べないにしても、普通に考えりゃマッカーサーが米議会でそんな発言をするはずがない、仮にしたとして無事で済むはずないとわかるはずなんだけど。

 この「マッカーサー証言」については、以前東京都が歴史の副読本に「〜ととらえる意見もある」という微妙な「逃げ」を打って紹介してしまった事例を当欄でとりあげたことがある2012年4月16日付「史点」。数年前から右翼業界で妙に人気のあるこの「珍説」についてはその時の「史点」で軽く解説してるので繰り返しは避けるが、もともとは「マッカーサーが日本は自衛のために戦争をしたと言ってくれた」レベルの話だった(それすらもかなり強引な曲解だが)。どうやらこれに尾ひれがついて「マッカーサー証言」は拡大・成長してるようだなぁ、とこの記事で思わされた。こういうところ、「フルベッキ写真」だの「江戸しぐさ」あるいは「アインシュタインの予言(日本に関するもの)」といった歴史系珍説にはよくある現象ではある。そうしたアイテムを信じちゃう人は、さらに願望をそこに加えていってしまうんだよな。
 3月2日に行われた名取市議会の2月定例会でこの問題が市議から質問され、佐々木市長はこの「マッカーサーの証言」はネットで見つけた出所不明のもの(はっきり言えば捏造)であったことを認め、「内容を検証せず掲載し、ご迷惑をかけたことをおわびする」と謝罪している。さすがに言われてから調べてみたということらしいが、「戦後70年の節目に平和や愛国心を考えるきっかけになればと思った」という釈明も凄い。「愛国心」という言葉を好んで使いたがる政治家は頭のめぐりが悪い人が多いようだ、とこれまた改めて確認させられてしまった。

 
 そんな話題をネタにしようかな、と思いつつズルズルと更新が遅れていたら、三原じゅん子参院義員がやらかしてくれましたよ、なんと「八紘一宇」なんて古めかしい四字熟語を国会の質疑で肯定的、どころか高らかに称賛する姿勢で使ったのだ(笑)。いやはや、無知というのは恐ろしい。
 この発言、別に歴史認識がどうのというやりとりで出たものではない。三原議員の質問の趣旨は、最近国際的に問題となっている、多国籍の大企業が本社を税制優遇の国「タックスヘイブン」に置いて「租税逃れ」をしている件について、日本政府も率先してその対策に乗り出すべきだというものだった。そこになんで「八紘一宇」なんて言葉が出て来るのかというと、彼女はこの言葉を明らかに「世界は一家、人類みな兄弟」の意味合いで使っており(ま、この言葉も実は「八紘一宇」の戦後的翻訳なのだが)、だから世界みんなのためにの精神でタックスヘイブン問題をなんとかしましょうよ、という流れになっている。
 タックスヘイブンについての問題提起自体はそうヘンではない。しかしそこに「八紘一宇」という言葉が、しかも「日本の建国以来の精神」であるかのように提示してきたのには、明らかな違和感がある。だいたい応対した麻生太郎財務大臣も「あなたの世代が知ってるとは」と驚いて見せてたように三原議員がこの言葉の由来や経緯をもともと知っていたとはとても思えない。また何もそんな言葉を持ち出す必要なんてないはずで、これはこの質問の文を書いた「ゴーストライター」が、この言葉の復権を狙ってわざわざ入れたと考えるのが自然だろう。

 三原議員は質疑の中で、清水芳太郎という人物が昭和13年(1938)に書いた『建国』という文章の一節を引用している(同書の一部を紹介する資料も配布した)。そしてそこで主張されている「八紘一宇とは、世界が一家族のように睦み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。」をそのまんま引用し、この弱肉強食ではない国際社会の原理とやらが、神武天皇が即位時に言った言葉に由来するもので、「日本が建国以来大切にしてきた価値観」だと紹介したのだ。しかしこの説明ははっきり言ってデタラメだらけである。

 元ネタは確かに『日本書紀』の神武即位の直前のくだりにある。即位時、とする記事が多かったが『日本書紀』原文では即位をする二年前、六年に及んだ九州から畿内への「東征」をだいたい終え、「土蜘蛛」などの先住民を殺戮して畿内をほぼ平定した神武が、「まだ抵抗する連中もいるけどこの辺りはおおむね落ちついたから都を作ろう」と下した命令のなかに、「兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎(六合を兼ねてもって都を開き、八紘を掩いて宇となすも、また可ならんか)」という箇所がある。
 「六合」と「八紘」、「都」と「宇」が対応した対句で、いずれも中国古典に用例が出て来るきわめて古典漢文的表現で、書き手が「俺はこんなに漢文に精通してるぜ!」と自慢してるような表現なのだが(僕も大学時代、この手の漢文を多用する詔勅や外交文書の解読に泣かされたものだ)、きわめて簡単に訳せば「近所をまとめてそこに都を置き、周辺を支配してそれを国家とするなんてのも、いいんじゃないの?」という内容になる。この文章の直前を読めば神武はまだ畿内周辺を押さえたにすぎず、「六合」も「八紘」もかなり狭い範囲を指していることは明白だ。おまけに自分たちに逆らう者を「凶徒」と呼び、それを全滅させたことを誇っているので、平和的どころかきわめて「弱肉強食」を誇る内容なのだ。面白いもので、政治的潤色が多いとされる『日本書紀』でも、なぜか神武東征が侵略的征服にしか読めないくだりが結構あるんだよな。
 
 そもそも『日本書紀』の内容をそのまんま信じると、中国文化と接触もしてないはずの神武がおもいっきり飾りまくった教養ある漢文表現をしていることがオカシイ(神武が中国人なら話は別だが…ああ、徐福説なんかとくっつきそうな)。仮に神武が日本語でそういう趣旨のことを言ったとしても、それをずっと後世の人間が練りに練った漢文で表現したということになり、神武が「八紘一宇」と言ったことにはならない(『日本書紀』の作者は渡来中国人、という有力な説もある)。まだそもそも原文でも「八紘を掩いて宇となす」と言ってるのであって「八紘一宇」なんて表現はしていない。

 「八紘一宇」という四字熟語は初めて考案したのは大正時代というえらい近い時代の話で(つまりたかだか百年の歴史しかない)、思いついたのは日蓮宗の僧侶・田中智学という人物だ。彼は確かに『日本書紀』の上記の下りからこの言葉をひねり出したのだが、「八紘」を世界全体という広い意味に読み変え、「一宇」とわざわざ改竄して「一家」の意味にしたところがポイント。当人は平和主義的な意味合いで使った、という説明も見かけるけど、日蓮宗に国家主義思考の者が少なくなかったこと、わざわざ神武詔勅からとってくるところもふまえると、やっぱり日本を中心に世界をまとめる意図があったと思われても仕方がないんじゃないかと。
 この「八紘一宇」という言葉がむやみに使われ始めるのが1930年代以後。1931年の満州事変から国際連盟脱退という国際的孤立の流れの中で、日本国内では内向きヒステリー状態になって「建武中興六百年」(1933)の称揚など「皇国史観」的なナショナリズムが強くなり、それは1940年の「皇紀二千六百年」で一つのピークに達する。その中で「八紘一宇」は表向きには白人支配に対抗して人種差別に反対し「世界を一家とする」考えとされつつも、実態としては「日本を盟主に世界を一つにする」という本音を正当化するスローガンとしてむやみやたらに使われた。「建国以来の精神」などと言ってるが、そもそも実際に使われたのは日本が世界に迷惑をかけまくった10年ちょっとの間のことに過ぎない(この時期に生まれた男性に「紘一」あるいは「紘」という名前の人がやたらいる)。本来の趣旨がどうこうという前に、事実としてこの言葉を使ったほんのわずかな時期に日本がどうなってたかを確認すべきだ。

 
 三原議員の口ぶりからすると、ホントに「素」で事情を知らなかったのだろう。ゴーストライター役の誰かに吹き込まれたことをそのまんま口にしたのだと思われる。だから当人の無知についてはともかく、あまり責められないところもあるのだが、こういう政治家の周囲に無知につけこんであれこれ吹き込む人がいる、という事実の方が不気味だ。
 そして…ほとんどの報道では三原議員の発言にばかり集中して、答弁した麻生大臣の発言の方は「あなたの世代が知ってるとは驚いた」という部分だけにまとめられていたのだが、やりとりの全文を読んで、僕はむしろ麻生大臣の発言に唖然とした。以下はハフィントンポストに載ったやりとりの全文から。長いがあえて麻生大臣の発言部分はそのまんま転載する。

「 もうここで戦前生まれの方というのは、2人くらいですかね、あの、他におられないと思いますけど、これは、今でも宮崎県に行かれると八紘一宇の塔というのが立っております。宮崎県の人、いない? 八紘一宇の塔あるだろ? 知ってるかどうか知らないけど。ねえ、福島(みずほ)さんでも知っている。宮崎県関係ないけど、八紘一宇っていうのは、そういうものだったんですよ。
 で、日本中から各県の石を集めましてね、その石を全部積み上げて八紘一宇の塔っていうのが宮崎県に立っていると思いますが、戦前の中で出た歌の中でもいろいろ「往け、八紘を宇(いえ)となし」とか、いろいろ歌がありますけれども、そういったもののなかにあってひとつのメインストリームの考え方のひとつなんだと私はそう思いますけれども。
 私どもはやっぱり…なんでしょうねえ…やっぱり世界の中で1500年以上も前から、少なくとも国として今の日本という国の、同じ場所に同じ言語を喋って、万世一系天皇陛下というような国というのは他にありませんから。日本以外でこれらができているのは10世紀以降にできましたデンマークくらいがその次くらいで、5世紀から少なくとも「日本書紀」という外交文書を持ち、「古事記」という和文の文書を持ってきちんとしている国ってそうないんで。そこに綿々と流れているのはたぶんこういったような考え方であろうということで、この清水(芳太郎)さんという方が書かれたんだと思いますけれども。こういった考え方をお持ちの方が三原先生みたいな世代におられるのに、ちょっと正直驚いたのが実感です。」

 前段では「八紘一宇」という言葉は戦前によく使われた、という認識を説明している。宮崎にある「八紘一宇の塔」というのも実在するものだが、実際には各県どころか植民地からも石を持ってきている。戦前戦中において「ひとつのメインストリームの考え方のひとつ」というのは確かにそう。しかし気になるのは麻生さん、この言葉についてほとんど否定的にはとらえていないという点だ。過去のこの言葉についての大臣の国会答弁を調べて見ると、おおむね「戦中に戦争を正当化するために使われたスローガン」と否定的に言われたようなのだが。
 後段になると「日本という国がいかに古いか」という自慢話に移ってしまう。王朝の長さ=国の古さという考えもどうかと思うし、こちらも「万世一系」なんて古い四字熟語が出て来るのも注目なのだが、さすがに2600年なんてことは言わず、5世紀という現実的な「建国」時期になってはいる。だが『日本書紀』も『古事記』もその「建国」と同時期の5世紀成立と勘違いしているようだし、『日本書紀』を「外交文書」(正統漢文で書かれ、外国人に読ませることも意識したという説を聞きかじったのだろう)、『古事記』の方は「和文」(正統とは言い難いが基本的に漢文である)という基本的なことまで誤解している。そして清水芳太郎がそう言ってる、三原先生もそう言っている、それに驚いたと言いつつ、やはりそのことを特に否定的にはとらえていない。そしてそもそも、本来の主題である「タックスヘイブン」の件については財務大臣でありながら一切答えておらず、そこはこのあと続いて答弁した安倍首相に任せてしまった(こっちは特に「八紘一宇」には触れてない)
 国会の質疑と答弁と言うのはいきなりのアドリブではなく、事前に質問趣旨を提出しておくもののはず。こういう質問が来ると事前に知ってて、どう答えるか準備していたはずなのだ。そう考えると、麻生さんは「八紘一宇についての回答を担当」と決まっていたことになり、かなり「わかってて」答えたはず(首相に肯定否定を言わせないため)。つまりこのやりとり自体が一つの「お芝居」なわけで(そういや三原議員は女優でもあったな)、「八紘一宇」という言葉を肯定的な意味合いで広めたいとの陰の意図があるようにさえ思えて来るのだ。

 先述のように、この「八紘一宇」という言葉がやたらに使われたほんの十数年の時期というのは、日本人が国際的に孤立して自己肯定の集団ヒステリー状態に陥った時期だ。最近妙に隣国叩きと親日国探し、日本持ち上げに走る書籍やテレビ番組が多いのを見ていると日本人の「島国根性」ぶりを再認識させられるし、そこにこの言葉が「復権」を図って来るというのは不気味な符合とも思える。タイトルは語呂合わせで「愉快」なんてつけたけど、政治家の勘違いとなると笑ってもいられないんだよな。ちなみに三原議員の「八紘一宇」発言を素早く肯定・擁護したのは「幸福の科学」だった(爆)。シンパと思っていた下村博文文部科学大臣(それにしても道徳教育がどうのという政治家に限って道徳的にどうなのと思う人が多いよな)に「裏切られた」わけだし、今度は三原さんに乗り換える気だったりして。

 ところで先ほど「世界は一家、人類みな兄弟」は「八紘一宇の戦後翻訳」と書いたが、そこには戦前戦後の右翼大物であり、モーターボートレースを仕切って「日本船舶振興協会」の会長となった笹川良一という人物が浮かんでくる。僕も小さい頃にこのオジサンが柔道着(?)を着て子供たちとジョギングし、「一日一善!」とやる船舶振興協会のCMをよく見た覚えがある。この笹川がもうひとつ決まり文句にしていたのが「世界は一家、人類みな兄弟」だったわけだ。
 笹川の死後、日本船舶振興協会は「日本財団」に模様替えして今日に至っているが、笹川から引き継いで第二代会長となっていたのが作家の曽野綾子。そう、これまでも上から目線の問題発言の多い人だったが、このたびは「労働力不足だから移民はOK、ハードル下げてどんどん入れよう。でも住むところは別々ね」という趣旨のコラムを産経新聞に書き、その中でアパルトヘイト後の南アフリカを反面教師な例にしたもんだから、南ア大使やアフリカ関係者から抗議され、世界でもそこそこ大きく報道されちゃった、あの人である。バリバリ保守なら移民そのものに反対しそうなもんだが、受け入れはするけどはっきりと「区別」するという、かえって困ったチャンな発言をしちゃったわけ。直後のラジオ出演で「差別ではありません、区別です」と、差別論者の常套文句として有名なフレーズをホントに口にしていたそうな。こういうところにも「八紘一宇」って根強く生きてるような気がしちゃうんだよな。
 


◆この2カ月の間にも

 前回の更新から2カ月が経った。時節柄忙しいのはいつものことだが今年は特に「史点」執筆に気持ちが向かなかったんだよなぁ。いろいろと書きたい話題はあったし、大きなニュースも多かったのだが、話題によっては書く気が滅入って来るものも目についた。そんなこんなで中断期間が長くなってしまったのだが…

 この間に起こった大事件と言えば、過激派組織「イスラム国」(IS)による日本人殺害事件だろう。こう書いてる時点で早くも「風化」の気配があるくらいで、ニュースネタの移ろいの激しさを改めて実感してしまう。この事件について今さら詳しく振り返って書く気はないのだが、またぞろ「自己責任論」だの「映像合成説」だの「自決しろ」だの出自がウンヌンだの、9条がいけないだの、というヨタ話がネットをかけめぐるあたり、イラク戦争時の人質事件からほとんど進歩していない(さすがに自作自演説はほとんど聞かなかったが)。この事件の結末も含めて気分が滅入って余計に書く気が失せたものだ。
 この文章をようやく書いている間にもチュニジアで日本人も含めた観光客が犠牲になるテロ事件が起こっているし、ナイジェリアで暴れる「ボコ・ハラム」とか、デンマークでも風刺漫画家を狙ったテロが起こるとか、何とも今年は序盤から血なまぐさいテロばなし続きだ。


 「イスラム国」関連の話題は尽きることがなかったが、これに絡めて中東の話題でいくつか目についたものを。
 1月23日にサウジアラビアのアブドラ国王(アブドラ・ビン・アブドルアジズ)が90歳の高齢で死去した。サウジアラビアの第6代国王だが、1932年にサウジアラビアを建国したアブドルアジズ=イブン=サウドの息子である。なにせアブドルアジズには息子が52人もいて、そのうち王位継承権を持っていたのは37人(うち一人は夭折)もいたりするもので、これまでの第2代から第6代までの歴代国王は全て初代国王の息子たちによる兄弟相続なのだ。これはアブドルアジズが建国にあたって各部族との政略結婚を数多く行ったために多くの王子が生まれ、部族間のバランスのために兄弟間で王位を引き継いできた、ということらしい。
 90歳の高齢ではあったが、兄のファハドの死を受けて即位したのは2005年のこと。だからその在位は10年足らずだった。アブドラはもともとはアラブ民族意識が強くアメリカに批判的で、湾岸戦争の際にもアメリカ軍の国内駐留に反対したとも伝えられるが、自身の治世ではまずまず現実的に欧米諸国とつきあい、国内でもゆるゆるとではあるが自由化改革を進めてもいた。
 アブドラ国王もやはり弟を皇太子に指名していたが、当初皇太子だったスルターンが2011年に亡くなり、次に皇太子となったナイーフも2012年に先立ってしまった。そして結局第7代国王となったサルマンも弟の一人で、その皇太子に定められたムクリンもやっぱり兄弟。つまり少なくとも次の国王までは初代王の息子が続くことになるのだが、いずれも今年で80歳と70歳になるご高齢。そんなわけで王位継承第二位となる「副皇太子」にナイーフの息子であるムハンマドが立てられ、ついに初代国王の孫世代が王位継承に名前を出してきた、と話題になっている。
 亡くなったアブドラ前国王も15人の息子がいるそうで、こうたくさん息子さんがいると「男系」で悩むこともないだろうな。もちろんそれは一夫多妻制が実行されてるからなんだけど。
 
 
 サウド家以前に中東地域を広く支配していたのはオスマン帝国の皇帝家、「オスマン家」だった。「歴史映像名画座」コーナーを先日更新した際、オスマン帝国初代皇帝オスマン1世の建国話のテレビドラマを紹介したが、ドラマ中にオスマンの父エルトゥールルも登場していた。伝承によるとこのエルトゥールルの父がスレイマン=シャーで、この人物が部族を率いてアナトリアの地に初めて入った、ということになってるらしい。だが彼はユーフラテス川で溺れ死んでしまい、やがてその地に墓が建てられ、皇帝家の祖先の墓としてオスマン帝国の「聖地:とされた。
 2月中、例の「イスラム国」による日本人人質事件が騒がれていた時に、TVのワイドショーに出演していた中東専門家の誰だかが「シリア国内にはトルコの飛び地があるんです。そこが人質交換に使われるかも、と思った」という発言をしていたことがある。はて、なんでそんな飛び地が、と耳を傾けていたら、それはスレイマン=シャーの墓廟があるところで、第1次大戦後にオスマン帝国が解体されていく過程でシリア地域をフランスが支配することになると、この祖先の墓のあるところだけトルコが直接統治することに条約で決められたのだという。その後ダム建設のために移築されたりしたが、今も墓の周囲だけ「トルコ領」で、トルコ兵が守備しているのだという。まさに「へぇ」ボタン連発の話(もう分かんない人も多そうな表現)で、歴史はひょんなところで現代に顔を出すものだなと思ったものだ。
 結局人質交換に使われたりはしなかったのだが、間もなくこのスレイマン=シャー廟が「イスラム国」軍に包囲され、およそ40人いる守備兵たちが危機に陥った。トルコ政府は2月22日に救出作戦を決行、戦車や軍用車100台に600名の兵士が動員されてシリア領内に入り、国境から30キロほどのところにあるスレイマン=シャー廟に向かった。救出作戦は無事成功し(事故で一人死亡とされるが)、兵士だけでなく廟内の遺物も運び出した。ただし基地を墓地に、ああ逆だ、墓地を基地にされることを防ぐため、墓廟自体は爆破処理されたとのことである。「イスラム国」の連中がメソポタミアの遺物を破壊してるのよりはマシだとは思うが、ちょっともったいない気もする。「イスラム国」対策ではちと微妙に腰が引けてる観のあるトルコだが、さすがにこの件については行動が素早かった。
 なお、遺物はトルコ国内に持ち帰るのではなく、やはりシリア領内の別のところに移されたという。そこにまた墓廟を再建して、その周囲だけはトルコ領ということになるのかもしれない。


 近ごろ「イスラム国」ばかりが話題になる中東情勢だが、イスラエルも相当に問題児国家になっている。つい先日イスラエルでは総選挙が行われ、事前の予想をくつがえしてネタニヤフ首相率いる右派「リクード」が第1党になってしまった。かなり直前まで労働党系の有利が伝えられていたのだが、選挙直前にネタニヤフ首相が「パレスチナ国家を認めない」と断言し、入植地拡大、パレスチナやイランに対する強硬路線をアピールして、結局勝利を得てしまった。イスラエル国民の全部が全部そうではないんだろうけど(さりげなくアラブ系政党もそこそこ支持を集めたらしいし)、中東情勢の混沌のかなりの部分はイスラエルの唯我独尊ぶりにもある。最近でもパレスチナが国際刑事裁判所加盟を申請したとたんに、イスラエルは国内にいるパレスチナ人から代理徴収している税金のパレスチナへの送金を停止するという強硬措置をとり、国連から怒られてもいる。
 イスラエルが我がまま勝手にふるまえるのはアメリカがバックにいるからなのだが、これまでイスラエルに不利なことが国連で決まりそうになると確実に拒否権を発動してきたアメリカも近ごろさすがに距離を置きつつある。共和党が主導するアメリカ議会がネタニヤフ首相を呼んで演説させたがオバマ大統領がガン無視したのもその表れだ。そりゃもう嫌になるだろう、あんなこと繰り返されちゃ。今度の総選挙結果も頭が痛いところだろう。



 さて中東から一気に話は飛んで。
 3月13日、イギリスはロンドンの大英博物館で「マグナ・カルタ発布800年」を記念する特別展が開かれた。そーかー、あれから800年か、と直接見聞きしたわけでもないのに言ってしまうが、1215年に暗君ジョン王に対して貴族たちが突きつけ認めさせた「マグナ・カルタ(大憲章)」は、国王の権力の制限と市民の権利の確認を明文化したことで「人権思想の歴史」のルーツとされ、世界史や公民でおなじみのはず。最近ではラッセル=クロウ主演の映画「ロビン・フッド」で、まさに人権思想そのもののような宝物みたいに扱われていたっけ。さすがにそれは言い過ぎだと思ったけど。
 その「マグナ・カルタ」だが最古の写本はたった4部しかないという。そのうちの一つをアメリカに寄贈し、第二次大戦にアメリカを引き込む「エサ」の一つにしようとチャーチルが計画していた、という秘話の証拠となる内部文書がその大英博物館の展示会で一般公開されたそうだ。
 1941年というから、年末に太平洋戦争が始まる年だ。第二次世界大戦はすでに1939年から始まっていて、ドイツがフランスを占領する事態にもなっていたが、この時点ではアメリカはイギリスに協力姿勢は見せつつもまだ参戦はしていなかった。結局日本軍の真珠湾攻撃を渡りに船として参戦することになるわけだけど、チャーチルとしてはアメリカの協力をもっと確実に得たいと思っていた。
 そこでこのときたまたま「マグナ・カルタ」最古写本の一つがニューヨークに貸し出されて展示されいたのに目をつけた。民主主義国家アメリカのルーツはこれでしょ、という趣旨で「わが国を守るために提案できるのはこれくらいしかない」とそのままアメリカに寄贈しちゃおうという計画だったというのだ。もっともこの写本はイギリス東部のある聖堂が所蔵していたものだったので、チャーチルと言えど勝手にアメリカにプレゼントするわけにはいかなかったが。ただ記事によると返還は1946年だというので、戦争中は「貸出」していたことにはなる。


 秘話と言えば、ただいま半世紀ぶりの国交回復かと騒がれているアメリカとキューバに絡んでも「秘話」が一つ報じられた。もっとも舞台は沖縄のアメリカ軍基地である。
 なんでキューバの話に沖縄が、という話になるが(サトウキビ産地って点は共通だな)、1962年の「キューバ危機」の際に沖縄の米軍基地で、なんと「核ミサイル発射命令」が誤って出されていた、という背筋も凍るような秘話が明かされたのだ。当時沖縄の読谷村の基地で核ミサイルを管理していた技師らが証言して明らかとなったもの。
 1962年の初め、「メースB」という核兵器搭載の地対地巡航ミサイルが沖縄に配備された(当時の沖縄はまだアメリカ統治下にあった)。技師たちは24時間体制でミサイルの管理にあたっていたが、キューバ危機の最中の10月28日未明に嘉手納基地のミサイル運用センターから無線でミサイル4基の発射命令が届いたというのだ。「本物」の核ミサイル発射命令である。
 「キューバ危機」は米ソが核戦争に突入するかと世界が恐怖した事態だが、このときの発射命令ではソ連向けは1基のみだったという。他の3基の標的については証言した当人も答えなかったようだが、どうやら中国だったらしい。中国は社会主義陣営ではあったがソ連とはかならずしも仲は良くなく、命令を受けた彼らも「なんで関係のない国を巻き込むんだ」と疑問を感じたという。しかもアメリカ軍の「防衛準備態勢(デフコン)」が五段階の「1・戦争突入」ではなく「2・準戦時」のままであったため、発射指揮官は発射作業を停止させた。結局この発射命令は「誤り」であったとされたそうだが、なんか映画「クリムゾン・タイド」を地で行くような話である。もしホントに撃っちゃってたら、アジアも巻き込んだ第三次世界大戦へ突入だった。
 しかしなんでそんな危険すぎる「誤命令」が出ちゃったのか。それについては記事でも不明とされていた。同じ日にキューバ上空でアメリカの偵察機が撃墜される事態が起きていて、アメリカ軍内部でも混乱してたんじゃないかというんだけど、ずいぶんずさんな話である。もしかしてわざと「世界大戦」に突入させちゃおう、と思ってる人がいたんじゃないのかなぁ…


 最後に、僕個人が「歴史的」と思ったニュースを。
 3月7日に辰巳ヨシヒロ氏が79歳で亡くなっている。有名と言えば有名、いや「知る人ぞ知る」な存在で、訃報記事では「漫画家」と紹介されることが多かったが、「漫画」ではなく「劇画」という言葉の発明者としてコミック史上に名を残している。
 日本における「漫画」という言葉は、葛飾北斎の「北斎漫画」の用例に見えるように本来「こっけいな絵」を指す言葉だ。古くはポンチ絵、鳥羽絵なんて言葉もあったが、おおむね「漫画」という言葉に集約されてゆく。コマ割りによってストーリーを語るような「漫画」も戦前すでに登場しているが、戦後に手塚治虫が映画的手法や悲劇もとりいれたストーリーとで「漫画」の表現形式を大きく飛躍させたのは良く知られる通り。それでも基本的に可愛くコミカルな絵であったことには変わりなく、あくまで「漫画」なのだった。
 これに対して昭和30年代にはより大人向けの、ハードボイルドや残酷表現、シリアスで深刻なテーマを扱う作品が貸本業界を中心に発達した。今から見ればそれほどでもないが、当時としてはかなり「リアル」な絵で表現されていて、これを「漫画」と呼ぶことには作り手たちも抵抗を感じていたし、手塚治虫とその門下(いわゆるトキワ荘グループ)に対する対抗意識もあって、何か新しい名称を求めるようになる。「駒画」なんて案もあったそうだが、辰巳ヨシヒロが考案した「劇画」という言葉が決定打となった。
 「劇画」というと紙芝居の意にもとれちゃうらしいのだが、なんか言葉の響きもカッコよく、辰巳たち若手作家たちは「劇画工房」という集団を結成、のちにさいとう・たかをらも参加して一つの芸術運動(?)ともなった。「トキワ荘グループ」の「新漫画党」と比較されることもあり、実際さいとう・たかをはトキワ荘に乗り込んで対決姿勢を示したというエピソードもある。藤子不二雄Aの「まんが道」に「激河大介」という架空キャラが登場してまさに「劇画」を書いて主人公たちに対抗姿勢を示すが(その後ほとんど登場しなくなり計画倒れになってるけど)、これも「漫画VS劇画」という、後から思うと信じられないような、なかなか激しい派閥抗争(?)があった時代を語ろうとしたものだ。漫画にしても劇画にしても、その表現技法の発展・確立期ならではの熱い時代だったわけ。
 1960年代にはいわゆる「劇画ブーム」も起こって手塚治虫を焦らせることになるのだが、その頃には名付け親の辰巳自身は「劇画」の状況に不満を抱き、劇画から決別している。自伝的作品「劇画漂流」を僕はつい数年前に読んだが、これは「まんが道」とは別系統の、日本コミック史の証言作品だと感じたものだ。まだ見ていないんだけど海外で映画化もされたそうで、まさに「知る人ぞ知る」の存在だったわけ。
 今や「劇画」という言葉もほとんど死語だ。ある人がネットで書いていたが、最近は漫画出版社の編集者でも「劇画」という言葉を知らずキョトンとしていたという。漫画と劇画の境目は1970年代後半にはほとんど意識されなくなってたようだし、ストーリー漫画のことを「劇画」だと思ってる人もいた(だって「タッチ」のこと「劇画」と紹介した新聞があったぜ)。漫画のほうでも石ノ森章太郎が「萬画」を提唱したりもしたけど、結局定着はしなかったしなぁ。そんなこんなの歴史を思い返させる訃報だった。


2015/3/20の記事

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