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2015年4月14日

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◆今週の記事

◆小さな国の大きな人

 前回が四月馬鹿だったもので、3月末からの話題は今回にまとめることに。その中で「歴史的」に大きなニュースとして、シンガポールの建国者、リー=クアンユー元首相の訃報があった。3月23日に91歳の高齢で世を去ったのだ。それから二週間も経ってタイミングを逸した感もあるが、やっぱり書いておかないといけない訃報だと思う。

 リー=クアンユー、漢字で書けば「李光耀」で、東南アジアに多い中国系「華人」の出身だが中国語(広東語系)は母語とはしておらず、初めのうちは「ヘンリー・リー」と名乗っていて、「リー=クアンユー」と中国風に名乗るのは政治家となってからのことだ(中国語も後から学んで身につけている)1923年に当時は東南アジアのイギリス植民地の拠点であったシンガポールに生まれている。1941年に太平洋戦争が始まると日本軍は序盤でシンガポールを占領、「昭南島」なんて名前をつけたりしていたが、当時10代であったリー=クワンユーはその日本の占領軍に報道部員として雇われて暗号解読や情報収集などに従事している。
 戦後にイギリスのケンブリッジ大学に入学して法学部を首席で卒業、帰国して弁護士となり、1954年に留学仲間たちと「人民行動党」を結成してその書記長となり、政治活動を本格化させる。1959年のシンガポール自治州での総選挙に「人民行動党」が勝利すると自治州首相に就任したが、このときまだ35歳の若さである。ここまでの経歴を見てもやたら優秀、というかキレ者であったことがうかがえる。

 1963年にイギリスから独立したマレーシア連邦とシンガポールが統合し、リー=クアンユーはシンガポール州政府首相となった。しかし2年後の1965年にマレーシア連邦からの離脱を余儀なくされ(マレー系が優位のマレーシアに対しシンガポールでは華人が多数派だったことが一因)、涙を流しながらの記者会見で独立を発表、「シンガポール共和国」の初代首相となる。以後、1990年にゴー=チョクトンに首相職を禅譲するまで足掛け30年にわたってシンガポールを独裁的に主導し続け、この淡路島くらいしかない小さな島国を、東南アジアでもトップクラスの工業国、アジアの金融・物流センターへと成長させた。
 「何が正しいかはわれわれが決める。国民がどう思うかは関係ない」と明言して言論抑圧も辞さないその独裁的政治手法(いわゆる開発独裁)には批判も多かったが、出した結果で政治家を評価するという基準で言えばこれほどの大成功を収めた例は他にないとさえ思う。インドネシアのスハルト、フィリピンのマルコス、韓国の朴正熙など並べられる他国の開発独裁政治家たちと比べても失脚や悲惨な末路もなく、その死が大多数の国民に惜しまれたものであったという点も彼の評価点を高める根拠になりそうだ。もっとも、その死の直後に彼を揶揄した動画をネット上にアップした若者が逮捕されたりしているあたり、「明るい北朝鮮」なんて言われちゃうこの国の一面を見せられる思いもした。

 1990年に首相を退任してからも上級相、顧問相として閣僚として政権にあり続け、結局つい4年前の2011年まで閣僚だったから実質「院政」だったのかもしれない。というか、訃報を政府を代表して発表した今の首相が長男のリー=シェンロンなんだからなおさらだろう。つまりほぼ半世紀にわたって建国以来シンガポールを引っ張り続けてきたわけである。
 その訃報に対して世界各国から哀悼の意が評されたのは当然と言えば当然だろう。隣国の「宿敵」であるマレーシアのマハティール元首相も、意見が合わないことは多々あったが優れた政治家だったとブログで称え、東南アジアの「強力な指導者時代」の終わりをつづった。韓国の朴槿恵大統領がすぐさま葬儀への参列を表明したのも「開発独裁」仲間(?)の父親の縁からだと思われる(安倍首相もその直後に慌ただしく参列を発表しちゃっかり「葬式外交」をやっていたな)。葬儀参列者で目を引いたのがアメリカのキッシンジャー元国務長官。まだ元気だね、この人も。朴槿恵さんに声をかけて父親の偉大さを称えていたそうな。

 なおリー=クアンユー自身は日本では吉田茂、中国ならケ小平を高評価していたという(そういやケ小平が進めた「経済特区」はもともとシンガポールがやってたことだ)。反共姿勢の人ではあったが自身も事実上の一党独裁を実行していることもあり、日本の自民党政治や中国の共産党政治を「いい体制」と考えていたみたい。宮沢喜一のことも高く買っていて、彼が首相の時に自民党が下野した際は「日本はどうする気なんだ」と怒っていた、との話もある。
 ただ最近ではさしものシンガポールも事実上の一党独裁体制にほころびが出て来ていて、2011年の総選挙では野党が過去最大の6議席を獲得し(選挙制度の仕掛けで87議席中81議席を与党が占め、これでも最大成果)、閣僚一人が落選する事態になっていた。その直後にリー=クアンユーが政界引退を表明しているのは偶然ではないのかも。
 この記事の更新が遅れているうちに、リー=クアンユーが遺言で「自宅の破壊」を指示していたことが明らかとなった。独裁的な政治家ではあったが個人崇拝は非常に嫌っており、自分の死後に自宅が記念館みたいにされることを危惧したのだと言われている。


 ついでなんで最近の高齢者訃報ネタをまとめて。
 4月10日には愛新覚羅溥任さんが96歳という高齢で亡くなっている。名前を見れば一目瞭然、あの愛新覚羅溥儀の弟さんだ。1918年の生まれだから辛亥革命で清朝が消滅したあとの生まれ。溥儀はのちに日本に引っ張り出されて「満州国」の元首になったが、この溥任さんは兄と一緒に満州入りはしなかったという。中華人民共和国成立後は教師となり、退職後に自分の先祖の清朝史研究をやっていたという。
 4月1日には、その時点でギネスブックの「世界最高齢女性」に認定されていた大阪市の大川ミサヲさんが117歳で亡くなっている。1898年(明治31)のお生まれであるから、当たり前だがまだ19世紀のお生まれで、日本国内では1800年代生まれの最後の人だった。同年生まれの有名人を探してみたら、政治家では周恩来劉少奇河野一郎椎名悦三郎浅沼稲次郎、作家では井伏鱒二尾崎士郎横光利一今東光、映画監督を見たらエイゼンシュテイン溝口健二伊藤大輔内田吐夢が生まれた当たり年だった。
 大川ミサヲさんの死を受けて世界最高齢となったのはアメリカのアーカンソー州に住むガートルード=ウィーバーさん(116)だったが、直後の4月6日に亡くなった。次なる世界最高齢はやはりアメリカ人女性のジェラレアン=タリーさん(115)になる。1800年代生まれの人物で存命なのはもはやこの人を含めた三名だけだ。
 しかし…それらはあくまで「認定」された人たちであって、世界には未認定長寿記録者という人たちもいる。日本の泉重千代さんは一度120歳の世界一に認定されてから取り消しになったケースだが、去る3月19日にメキシコで「127歳」ということになっていたレアンドラ=ベセラさんという女性が亡くなっている。彼女は1887年8月31日生まれということになっているが、公式な書類を所持していなかったために国際機関では認定してもらえなかった。孫の話によるとメキシコ革命(1910)時の思い出話をしたりしていたそうで、かなりの長寿には違いないんだろうけど…少なくとも子孫は161人もいるんだそうな。

 さらについでに書くが、こちらは早死にの方。「羽柴秀吉」「羽柴誠三秀吉」などの名前であちこちの地方選に出馬した名物泡沫候補の三上誠三さんが4月11日に65歳で亡くなっている。天下は取れなかったが享年だけは秀吉に近かったな。合掌。



◆この指とまれ!

 前回の四月馬鹿ネタでも書いたが、近ごろアルファベット略称の国際組織がやたら多くて生徒のみならず社会科講師も苦しんでいる。そんな略称のうち、去る3月中ににわかにその名が連日連呼されるようになったのが「AIIB」。日本語では「アジアインフラ開発銀行」と紹介される。その名の通りアジアのインフラ(道路、鉄道、港湾などなどなど)整備への融資を行うことを目的とした国際銀行で、もっぱら「中国が主導する」と枕詞のように紹介されるアレだ。

 この「AIIB」、もちろん3月中に出来たわけではない。話自体は2013年に持ち上がり、去年秋には東南アジア・南アジア・中央アジアの国々30か国以上がその設立メンバーとして名を連ねていた。僕自身がこの名を意識したのはこの年末年始ぐらいからだと思う。麻生太郎副総理兼財務大臣がインドの財務相に参加しないよう直接働きかけたがその二週間後にあっさりとインドが参加表明をしてしまった、という話題だったように記憶している。なおつい先日出た話によると昨年9月のインドのモディ首相来日の際にも安倍首相はじめ日本政府が直接に参加を見送るよう働きかけたが、結局それは無視され日本が新幹線を売りこんでいた高速鉄道も中国側が受注した、という一幕もあったらしい。大きく報じられたわけではないがチラホラと現在の事態になる予兆は見えてはいたのだ。

 3月12日にイギリスがAIIBへの参加を表明して世界が大騒ぎとなった。ただこれも後知恵ではあるが、ある程度予測可能な事態だったように思う。この直前にイギリスのウィリアム王子が来日して日本では大きく取り上げられたものの、その直後に中国を訪問していたことはほとんど話題になっていなかった。しかしチラホラと入って来るウィリアム王子の中国語スピーチなどの愛想のふりまきぶり、中国側の異例のもてなしぶり(彼が来る直前に象牙取引禁止なんてのもあった)は、単なる「関係改善」以上のものを感じさせはした。一応一部報道でもイギリス財界の要望やら来る総選挙に向けての与党の思惑やらで中国との経済的結びつきを強めようとするキャメロン首相の狙いがあるとは解説されていて、そうした事情をふまえれば実のところそう意表を突いた動きでもなかった、ということになりそうだ。
 それまでアジアの発展途上国の寄せ集めと言われても仕方のないAIIBだが、なんだかんだで世界の金融大国であるイギリスの参加で一気に存在感を増すことになった。この直後にフランス、ドイツ、イタリアが参加を表明、そのあとはもう連日のようにヨーロッパ諸国が参加表明する事態となり、ついにはロシアやサウジ、イスラエル、エジプト、ブラジル、オーストラリア、韓国、台湾といった国々までが参加を表明し、百花繚乱だか呉越同舟だかというようないろんな意味でにぎやかな顔ぶれが集って結局50カ国を越える国や地域が参加する大所帯に成長した。その陰でせっかく参加表明したのに中国から「経済・金融状況が不十分」として門前払いされた北朝鮮の悲哀があったりしたのだが。

 この事態に泡を食ったのがアメリカとその子分の日本。どうもあの慌てようを見る限り、両国の指導部ですらも意表を突かれた自体であったらしい。一部報道では日本の財務省と外務省は官邸に「G7の国の参加はない」と断言していて、「話が違うじゃないか」と官邸サイドから叱責される事態になっているともいう。
 アメリカ政府ですら読みを誤ったようだから日本の上級官僚たちだけがバカだったというわけでもなさそうなのだが、AIIBと「食い合い」になる可能性がある「アジア開発銀行(ADB)」の歴代総裁は全て日本の大蔵省→財務省の出身者(今の日銀総裁もADB頭取だった)だし、外務省は中国を警戒(の割に甘く見て)、アメリカにくっついてくことしか考えてないみたいだから、一部がうすうす察知はしていても「都合の悪い話」「見たくない現実」を上にあげず考えないようにしていた、というあたりが真相なんじゃないかという気がしている(も一つ付け加えると日本には「上にいくほどバカになる法則」もある)。昭和前期の外交・軍事方面でも同じ現象が見られ、それこそ「欧州情勢は複雑怪奇」とか言い出して内閣総辞職…なんてことはさすがにないだろうが、なんかおんなじことやってるな、と思っちゃったりもするのだ。

 ただ日本政府内でも参加積極論は確かにあるようだ。そもそも財界は明らかに望んでいるし(インフラ輸出ではEU諸国がライバルなのだ)、経済産業省や財務省、さらには自民党内の一部には参加に前向きな声は出ている気配。参加ラッシュを招くきっかけを作ったイギリスなどヨーロッパ各国、オーストラリアやニュージーランドでも、外交部門はアメリカとの関係を気にして反対、貿易・経済関係部門が中国との関係強化を求めて賛成、という構図があったようで、日本も恐らくおんなじなのだろう。各国の参加表明ラッシュが続いているさなか、麻生大臣が「条件が合うなら協議をしてもいい」というような、かなり遠回しながら参加に前向きともとれる発言が出て注目された一幕があったが、あれも一部の参加賛成意見を背景にアドバルーンをあげたのだと思う。
 その後明らかにされたが、一時イギリスの新聞などで「日本も参加の方向」と報じられたため、慌てたアメリカが日本政府に「真意を問いただす」一幕があったようだ。4月に入って日本の総理・閣僚たちはガバナンスがどうのこうの、多額の出資を強いられるからといった「参加に慎重」な姿勢を一気に強める発言を繰り返すようになったが、アメリカ様から「よその組のモンとチャラチャラすんな」と言われた(以前も使った「仁義なき戦い」ネタ。知らない人は「頂上作戦」を見ること)からだと聞けば納得である。安倍さん、これから訪米して議会演説までするんだもんね。もっとも、恐らく日本政府関係者が一番恐れているのは往年の米中接近みたいに突然アメリカ様に「ハシゴを外される」ことだろうな。

 これも一部報道だが、日本の外務省・財務相幹部からは「EU諸国は中国と領土問題など外交懸案がないからな」という発言が出ていたという。しかし中国と領土問題その他を抱えて激しい対立もあるインドやASEAN諸国、はてはロシアまでが積極参加していることは視界に入っていないらしい(たぶん分かってて言い訳で言ってるんだろうが)。フィリピンも中国と領土問題で対立する国だが、ラモス元首相が「日本はなぜ参加しないんだ!」とわざわざ発言する様子がテレビに映されていて、それはそれ、これはこれ、という現実的な外交をやってる国は多い。アメリカの「同盟国」でもオーストラリアや韓国は参加しているので、日本としてはアメリカの番頭さんを自認してADBを主導してきたプライドが邪魔したところもあるんだろう。これも一部報道によると、中国は去年から日本の参加を強く求めていて、内々に「副総裁」ポストの約束までしていたというのだが、これまでADB総裁を独占してた立場としては「副」では我慢ならん、という心理もあったかもしれない。

 どうも昨今の日本では中国がからむと何かとネガティブにとらえる言説がウケてしまうので、AIIBについても「中国の野望」だの「国内裏事情」だのといったオドロオドロしい解説見出しが目立つ。だがそもそもなんでそんなのを立ち上げる事態になったのかを調べて見れば、それまでアメリカが主導するIMF(国際通貨基金)や日本が番頭さんを務め続けたADBに対する不満が背景にあり、実は同じ不満は中国だけでなくアジアやEUの諸国にも共有されていた、ということがわかるはず。そうでなけりゃ「この指とまれ」にあんなに群がって来るはずがないのだ。アメリカや日本が「運営ガバナンスがどうの」「融資基準がどうの」と批判しているが、新興ライバル店に近所に進出された老舗が相手をクサしてる態度みたいでもある。
 そもそも1990年代の「アジア通貨危機」ではアメリカが主導する(拒否権までもつ)IMFが融資国に厳しく当たってヒンシュクを買っている(そもそも「アジア通貨危機」自体がアメリカのヘッジファンドが原因だった)。90年代末に日本が主導してアジア版IMF「AMF」を作ろうと企てたこともあったが、これはアメリカにつぶされた(APECでもTPPでも見られるが、アメリカは自分が加わらないアジア国際組織は認めない)。日本に代わって台頭してきた中国がIMFやADBの改革を求めるようになってきたが、そうした改革は主導国のアメリカ政府が前向きでも議会がつぶし続けた。そういった経緯の果てに「じゃあ自分で作るわ」と中国が言い出したわけで、現在の事態はアメリカ側の自業自得、という意見は世界中で結構出ているのだ。

 知る人ぞ知る民放歴史ドラマの名作、TBS「関ヶ原」の中で、杉村春子演じる大政所(ねね)が「この指とまれ、やな」と、家康に味方する武将たちの動きを例える場面がある。AIIBの参加表明ラッシュを見ていて僕はこの場面を連想していたのだが、実際どこかの経済メディア記事で「今回のイギリスの動きは関ヶ原の小早川秀秋の寝返りのようなもの」と例えていた人がいたっけ。
 第二次大戦後の世界の「カネ」をアメリカが実質的に支配してきた「ブレトン・ウッズ体制」の終焉という歴史的な転換点に来ているのかも、といった大げさな見方さえ出ているが、歴史の転換点にいる当事者はその時はそれと気づかぬことが圧倒的に多いから、そこまでのことではないんじゃないかと僕は慎重にとらえる。ただ、あとから振り返ればそうだった、ということにはなるかもしれない。

 「社会主義国」で「一党独裁制」のあの中国から「現行の国際機関の手法には学ぶべきよいものもあれば、官僚主義的、非常に煩わしいやり方もある」と言われてしまったのも象徴的だった。いや実際、あの中国から「官僚主義的」という言葉がアメリカや日本に向けて飛び出したのには苦笑してしまった。中国も役人根性の凄さ、腐敗役人の多さは昔からの名物なのだが、元の数が多いだけに国家のトップレベルに昇り詰める指導者にまでなるとハンパじゃなく優秀なのも事実。日本じゃまるで往年の特撮・アニメの悪の組織の親玉みたいな扱いの習近平国家主席だって、「フォーチュン」や「フォーブス」じゃ「影響力ある世界の指導者ランキング」でベスト5に入ってしまう(どちらでも次点にフランシスコ法王がいたな)、という欧米での高評価の事実も認識しておいた方がいい。
 しかしこの件については「銀河英雄伝説」にあった、迂遠な手続きの民主主義よりスピーディーな決断実行ができる独裁の方がいい、ってなやりとりを思い出してしまって、ちょっと戦慄もするんだよね。



◆宗教は「あ、変」?

 僕自身ははっきり言って無宗教だと自覚してるが、イギリス旅行時にキリスト教の教会で「仏教徒か?」と聞かれた際に面倒くさくて「イエス」と答えたことがある(キリストにひっかけたシャレではない)。海外じゃ無宗教者は理解されにくいという話も聞いていたし、一応先祖代々曹洞宗の寺の檀家なんだから「仏教徒」というのもまんざらウソではない。
 今のところ世界ではキリスト教徒が一番多く、中でもカトリックが最大数の信者を抱えている。しかし先日報じられたある予測によると2100年にはイスラム教徒が最大多数になるのだという。実際、イスラム圏は人口増加率が高いし、欧米や中南米諸国などで移民もそうでない人でもイスラム教に改宗する人が多いとの話もあるから、そう意外な話でもない。一方のキリスト教徒は欧米諸国でも減少傾向が予想されており、先日ワイドショーで池上彰さんの解説つきでやってた話によると、そのうち最大のキリスト教徒を抱える国はなんと中国になるんだそうな。なるほど、ここ10年ばかりバチカンと中国の接近が取り沙汰され続けるはずである。

 さて、ちと日にちが過ぎてしまったが、去る3月25日は1995年の「地下鉄サリン事件」から20周年という節目にあたっていた。テレビ各局はちょうど番組改編期ということもあり、久々にオウム真理教事件にまつわる報道特番や再現ドラマ番組をこぞって放送、なんだか20年前のプチ再現みたいな状態になっていた。
 あのとき、僕はたまたま大学の合宿で箱根に出かけていたせいもあって事件が起きた日のことは克明に覚えている。その年の正月時点で「松本サリン事件」にオウムが関わっていた疑いが報じられていたから、地下鉄にサリンがまかれた、というニュースを見た時点で僕の周囲の人から宿泊先の従業員まで、みんなが「オウムか」と口にしたものだ。それからは連日ニュース番組や特別番組でオウム特集が組まれ、教団幹部と批判派の直接対決が繰り返され、警察庁長官狙撃事件や教団幹部・村井秀夫刺殺事件(この瞬間の映像も先日久々にオンエアされていた)など謎めいた事件が続き、5月の教祖の麻原彰晃の逮捕まで2ヶ月ほど大騒動が続いたものだ。20年も経ってしまうと当時を知らない世代が成人しちゃってるわけで、相変わらずオウムの後継団体に入信者がいるというのも無理はない。もっとも「イスラム国」もそうだが、傍から見ていて「なんであんなのに?」と思う団体に望んで飛び込んでいく若者ってのはいつの時代でもいるんだろう。オウムだって異論も出るだろうが一応「仏教過激派」なんだから。


 仏教と言えば、どちらかというと東南アジアの仏教国は信仰が熱烈、とはよく聞くところ。そんな仏教国のひとつであるミャンマーで、経営するバーの宣伝広告に「ヘッドホンをつけた仏像」を描いたニュージーランド人が「宗教侮辱罪」で逮捕され、3月の裁判で懲役2年6ヶ月の判決を受けたというニュースがあった。そんなことで?と仏教徒のはしくれのつもりもある僕などは思っちゃうが、最近軍政から民政へ移管したミャンマーでは「仏教強硬派」が台頭してきてるらしく、このバー経営者の逮捕も仏教強硬派の猛抗議がきっかけだったと報じられている。昨年には仏像のタトゥーを入れていた欧米人観光客が強制送還されるという事態も起こったそうで、寛容イメージのある仏教でも不寛容になる場合はある、ということだ。
 民政移行後のミャンマーでは西部のイスラム系少数民族に対する仏教強硬派による弾圧が国際問題になっているし、東部山岳部でも先ごろ少数民族との衝突で中国側に「攻撃」をかけて死傷者を出す事態も起こしている。軍政がいいとは言わないが、独裁政権が倒れた「アラブの春」のあと同様におかしな方向へ突っ走る傾向が出て来てるような。


 で、そのアラブの方では相変わらず混沌状態。「イスラム国」に対してスンナ派もシーア派も共同戦線を張り、イランが後押しするシーア派中心のイラク軍部隊がイラク第2の都市ティクリ―トを奪還、イラン政府が「祝福」コメントを出したりもしたのだが、現地では政府軍兵士による報復的略奪が横行しているとされ、これがまた人々を「イスラム国」支持に追いやるのでは、と懸念されている。「イスラム国」自体も言われてるほど追い込まれてるわけでもないのか、シリアでもイラクでもその首都をうかがうほどのところまで進出する動きも見せている。古代アッシリアの遺跡破壊をこれ見よがしにやってるところはワルさをひけらかす悪童そものの態度なので、怒るとかえって相手の思うツボ、という気もしてきた。

 アラブの混沌をさらに増しそうなのが、アラビア半島の南端の国イエメンの混乱だ。
 アラブなのにアブラがろくにないので「アラブの最貧国」などと言われてしまうこの国は、18世紀以来の複雑な歴史的経緯で「北イエメン」「南イエメン」の二国に分断されてきた歴史を持つ。冷戦期には南イエメンがソ連影響下の「社会主義国」になってしまい、「アラビアのキューバ」なんて呼ばれてた時期もある。冷戦終結後の1990年に南北統一がなったが、1994年にまた南側が再独立の動きを見せて内戦となり、2ヶ月で北側が勝利して再統一。しばらく落ちついていたが「アラブの春」の流れで2011年にサーレハ政権が倒されてその副大統領であったハーディ(もともと南イエメンの軍人)が大統領を引き継いだが、昨年に北イエメンに拠点をおくシーア派系ザイド派武装組織「フーシ」が首都サヌアを制圧、今年1月には憲法改正をめぐって対立したハーディ大統領をクーデターで引きずり下ろした。ハーディは旧南イエメンの首都アデンに脱出し、「クーデターはサーレハと、フーシの背後にいるイランが起こした」と主張して、またまたイエメンの「南北対立」再現か、という状態になっちゃっている。
 3月20日にはサヌアのモスクで自爆テロがあり、「フーシ」構成員を中心に120人以上の犠牲者が出た。犯行声明は「イスラム国」が出しているが、この地域はパリのテロ事件でも名前が挙がった「アラビア半島のアルカイダ」も活動していて話は複雑。「フーシ」側はこのテロを受けて「総動員体制」を発表したが、これに対してシーア派と対立する隣国サウジアラビアがスンナ派諸国による「アラブ連合軍」を結成して空爆を開始する、というますますややこしい事態に。フーシの背後にシーア派の大国であるイランがいるのは否定しきれないところだが、イランは一応非軍事的な解決を呼びかける姿勢を見せている。イランと言えば欧米との核開発疑惑に関する協議が一応の決着をみたばかりだが、これにイスラエルが猛反発していて、この辺、一歩間違えるとさらにややこしいところに火種が拡大しちゃう恐れもある。

 一方。このイエメン危機を受けて各国が艦船や飛行機を派遣して自国民救出活動を進めている。その中で中国が自国民ともども日本人を救出したり、インドとパキスタンもお互いに自国民と一緒に相手国民も救出しあって、政府間でお礼を言い合ったりしてる光景には救われる思いもしたんだが、残念ながら大きなニュースにはなっていない。



◆おっと、間違い!?

 僕は茨城県民である。茨城県と言えば全国都道府県の魅力度ランキングでビリの常連(涙)。中途半端に都市部と田舎部がまぜこぜになっていて、これといって有名な観光地にも乏しいというのが原因なんだろうな。その状況を打破しようと映画「桜田門外ノ変」を製作したりもしたけど、あれを見ると「偏屈な過激派の集まり」という印象が余計に強まるような(笑)。いや、今年の大河を見ていても長州藩の松下村塾の連中だってほとんどテロリスト集団なんだが(笑)、あっちは結果的に天下をとってしまったあたり、違いがやはりあったんだろう。

 ところで「茨城県」ももちろん明治4年(1871)の廃藩置県により誕生したもの。廃藩置県実行直後は現在の茨城県内に15個もの県が出現、4カ月後の11月にそれが「茨城県」「新治県」「印旛県」に統合され、明治8年にさらにそこから旧下総国の部分を利根川を境にして千葉県との間で分割・編入が行われて現在の茨城県の形になる、という経緯をたどっている。
 茨城県では1968年に11月13日を「県民の日」と定めていて、この日は県内の公立の学校はみんなお休みとなり、東京ディズニーランドに茨城弁があふれる、などと揶揄される(笑)。11月13日が選ばれたのは明治4年のこの日に現在の県北地域に「茨城県」が初めて誕生したことに由来する、と説明されていたのだが、このたび「それは間違い」との外部の指摘が出て、茨城県人の間ではちょっとしたショックになっている(笑)。
 きっかけは今年の茨城県県立高校入試の社会科の問題だった。明治時代に関する問題文のなかで「11月13日に、現在の茨城県の範囲は新治県、印旛県、茨城県の三つの県に統合された」という記述があったのだが、福岡県の塾講師の方が「茨城県の正式設置は翌日の11月14日」と指摘したのだ。11月13日には初代茨城県参事(のちの知事にあたる)山岡鉄舟が任命されており、実質的に発足しているとも思えるが、手続きとしては14日設置が正しいわけだ。僕も塾講師、しかも社会が主な担当だからこの問題に目を通してたけど、こんなこと気付かないよなぁ。少なくとも1984年段階の県史で13日を茨城県設置の日と書いちゃってるらしく、誤りは30年以上は続いていたことになる。まぁ大した違いのある話ではないので今後も「県民の日」は13日で動かさないとのこと。「県民の日イブ」とか名付けるのも一興ではないかと(笑)。

 むしろこの件で僕が驚いたのは、初代の「知事」が山岡鉄舟という、そこそこの有名人であったことだ。勝海舟と並んで「幕末の三舟」と称される人物で、幕末史を彩る幕府側人士の一人。清水の次郎長から明治天皇までお友達という顔の広い人物である。当時の茨城県は幕末以来不穏な水戸藩地域にあたるため難しい県と見られていたらしく、それで鉄舟が選ばれたのかもしれない。もっとも調べてみたら任命から一ヶ月も経たない12月9日には西郷隆盛の推薦で明治天皇の側近に抜擢されたために辞任しているので、茨城県知事としてはほとんど何もしてないと思うけど。


 「ナショナルジオグラフィック」日本版に先日載った話も面白かった。3月31日付のイギリス王立協会科学誌「ロイヤル・ソサイエティ・オープン・サイエンス」に、「『ネアンデルタール人の笛』とされていたものは、人工物ではなく動物がかじったもの」とする論文が載ったというのだ。
 詳しくは知らなかったが、ネアンデルタール人が「楽器」を持っていたのでは、という話は聞いたことがあったような。ネアンデルタール人の「笛」とされるものはヨーロッパ南東部で複数発見例があるのだそうだが、有名なのはスロベニアのディウイェ・バーベ洞窟で1995年に発見されたもの。ホラアナグマの骨に複数の穴が開いていて「笛」ではないかと疑われ、この遺跡自体が4万3千年前のネアンデルタール人のものと推定されたことで、彼らが「笛」を作って音楽を楽しんだのでは、との説にいたったわけだ。現在でもスロベニアの博物館ではこれを「笛」として展示しているそうだが、発見以来「本当に人工物なのか。動物のかじったものではないのか」との異論は出されていたという。
 今回発表された論文の著者である古生物学者のカユス=ディードリッヒ氏は「笛」を詳細に調べた上で、15か所の洞窟で見つかる先史時代の動物の骨の損傷状況と比較検証し、この「笛」に人間が石器でつけた穴はないと判断、穴は実はハイエナがかじった歯の跡で、幼いホラアナグマの骨ならこういう傷がつけられる、と結論づけた。
 もちろんこのスロベニアの「笛」が人工の笛ではなく自然にできたものだったと断定されてもネアンデルタール人が笛を作らなかった、ってことにはならないのだが、一番の証拠のように扱われていたものだけにネアンデルタール人の楽器製作説はかなり後退することになるだろう。


 4月に入って文部科学省が新しい教科書の検定結果を発表、特に社会科の教科書の記述をめぐっていろいろ議論になるのは毎度のことだが、例の「マッカーサー発言」を書き込んで削除意見がついた教科書もあったそうで。また「アイヌ人は土地を奪われた」という記述に「土地を与えたことも書け」なんて意見がついてたそうだが、それってアメリカのインディアン政策とおんなじだよな。前から思ってるんだが、教科書では「アイヌの人々」とか北米インディアンのことを「先住の人々」と表現するなど、なんとしても「民族」「先住民」と書かせたくない人たちがお役所にはいるらしい。それでいて「江戸しぐさ」とか「ID論」記述に寛容なんだから…
 それはさておき、領土問題記述以外でも韓国の政府首脳がかみついた箇所があった。一部教科書に「任那(みまな)」表現があったことに李完九首相が「歴史歪曲は許さん」とかみついたのだ。教科書以外でも日本の文化庁ウェブサイトで朝鮮半島南部出土の遺物に「任那時代」と書かれていたことにもオカンムリだった。「任那」とは新羅と百済の間の小国乱立地域で、「伽耶」「加羅」とも呼ばれる地域と重なりあい、日本側資料だけでなく広開土王碑文や中国資料にも出て来るもの。その実態については諸説あるが、韓国では「任那」と聞くとヤマト政権がここに設置したとする「任那日本府」の話と結びつくので絶対に認めない、という空気が強い。さすがに「日本府」が存在したとは思えないが(そもそも当時「日本」は存在しない)、「倭」のヤマト政権と一定の関わりがあったことは否定できない、というのが穏当なところだろう。

 ここまでの話はまだいいのだが、韓国の中央日報記事によると、このあとの李首相の暴走ぶりが凄い。百済滅亡後に多くの亡命民が日本に渡ったことなどを挙げて「日本の起源は百済」とまで言っちゃったそうだし(文化的な部分については全否定はしないが)「奈良県の東大寺にある日本王室遺物倉庫である正倉院がなぜ公開されないのか今でも疑問」だとまで口にした。暗に「正倉院には日本の皇室の先祖が百済系だということを示す資料が隠されているのだ!」と言いたいわけだが、正倉院なんてとっくの昔に中身は全部オープンになってますがな(「勅封」の話を聞きかじって誤解してると思う)。百済とのつながりをウンヌンするなら、以前の今上天皇の「ゆかり発言」で言及された、桓武天皇の生母が百済系だとか、そのつながりで桓武が「百済王氏」を重く用いていることとかを持ち出した方がよっぽど建設的。しかし韓国ではこの「皇室先祖は百済系」は一部で人気のようで、小説や歴史ドラマでも皇極・斉明女帝がモロに百済人設定になってるのもあった。もっとも日本でも三国志の劉備が実は日本人、という設定の漫画があったりするからなぁ…
 ちょっと前のトルコ大統領の「コロンブスより先にイスラムが」発言とか、先日の「八紘一宇」関連とか、政治家っちゅうのはどこでも都合の良いトンデモ史観にハマりやすい存在なんだろうな。クダラない話である。


2015/4/14の記事

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