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2015年8月26日

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◆今週の記事

◆コーランと藤吉郎と

 例によってこの時期は僕自身が無茶苦茶忙しい。おまけに今年は猛暑とぶつかり、かなりしんどいスケジュールとなった。こんな時期に東京五輪やるのか、と僕も思ってしまうほどの東京の猛暑っぷりだが…まぁとにかくそんなわけで今回も取り上げる話題がやや古めです。

 先月、つまり7月の22日、イギリスのバーミンガム大学がある発表をした。同大学図書館が所蔵する羊皮紙に書かれた古いコーラン(もちろんイスラム教の聖典のこと)の一部をよく調べたところ、どうも現存世界最古のコーランかもしれないというのだ。しかも最古も最古、イスラム教の預言者ムハンマドが死去してから間もない時期、まさにコーランが製作された時期に限りなく近い時期のものではないのか、というのである。
 問題のコーランの一部は、同じ一冊のコーランが抜け落ちた二枚の羊皮紙だ。コーランの18〜20章の内容が「ヒジャジ」という書体の初期のタイプで書かれていて、これまでは7世紀末のものと考えられてきた(それだってもちろん最古級だが)。ところがイタリア人の博士課程の院生が、この羊皮紙に書かれた文章が他の部分と異なる書かれ方をしていることに気づき(どう違うのかは報道では不明)、それがきっかけで放射性炭素年代測定にかけてみることになった。これで調べれば羊皮紙の材料となった動物(羊ってことなんだろうが報道では特定してなかった)が生きていた年代が限定できるというわけだが、95%以上の確率で568〜645年に書かれたものだと判明したというのだ。

 この結果が信用できるとなると、実に興味深いことになる。イスラム教の預言者ムハンマドは570〜632年に生きており、その羊皮紙の材料となった動物とほぼ「同時代」を生きていることになる。ムハンマドは西暦610年から神の啓示を受け始めたとされ、その死の直前までその啓示は断続的に続いた。ムハンマドは神の啓示を自分の口で伝えたのみで文字化はせず(ムハンマド自身読み書きができなかったとも)、彼の死後もその内容は口伝やメモのみで周囲に共有された。
 しかし「伝言ゲーム」で明白なように細部に食い違いが生じることは避けられず、650年ごろ、三代目カリフのウスマーンの時に「正統」とするべきコーランの編纂事業が行われた。この時に編纂されたのが今日まで世界中で使われているコーランで、「ウスマーン版」と呼ばれ、当時存在したそれ以外の「異本コーラン」はすべて破棄されたとされている。だがごく一部ウスマーン版以前のバージョンではないかとされるコーラン断片は見つかっていて、今回「発見」された断片も内容が一部異なることからウスマーン版編纂以前の「異本コーラン」である可能性が高く、しかも炭素年代測定による裏付けが得られたケースとなる。
 こうした「正統経典」と異なる内容を含む古い時代の異本、というケースはユダヤ教・キリスト教の聖書においても話題となることがあり、有名な「死海文書」にはキリスト教会にとって不都合な記述があるのでは…という憶測がささやかれたこともある。イスラム教において絶対的な信仰の礎である「コーラン」にもそれが…ということになりそうだが、報道によれば問題の羊皮紙コーランは表現が部分的に異なるだけで内容自体は現在流布するコーランと「非常に似ている」のだそうで、むしろコーランの内容が原初期の状態を良く残している証拠となるようだ。


 さて話は打って変わって、日本の安土桃山時代の話。中心人物は豊臣秀吉という、こちらも大物だ。ただしまだ「天下人」など夢のまた夢、足軽から大出世を遂げて城持ち大名にのしあがっていた時の話である。実はいま、1980年の大河ドラマ「おんな太閤記」の完全版をチビチビ見ているのだが、ちょうど話がその辺に来たところだったりする。
 発表されたのが7月10日なので、ホントは前回取り上げるべき話題だったのだが、兵庫県豊岡市教育委員会が元亀四年(1573)五月二十四日付の「木下藤吉郎」名義の書状が確認されたと発表している。内容は現在の岐阜県笠松付近の地侍あてに「親類縁者でも手心を加えずに税をとれ」といった内容とのことで、「木下藤吉郎」の名はあるものの筆跡から実際に書いたのは部下(というか秘書みたいなもの)であろうと推測されるという。
 秀吉が最初は「木下藤吉郎」と名乗り、やがて出世すると「羽柴秀吉」と名乗り出すことはよく知られているが、その時期についてはまだ曖昧。上記の「おんな太閤記」では秀吉が浅井長政を滅ぼす戦いの功績を認められ城持ち大名に出世した時点で改名する展開になっていたが、浅井滅亡は元亀四年=天正元年の9月のこと。実際にはそれより二か月ほど前の同年7月20日付の文書で「羽柴」と書かれた文書が確認されている。そしてこれまで「木下」名義で書かれた文書は前年の12月25日付のものが確認されていたが、今度の発見で木下から羽柴への改名時期は元亀四=天正元年の5月24日から7月20日までの二か月足らずの間にまで狭められたことになる。報道記事ではこの書状の直後の5月29日に秀吉が浅井氏との合戦に参加しており、その功績がきっかけで名を変えることになったのではないか、との推理が紹介されていた。
 もっともこの文書の存在自体は以前から知られていたそうで、その行方が分からなかったとのこと(古文書では割とよく聞く話である)。このたび豊岡市教育委員会と兵庫県立歴史博物館および東京大学史料編纂所が調査を行い、豊岡で名主をしていた家の関係者が住む京都市内の民家で6月上旬に発見(再発見)されたとのこと。

 全然違う話を「古文書」つながりで無理やり並記したが、まだまだ「知られざる史料」ってのは埋もれてるものだなぁ、と思うばかり。そんなこと書いてたら伊達政宗が秀吉に「遅刻」をわびる書状なんてのも出てきたけど、きりがないのでパス。



◆英王室がハイルヒトラー

 これもちと古い話題で、前回の「史点」更新直後に報じられたもの。7月18日にイギリスの大衆紙「サン」が82年前の1933年に撮影されたイギリス王室一家のホームムービーの1カットを一面に大きく掲載した。その1カットでは、イギリス王室一家がそろって右腕を斜め前方にまっすぐあげる「ナチス式敬礼」のポーズをしており、そこに「Their Royal Heilness」という見出しがセンセーショナルにかぶせられた。英語では「Their Royal Highness」で「国王ご一家」の意味になり、そこに「ハイル・ヒトラー」の「Heil(ハイル=万歳))」を組み合わせてダジャレにしたわけである。日本でやるなら「ナチス御用邸」かな(笑)。

 1933年当時、イギリス国王はジョージ5世だが、彼はこの映像に映っていない。映っているのは次の国王になるエドワード王子(エドワード8世)、その姪のエリザベス現女王(当時6歳)、その妹のマーガレット王女、姉妹の母親である後のエリザベス皇太后の四人。サンが公表した動画の方も見てみたが、10秒ちょっとの短いもの。その10秒ほどの短い間にこの四人が楽しげに「ナチス式敬礼」をしているのだが、一見した限りでは他愛のないホームムービーだ。撮影場所はスコットランドのバルモラル城と推定されるが、撮影者は明かされていない。状況からするとエリザベス女王の父でエドワードの弟であるジョージ6世(もちろん当時は国王になる可能性すら考えにくい立場だった)ではなかろうか、と思うんだが…
 
 現在も在位している人もふくめてイギリス王室一家が「ハイルヒトラー」をやっているという点では確かに穏やかならぬ話であるが、イギリス王室側は「当時のニュース映像などを見て無邪気に真似しているだけ」「誰もその後の展開は予測できなかった」と反論している。1933年はちょうどナチスが政権を獲得した年で、まだこの時点ではその危険性を警戒する声よりその急台頭に期待するムードが大きかったとも聞くし、イギリスでもちょっとしたナチブームであったのかもしれない。それで王室一家もちょっとノリで…ということはあるだろうけど、この映像にエドワード8世が映っていることが目を引いてしまうのだ
 1936年にジョージ5世が亡くなるとエドワード8世が跡を継いだが、直後に彼はシンプソン夫人との結婚を望んで王位を捨て(いわゆる「王冠をかけた恋」)、弟のジョージ6世が即位することとなる。これだけでも大変スキャンダラスな話だが、退位後「ウィンザー公」となったエドワードは何かと親ナチスの姿勢を示し、1937年には訪独してヒトラーに面会、行く先々で「ナチス式敬礼」をやっちゃったのだ。第二次世界大戦勃発後もナチス・ドイツとイギリスの和平工作仲介をはかったともされ、シンプソン夫人もナチスに情報提供をするスパイ活動をやっていたとも言われている。

 この映像が撮られた1933年段階でエドワード8世がどれほど親ナチスであったかはわからないが、後年そんなナチスとの関係を持ったことから今度の映像が何かと憶測を呼んでしまうわけ。もともと現イギリス王室は「ハノーバー朝」といったくらいでもともとドイツの出身、大英帝国最盛期に君臨したヴィクトリア女王も夫のアルバート(こちらは生粋のドイツ出身)とはドイツ語で日常会話をこなしていたとされ、かなり親ドイツ感情が強かったとされている。第一次世界大戦でドイツと敵同士になったことからイギリス王室はドイツ名の「ハノーバー朝」から「ウインザー朝」に改名したが、もしかすると第二次大戦直前の時期でも親ドイツだったんじゃ…と今度の映像に「疑惑」を覚えるイギリス国民は多いんじゃないかと。まぁもともと王室をいろいろネタにするお国柄ではありますけどね。
 余談ながら、我が国の皇室での「歴史的衝撃写真」といえば、現皇太子が「シェー」をやってる、というのがありますな(笑)。

 アップが遅れているうちに、「しまむら」が鉄十字勲章にハーケンクロイツをあしらったネックレス(?)を販売、指摘を受けて回収する騒ぎがあった。まぁ昔から日本ではナチスアイテムに寛容、というより鈍感なんだけど、デザインみる限りありゃ「そのまんま」だもんなぁ。
 


◆さらにややこしい中東情勢

 爆撃されてるとか脱走者が出ているとか、あれこれ言われながらも、「イスラム国」(IS)、まだまだ元気に活動中。ホントによく資金と人材が持つなぁ、と思うばかりなんだが、シリアやイラクに限らず、その影響を受けた勢力が各地で活発にテロ活動を繰り広げていて、先行きはまだまだ不透明だ。この記事書いているあいだにも、シリアの世界遺産パルミラを支配している「イスラム国」の連中が神殿爆破などの文化財破壊のみならず(イスラム教の廟まで破壊してるとか)、文化財を守ろうとしたベテランの考古学者を斬首してしまうという非道が報じられている。まったく「悪の限りを尽くす」というか、こんな絵にかいたような「悪の組織」ってのが存在するんだなぁ、とあきれてしまっている。

 そんな中、ここ一か月のうちに新しい動きが出てきた。これまで「イスラム国」に対して正面から敵対姿勢を示してこなかったトルコが、急に「イスラム国」攻撃の有志連合に加わってアメリカ軍に基地を提供、自らも軍事行動を開始したのだ。もともとトルコ政府はシリアのアサド政権を敵視していて、「イスラム国」についてはさすがに批判的ではあるものの「敵の敵は味方」な感覚なのか、特に強い姿勢を示してこなかった。だからトルコ国境から「イスラム国」支配地域に入り込む人も少なくないし、先ごろの日本人殺害事件でもトルコ政府が交渉ルートを持ってるんじゃないかとの見方もあったわけ。
 それがここにきて急に「イスラム国」への攻勢に転じたのは、「イスラム国」による国内へのテロ攻撃があったから…ということなのだが、実は事情は結構複雑。7月末以来の報道を眺めていて、その複雑怪奇ぶりが気になって、今更だが取り上げてみた。

 事の発端は7月20日、トルコ南部のシリアとの国境に近いスルチという町の文化センターで自爆テロがあり、32人が死亡、100人以上が負傷するという事件にあった。実はこのときその文化センターではトルコ・シリアにまたがる少数民族のクルド人たちの集会が開かれていた。スルチから国境を越えたシリア側にはアインアルアラブ(クルド名コバニ)という町があり、そこが「イスラム国」とクルド人武装勢力の争奪の場となったためスルチにはコバニからの避難民も多くいるという。そして6月以降「イスラム国」のコバニ攻撃がまた活発になったので、クルド人団体の主催で対策を話し合う会合が開かれトルコ国内のクルド人たちがスルチに集まっていたのだった。この自爆テロの犯人についてはいくつか異なる情報も流れたが、トルコ政府は最終的に「イスラム国」と連絡をとりあっていた二十歳のトルコ人学生であると発表している。

 それから二日後の7月22日、トルコ南東部のこれまたシリア国境にある町ジェイランプナルで、テロ対策担当の警官二人が殺害される事件が起こる。すわ、これも「イスラム国」か?と思っちゃったが、犯行声明はちと意外なところから出た。トルコ国内で以前から独立運動を展開しているクルド人武装組織「クルド労働者党」(PKK)が犯行声明を出したのだ。PKKの軍事部門はインターネット上で声明を出し、警官殺害は「スルチでの虐殺に対する報復」だと公にした。あれ?と思っちゃう話だが、PKKによればこの二人の警官は「イスラム国」の協力者であったというのだ。
 翌7月23日にはやはりシリアとの国境にあるトルコの都市キリスで、トルコ軍兵士たちがシリア側から銃撃され、銃撃戦で1人が死亡する事件が起きた。犯行声明などは出なかったが、銃撃がなされたのが「イスラム国」支配地域であったためトルコ政府は「イスラム国」の犯行と断定した。
 そして翌日の7月24日からトルコは対「イスラム国」の有志連合に加わり、シリア領内の「イスラム国」支配地域に空爆を行った。だがそれと同時にイラク領内のクルド人支配地域へも戦闘機を飛ばし、PKKの拠点にも爆撃を加えたのだ。トルコ政府はこの攻撃について「警官殺害に対する報復」としており、もう何が何やら。「イスラム国」攻撃の「ついで」というより、はた目にはこちらの方が主目的だったんじゃ…という気すらしてしまう。
 そして翌25日にはトルコ南東部ディヤルバクルでトルコ軍の車列に対し自動車爆弾による攻撃があり、トルコ軍兵士二人が死亡。犯行声明は出てないがトルコ政府はPKKによる「報復攻撃」とみなしている。

 「イスラム国」の撲滅を目指すアメリカとしては、ようやくトルコが腹を決めて協力してくれたことは喜ばしいだろう。しかし直接地上軍を送っていないアメリカはイラク国内のクルド人武装勢力を手ゴマとしてアテにしている。その手ゴマにトルコが攻撃をかけたのには正直困惑してるだろう。もともとトルコは国内で長らく「PKK」などクルド武装勢力に手を焼いていたから、イラク戦争後の混乱のなかでイラク北部が事実上の「クルド人国家」化することを強く警戒していたわけで、本音のところは「イスラム国」よりそっちの方が怖いと考えて今度の行動に出たのかもしれない。それでもPKKとは歴史的な和平路線をとったと一時は大々的に報じられ、「史点」でも書いたことがあるだけに、こういう展開はやはり残念。
 7月28日にトルコのエルドアン大統領は「PKKとの和平交渉の継続は不可能」と断言した。実はこの断言をしたのは訪中を前にしての記者会見の場で、直後の中国での首脳会談では「テロ活動には反対する」ことで意見の一致をしたと発表もしている。この直前にトルコでは、中国のウイグル弾圧に抗議して一部が暴徒化する騒ぎも起きているのだが(ウイグル民族はトルコ系で、トルコでは以前から同族意識が強い)、首脳同士の会談では互いに国内に抱える少数民族問題の姿勢で一致してしまったことになる。
 一部には、憲法改正による大統領の権限強化を目指すエルドアン大統領(トルコは大統領は形式的元首で、実権は首相にある。エルドアンさん自身も首相だった)が6月の総選挙で与党による単独過半数確保に失敗、クルド人政党への牽制や国内保守派の支持をとりつけるために今度の軍事行動を実行したんじゃないか、との見方も報じられていた。結局つい先日になって保守派との連立交渉が失敗、9月にまたまた総選挙をしなきゃいけない展開になるのだそうだが…。


 中東と言えば、長らくモメ続けていたイランの核開発問題が一応の「合意」を見ている。イランが「平和目的の核開発」に一定の制約をかける代わりにこれまでの経済制裁を段階的に解除していくということに決まり、内容があいまいだなどと安倍談話みたいなことも言われているが、ある程度あいまいにして玉虫色で「合意」するのは外交ではよくあること。ともあれアメリカのオバマ政権にとっては先日のキューバとの国交回復と並ぶ歴史的外交成果にはなる。イラン革命以来イランとアメリカは国交断絶が続いているが、現在は対「イスラム国」で一定の連携もしている関係でもあり、そんな事情も今度の歴史的合意につながってるみたい。合意が決まった直後に中国がイランに原発を建設する契約を結んでいるし、EU諸国でもイランの資源を求めて接近する動きもあって、結局はビジネスなお話になってくるようだ。
 しかしアメリカと密接な関係にあるイスラエルがこの合意に猛反発している。イスラエルとイランはかねてより不倶戴天の仇敵関係で、イランが核開発を進めたら(それが原発であろうと)イスラエルが直接的武力攻撃を勝手にやらかすのではないかと懸念されてきた。なにせイラクの原発を実際に攻撃した過去もある。それでもアメリカはどうにかイスラエルを抑え込んだよう「日本の帝国主義者らはわが国の標準時まで奪うという許し難い犯罪行為を敢行した」で無事に「合意」を実現したわけだが、イスラエルのネタニヤフ首相は「悪い合意だ」とケチョンケチョンにけなしていた。イスラエルはユダヤ人国家であり、アメリカの政財界にはユダヤ系が多くアメリカ政府を事実上裏から操ってる…といった現代におけるユダヤ陰謀論がしばしばささやかれる。それを全否定はできないのだが、それでも今やその影響力はこんなもんだ、ということでもある。特にオバマ政権はイスラエルの強硬派とは次第に距離をおくようになってきたのは確かで、いいかげんこの中東の駄々っ子をもてあましてる感もある。
 それでも無視はできなかったらしく…7月末になって、1985年にアメリカの元海軍情報分析官でイスラエル政府のためにスパイ活動を行ったとして逮捕され終身刑とされていたユダヤ系アメリカ人ジョナサン=ポラード(60)が11月に仮釈放されると報じられた。かねてよりイスラエル政府は彼の釈放をアメリカ政府に繰り返し要請していて、アメリカ政府もイスラエルとの取引材料として何度か彼の「利用」が検討されてきたという。今回の釈放はタイミング的にイラン核合意に怒るイスラエルをなだめるための「アメ」にしか見えないのだが、当然アメリカ政府は関係を否定している(笑)。



◆肯定はしない八月

 さて毎年のように「先の大戦」が話題にのぼる八月だが、今年は70周年の節目ということもあって一段と関連話が多かった。70周年といえば、当時10代の人たちも80歳を過ぎてしまうわけで、戦場そのものを体験した人はほぼ90歳以上になってしまっている。次の節目、「80周年」の時には戦争実体験者は残念ながらかなり減ってしまうはずで、リアルに当時を知る人が多数いる節目の年はこれが実質最後、と思うべきなのかも。
 その70周年に合わせて発表されることで注目されていた「安倍談話」だが、結論から言えば「まぁこんなもんか」といった内容。ま、確かに自身の言葉で語ってないとか日本の責任から微妙に一般論に話をずらしてるように読めなくもないとかいろいろツッコミどころはあるが、当初「村山・河野談話の上書き抹殺」を意図していたはずの安倍首相とその周辺の人たちからすれば「耐え難きを耐え忍び難きを忍び」の思いの内容だと思う。一時は閣議決定ではなく首相個人の言葉にするという話も出たし、注目キーワードになっていた「侵略」「おわび」の明記は避けるとの報道も一時出たが(「侵略はずし」報道を読売系メディアがまるで「牽制」のように盛んに流したのが興味深い。ナベツネお友達の中曽根元首相も「侵略」明言してたし)、結局は各方面に対して「いい顔」をしたような当たり障りのない内容となった(個人的には中国残留孤児のことなど相手国の「寛容」に感謝するくだりなんかはうまいこと考えたと思う)。一部でチラッと報じられていたが談話の内容は発表前にアメリカ大使館に照会していたともいい、やっぱり結局のところアメリカ様の御意向(御威光)が一番大きいようである。
 日本の保守、というより極右といっていいほどの人たちの多くにとって安倍首相ってまるで「天皇」みたいな存在らしい、と以前から書いているが、今度の「談話」の効果が玉音放送のそれを連想させた。あの内容でその手の人たちがほとんど不満を表明せず、中韓から「及第点」とみなされて大きな批判が出なかったことを「勝利」のように見出しをつけた夕刊フジよろしく、肯定的な態度すら多かったのだ。実際支持率はそれでいくらか回復したのだけど、それってやっぱり戦前肯定しちゃうと支持が下がるってことだよなぁ。

 そもそも本物の玉音放送が流れた敗戦時だって、日本人の多くがケロリと態度を変えている。先日、映画「日本のいちばん長い日」の新旧二作を一日のうちに立て続けに見たのだが、劇中で描かれる今日から見れば狂気にしか見えないほど本土決戦や抵抗を叫んでいた連中も、実際に降伏となったらあっさりおとなしくなっちゃったのである。そして「敗戦」を「終戦」といいくるめ、戦争指導に深くかかわったエリート層の多くが戦後もアメリカにすり寄る形でしっかり生き残って今も時々その本音を漏らしてしまうわけだが、今度の安倍版玉音放送も「この場をしのげればいい」といった程度のものに彼らの中では処理されてるんだろう。
 ところで本物の玉音放送だが、もちろん生放送ではなく前日夜のうちに皇居内で録音されたものだ。「日本のいちばん長い日」のメインテーマである8月14日の反乱「宮城事件」もこの「玉音盤」の奪取を狙ったものだったが果たせず、放送は予定通り行われた。この玉音報道の録音盤は正副二つ作られ宮内庁とNHKで保管されてきたが、経年劣化で再生不能と伝えられていた。テレビ番組などでおなじみの玉音放送の音声は敗戦直後にGHQが複製し、その作業に当たった人が保存していたものを基にしていてこちらもかなり音質が悪かった。宮内庁は昨年から保管している玉音盤のデジタル利マスター作業を進めていて7月中にその音声が公開されたが、さすがにこちらもブツブツと異音が入るものの(古いレコードでは避けられない)昭和天皇のあの独特の抑揚のある声はかなりクリアに聞こえるようになって、僕も耳にしてちょっと新鮮ではあった。

 その昭和天皇、「統治者」と憲法で定められていた戦前においても実のところ彼自身の意思を政治的に発動することはほとんどなかった。新作「日本のいちばん長い日」でもチラッと触れられていたが、戦前・戦中においてもイギリスの立憲君主の考え方から天皇は形式的な統治者であり本人の意思を出すのは事実上タブーとされていたのだ(天皇自身、「天皇機関説」支持者だったとされる)。それを「聖断」という異例の形でポツダム宣言受諾に持ち込んだのは、鈴木貫太郎首相らの思い切ったアイデアで、そうしなくてはいけないほど切羽詰まった状況でもあったわけ。
 もっとも昭和天皇自身が「意思」を発動したケースとして、二・二六事件もある。このときまさにその鈴木貫太郎も青年将校らに危うく殺されかかったのだが、鈴木の妻が昭和天皇の教育係、事実上の「育ての親」だった関係で、そのことに昭和天皇は激怒、情勢を自ら調べた上で反乱軍の断固鎮圧を指示したとされている。ついでに言えば、この事件の際に弟の秩父宮の関与が疑われていて、そのことでも天皇の意向があった可能性がある。

 さて戦後になって「象徴」と定められ、自らの意思はなおさら出さなくなった昭和天皇だが、やはり「意思」を示していたことを示す新事実がこのほど明らかとなった。秘密指定が解除されたアメリカの外交文書から、1971年6月の時点で当時の佐藤栄作首相がマイヤー駐日米大使との会談の中で、昭和天皇が「日本政府が蒋介石をしっかり支持するよう」佐藤首相に促していた、という事実が確認されたのだ。そういった意向があったこと自体はすでに日本側の記録からも知られていたが「陛下が心配している」といった程度の表現しかなく、今度の文書でもっと突っ込んだ強い「意思」を感じさせるものであったことが明らかになったのだ。
 1971年6月といえばアメリカのニクソン政権が中国と極秘に交渉しており、7月になってニクソン訪中を突然発表して世界を仰天させる直前だ。極秘の交渉だったとはいえ「米中接近」は一部で確実視もされてたらしく、最近でも中曽根康弘元首相(当時防衛庁長官)が当時佐藤首相に「アメリカはそういう豹変をやる国だ」と忠告し中国との交渉を進めるべきと進言したが佐藤首相は聞かなかった、という打ち明け話をしている。今度確認された外交文書によればマイヤー大使との面会前に佐藤首相が「中国台湾問題」について天皇に奏上を行った際、昭和天皇が「蒋介石は過去に日本に良いことを多くやってくれた」と述べて「蒋介石支持」の意向をわざわざ口にしたとされていて、佐藤栄作が中曽根ら周囲の声にも耳を貸さず台湾の蒋介石=中華民国の支持姿勢にこだわった背景に、もしかすると天皇の意向があったからでは、との疑いが出てくるのだ。しかしこの会談の翌月にはニクソン訪中が発表され、日本政府にはその発表のほんの数分前に「貴国との関係から事前に教えるね」と通知されるというひどい扱いを受け、佐藤栄作が激怒することになるのだった。

 しかし蒋介石と言えば日中戦争の「敵の大将」である。その人物に昭和天皇がそんなに恩義を感じていたというのもちょっと驚き。まぁ確かに蒋介石は日本敗戦後に共産党との内戦も経て台湾に逃れるという展開になったせいもあって、戦争の賠償請求の放棄など日本に対して寛大にふるまった事実はある。特に天皇個人としては蒋介石が「天皇免責」の姿勢をとった、ということにあるんじゃなかろうか…と思っていたら、直後にそれを裏付ける報道もあった。
 時事通信が8月2日付で報じていたが、台湾の外交文書や国民党の史料から、蒋介石が1945年9月に作らせた「戦犯リスト」の中に昭和天皇の名がなかったことが確認された。日本敗戦直前の6月の時点で中国国民政府は戦犯リストの筆頭に日本軍の「大元帥」である「日皇裕仁」(昭和天皇)の名を挙げていたが、実際に日本降伏となった直後にその名が消えていたことになる。これは恐らく終戦前から「天皇免責」の政治判断をしていたアメリカの意向も強く働いていたと思われるが(だから最近製作された映画「終戦のエンペラー」なんて大嘘なんだよね)、共産党との再対決を控えた蒋介石としてもそれを無視できなかったのだと思われる。台湾に渡ってからは日本の保守系勢力と結びついて産経新聞が蒋介石絶賛伝記本を出しちゃったりするわけだけど(笑)。もしかすると昭和天皇もその点については結構「恩義」に感じていたのかもしれない。
 天皇の「意思」といえば、最近今上天皇も割とちょこちょこ出してるような気もするな。8月15日の「おことば」もまるで安倍首相の埋め合わせをするかのように「反省」文言が入ってたし。


 台湾つながりで話をすると、現在台湾の馬英九政権は蒋介石から続く国民党であるわけだが、その国民党政権の意向で「歴史教科書問題」が起こっている。9月の新学年から導入される高校の学習指導要領が改定されたのだが、歴史教科書の内容が台湾と中国の結びつきを重視した、「中国寄り」な内容になっていると批判の声が上がり、7月23日には反対派高校生らが政府の教育部の建物に乱入し教育部長の執務室を一時占拠する騒ぎも起きた。いま日本の国会周辺でも高校生らのデモが話題になってるけど、台湾や香港のは結構実力行使型なんだよなぁ。
 ところで歴史教科書のどの辺が「中国寄り」と言われるのか言うと、報道で見た限りではまず「2.28事件」の記述が減った、が挙げられている。これは共産党に敗れた蒋介石国民政府が台湾に渡った直後の1947年の2月28日、国民政府支配に抵抗する台湾住民を国民政府が武力弾圧し、多くの犠牲者が出たもので、台湾では1980年代までほとんどタブーとされてきた事件だ。当然国民党にとっては暗部であり、日本の歴史教科書問題でもそうだが、為政者にとって都合の悪い歴史は教えたくないもの。
 ほかに僕も専門がら注目してしまったのが、鄭成功政権に関する記述。明末の海上勢力のリーダー・鄭芝竜と日本人女性の間に生まれた鄭成功は明から清への交代時期に明復興のために戦い、大陸反攻には失敗したものの台湾からオランダ勢力を駆逐してここに拠点を置いた。この鄭氏政権は康熙帝の時代に清に投降することになるのだが、日本では日本人の血を引くということで「国性爺合戦」のモデルにされるなど人気があるし、中国・台湾では明に忠節を尽くした点とヨーロッパ勢力に勝利したということに重点を置いて高く評価する。ただ中国では「台湾解放」、台湾では「大陸への反攻」と、それぞれの政府の意向を反映した英雄像が描かれてきた経緯もある。
 その鄭氏政権時代について、これまでの台湾の歴史教科書では「鄭氏統治時期」というタイトルがつけられていた。それが今度の改訂で鄭統治時期」と、わざわざ「明」の一字を付け加えたという。つまり鄭成功をあくまで明朝の一武将として扱い、中国との結びつきを強調したわけだ。鄭成功が明復興に必死になってたのはある程度事実なんだけど、なにせ父親からして海上勢力(海賊兼海商)の親玉だし、オランダ駆逐もマニラ攻略をした林鳳に通じるもので、王直以来の後期倭寇勢力の後継者としての性格が強いと後期倭寇専門の僕は思うんだけどねぇ。「明鄭」って言い方も初めて見る気がするし。


 さて先の大戦ネタに話を戻すと、7月末に三菱マテリアルが戦時中の鉱山における強制労働について、元アメリカ人捕虜や中国人団体に対して謝罪と補償を決定した、という話題もあった。
 戦時中の鉱山における強制労働といえば、つい先ごろ日韓間でも炭鉱の世界遺産登録をめぐって議論になった。あれ、結局当初予想した通りの落としどころに落ちたようにしか見えないのだが、何やら日本国内では土壇場で韓国がゴネたように報じられ(見方を変えれば日本がゴネたと言えなくもなかった)、「敗北」「国辱」みたいな声が多くて正直頭痛がしたものだ。強制連行自体は事実として日本政府もとっくに認めているわけで、その補償問題については「日韓基本条約」で解決済みとしているから今更それを持ち出されても困る、という懸念からああいうゴタゴタになったということ。ただ日韓基本条約自体が国家間の取り決めであって(それも現大統領の父親によるかなり非民主的な政権が相手)個人レベルの補償についてはあいまいにしてきた(これは中国相手でもそうだが)ことにも原因があると認識した方がいい。
 そんな騒ぎの直後に三菱マテリアルが米中で同時に「企業として」謝罪と補償をしたのにはいろいろと興味を覚えた。特にアメリカの方は元捕虜個人が対象だったが、中国の方は対象者3000人以上、しかも遺族も参加する複数の団体相手の合意だ。一応日中平和友好条約においてこの手の話の補償は解決済み、というのが日本政府の基本姿勢だが、三菱マテリアルとしては国際的に活動する企業として「スネに傷持つ」状態は避けたいという、商売上の動機から謝罪と補償に応じた。戦後補償としては最大規模となるそうで、日本政府は今後各方面に影響が出る可能性もあるから牽制していたようなのだが、それもはねつけて下した決断は評価していいと思う。ただアメリカと中国だけは認めて、なんで韓国は?という話にもなるわけ。韓国の場合は当時「日本国民」として国家総動員の名のもとに強制連行されてるから、同列に扱うのは難しい…ということみたいだけど。


 強制からの連想で、「特攻隊」をめぐってこんな話題も。
 特攻隊の出撃基地となった鹿児島県知覧のある南九州市が、ナチスのアウシュビッツ強制収容所があるポーランドのオシフィエンチム市と友好交流協定を結ぼうと話を進めていたら、土壇場のこの7月末にお流れになってしまう、という事態が起こった。もともとこの話はオシフィエンチム市側から「悲惨な過去を後世に伝える責任がある点で共通している」と呼びかけられ、南九州市側がそれに乗った、という発端だったという。西日本新聞の記事によると、南九州市は特攻隊員の遺書の世界記憶遺産登録を目指していて、その後押しになるという期待もあったし、市長自身「特攻を広く発信することで『狂信的』といった海外の評価を変えたい」という希望も持っていたという。話は順調に進んで、9月にはオシフィエンチムの市長が南九州を訪問して友好交流協定を結ぶことになっていた。
 ところがこれが7月中旬に報道されると、南九州市に全国から批判の声が、電話やメールなど130件ほど押し寄せてきた。批判の趣旨は「特攻隊を冒涜している」というもので、詳しい内容は記事に出てなかったが、ナチスの犯罪の象徴であるアウシュビッツと特攻隊基地が同列に扱われると、特攻隊が「戦争犯罪」と扱われる、という声が多かったのだと思われる。さらに言えば、日本はナチス・ドイツと同盟関係にあったわけで、そこを蒸し返されるといやだ、という気分もあったように感じる。
 なぜか今なお「特攻隊」は美化され続けている。戦中はもちろんだが戦後もその気分は濃厚にあり、最近でも特攻隊映画が当たってしまうなど、どうも日本人は自己犠牲のセンチメンタリズムに弱すぎる気がする。実態を言えば自己犠牲のような演出をかぶせた、軍事的にほとんど無意味な精神論優先の愚劣な作戦としか言えず、知覧の記念館の特攻隊員たちの写真が壁に並ぶ光景はアウシュビッツで虐殺されたユダヤ人たちの写真が並ぶ光景とよく似ているのは確か。特攻隊員を愚劣な作戦の犠牲者とみなせばアウシュビッツと並べた展示も十分にアリだと思うのだが、あくまで特攻隊は自分の意思で「お国のために」と散っていった、という美談に酔いたい向きには許しがたい、と感じるのだろう。一方で記事では元特攻隊員(出撃直前に中止になって命を拾った人)の意見も出ていて、その人は「命令一下で死んだ隊員も戦争被害者であり、特攻と虐殺が同一視されかねない協定には違和感がある」という観点から批判をしていた。う〜ん、友好協定は「戦争被害者」という観点で同一視してるように思うんだけど。
 一部に賛同意見も来ていたというが、「これほどの反発は予想しなかった」として7月27日に南九州市はあえなく協定締結断念を発表、訪問が決まっていた先方の市長にもおわびとお断りを伝えた。先方に対してもずいぶん失礼なことをしてしまったと思うし、日本もまだまだ「戦中脳」な方々が多いのだなぁとため息もつく。最近でも「戦争反対は利己的」とか言ってて、自分は未公開株ばなしの詐欺まがいなことをやって「離党」のみで逃げた国会議員もいたしなぁ。


 そんな「戦中脳」のひとつではあるまいか、と僕が思ってしまったのが、6月に下村博文文部科学大臣から国立大学に出された「「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通知だ。そこでは「特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする」とあり、要するに教育学部や人文社会系の学部は「人材需要」が低いからより要請の高い分野(主に理系を指すと思われる)へ転換するなど見直しをしろ、と「お達し」をしたわけだ。これは事実上国立大学に文系学部はいらないと言ったようなもんじゃないのか、と日本学術会議が抗議声明を行う事態にもなっている。
 僕などはこの話を聞いて、「ああ、発想が学徒出陣と一緒だな」と思った。本来徴兵が先送りになる大学生らが戦局悪化の人手不足により学業中断のうえ徴兵されたのが「学徒出陣」だが、それはもっぱら「役に立たない」とみなされた文系学生ばかりであった。理系学生は発明など「役に立つ」とみなされて対象から外されたのである。そして学徒出陣を実施した直後に東條英機内閣が閣議決定したのが「教育ニ関スル戦時非常措置方策」というやつで、そこでは「理科系大学および専門学校は整備拡充するとともに、文科系大学および専門学校の理科系への転換を図る」という一文があるのだ。ね、発想がソックリでしょ?
 僕自身文学部史学科なんて「人材需要」がえらく低い学科の出身なんで良く分かるが、そりゃまぁ文学部で学ぶことなんて世間で直接的にはそれほど役にはたつまい。実のところ就職にも不利としか言いようがなく、予算だってそんなに割いてもらってるわけではない(もともと書籍代くらいしかかからない分野だけどね)。それでなくてもなんとなく肩身の狭い立場なんだが、そこへ文科省自身がこんな通達をしてくるとは世も末だな、と思う。内田樹さんだったか、この方策は国を亡ぼす、って書いてたな。実際前例があるわけだし。そもそも戦中だって文系大学生の数なんてたかが知れていて、「学徒出陣」もたぶんに精神論を意図した政策だったという見方もできる。
 だいたい下村文科相といえば安倍首相の腹心とされ、いくつかスキャンダルも報じられたが不思議と身の安泰が保たれている。その主張もおおむね安倍さん周辺によく見られる復古調意識の強いもので、おまけにこの人が大臣になって以来、STAP細胞や江戸しぐさ、EM菌などオカルトな話に文科省が次々とコミットしており、最近騒がれた新国立競技場問題でもおもいっきりミソをつけている。そこへこれだもん、意図して亡国してるのでないならただのバカだろう。


 8月になると第二次大戦がらみの「新発見」ニュースが集中するが(それってとっくに分かってて時期を見計らってるんだよな)、産経新聞は「ソ連が対日参戦時に、宣戦布告の公電を意図的に遅らせて不意打ちにした」というネタを、それからちょうど70年目になる8月9日に報じている。どういうことかというと、8月8日午後5時にソ連は佐藤尚武日本大使に宣戦布告を通達、本国への打電を許可して佐藤大使も午後6時にモスクワ電信局から打電したが、それは日本側には送られなかった。それはソ連当局が意図的に封鎖していたものだった、要するに「だまし討ち」をするためであり、日本が「事故」から対米宣戦布告が真珠湾攻撃のあとになっちゃって「だまし討ち」の汚名を着せられたが、こっちの方が明白な「だまし討ち」だ!ってのが記事の趣旨である。
 記事によるとそれはイギリスの国立公文書館にある秘密文書から明らかになったという。その秘密文書とは8月9日に日本外務省がアジア各地の公館に向けて「ソ連参戦」を知らせた暗号電文をイギリス側が解読したもので、そこでは「ソ連が宣戦布告したが正式な布告文はまだ届いていない。その内容はマスコミで報じられた」という内容があり、日本外務省もソ連参戦を報道で知ったことが確認できる。どうも記事を読む限り「新発見」なのはこの文書だけのようで、あとは外務省が編纂した資料からモスクワからの打電がなかったことを確認して「ソ連がだまし討ちした」という結論にもっていっている。
 まぁ大筋で間違ってはいないのだろうが、たぶんとっくに知られていた事実だろう。産経的には「リメンバー・パールハーバー」の話とつなげて日本無罪、ソ連が悪い、という方向に持っていきたいという意図もあろう。ただ真珠湾攻撃の時も軍部が外務省に横やりを入れて可能な限り宣戦布告を遅らせるよう圧力をかけてた事実があるし、逆にソ連の宣戦布告の直前にも佐藤駐ソ大使や外務省関係者、一部の在外軍人らがさんざん「ソ連の参戦確実」と報告していたのに(日ソ中立条約だってあるにはあったが直前に延長を拒否されていた)、「ソ連を仲介して有利な講和にもっていく」という甘い夢を見ていた軍部がそれを無視し続け、関東軍も対ソ防衛をかなりおろそかにしていたわけで、正直なところ「だからなに?」と思う記事でもあった。


 先の大戦がらみの話の最後は、意外にも北朝鮮の話。
 朝鮮半島にとっては「解放70周年」となる8月15日、北朝鮮はそれまで日本と同じにしていた標準時を30分遅らせることになった。これまでは日本と同じく東経135度を標準時子午線としていたが、これからは東経127度30分を標準時子午線とし、これを「平壌時間」と名付けることにしたという。
 調べてみたらそもそも1908年の時点で朝鮮半島は日本より30分遅い標準時を採用していた。当時は「大韓帝国」だったが「韓国統監府」に外交権を握られた半植民地状態だった。その後1910年に「韓国併合」が行われると朝鮮半島も日本と同じ標準時に組み込まれることとなる。では日本が敗北して独立したら戻したのかというと南北ともにそうではなく、北朝鮮はずっとそのまんま、韓国は1954年に30分ずらすことにしたものの結局1961年にもとに戻した経緯がある。日本の標準時の位置からすると確かに30分くらいずらしたほうが実情にあってるようにも思うのだが、韓国に関しては日本との関係から戻したんだろうか?逆に北朝鮮がずっとそのまんまになってたというのも面白い。
 今回の「平壌時間」実施について、朝鮮中央通信は「日本の帝国主義者らはわが国の標準時まで奪うという許し難い犯罪行為を敢行した」と述べ、この平壌時間が植民地支配の負の遺産から脱却するものと高く評価するようなことを言ったらしい。しかしそうなると70年間「日本の標準時」のままにしていた偉大なる首領様や将軍様の立場はどうなるんだよ、とツッコんでしまう(笑)。実は韓国でもこの「30分ずらし」案が一部で主張されてたそうだが、北朝鮮に先にやられてしまうと後追いしにくいだろう。実際韓国政府は北朝鮮の一方的な実施に抗議してるそうだし。
 一方の日本は「ゆう活」などという、なぜか一部にやりたがってる人が多いサマータイム導入の先触れみたいなことをやってるが、これだって一度導入してやめた経緯があったはず。サマータイムってのも第一次大戦時に「効率をあげる」ために導入した戦時体制由来なんだよなぁ。


2015/8/26の記事

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