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2015年9月18日

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◆今週の記事

◆怒れ太宰

 太宰は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の選考委員を除かなければならぬと決意した。太宰には選考がわからぬ。太宰は、新人の作家である。留年を繰り返して退学になったり、女と心中未遂したり遊んで暮して来た。けれども人の評価に対しては、人一倍に敏感であった。
 芥川賞の発表も間近かなのである。太宰は、それゆえ、薬品代の借金が返せると考え、はるばる東京にやって来たのだ。待っているうちに太宰は、受賞の知らせがこない家の様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、家の暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、家全体が、やけに寂しい。のんきな太宰も、だんだん不安になって来た。廊下で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、今度できた芥川賞の受賞者は私であった筈だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて佐藤春夫に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。佐藤は答えなかった。太宰は両手で佐藤のからだをゆすぶって質問を重ねた。佐藤は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「川端様は、人を落とします。」
「なぜ落とすのだ。」
「作者の生活に嫌な雲があり、才能が素直に発していないというのです」
「おどろいた。川端様は乱心か」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、小説家の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、小鳥を飼い、舞踏を見るよう命じて居ります。御命令を拒めば選考で難癖をつけて、落とされます。きょうは、太宰さんも落とされました。」
 聞いて、太宰は激怒した。「呆れた川端だ。生かして置けぬ。」

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 …ご存知、「走れメロス」の冒頭部分をパロッてみたが、太宰治自身が当時、自分を落とした川端康成に対し公開詰問文の中で「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。さうも思つた。大悪党だと思つたなどと物騒なことを書いているのを読むと、太宰も結構激怒メロス状態になっていたなと実感しまう。

 時に1935年(昭和11年)。今年も「芸人作家」の受賞で大いに注目を集めた「芥川賞」の第一回受賞者が決定した。受賞したのは石川達三だったが、その後の知名度では石川より圧倒的に高くなる太宰治も有力候補の一人だった。芥川賞と言えば「新人」が対象であり、当時は太宰もデビューしたての「新人」だったのだ。だいたい芥川賞とるような人たちというのは学生時代から注目されてる例が多く、太宰もそのクチだったのだが、早くも心中未遂事件を起こしたり留年を繰り返して東大を退学になるなど、いろいろと「問題児」でもあった。その生き方自体が直接問題視されたわけではないのだが、選考委員の川端康成は「作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあつた」との「私見」を述べて、その「生活」が作品に影響していると批判した。これに太宰は激怒したわけだ。

 言うまでもないが、「芥川賞」は芥川龍之介の名を冠している。大正時代を代表する作家であった芥川龍之介は1927年(昭和2)、35歳の時に睡眠薬を大量に飲んで自殺した。そして1934年(昭和10)に直木三十五が43歳で病死。その翌年に二人の共通の友人であり「文芸春秋」の創始者であった菊池寛が「芥川賞」「直木賞」を創設し、前者は純文学、後者はエンターテイメント作品を対象として事実上日本でもっとも権威ある文学賞として長い歴史をつづることとなる。余談ながら、芥川に比べると直木三十五の方は圧倒的に知名度も低く作品もあまり読まれてないのだが、南北朝マニアな僕としては直木が書いた中編「楠木正成」「足利尊氏」の二作は戦前に書かれた南北朝歴史小説として注目すべき作品だと思っている(尊氏を肯定的に描いた「足利尊氏」は検閲で大幅削除されたうえ結局未完に終わった)
 今でこそ「国民行事」のような騒ぎになる芥川賞だが、当然第一回の当時はそれほど注目されたわけでもないと思う。しかし太宰はその受賞を熱望した。彼自身大変な芥川マニアだったそうだし、当時の「新人」の中で自分がもっとも評価されるべき、という自負もあったのだろう。またパビナール中毒症の治療のため薬代で苦労しており、賞金500万円を切望していたとの見方もあるみたい。
 だが、太宰は落ちた。太宰はどうも自身の受賞が「内定」していると勝手に思っていたらしく、落選したのは川端康成の介入のせいだと思い込んだ。上記の「刺す」という物騒な言葉に続けて、川端が自分に対して「ひねこびた熱い強烈な愛情」もしくは「ドストエフスキーふうの激しく錯乱した愛情」を抱いている、とまで書いていて、ほとんどストーカー並みの愛憎表現(その表現がまた、さすが太宰なんだけど)。太宰としては川端なら自分を理解してくれるはず、と思っていたのに、何か背後関係があって川端が太宰を落とす動きをした、それを川端がごまかしていると妄想をめぐらせていたようである。さすがに川端もすぐに「根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と反論、実際の選考では太宰は石川に比べて決して有力ではなかったと暴露している。

 こういうすったもんだを、人目にさらした雑誌誌上でやってしまうと、「芥川賞がなんだ〜!」と否定的態度をとるパターンもあると思うのだが、太宰は相変わらず芥川賞を熱望した。続く第2回でも受賞を目指して新作を文芸春秋に送り付けたが、選考が予定されていた時期に「二・二六事件」(1936年2月26日)が起こったため選考中止となってしまった。そして続く第3回選考に向けても太宰は熱心に運動し、師匠筋の佐藤春夫のみならず、先回の選考で激しく罵倒した川端にまで「何卒(なにとぞ)私に与へてください」と懇願する手紙を送っている。受賞候補者が選考委員に「自薦」運動しちゃうというのもかなり問題だと思うのだが、川端にまでなりふり構わず懇願してるところをみると、本気でほしくてしょうがなかったのだろう。また、始まったばかりの芥川賞なので、今日と比べると権威もまだまだで、太宰としては文士業界の仲間内でくれる賞、くらいに思っていたのかもしれない。
 太宰は結局受賞を逃したのだが、こうした運動がかえって裏目に出たのかもしれない(連想だが、ジョン=ウェインが自作「アラモ」がアカデミー作品賞を受賞すべきと意見広告出して総スカンを食った例がある)。第3回をやるころには太宰はもはや「新人」とは言い難かったし、前回候補者、とくに集票が低かった候補者は候補者にしないという内規が当時あったそうで、太宰はそれにひっかかったようでもある。

 以上の話、別に新たに判明した「新事実」というわけではない。と書きつつ、僕はこれまでほとんど知らなかったが(笑)。以上の顛末は佐藤春夫自身が登場人物を実名にした小説仕立てで暴露しているのだそうで。ただその「小説」のなかで、太宰が佐藤に送った手紙に「伏して懇願」とまで書いていたとしていることについては、その部分をふくむ手紙の実物が発見されていなかったため、「佐藤の創作では」との意見も出ていたというのだ。
 9月7日、実践女子大の河野龍也准教授が記者会見を行い、佐藤春夫の遺族が管理する資料を調査するうちに、太宰から佐藤に送られた手紙3通を確認したと発表した。特に注目されたのが1936年1月28日付の、4mもの巻物に毛筆で書かれた長文の手紙で、「第二回の芥川賞は、私に下さいまするやう、伏して懇願申しあげます」という箇所があり、これで「佐藤の創作」説は完全否定されることとなった。さらに同じ手紙のなかで太宰は「芥川賞は、この一年、私を引きずり廻し、私の生活のほとんど全部を覆つてしまひました」とぼやきつつ、「こんどの芥川賞も私のまへを素通りするやうでございましたなら、私は再び五里霧中にさまよはなければなりません。私を助けて下さい。佐藤さん、私を忘れないで下さい。私を見殺しにしないで下さい」と、ほとんどストーカーまがいの懇願を繰り返していた。いやぁ、こんなの受け取っちゃったら、佐藤春夫も本気で怖くなったんじゃあるまいか(汗)。
 もっとも受賞できなくても太宰が無茶な行動をした様子はないので、悔しくはあっただろうが、それなりに落ち着いて受け止めたのかもしれない。天才とナントカは紙一重、なんて言葉もあるように、優れた創作者ってのは感受性も自信も人並み外れてるってことなんだろう。またこうした作家たちはある意味感受性が強すぎちゃうためか、芥川は睡眠薬自殺、太宰は入水心中、その太宰を「嫌い」と面前で言い放った三島由紀夫はクーデターを呼びかけ割腹自殺、その三島の師であり太宰ともいろいろあった川端康成もガス自殺(事故説もあるけど)、と「作家自殺の系譜」を編んでもいる。
 
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「太宰、君は、プライベートまでまっぱだかじゃないか。早くその手紙をしまうがいい。この可愛いファンの皆さんは、太宰の煩悩を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
 太宰は、ひどく赤面した。



◆スーパー変人?

 ここ最近あった「発見話」をひとまとめ。

 イギリスにある巨石構造物遺跡「ストーンヘンジ」は有名だが、そこから少し離れた地点の地下に「ストーンヘンジ」をはるかに超える規模の環状列石遺跡が埋まっているのを確認した、とイギリスのブラッドフォード大学が9月7日に発表した。ここ数年間、研究チームが特殊なレーダー装置や磁気センサーを使った地価調査を進めており、その結果、最大4.5mもの巨石が100個ほど連なっている証拠を発掘なしで確認したというのだ。その大きさは半径500m、円周1.5kmに及び、「スーパーヘンジ」と呼ぶことになってるそうで。
 このニュース、大きく報じられているんだけど、実はちょうど一年前にも「史点」でとりあげていた。その時は「この手の話はしばらく様子見」と自分でも書いてるんだけど、とりあえず今度の発表を見る限り調査チームは確実なものとして鼻息を荒くしている様子。そんなデカいものを、推定4500年も前にどうして作ったのか、なぜこの地域なのか、と謎はますます深まってしまう。
 一部の報道によると、この「スーパーヘンジ」の一部の石材が「ストーンヘンジ」に再利用されたんじゃないか、との見解もあるとか。それって先史時代の「遺跡破壊」ってことにもなるんじゃないかと(笑)。


 9月10日は、南アフリカで新種のホモ属化石を発見したとのニュースが報じられた。南アのウィットウォーターズランド大などの研究チームによる調査が2013年から2014年にかけて行われ、南ア北東部の洞窟の最深部から15体分、1550個(アフリカでも最大数の発見とか)の骨の化石を発見したというのだ。研究チームはこれらの化石は初期のホモ属、つまりは我々につながる人類のルーツともいえる段階の新種だと分析し、洞窟の名前から「ホモ=ナレディ」と命名している。「ホモなレディ、ってどういうこと?」という声が日本のネット上では飛び交っていたが(笑)。
 この「ホモ=ナレディ」は男性が身長およそ145cm、体重がおよそ40〜56kgほどで、女性はそれよりやや小さかったという。脳の容量は513ccくらいでアウストラロピテクスよりはちょっと大きい(ちなみに現生人類は平均1350ccほど、アウストラロピテクスは400cc台)。肩の形や指の曲がり具合などはアウストラロピテクスに近いが、手足の形はむしろその後の人類の形に近くなっているとか。生息年代は特定できなかったが、研究チームはアウストラロピテクスからホモ属への途中経過、ホモ属の最初期の種と判断しているみたい。だが異論も出ているようで、僕が見かけた記事でも日本の研究者による「新種」に肯定的な意見と、「これまで見つかったものの範疇では」と新種扱いに否定的な意見との両方が出ていた。
 なお、この「ホモ=ナレディ」はかなり長い洞窟の最深部で発見されたため、研究チームでは「死者を洞窟に『埋葬』した可能性もある」と推測してもいるらしい。いやいや、これは危ないんじゃないかな。かの「旧石器捏造事件」の折にも「墓」だの「儀式の場」だのといったものが「発見」されており、「原人段階でそんな精神性があるとは思えない」と批判する声もあった(残念ながら大きな声では上がってなかったが)、という前例があるもので。原人よりもっと前の話なんだからね、これ。


 「発見」ではなく「発見手前」のような話も。古代エジプトにおいて一神教の宗教改革をしたことで名高いアメンホテプ4世(=イクナートン)の王妃ネフェルティティの未発見の墓について、それは黄金のマスク発見で名高いツタンカーメン王の墓の「中」にあるのでは?というビックリするような仮説をイギリス人の考古学者が言い出したのだ。元ネタはCNNが報じたもの。
 古代エジプトのファラオの中でもイクナートンは変わり種で、特にキリスト教徒欧米人にとっては「一神教のルーツ」ということもあって昔から関心が高い。その王妃であるネフェルティティもセットで関心の対象となっており、特に彼女の姿を現した胸像で見事なものが残っていてこれがまた確かに美女なものだからなおさら注目を集めている(もっとも胸像内部にもう一つの像があり、実像を美女に「整形」したという疑惑もある)。このネフェルティティの胸像がドイツの博物館に収蔵されていて、エジプト政府が返還を求めている、なんて話題もあった。それだけ有名なネフェルティティなのだが、史料的には突然記録が途絶えるなど謎が多く、彼女の墓やミイラも未発見のままだ。2003年に彼女のミイラとされるものが「発見」されたこともあるが、エジプト考古学当局により否定されている。
 さてツタンカーメンはイクナートンの息子だが、母親はネフェルティティとは違う女性(イクナートンの実妹らしい)とされる。ツタンカーメンの妃はイクナートンとネフェルティティの娘、つまり腹違いの姉妹であった。こうした近親婚は王族の「血」を守ろうとする発想で、古代日本の皇室など世界中にみられるものだが、イクナートンは即位後に父イクナートンの宗教政策を全部ひっくりかえすという「業績」だけ残して十代のうちに死去している。そんなファラオでも盗掘をほとんど受けなかったその墓が1922年に「王家の谷」で発見されると世界が仰天するほどの内容だったわけだ。
 そのツタンカーメンの墓の高解像度の画像を調査したアリゾナ大の考古学者ニコラス=リーブス氏は墓室の壁の西側と北側に「割れ目」があるのを見つけた。リーブス氏はこれが隠された部屋への入り口ではないかと推測し、その一つに未発見のネフェルティティ墓があるかもしれない、と主張している。補強材料として、ツタンカーメン墓室がファラオにしては小さく構造も不自然とされること、出土品にツタンカーメンより古い時代のものがふくまれることなどを挙げて「もともとネフェルティティの墓だったものをツタンカーメン用に改造したのでは」との意見を出しているとのこと。
 「隠された墓室」なんてのがホントにあったら、それこそ大発見だが、確認するには「非破壊検査」でもやるしかない。エジプトの考古相はリーブス氏の説に興味は示して連絡をとるとしつつも、「信頼性を高めるためにさらなる調査・研究が必要」と発言していた。
 エジプトと言えば、つい先日、IS(イスラム国)勢力を追いかけていた軍がメキシコ人観光客たちを「誤爆」してしまうという事件があったくらいで、3000年以上も前の人の墓の話にまで気が回らないような気もするなぁ…


 これも「発見前の話なんだけど、ポーランドから「ナチス財宝列車発見?」ってな話題が報じられた。現地ではそれこそ大騒ぎになってるらしいんだけど。
 ところはポーランド南西部、チェコとの国境に近いワウブジフという町。ここはナチス占領期に捕虜などを使って多くのトンネルが掘られ、空爆を避けて兵器製造を行う拠点とされたことがあったという。そして大戦末期、ソ連軍が迫る直前にドイツ軍が略奪した大量の財宝(200億円相当とか)を軍用列車に詰め込み、地下トンネル内に埋没させたとの「伝説」が地元では語り継がれていたのだそうだ。この伝説に基づいて多くのトレジャー・ハンターたちが捜索に挑んだが、これまで発見されないままだった。
 ところが最近、ドイツ人とポーランド人のトレジャー・ハンターが、70年前に列車埋没にかかわった人物の臨終の床で埋没場所を聞き出すことに成功、その情報に基づいて旧市街地付近の地下トンネルをレーダー探知で捜索した結果、120〜160mの装甲列車の影(旋回砲塔が確認できるという)を発見した。彼らは早速ポーランド政府に届け出をし、実際に発見されたとなれば財宝自体はポーランド政府が接収するが「拾い主」ということで10%は受け取れることになる。伝説で伝えられる額が本当なら20億円くらいもらえることになるわけだ。
 とりあえず政府関係者ではジュコフスキ副大臣という人が「列車が地中にあることは99%間違いない」と発言、これを受けて「財宝列車発見」の可能性はにわかに高まり、世界的なニュースとなった。ただ場所を明確にすると勝手に掘ろうとするやつが出そうだし、周辺に不発弾や地雷がある可能性も高いとして正確な場所については伏せられたままだ。ともかくポーランド政府がこれから綿密な調査を始めることになる。
 この手の「軍が残した略奪財宝」ばなしといえば、フィリピンで忘れたころに再発する「山下財宝詐欺」が連想される。旧日本軍の埋蔵財宝ということでは以前タイで首相までが乗り気になってしまって結局空振りに終わった事件もあった。もっと古いネタでは群馬県の「徳川埋蔵金伝説」なんてのもあるし…経験則からいうと今度の話も「伝説」に終わるんじゃなかろうか、と思いつつ注目はしている。
 


◆宗教とお仕事の兼ね合いで

 つい先日、東京入国管理局で、収監中のパキスタン人のイスラム教徒にうっかりベーコン入りのサラダを食事に出してしまい、食べる直前に気付いた当人が抗議のハンストに入ったとのニュースがあった。イスラム教徒にとって豚肉は絶対にタブー、というのは結構広く知られていて、入国管理局でも日頃から気を付けてチェックしていたらしいのだが、サラダということもあってかチェックが甘かったらしい。同様のケースは前にもあった覚えがあるし、国内で亡くなったイスラム教徒をうっかり火葬にして問題になったこともあった。
 日本人は良くも悪くも宗教的には寛容というよりいい加減なので、この手の話にピンとこないところもあるが、海外では結構面倒くさい話になる、という実例ニュースを三題。


 最近アメリカでは「同性婚」が合法とされて話題を呼んだが、この国はそういうのを絶対に認めない宗教保守勢力(もちろんキリスト教)がかなり強い国でもある。もちろんその手の保守勢力が昔ほど強くなくなってきたからこういう動きが出てくるんだけど、かえってここが踏ん張りどころと熱烈に頑張っちゃう人も出てくるようで。
 ケンタッキー州ローワン郡の女性書記官が、同州で同性婚が認められた6月以降、「聖書とキリストの教えに背く」として同性婚の届け出の受理を拒否するという挙に出た。彼女は訴えられ、連邦地裁からも届け出を受理するよう命じられたがそれも拒否して最高裁まで争った。最高裁でも主張が退けられると「神の権限により」としてあくまで届け出受理を拒否した。とうとう9月3日に「法廷侮辱罪」を理由に身柄を収監される事態となった。
 結局8日なって彼女は釈放されたが、それは彼女の仕事を代行した職員が同性婚の届け出受理をしているので業務的に支障がないから、ということみたい。釈放するけどその業務の妨害は禁じるとの命令付きでの釈放なのだ。それでも彼女の釈放を歓迎する支持者が押し寄せ、彼女は「皆さんに大変感謝します。神に従う人たちがこうして立ち上がってくれた。神の栄光をたたえたい」とまるで勝利宣言みたいにスピーチしていた。当然彼女を批判するデモ活動も行われているのだが、彼女を支持する人々もかなり集まっているようで、来年の大統領選に出馬しようとしている共和党候補の何人かも支持表明をしているという。
 とりあえずこの人の信仰と行政事務を両立させるには信仰が絡んでくるような部署に配置しないことかなぁ、とも思うのだが、本人はやっぱり元の地位に戻って同性婚阻止を実行する気マンマンみたいなんだよね。


 同じくアメリカの、エクスプレスジェット航空では、客室乗務員のイスラム教徒が信仰と仕事の問題で職場でトラブルになっている。
 CNNに出ていた記事だが、くだんの客室乗務員は3年前からエクスプレスジェットに勤務しているが、2年前からイスラム教に入信した。そして今年に入って「イスラム教徒は酒を飲まないだけでなく、他人に酒をすすめてもいけない」と知り、上司に相談。上司は理解のある人だったようで客から酒類の注文があった場合には他の客室乗務員に代わってもらえばいい、という指示を出した。それで2か月近くは問題なく業務ができていたようだ。
 ところが8月になって他の乗務員から「仕事をちゃんと果たしていない」とクレームがついた。おまけにこの人が「外国語の本を持ち、スカーフを巻いている」ことについてもクレームがついたという。スカーフといえばイスラム教徒の女性が基本的にかぶることにしている国が多いし、外国語の本というのはたぶんアラビア語のコーランか何かではなかろうか。記事中にはなかったが、見るからに「イスラム教徒」な客室乗務員がいることに「テロ」と結びつけて不快がる乗客のクレームがあった可能性も感じる。
 結局8月末になって会社側は「宗教的配慮を停止する」と通告、彼女を無給の休職処分とした。さらに解雇の可能性も示唆されたため、彼女は9月1日に雇用機会均等委員会に職場復帰と宗教的配慮の復活を求める申し立てを行った。結果がいつ出るのかはわからないが、「筋」からいくと彼女の要求が通りそうな気がする。特に最初にあった上司の配慮なんかは適切だと思うし、イスラム教徒とわかる外見についてだって客なり乗務員なりの理解を求めるしかないだろう。
 興味深いのは、この人がほんの2年前にイスラム教に改宗している、という事実だ。アメリカだとむかし「ブラック・ムスリム運動」なんてのもあって黒人の一部が白人への対抗上イスラム教に改宗したこともあったが(マルコムXたボクサーのモハメド=アリなど)、この人の人種については記事ではわからない。何がきっかけでイスラムへ改宗したのか、知りたいところだ。それとイスラムと言えば「禁酒」という国も確かに多いが、コーランの解釈の問題で本来は明確に禁じてるわけでもなかったはず。人にすすめるくらいは…とも思うのだが、最近改宗した、って人ほど「敬虔」になりやすいものであるし、彼女の属する宗派がそうなのかもしれない。


 インドのムンバイでは、この9月中に合計4日、「家畜の屠殺および肉類の販売を禁じる日」を設けることが決定された。さすがは仏教の故国インドと一瞬思っちゃったが、これ、実はジャイナ教徒の運動によるものだという。元ネタはロイター記事。
 ジャイナ教は日本ではとんとなじみがないが、実は仏教と同じ時期にインドで始まった古い宗教である。創始者はお釈迦さまと同時代人のマハーヴィーラと伝えられ、仏教以上に徹底した不殺生の戒律で知られている。その徹底ぶりは有名で、動物類を食べないだけでなく、植物も生物だからと球根類は口にしない。さらには吐く息で虫を殺しちゃいけないってんで鼻と口を覆うマスクをつけるほど(余談だが映画「敦煌」でこのカッコをした僧侶が出てくる。もっとも仏教徒設定だったが)
 ジャイナ教は古代バラモン教への批判として生まれた点は仏教とよく似ているが、仏教がクシャトリア(貴族)層に広がったのに対してジャイナ教はバイシャ(庶民階級)に広がったとされている。仏教は一時期インドの有力宗教となり、インド以外の各地へと拡散していったが、その後のヒンドゥー教の台頭、イスラム勢力の拡大でインドではかなりの少数派に落ちぶれてしまった(調べたところではそれでも800万人はいるらしい)。一方のジャイナ教はどうかというと、その信者数は450万人と、仏教徒の半分くらいしかいないそうなのだが、ムンバイなど一部の都市に集中する傾向があり、ジャイナ教徒同士の結束の強さ、教義上農業や牧畜に従事できないため多くが商業・金融業にたずさわり、その経済的な影響力はかなりのものがあると言われている。欧米社会におけるユダヤ人のポジションに似ているのかもしれない。
 そのジャイナ教徒の運動によりムンバイでは「家畜屠殺・肉類販売禁止」の日がもうけられるようになった、というからその影響力は実際かなりのものなのだろう。しかしジャイナ教徒以外にとっては「なんじゃいな、そんな殺生な」という話(笑)。もともとヒンドゥー教徒は牛肉はダメ、イスラム教徒はブタ肉がダメ、といったタブーの多いインドではあるが、ジャイナ教みたいな少数宗教の意向で市民全体が規制されるということ自体に反発も広がっているという。なお、今度の禁止対象はスイギュウ(ヒンドゥーで神聖視する「牛」とは異なる)・ヤギ・ブタの三種のみで魚や鶏などの家禽類なんかは除外されているとのこと。
 ロイター記事によると、現在のインドの政権を握るモディ首相がヒンドゥー至上主義と深くかかわるせいもあって、最近は牛に対する保護政策が強化されているらしい。そうなると牛肉も食べるキリスト・イスラム教徒、最下層カーストなどが困るではないか、との批判も出ていた。そこへジャイナ教の「不殺生」が割り込んできたものだからよけいに騒ぎになってるところもあるらしい。



◆川の流れるように

 この文章を執筆している現在、国会では安保法制成立がいよいよ大詰めとなっている。成立自体は去年の「解釈変更」時点で確定していたようなものだし、議論すればするほど無理が出てくる話だけに政府としてはさっさと決めちゃいたいところではあろう。もう成立を見込んで自衛隊が米軍と一体化というより「下請け組織化」を強めちゃってるし、これである意味「日本軍」は名実ともに消滅するということなのかも。お、そうすると本来の憲法9条の戦力不保持の趣旨にあってくるのか、とかバカなことを思いついたりして(笑)。
 成立自体は阻止できないのは明白だったが、この土壇場に来て反対デモがかなりの規模で起きたことはやはり無視できない動きだと思う。与党関係者や右派系メディアがなんとかしてデモを小さく小さく見せよう、あるいは「一般人ではない」と見せようとしているのを見ると(産経なんて自民支持者以外は非国民と考えてるんだなぁ)、逆に彼らが結構気にしてるのが良く分かる。どうせならこの土壇場じゃなくてもっと早く動き出すべきだったし、そもそも選挙でちゃんと動かないと…と愚痴ってもしまうのだが、このデモの熱気がどこまで持続できるかもポイントだ。政府与党は完全にナメきってますけどね。
 あとは法理論的に無理を重ねてるので、のちのち最高裁判所で違憲判決を出される可能性も低くはない。ただ仮にそうなったとしてもあーだこーだと言い訳してひっこめたりはしないだろうな。さらに仮に政権交代が起きたとしてもアメリカ様の意向の手前、そうそうひっくり返すのも難しいと思う。一方で今度のデモ活動が日本には珍しい現象として世界的に注目されちゃったから、「憲法9条」のノーベル平和賞受賞の可能性はまた高まったかもしれない。


 …と、一応現在進行形の歴史的話題に軽く触れつつ、本題は「川」の話。これを書いているつい一週間前に、栃木県・茨城県を流れる鬼怒川が各所で洪水を起こした。特に関東地方の一級河川としてはかなり久々の「決壊」という事態が起こり、直後の緊迫の映像もあいまって日本中の大きな注目を集めることとなった。僕も各種の暴れ川が集中する茨城南部人なのであまり他人事ではなく、ニュースをぶっ続けで見てしまっていた。
 確かに大変な水害ではあるんだけど、あえて意地悪なことを言わせてもらうと、やっぱり「首都近郊」だったからマスコミの取材がしやすく、人の耳目を集めやすかった、という面は否定できない。他の地方の水害に比べると扱いが「全国区」になってたな、と思っちゃったんだよね。

 さて、それはそれとして、「史点」的にはやはり鬼怒川などこの地域の川の歴史について触れることにしたい。
 「鬼怒川」という川は栃木県、すなわちかつての「下野(しもつけ)国」から流れ出す。「きぬがわ」という名前の由来はかつて「下野」「上野(こうづけ)」全体を指した「毛野(けの)国」から流れ出す「けのかわ」にあるとの説もあり、江戸時代以前は「絹川」「衣川」といった表記もされたという。これがいつから「鬼怒」になったかは判然とせず諸説あるようだが、一説に暴れる様子が「鬼が怒る」ようだから、とも。「鬼が怒ると書いて「きぬ」と読む」と言えばPCエンジン最高峰のRPG大作「天外魔境II」の名セリフだが、作者も「鬼怒川」から思いついたらしいんだよね。やや脱線するが、この「鬼怒」のビジュアルシーンは家庭用ゲーム機としてはかなりスプラッタな演出があるため、後年の他機種移植版では変更されており、「本物」をみたけりゃPCエンジン版をやるしかなかったりする。

 その鬼怒川、下野国から流れ出ると現在の茨城県南西部の平野部を流れてゆく。かつて茨城南西部は千葉北部と同じ「下総(しもうさ)国」に属しており、茨城県の大部分を占める「常陸(ひたち)国」との国境は実は鬼怒川だった。この鬼怒川は小貝川と合流し、東流して海へと注いでいた。中世までは現在の茨城南部は大きな内海「香取海」が存在し、そのわずかな名残が霞ヶ浦。茨城南部の地図を眺めると「〜崎」という地名がちらほらあるが、これはかつては実際に海に突き出した「崎(岬)」だった名残なのだ。
 一方、今は茨城県と千葉県の間を流れる大河・利根川だが、もともとは江戸湾(東京湾)へと注いでいた。江戸時代初期までは利根川・荒川・渡良瀬川がそれぞれ江戸湾に流れ込み、下流は流れがゴチャゴチャした湿地帯になっていたのだ。徳川家康は江戸に拠点を置くと、さっそく江戸の都市化のための大規模な河川改修事業を開始、なんと利根川の流れ自体を東へほぼ90度変えてしまうという荒業をやってしまう。もちろん何十年もかかった事業なのだが、その結果利根川は現在の流れに落ち着き、現在の千葉県北部の関宿(現野田市)付近で江戸川と分流する形となった。そして鬼怒川は小貝川と分離され、従来の鬼怒川下流の流れは小貝川にまとめられ、鬼怒川本流は人工の谷を掘削して南下させ、利根川に合流する形に変えられた。こうして大筋で現在の流路になったわけだが、現代人の目で見てもずいぶん大掛かりな「自然改造」をしたものだと驚かされる。
 
 さて今度の災害で一気に全国に名が知れてしまった「常総市」だが、この「常総」という呼び名もかつて鬼怒川が常陸と下総の国境となっていて、その「国境地帯」であることからついたものだ。今度の水害で全線ストップとなった「関東鉄道常総線」も下総北部から常陸(下館あたりは常陸になる)を結ぶからその名がある。常総市じたいは平成の大合併の過程で2006年に水海道市と石下町が合併してできた「新生地名」だけど、「常総」って呼び方はそれなりに歴史をもっているわけ。
 この「常総」地域からは江戸時代に多くの地理学者が生まれていて、それは盛んだった水運と深くかかわるのでは、との説をウィキペディアで知った。なるほど、そういえば僕の地元の有名人の一人間宮林蔵も小貝川の改修工事の現場でその才能を見出されたという逸話があった。常総市の母体のひとつである「水海道」もかつて鬼怒川と利根川を結んだ水運の中継地として栄えた町で、今度の災害地図を見ても分かるように小貝川と鬼怒川に挟まれた狭い地域に発達したこの町自体が「自然改造」のたまものだったとも言える。
 ただ、やはりそこは相手が自然だけに、人間の力だけではどうにもならない部分もある。鬼怒川や小貝川は「暴れ川」と呼ばれるほど最近まで洪水を繰り返していて、僕の小学生時代に小貝川の近くの堤防(ただし対岸)が決壊して大変な騒ぎになった記憶もある。現在の小貝川下流はもともと鬼怒川の本流であったこと、今回の鬼怒川決壊地点が人工的流路改造のやや上流にあり、利根川の方が水面が上になってしまったために水があふれたこと、そして常総市内にあふれた大量の水を小貝川にポンプで汲み出している光景を眺めていると、何やら川自身は「元の流れ」に戻ろうとしているのかも、なんてことも考えてしまう。なにせ今の流路はせいぜい400年の話、もともとの流れは何万年じゃきかないレベルなんだから。といって今さら「自然のままにしておけ」というわけにもいかなくなっちゃってるほど人間の数も居住地域も広がっちゃってるわけで。

 なお常総地域の歴史上、最大のヒーローと言えば平将門である。前にも書いたが僕の地元の盆踊りでは「わしがお国で自慢のものは、なんといっても将門さまよ、国を作った人だもの」というフレーズがあるほどだし、将門の拠点であった坂東市には「将門煎餅」という名物菓子も存在する(そういや「うまい棒」のメーカーが常総市にあったというのは今回のことで初めて知った)。将門を主役にした大河ドラマ「風と雲と虹と」は最近全部を鑑賞したが、「腐敗した中央政府に対し、関東独立国家をつくらんとする正義のヒーロー」という姿にはシビれる。ま、敗北に終わるわけですけど、それこそ国会デモ同様、それはのちのち大きな流れを作ったりするのかもしれないんですね。
 まぁそんなわけで、昔からハンランには縁がある土地でして、というオチでした(笑)。


2015/9/18の記事

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