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2015年10月23日

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◆いろいろ見つかることがある

 松尾芭蕉に未発見の句が!それも本人の直筆で!しかも海外で!と驚くようなニュースがあった。
 清泉女学院大の玉城司客員教授が13日までに確認したもので、シアトル在住のある人物が所蔵し、現在はシアトル美術館に展示されている懐紙(ふところに入れておくメモ用の紙)に、芭蕉と杉木正英(号は「普斎」、1628-1706)という茶人が俳諧や茶を通じたやりとりが書き留められていたそうで、そこにまだ知られていなかった芭蕉の句、それも本人直筆が二つも見つかったのだ。芭蕉みたいな超大物でもそんなことがあるんですねぇ。
 「俳諧」というのはいわば俳句のリレーみたいな集団文芸。芭蕉はその最初の一句「発句」を詠む。芭蕉の数々の名作俳句も基本的にそうしたリレーの「発句」として詠まれたものだ。このたび確認された懐紙にあった「発句」は、「我しのふ あるしは蔦の さひや哉」だそうである。当時は濁点をつけないので、これに濁点を加えて読みやすくすると「我しのぶ あるじは蔦の さびや哉」となるんだと思う。直訳すれば「私がこっそりと住んでいるのは、まるで蔦が主人であるかのように取り巻いているさびれた家であることよ」ということになるんじゃいかと。実は最初「さひや」が何のことかわからず、グーグルでしばらく検索してみたら、どうも「さび家」らしいと分かった。じゃあ「さび家」って何よ、とググってみたら、なんとトップに出たのは「ザビ家」。芭蕉先生はこっそりジオン公国におでかけになってたらしい、さすがは伊賀忍者?(「しのぶ」って言ってるもんな)などと変な方向に連想が走ってしまった(笑)。


 そんなニュースが報じられたすぐ翌日の10月14日、今度は江戸俳諧の中興の祖ともいわれる与謝蕪村の未発見の句が見つかった、というニュースがあってビックリ。それも212句も、というからまたビックリ。そんなにいっぺんに見つかるってどういうことよ?
 この発見をしたのは奈良県の天理大学付属天理図書館。同図書館が所蔵する「夜半亭蕪村句集」にそれら未発見の句が掲載されていた…っていうんだけど、ちゃんと句集に掲載されていたのか。そんなの今までなんで確認してなかったんだろ?
 図書館によると、この「句集」は数年前に古書店から購入したもので、蕪村の門弟でパトロンでもあった寺村百池という人物が書き留めていたもの。全2冊、1903句が収録されているという。この百池は蕪村の遺品を一括して保管し、その膨大な資料はまとめて重要文化財になっているそうなのだが、もしかして中身についてはちゃんと確認してなかったのかなぁ…?蕪村の句はこれまでおよそ2900句も確認されていて、彼の俳句・文・絵画をまとめた『蕪村全集』も1992年から2009年までかかってようやく完結したという具合だから、膨大な数の句一つ一つの確認がちゃんととれてなかったってことなのか。「全集」にまた追加しなきゃいけませんな。


 坂本龍馬がちゃんと北辰一刀流の免許皆伝を受けていたことが確認された、なんてニュースもあった。これもまた「そんなの、とっくに衆知のことじゃなかったっけ?」と思っちゃう話だが、実はこれまで龍馬が北辰一刀流の免許皆伝であることを示す物的証拠がなく、ただ「なぎなた」の免許目録だけしか現存していなかったので「もしかしてウソなのでは?」という声もあったのだそうだ。実のところ、龍馬って明治時代の講談まがいの小説で知られるようになり、司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」で決定的な人気を獲得したけどあれだってノンフィクションというわけではない(途中まではかなり講談調)。だから龍馬にまつわる有名な話にも一定の疑念は抱いておいた方がいいのだ。
 今回確認されたというのは免許皆伝の目録そのものではなく、それが貸し出されていたことを示す「預かり証」だ。龍馬の死後、甥の坂本直がその養子となって跡を継ぎ、龍馬の免許目録などの書類はこの甥が引き継いでいた。一方、坂本家本家は1898年に釧路に移住し、明治末になってから北海道で坂本龍馬遺品展が催されることになり(龍馬が一般に知られるようになったのは日露戦争以後だそうで)、その時に直さんの奥さんから免許などの龍馬資料を借り出した。今回確認されたのはその時の明治43年(1910)8月30日付の預かり証で、「北辰一刀流兵法皆伝」「北辰一刀流兵法箇条目録」「北辰一刀流長刀兵法皆伝」などの「秘伝巻物」がそこに含まれていたのだそうだ。
 だが残念なことに、大正2年(1913)に「釧路大火」が起こり、坂本家も被災してこれら皆伝書も長刀を除いて焼失してしまった。昭和4年(1929)に開かれた龍馬遺品展示の目録にも「千葉周作ヨリ受ケタル皆伝目録ハ全部焼失セリ 於釧路市」と記されていたという。じゃあとっくに事情はわかってたんじゃないかと思うのだが、今年6月に坂本家から高知県立坂本龍馬記念館に数百点にのぼる資料が寄贈され精査を受けるまでは広くは知られていなかった、ということなんだろう。
 これで現物はなくても龍馬が北辰一刀流免許皆伝であることは確認され、「龍馬はやっぱり剣豪」ということになって、ファンも安心(笑)。もっとも龍馬にしても、同じく剣豪とされる桂小五郎こと木戸孝允にしても、実際に剣をふるって人を斬ったことはないみたいなんだよね。



◆西部劇でもいろいろと

 この10月は「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2」のタイムマシンが飛んだ「30年後」だということで、それにちなむCMも作られ、映画と現実の「2015年」の違いが話題にされている。「PART2」のラストでタイムマシンは落雷を食らって1885年に吹っ飛ばされ、「PART3」は西部劇映画(「荒野の用心棒」のパロディがあるもんな)になってしまった。「PART3」公開時、すでに西部劇映画自体が昔懐かしの物珍しいものになってたからこんな展開になったんだろうけど、同じ年に「ダンス・ウィズ・ウルブズ」が当たったことでその後二匹目のドジョウを狙って西部劇映画が集中的に公開された。それでもやっぱり一時的現象にとどまって、21世紀に入ってからは日本のテレビ時代劇同様に衰退の一途という感もある。風の噂では「荒野の七人」リメイクらしいけどねぇ。

 一般に「西部劇」といえば、1860年代から20世紀初頭くらいまでのアメリカ西部開拓時代を舞台にした劇映画・ドラマを指す。白人たちが農地開拓やゴールドラッシュで西部へ進出、先住民との衝突、カウボーイとガンマンと保安官と無法者といった要素が出そろえばもうそれは西部劇。この「西部劇時代」とも呼ばれる時代には、その後映画の題材にもなった実在の伝説的ヒーローが何人もいる。「OK牧場の決闘」で名高いワイアット=アープは保安官キャラの代表だが、無法者キャラの代表と言えばジェシー=ジェームズやらビリー=ザ=キッドが有名。その無法者二人の「写真」が発見されるというニュースが立て続けにあったもので、上記の芭蕉と蕪村の話みたいで驚いたものだ。


 10月4日、テキサス州はヒューストンの警察の犯罪科学専門家が、ワシントン州在住の人が所有していた鉄板写真を鑑定し、そこに並んで映っている二人がジェシー=ジェームズボブ(ロバート)=フォードであると断定したと発表した。この二人、同じ強盗一味だったのだが、実はジェシーを殺した張本人がこのボブだったりするわけで、その意味でも実に貴重なツーショット写真なのだ。余談ながら、殺人犯人とその被害者がツーショットで映ってしまった有名人としてはジョン=レノンの例がある。
 ジェシー=ジェームズは南部の奴隷主の家に生まれ、兄フランクともども南北戦争に参加しているという世代だ。もっとも南北戦争では正規軍ではなくゲリラ部隊で、彼らはそのまま戦後に強盗団と化してしまった。各地で銀行強盗、列車強盗を繰り返したが、いわゆる「義賊」的な言動もあったとされ(確定された話ではなく噂レベルだが)、生きている内から一部で人気があった。その強盗団にあとから入ったのがフォード兄弟で、その弟の方がボブだった。今回確認された写真は、すでに有名人になっていたジェシーと仲間になったことを記念して(あるいは自慢するため)撮影したものではないかとの話。
 しかし1882年4月3日、ジェシーにかけられた一万ドルの懸賞金欲しさに、ボブはジェシーを射殺した。それも丸腰のジェシーを背後から撃っている。ジェシーの妻が銃声を聞いてかけつけ「あんたがやったのね!」と言うと、ボブは「神に誓って、俺はやってない」と即答したそうで。それでいて彼は懸賞金を要求するため自首してるんだけど。もっとも懸賞金どころかそれまでの罪状により一度は絞首刑判決が下され、直後に恩赦、ということになった。
 人気者ジェシー=ジェームズを殺害したためにボブ=フォードへの世間の風は冷たく、彼は西部を流浪してあれこれ職を転々としている内に、ジェシーを殺してから10年後の1892年にエドワード=ケープハート=オケリーに射殺される。ロバートの墓石には「ジェシー・ジェームズを殺した男」と刻まれているそうで結局ジェシーのおかげで歴史に名を残すことになっちゃったわけだが、そのロバートを殺したオケリーも1904年に警官に射殺されている。おかげでこの警官は「ジェシー・ジェームズを殺した男を殺した男を殺した男」と呼ばれるそうな(笑)。
 ジェシーとボブのツーショット写真を持っていた一家には、もともと先祖がジェシー一味をかくまったとの逸話が伝えられ、写真も「本物」と信じていた。写真を所有していた女性によると2003年に祖母から「この写真を売って土地を買う資金にしなさい」と譲られたそうだが、売却しようにもまさかジェシーとボブの本物の写真だとは誰も信じてくれなかったとか。だがこのたび犯人の顔の再現などを行う犯罪科学専門家が確認されている二人の写真と比較したうえで「本物」と鑑定した。まだ慎重な声もあるようだけど、それこそ大変なお値段がつきそう。かくまった恩義に百年以上かけて報いたことになるのかな、ジェシーさん。

 
 ビリー=ザ=キッドについては前にも当欄で書いたことがある。1881年に21歳で射殺されるまでに21件の殺人を犯し(実数については議論有り)、逮捕、脱獄という劇的なおまけもついたために伝説的アウトローとにて人気者になってしまったビリーだが、2010年に州知事が「恩赦」を出そうとする騒動があったのだ。そんな有名人だが彼を写した写真はこれまで一枚しか確認されていなかった。そこへ新たな写真が見つかったとなれば、そりゃ大ニュースである。
 見つかった、と書いちゃったが、正確に言えば「ビリー本人の写真と断定され、このたび売りに出された」というニュースである。なんでも問題の写真は5年前に骨董店で他の写真と一緒に箱詰めにされて一枚67セント(約80円)で売られていた写真だそうで、西部開拓時代マニアの収集家が購入した。写真には男女複数の人物がいて「クロッケー」(ゲートボールのルーツだそうな)という球技を遊ぶ場面が映されている。その中の一人の人物が高いシルクハットをかぶり、ボールを打つ「マレット」にもたれている。その人物の姿が、どうもビリーに似てないか…?と思った収集家は専門家に鑑定を依頼、撮影された場所や年代の検証も行われ、一年以上をかけた調査の末に「ビリーに間違いなし」という結論に達した。1878年夏にニューメキシコ州で撮影されたものだという。だとするとビリーが18歳のとき、ということですな。
 そしてその写真が売りにだされたわけだが、 なんとその額、500万ドル(約6億円)。買い手がつくのかと思っちゃうのだが、すでに知られているもう一枚のほうは2011年に230万ドルで落札されているので、このくらいはいけるという強気のお値段設定みたい。なんだか「生死を問わず」の懸賞金みたいになってきました(笑)。



◆なんじゃもんじゃ忍者

 一番上の話題で松尾芭蕉=忍者説に触れたが、なんでそんな珍説が生まれたかと言えば、「芭蕉が伊賀の出身だから」というほぼそれだけの理由。それじゃ伊賀出身者はみんな忍者なのかよ、という話になってしまう。だいたい「伊賀者」だの「忍者」だのと言ってもその実態はほとんど不明だ。
 よく言われる説明を簡単にまとめると、もともと伊賀地方は土地が農業に不向きな山岳地帯のため、早くから特殊技能の人々が生まれ「傭兵」のように各地に出稼ぎに出ていた(との説があるんだが、スイスの傭兵の話に引っ張られてる気もする)。鎌倉時代末には東大寺の支配に抵抗する「悪党」たちが山城を構えて戦ったとされていて、倒幕に立ち上がった楠木正成を伊賀の人々が支援したとの見解もあり、実際楠木討伐に出陣した足利高氏(のちの尊氏)はわざわざ伊賀方面へ進軍している。『太平記』でも新田義貞の軍の中に「名張八郎」など伊賀出身者と思われる武士がいて、関東流の武士とはまた違った、ゲリラ的な戦い方をしていた形跡がある。これをそのまんま「忍者」と呼ぶのはちと危険だが、そんなあたりが忍者のイメージのルーツかもしれない。
 戦国時代になると伊賀国の中だけで群雄割拠の戦国時代になっちゃったらしく、それこそ「忍者」らしき連中が発達したとされる。かの有名な服部半蔵が伊賀出身者だったとされ、「実在忍者」の代表にされがちなんだけど、実のところ彼がいわゆる「忍者」的な活動をしたという証拠はない。「しのび」とか「すっぱ」とか言われたスパイ活動や破壊工作に従事する人は確かにいたんだろうけど、くさりかたびらに黒ずくめの服、さまざまな「術」を使うといった「忍者」なイメージは江戸時代から広まり、近代以降にさらに荒唐無稽に推し進められ、戦後になって白土三平の忍者劇画や小説・映画の「忍びの者」みたいに一定の科学的根拠をもつリアリティがくっつけられて今日の「忍者」イメージが確立する。それがさらにゲームや映画などで海外で再生産されて、もはや日本人にもついていけないような忍者イメージが世界に拡大してる、というのが現状。もはや「本物のMI6と007は違うんだよ」と同レベルの状態になっている(そういや「007は二度死ぬ」で日本のスパイ組織が忍者部隊だったなぁ…)

 まぁそれでも「ニンジャ」は「サムライ」「ゲイシャ」と並ぶ重要な日本イメージコンテンツ。「クールジャパン」なるお寒い言葉にも乗っかって、外国人も含めた観光の目玉にしようと、忍者ゆかりの地の自治体が集まって「日本忍者協議会」なるものが発足することが10月9日に発表された。参加したのは三重県伊賀市、滋賀県甲賀市、「真田忍者」の長野県上野市、「風魔小太郎」ゆかりの神奈川県小田原市、そして佐賀県嬉野市(僕は知らんかったが竜造寺氏関係で忍者ばなしがあるらしい)とそれぞれが属する県。これらの自治体の長達がそろって「忍者衣装」で会見、忍者ブランドの確立や忍者の観光資源化、忍者の情報発信(と書くと偽情報みたいに聞こえるな)などなど、「オールジャパンで忍者を発信する体制を整えたい」のだそうな。「一億総忍者社会」ですか(笑)。
 副会長になった元観光庁長官が「忍者の情報を国内外に発信するプラットフォームがなく、世界の方々から忍者の歴史について聞かれても答えられないという状況」と話していたそうだが、まぁそりゃそうだろう、忍者の歴史じたいが謎だらけでほとんどわかんないんだから。どういう風に情報発信する気なのか歴史屋としてはかえって心配になっちゃう。「ラスト・サムライ」で忍者が出てくる場面に日本人キャスト・スタッフが反対したけど押し切られた、という逸話も聞いてるので、「お客様」である外国人のイメージに合わせた情報発信になりがちな恐れもある。伊賀市長と甲賀市長が手裏剣勝負したり、市議会議員がみんな忍者装束になったりと、面白いっちゃあ面白いんだが、間違った日本イメージを広げかねない大人の悪ふざけと見えなくもない。
 「日本忍者協議会」の発表式には、応援団として歌舞伎の市川海老蔵さんも登場、「日本の伝統文化に携わる者として、応援していきたいです」とおっしゃったそうで…忍者も伝統文化なのかいな。もっともその直後に「本日はこのコスプレパーティーに招いていただき大変うれしい」と続けているから、分かってると言えばわかってらっしゃるのかな。
 

 ところで、このイベントの直前、伊賀市では市長が激怒するある事件が起こっていた。
 10月5日に「2016年版三重県民手帳」が発売されたのだが、その中に掲載された三重県地図で「伊賀市」と「名張市」の表記が逆になっていた、というミスがあったのだ。伊賀市の岡本栄市長は「県が基礎自治体の名称を取り違えるとは信じられない。県の伊賀地域に対する認識がこのようなものかとあきれるばかり」と激怒コメントを出していたが、うーん、もしかして三重県の中心である伊勢方面では「伊賀」なんて山奥の忍者村くらいにしか思ってなかったりするんだろうか?というのは冗談だが、そもそも伊賀国において忍者の「本場」は本来は名張の方で、市町村合併で「伊賀市」を作る際に名張は途中で離脱、名張以外が「伊賀」を名乗るという、伊賀忍者史的にはいささか問題のある状況になっているのだ。そういったいきさつがあるだけにこの逆表記ミスは伊賀市長としては余計カチンとくるものだったのかも。
 ハッ…もしかして名張の忍者のしわざかな?(笑)



◆またも遺産の出すぎで…

 つい先ごろ、「日本の産業革命遺産」の件でもめ事があったばかりだが、今度は「世界記憶遺産」で騒ぎが起きてしまった。これを書いてる時点ではもう一時の騒々しさは消えているけど、やっぱりいろいろと頭の痛い問題ではある。
 ただ、僕が頭を痛くしたのは、どっちかといえば日本側の対応の方。決定前から政府・与党レベルでずいぶんヒステリックな反応が見られたと思ってるし(さる自民幹部で「南京虐殺も慰安婦もすでに否定され始めている」と公言したバカがいた)、決定後には「ユネスコへの分担金拠出を止めろ」と本気で口にする政治家がゾロゾロ。内閣の顔である官房長官までが「検討」とはいえ公言してしまった(その後さすがにトーンダウンした感はある)。改めてよく分かったのだが、先の大戦での問題はいろいろあるだろうに、こと「南京」と「慰安婦」にはその単語を聞いただけで脊髄反射して激昂する手合いがかなりいる。特に今の安倍首相の周辺にはそういう手合いがかなりいらっしゃる。さすがに総理本人や大臣レベルだと公言はまずいとは分かってはいるようで一応おとなしくしてるほうだけど、彼らのバックにいる団体・人脈を見れば何を考えてるかはだいたい見当もつく。

 南京虐殺事件は、もう議論は数字の問題でしかない。そして正直なところ実数を見定めるのは困難だ。少なく見積もっても万の単位が出ることは確実、というくらいしか言えないのだが、この手のことに脊髄反射する人たちって、ほぼ間違いなく「ゼロ」論を主張する。そもそも「なかった」と本気で思っているのだ。もはやこの議論・研究は何十年もやってて一定の確認もできるところがあるのだけど、この手の「ゼロ」な人たちというのはどんな検証が提示されようと思い込んだら一歩もそこから出ようとしない。
 今度の件で特にヒステリックに騒ぎまくったのは予想通り産経新聞だったが、あそこが乱発した数々の記事見ると明記はしないまでも相変わらずの「ゼロ」論なんだよなぁ。その昔、蒋介石ヨイショ連載で国民党側の主張のまま「40万人」という日本マスコミで最大の数字を紙面に載せちゃった過去なんてもう記憶にないんでしょうな。

 そりゃまぁ中国側だって「30万人」という数字にお墨付きをつけるのために「記憶遺産」登録を利用した政治的意図はある。ただ「記憶遺産」の対象にされた資料群を眺めると、結構選んできたな、という感もあった。特に軍事裁判での資料なんかが出てくるとユネスコとしてはそう無下に却下できないんじゃないかと。これはその史料内容が無謬と言ってるわけではなく、東京裁判などそうした軍事裁判の結果としてその後の日本や国際社会があるという現実から言って、その史料自体に一定の「価値」があることは国連の機関として否定できない。というか、「記憶遺産」ってその内容が真実かどうかという鑑定をするわけじゃないと思う(たとえばだが、記憶遺産になった「アンネの日記」自体は本物だけどアンネが部分的にせよ事実でないことを書くってのはあり得るでしょ)。その辺、日本側は勘違いしてるんじゃないかと。決定前から阻止しようとあれこれ運動していたらしいし、それがかえって悪印象を与えた可能性すら感じる。
 そうそう、決定後の日本の動きを見てロシアがほとんどパクリのような論法で「シベリア抑留の資料」にイチャモンをつけてきたが、あれってもしかしてロシア流の皮肉のつもりなんだろうか。変な知恵を付けちゃったかも(笑)

 反発や批判自体は構わないのだが、「分担金をうちが一番出してるのに」(アメリカはパレスチナ問題で払ってない)とユネスコにイチャモンをつけるのはみっともないの一言。あんた、そんなつもりでユネスコに金出してたの?とツッコまれる話である。国連じたい、その費用は経済力に応じて各国で分担する、ということであって「カネをたくさん払ってるから発言力がある」なんて精神は本来ない。「カネを出さないぞ」と脅しをかけるなんぞ、どう考えても逆効果である。これも産経だったと思うけど、「中国は日本の半分くらいしか負担してない」と文句たれてる見出しも見たが、逆に「カネでは動かない組織」ということの証明でもあるわけで。ネット上で「日本が払わないぶん、中国が払うようになったらどうするんだ?」という声も出て、一部マスコミは与党幹部にその言葉を投げたところ、「それでもかまわん」と豪語したバカもいたらしい。そこまで頭が回らない脊髄反射をしてるのは、やっぱり「ゼロ」論の人たちだからなんだろう。そーいやー、つい先ごろ「マスコミを懲らしめるには企業からの広告料を減らせば」とか言ってた人も全く同じ論理なのだが、その人が結局一年謹慎のはずがもう解放、しかも文部科学部会会長になるんだと聞くと、つくづく彼らの「業界」の非常識ぶりが分かる。
 批判するにしても阻止に動くにしても、人数論に方向を絞るとか、もそっと現実的なやり方もあると思うんだが、最近「歴史戦」なんぞと騒いでる人たちはそういう戦略性も皆無で自己主張をひたすらする一本槍だからなぁ(最近でも日本の右翼本レベルのものを英訳して各方面にばらまくという「自爆攻撃」をやってるらしいし)「先の大戦で敗れた展開そのまんまだな」というツッコミをネット上で見かけて笑ってしまったが。

 あと、やっぱりそうなんだなと思ったのは、日本って戦前・戦中と戦後では別の国になった、ということで国際社会に復帰したこ建前になってるんだけど、実は指導層についてはかなり連続していて、今の為政者たちも戦前・戦中のことを否定的に扱われるとムキになって反論してしまうということ。あれ、あんまりやると「じゃあもう一回戦争と占領やり直す?」と国連(明白なまでに「連合国」の後継組織である。「旧敵国」条項まだあるんだから)から言われちゃいかねないということを自覚した方がいいんじゃないかと。今度非常任理事国になって、さらに常任理事国入りを目指してる日本としてはそれってどう考えてもマイナスなんだが。

 保守的な指導層が実は連続していて、過去の歴史認識を自分たちの思うような方向に誘導したがる、というのはどこの国にもみられるものだが、お隣韓国でも最近それをまざまざと見せつける事例が続いた。
 まず韓国政府が中学・高校の韓国史の教科書の「国定化」に踏み切った。政府側の挙げる理由が「近現代史の記述が左派の主張に偏向している」という、どっかの国の政治家たちとウリ二つなものなんで、つい失笑した。最近の日韓政府間での歴史論議のニュースを見ている人には「あれ?」と思う声も出そうだが、当然ながら韓国にだって保守・革新の激しい意見対立がある(むしろ日本より激しい)。特に日本の植民地支配の評価、独立直後の済州島などで起きた反政府運動の評価、朝鮮戦争と米軍に対する評価、現大統領の父親である朴正熙など軍事政権の評価、といった議論では真っ二つに分かれてしまう。
 韓国でも、いわゆる「保守的指導層」というのはうまく立ち回って日本統治時代でも独立後でも支配側にまわっていて、こうした層は日本で思っているほど植民地時代を否定的には言わず、近代化に一定の評価を与えている場合がある(だから革新系政権の時期に「日本協力者」狩りが行われ保守層が反発した)。韓国の成立と朝鮮戦争、その後の軍事政権では当然アメリカをバックにおよそ民主的とは言い難い支配をして、国内の反政府運動を「左翼テロ」として虐殺した例も数々ある。そうした政権の代表的存在が朴槿恵大統領の父親・朴正熙(そもそも元「日本軍人」)であるわけで、当然その評価を肯定的にしようとする。90年代以降にようやく民主化が進んで歴史教科書も検定制に変わり、学者にはリベラル系が多くなる傾向があるから歴史記述も「左派寄り」になったわけだが、やっぱり保守層にはそれが許しがたかったようで、このたび、まさに朴正熙政権の時と同じく教科書の国定化が強行された。野党や学生団体などは猛反発しているし、歴史家なども教科書執筆拒否を声明するなど、かなりの大論争になってるらしいが、正直なところ日本もまったく他人事ではない。最近の外交状態から誤解してる人も多いが、そもそも安倍さんと朴さんってその家系や人脈、バックボーンは実はうり二つなわけですよ。

 先日、朴槿恵大統領が訪米した際、ベトナム戦争時代に韓国兵から性被害を受けたとするベトナム人女性たちがデモをして韓国政府に申し入れも行っていた。韓国にとっての他国に迷惑をかけた「負の歴史」の最たるものがこのベトナム戦争で、これまでにも議論を呼んでいた。確か金大中大統領(退任後だったかも)がベトナムを訪問して「謝罪」ととれる発言をしたことがあって、この時も退役軍人団体など保守系が猛反発した。今度の申し入れについて韓国政府としてはさすがに無視はできず善処するとの発言はあったが、やっぱり「事実関係がはっきりしない」との一言がついていたりする。ま、この辺もうり二つではある。
 その直後には、済州島出身の在日作家・金石範氏の入国拒否事件もあった。金氏は1949年に起こった済州島島民の虐殺事件「済州島四・三事件」をテーマに小説を書き(この事件自体、韓国では大議論になるテーマ。我が国の沖縄集団自決強要ばなしとポジションがかなり似てる)、特に大長編の「火山島」で知られている。そうした立場でもあるので過去にも韓国政府批判を続けていて、それが韓国保守系の反発を買ってきた経緯がある。今年四月に設立された「済州島4・3平和賞」第一回受賞者となった際のスピーチでも韓国政府批判をしたため保守系団体やマスコミにかなり叩かれたようで、このたび「火山島」の韓国語訳出版を祝う10月16日の記念行事に出席する予定でいたら入国を拒否されてしまった。在日韓国大使館では「旅券法に基づき審査した結果」としているが、4月には入国できたのだから、これは「政治的判断」としか思えない。
 産経新聞ソウル支局長の問題もあるし、どうも現在の韓国の政権は朴正熙時代に逆行しちゃおうとしてるんじゃあるまいか。その当時朴正熙政権と結びついて支持していたのが自民党の保守系政治家や産経新聞だったりするのも歴史の皮肉ではある。


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