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2016年3月12日

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◆今週の記事

◆とざい、とーざい 

 前回「この件については次回に」と書いた話題から。例によって一か月も間が空いてしまうとニュースとしてはだいぶ古びてしまったが…
 ローマ・カトリック教会の首長であるローマ法王フランシスコと、ロシア正教会の首長であるキリル総主教がキューバの首都ハバナで会談したのは去る2月12日のことだった。「キリスト教会が東西に分裂した1054年以来、1000年近くぶりの対談!」などと大きく報じられたが、世界史の教科書を思い返してみるといささか違和感が。
 歴史の復習をしておくと、1054年の東西教会分裂というのはキリスト教の歴史上「大分裂(大シスマ)」と呼ばれるもので、当時のローマ教皇とコンスタンティノープル総主教とが互いに相手を「破門」したことを指している。もちろんそれより何百年も前から、さかのぼればローマ帝国の東西分裂確定あたりからキリスト教会は大きく東西に分裂状態になっていて、1054年のそれは最後の「決着点」だったということに過ぎない。だからそもそも東西教会のトップは1054年の何百年も前から対談なんてしてなかったわけなんだよな。

 イスラム教のスンナ派とシーア派、仏教の上座部・大乗、さらにそこから派生した各宗派を見ても分かるように、どの宗教でも教えが広まり勢力が拡大するにつれ意見の相違から分裂を起こすパターンがある。宗教に限らずイデオロギー全般に言えることなので人間集団とはそういったものなんだろうが、最初の開祖の説いたことが時間がたつにつれ解釈の変化・分化が起こっていく過程と見ることもできる。仏教の世界でもお釈迦さんが教えを説いてから長い時間が過ぎると教えが正しく伝わらない「末法の世」になるという思想があったっけ、と思っていたら、1054年って日本では「末法の世突入」と考えられていた直後の年だったんですな。

 キリスト教会の東西分裂後、十字軍やらなにやらの時代を経て、1453年にコンスタンティノープルはオスマン帝国に攻め落とされて東ローマ帝国は滅亡した。その後もオスマン帝国内でコンスタンティノープル総主教は維持され、現在でも正教会内で序列一位に置かれて「全地大主教」なんてすごい肩書もあるそうだから、ローマ教皇とタメを張れるのは本来こっちではないかという気もする。
 ロシア正教会は16世紀に「モスクワ総主教」をいただく独立の正教会としてコンスタンティノープルはじめ各地の総主教から認められたものだが、ロシアの方ではモスクワをローマ・コンスタンティノープルを継ぐ「第三のローマ」と見なして「本家」の後継者と考えていたところもあったみたい。その後のロシア帝国の発展によってロシア正教会は勢力を拡大し、結果的に東方正教会で最大の信者数を抱えるようになったから、今度の対談がなんとなく「東西両教会代表の歴史的対面」みたいに扱われてしまうわけ。

 まぁいろいろケチをつけてみても、この対談が「歴史的」なのは間違いないだろう。ちょっと前まで、ソ連崩壊後の東欧・ロシアにカトリックが勢力浸透を図っていて、ロシア正教会側が警戒しているなんて報道も流れたことがあったのだが、今はそこまで対立しあう関係にはないということらしい。ソ連時代は「科学的社会主義」の観点から弾圧を受けたこともあるロシア正教会だが、ソ連崩壊後、とくにプーチン時代になってからは政権とも結びつき「大国ロシア」意識の高まりと呼応するように勢力を拡大しているとも聞いている。対談の場所が一応今も社会主義国の看板を掲げているキューバの首都であり、対談のおぜん立てをしたのもその最高指導者カストロ評議会議長であるというところにも「歴史的」なものを感じる。

 肝心の対談の中身の方だが、基本的には「初対面の挨拶」の域を出ないものだったと思う。キリル総主教が「この会談で、さまざまなことがうまく進むようになる」と語り、ローマ法王フランシスコが「ついに私たちは兄弟になった。これは明らかに神の意志だ」と応じるやりとりがあったそうで、会談後の共同宣言では「今回の会談が神の望まれる教会の再統一に寄与することを願う」と「東西教会の再統一」に言及は確かにあるのだが、「乗り越えるべき壁は多い」とも言っていて、当然東西ドイツ統一みたいに簡単にはいかないだろう。ところで教会の再統一が「神の望まれるところ」だとすると、この1000年間の分裂は神の御意思に背いていたってことにならないか?何やってんのよ、キリスト教会。

 そんなわけで神様なんているんかいな、ときわめて無神論者な僕などは思っちゃうわけだけど、そのロシアで「無神論」をネットに書き込んだ人物が「ロシア正教会信者の心情を害した」という容疑で起訴された、という報道があってビックリした。いやはや、ソ連時代から考えるとホントに隔世の感がある。
 もちろん、無神論を唱えたらいきなりしょっぴかれるというわけではない。なんでも数年前にロシアでは女性パンクバンドが正教会の大聖堂で「挑発的」なパフォーマンスを行って、これが正教会信者を侮辱する行為だということで懲役判決を受けたことがあり、それを機にそうした敬虔な信者への侮辱行為は処罰の対象にするという法律が2013年に制定されているという。あえて例えるなら一種の「ヘイトスピーチ規制」と思われるのだが、それこそシャルリ・エブドの件みたいに「風刺と侮辱の境目はどこなのか」という大疑問が浮かんでくる。今回起訴された人物は「地元のユーモア系ウェブサイト」上でハロウィンや聖書についての議論になり、そこで「聖書なんてユダヤ人のおとぎ話をまとめただけでまったくのたわごと」と書き込み、さらに「神なんていないんだよ!」と書き放ったものらしい。報道ではその書き込みのニュアンスがつかめないのだが、少なくとも議論に参加していた若者の一人には正教会信者に対する大変な侮辱と感じられ、「心情を害された」と告訴することにつながったとのことだ。
 報道からだとどの程度の過激な書き込みだったのか分からないのだが、いきなり逮捕・起訴ではなく精神鑑定を受けた上でとの記事もあったので、いささか度を越したものではあったのかもしれない(「ユダヤ人のおとぎ話〜」というくだりも反ユダヤ的ととられたかも)。ロシアの話ということで西側メディアにこの手の話が流れると「政権と結びつく正教会が勢力を増し、とうとう無神論も言えなくなった!」って感じに報じられてるのだが、もうちょっと真相は別のところにあるのかも。もちろんネット上のその手のやり取りくらいで起訴されちゃうというのはあまりいい社会ではないが(だからヘイトスピーチ規制も取り扱い注意なんだよな)



◆人類史はまだまだ分からない

 当「史点」でもたびたび化石人類と人類進化の話題をとりあげるが、この「史点」連載中にも人類史は次々と新たな発見や見解が出てきて話がひっくり返ってきた。もちろん原人、ネアンデルタール人、現生人類といった各段階の人類がいずれもアフリカに出現し、次々と「出アフリカ」をして世界に散らばって行った、という基本シナリオ自体に変化はないのだが(それでも思い返せば「旧石器捏造事件」はその通説をひっくり返しかねない危険性を持ってたんだよな)、拡散の時期や過程については新たな説が次々と登場してきた。ここ十年来でもっとも刺激的だったのはDNAの調査により現生人類とネアンデルタール人の「交配」が確実視されてきたことだと思う。

 これまでネアンデルタール人と現生人類の交配については現在の人類のDNAの調査が根拠となっていたが(特に東アジア人は濃厚らしい)、今回はネアンデルタール人のDNAの調査からの発見というのが面白い。2月17日に「ネイチャー」誌上で発表された論文によると、シベリア南部アルタイ山脈の洞窟から発見されたネアンデルタール人の化石から採取したDNAを分析したところ、21番染色体に現生人類のDNAの痕跡があったというのだ。つまりこのネアンデルタール人は現生人類との混血の子孫であったということになる。
 その発見自体も面白いんだけど、これが事実とすると話はさらに広がる。このネアンデルタール人の推定生息年代は記事に出てなかったのだが、アルタイ山脈あたりはネアンデルタール人が最も北に進出した地域、つまり彼らにとっての「北の最前線」にあたり(シベリアへ進出したのは現生人類からというのが通説)、そんなところにいたネアンデルタール人に現生人類の血が混じっていたとなると、その交配の時期は結構早いと推定される。これまでの通説では現生人類の「出アフリカ」は7万年前ぐらいではないかと言われていたのだが、今度の発見をした研究者たちは「出アフリカ」が10万年前以前でないと話が合わない、と考えている。そういえば今年1月に「現生人類の北極圏進出は従来説より一万年早い4万5000年前」という研究も出ていたし、現生人類拡散の歴史は全体的に前倒ししなければならないのかも。

 「史点」では拾い損ねたのだが、現生人類の「出アフリカ」がもっと早いのではないか、という研究発表は昨年10月にもあった。中国南部湖南省の洞窟から「8万年前と推定される現生人類の歯」が発見されたとの発表があり、やはり従来の人類史をくつがえしかねない発見として注目されていたのだ。今度のネアンデルタール人のDNAを分析した研究者たちもこの中国での発見との関連について言及しているようで、この「歯」についてもDNA分析の結果が待たれるところだ。
 また「出アフリカ」時期についても、実は「第一波」「第二波」があったという説も結構有力で、今度の発見をこれと結びつけている人もいるようだ。つまり10万年ほど前に「出アフリカ」をした「第一波」のグループがあり、彼らは一足先にアジア東方まで進出して先住のネアンデルタール人と出会った。その後7万年ほど前に「第二波」の「出アフリカ」をしたグループがいて、それらはヨーロッパ方面へも進出した、という考え方だ。この第一波のグループがそのままアジア人の先祖になったとは限らず、案外このグループの子孫は絶えてしまって第二波グループが現在のアジア・ヨーロッパ人の先祖ということになるのかもしれない。


 さらに一気に話をさかのぼり、人間とゴリラの分岐点についても新しい発見があった。
 人間(ヒト)に近い動物を「類人猿」と呼び、ゴリラやチンパンジーがこれにあたる。彼らはヒトと共通の祖先から枝分かれした生物学的な「親戚」あるいは「兄弟」的存在で、まずゴリラ、それからチンパンジーが枝分かれしたと考えられている。その枝分かれの時期についてはまだ確定はしていないが、DNAの分析や化石発掘の成果からゴリラはおよそ800〜900万年前、チンパンジーはおよそ600〜700万年前に人類から分岐したとする見方が有力になっているらしい(調べてみるとこれがまた異論いろいろなんだけど)
 2月11日付の「ネイチャー」に日本とエチオピアの共同研究チームの論文が掲載され、2007年にエチオピアで発見され「チョローラピテクス」と名付けられていたゴリラの先祖と推定される動物の歯の化石について、これまで1000万年前の地層から出土とされていたが、断層によるズレがあることが分かったので他の化石の放射年代測定などで修正を行ったところ、およそ800万年前のものと判定されたことが明らかにされた。これまで1000万年前〜700万年前の類人猿化石はアフリカでも見つかっていなかったのでそれだけでも貴重である。そして、いささかややこしいのだが、これはあくまでゴリラの祖先であってヒトの祖先ではなく、およそ800万年前にはゴリラとヒトがすでに枝分かれしていた証拠になる、ということらしい。研究チームではこの発見により、ヒトとゴリラの分岐は通説より100万年ほどさかのぼる1000万年前くらいになり、チンパンジーとの分岐もやはり100万年ほどさかのぼらせることになると考えているようだ。そうなると「人類」とみなせる動物の出現はおよそ800万年前ほどになり、これからそれを裏付ける化石人骨が見つかれば…という話になる。アフリカではやたら化石人骨が発掘されてるイメージがどうしてもあるのだが、実のところあんまり古いのはなかなか見つからないので、実証するのはかなり大変なのではなかろうか。



◆歴史映画と史実の関係

 「歴史映像名画座」なんてコーナーをやってるもんだから、洋の東西の歴史映画・歴史ドラマを可能な限り見まくっている僕であるが、当然ながらそれら映画・ドラマがそのまんま史実とは思っていない。むしり史実と異なる「改造」をした作品がほとんどと言っていい。もちろん中には可能な限り「史実の再現」を試みた作品もないではないのだが、実のところそういうのはたいがい面白くないのである。歴史映画や歴史ドラマの楽しみ方はむしろその「改造」ぶりを楽しむことにあると言っていい。もちろんあまりに史実とかけ離れた内容でも大批判を食らうわけで、その辺のさじ加減が面白さでもあるのだ。

 ピーター=シェーファーの戯曲を原作としたミロス=フォアマン監督作品『アマデウス』は天才作曲家モーツァルトと、彼の才能を理解しながらも激しい嫉妬にかられる宮廷作曲家サリエリとの愛憎を描く傑作だ。この映画、もちろん原作と脚本を担当したピーター=シェーファーのストーリー構成がうまいんだけど、映画ならではの魅力として中世の雰囲気を残したチェコ・プラハでのロケ(ちなみに監督の母国である)、現存する古い劇場を使ってのオペラ再現などが挙げられる。さらに強烈な印象を残すのはやたらと下品に笑い、女たらしで金遣いも荒い人格的にはどうかという人でありながら音楽の才能はまさに天才、という奇怪なキャラクター・モーツァルトを演じたトム=ハルスの存在感だ。主役はあくまでサリエリなのでアカデミー主演男優賞もノミネートは異例の二人一緒の栄誉に輝いたものの賞自体はサリエリ役のF=マーリー=エイブラハムが持って行ってしまい、トム=ハルスは無冠に終わってしまったのだが、映像作品におけるモーツァルトのイメージを決定的にしてしまったほどの強烈な名演(怪演?)であった。この俳優さんもその後は特に目立つ役には恵まれてなくて、これが一世一代の名演となってしまったわけだけど。
 
 この「アマデウス」ではサリエリがモーツァルトを毒殺したことになっている。ネタバレ書くなとおっしゃる未見の方もおられようが、そもそも映画の冒頭でいきなり本人がそう言い出すのである。そもそもサリエリ存命時からその噂はあり、「アマデウス」はその噂を下敷きとして創作されたのだ。ただし、僕は映画を見ただけだが、映画では毒殺が直接的に描かれるわけではなく、サリエリがモーツァルトを巧妙に精神的に追い詰めていって過労死させたように見えなくもない。死の直前のモーツァルトが「レクイエム」を作曲、サリエリがそれを楽譜にしていくという共同作業をしていて、確執していた二人が和解したかのようなシーンもあった。

 そのモーツァルトとサリエリが「共作」した楽譜が発見された――とのニュースを聞いた時、僕がまず思い起こしたのがこの「アマデウス」のクライマックスシーンで、「『レクイエム』を口述筆記で共作したアレか?」などとツッコんでしまったが、もちろんあれは全くの創作。今回発見されたのは1785年(モーツァルトの死の6年前)にモーツァルトとサリエリ、そしてもう一人、コルネッティという作曲家を加えた三人による共作で、当時の宮廷詩人ロレンツォ=ダ=ポンテ(「フィガロの結婚」も彼の作)の詩に曲をつけたカンタータであるという。もともと存在自体は知られていたらしいが、長らく消息不明になっていたのを音楽研究家がチェコ音楽博物館の収蔵品の中から1月中に発見、2月16日に演奏ともども披露されることとなったのだ。
 「アマデウス」自体が創作なので、「サリエリとモーツァルトは実は仲が良かった!」と史実がひっくり返ったというわけでもない。そもそも両人はウィーン宮廷にいた同僚の関係なんだから仲が良かろうが悪かろうが一緒に仕事することはあっただろう。ま、モーツァルトの方が邪魔な上司としてサリエリを嫌っていた気配はあるようなのだが、サリエリの方はモーツァルトを憎悪したという事実は確認できず、むしろその才能をちゃんと評価していて、後年「毒殺」の噂をたてられて気に病んでいたらしい。


 歴史映画がらみの話題をもう一つ。歴史映画といっても、まだその主人公が現在も生きているくらい近い時代の話だ。主人公は社会主義体制下で自主管理労組「連帯」を起こしてノーベル平和賞を受賞、のちの東欧革命・冷戦終結への切っ掛けを作り、ポーランドの大統領にもなったレフ=ワレサ(「ヴァウェンサ」の方が発音が近いらしいが日本の慣例に従う)である。いくつになったかな、と調べて見たら今年でまだ72歳だった。この人の半生はポーランドの巨匠アンジェイ=ワイダ監督によって「ワレサ 連帯の男」(邦題)という映画にもされている。
 その映画で描かれるワレサは変な例えだが「江戸っ子気質の親分肌」な人で、当時「労働者の国」であるはずのポーランドの造船所が過酷なノルマ、低賃金長時間労働の「ブラック企業」であったことに我慢がならなくなり、本来の意味での労働組合を結成して運動を進めていく。特に学やイデオロギーがある様子はない人物に描かれていた。その後大統領にまでなっちゃうのだが、こういうタイプの人は天下を取っちゃうとまるでダメ、というパターンがあり、大統領選に敗北して20世紀のうちに政治家としてはかなり忘れられた存在になってしまっている。

 そのワレサに突然「疑惑」がわきおこった。2月18日にポーランド政府当局が「ワレサ氏が共産党政権時代に秘密警察の協力者だったことを示す書類が確認された」と発表したのだ。22日にはその書類の写しも公開、ワレサ氏に説明を求める、と声明した。これに対しワレサ氏本人は「そのような書類など存在するはずがない」と全否定の姿勢を見せている。
 問題の書類は、昨年亡くなった元秘密警察の将軍チェスラフ=キスチャクの遺品で、1970年から1976年にかけて、当時グダニスクの造船所で働いていたワレサ氏が「ボレク」の暗号名で労働運動側の情報を秘密警察に送っていたこと(つまりスパイということになる)、資金援助も受けていたことなどを示す内容だという。キスチャクはこの書類を社会主義体制崩壊後もしっかり保存していたが、1996年に「この書類はワレサと秘密警察の協力を示すもの。ワレサの死後5年は公開しないように」との手書きメモもつけていた。結局彼の死後に未亡人が書類を当局に渡してしまい(夫による「ワレサ死後5年」のメモは読んでなかったという)、その内容がワレサ存命中に明らかにされることになった、という次第だそうだ。
 
 自主管理労組を結成して共産主義政権ににらまれ、それこそ秘密警察にもマークされていたであろうワレサが、実は秘密警察の協力者だった、というのは結構ショッキングな話ではある。ただこの資料の信憑性についてはまだまだ議論の余地があるようで、筆跡鑑定も含めて検証には数か月はかかるかも、との話も出ている。また現在のポーランド政権はかつての社会主義体制を思わせるメディア統制を強めているとされ、ワレサ氏がそれを強く批判していた折でもあり、ワレサ氏の評価をおとしめようという政権側の意図を疑う声もある。
 真偽のほどは現段階ではなんとも言えないが、ありえない話ではないな、というのが僕の観測。歴史を振り返れば、そういう「宗旨替え」をして歴史的偉業を成し遂げた有名人は結構いるものだし、実はワイダ監督の映画の中でも、1970年の労働者暴動の折に巻き込まれて逮捕されたワレサが秘密警察から「情報提供者」になるよう強要されて、家に帰りたいあまり同意のサインをしてしまうというシーンがあり、こんな場面をわざわざ創作するとも思えないのでワレサ自身がそういう体験を語っているのだろう。この一件ももしかするとその辺につながってくるのかもしれない。その書類の中身の詳細は分からないのだが、案外当人も含めて大した情報提供者ではなかった可能性も感じる。もともとワレサ自身は社会主義政権に敵対的な思想・志向を持っていた人とも思えないしね。これは続報待ちですな。



◆それって何のジョーモン?

 いきなり個人的な話だが、僕の母校の小学校は昨年廃校になってしまった。正確には少子化のために近隣の小学校三つが統合されたものなのだが、明治6年(1873)開校という、実に142年、近代日本と共に歩んだような歴史を持っていた小学校があっさりと消えてしまったのにはかなりの寂しさもあった。この小学校、歴史が古いせいか校歌もかなり古風で、小学生時代の僕にはその歌の意味がなかなか分からなかった思い出がある。
 その古風な校歌の歌詞に「上古の遺跡貝塚に昔の栄(はえ)ぞ今に知る」という一節があった。近くに縄文時代の貝塚が存在し、のちに大量の人骨が発見された重要な遺跡だったりするのだが、その発見は僕が卒業したずっと後のこと。とにかく貝塚があることが「古い歴史をもつ郷土」の裏付けになってるわけ。小学生の僕には「昔のハエがどうした?」と首をかしげるばかりの歌詞だったが(笑)。その後中学校に進んだらここの校歌にも「縄文の昔を胸に」なんてフレーズがあり、やはり貝塚にちなんで「古い歴史」をアピールしていたのだが、この中学校も同時に合併になって消滅しちゃったんだよな(建物だけ新中学に利用されているけど)

 実のところ貝塚なんて市内にすら他にいくつもあったし、日本全体で見てもそう珍しいものではない。さらに言っちゃえば世界的に広く存在しているもので、そもそも日本における貝塚を「発見」したのはお雇い外国人のモースだった。貝塚が作られた時代をその土器の呼び名から「縄文時代」と呼ぶのだが、これももともとモースが「cordmarked pottery(索文土器)」と呼んだことに由来しているという。日本列島においてこの縄文土器が製作され、稲作が開始されて「弥生土器」が作られるようになるまでの期間を大雑把に「縄文時代」と呼ぶのだが、その期間は実に1万6000年前から2300年前まで(当然かなり流動的な幅を持つ)の一万年以上にも及ぶ。
 そんな長期間の「縄文時代」が、どういうわけか「日本のルーツ」として妙にもてはやされるようになったのはここ20年くらいだろうか。程度はピンからキリまであるのだが、極端なのになると「縄文文明」などと呼んで世界古代文明に並べてしまうほどの声まである。そこまでいかなくても縄文時代を「一万年に及ぶ、自然と調和した平和な時代」とやたらに美化する傾向は結構広がっている。僕は以前からこれらをひっくるめて「縄文幻想」と呼んで批判しているわけなんだけど、ここに来てその幻想(妄想)を世界に発信しよう!と地方自治体の首長たちが運動し始めてしまったから頭痛が痛くなってしまった。


 3月7日付で地方紙などで出た記事で「日本の縄文文化、世界に発信 東京五輪に向け、長岡市など団体設立へ」という見出しのものがあった。教科書でもおなじmきの「火焔土器」の出土地である長岡市に事務局をおき、青森市・長岡市・三条市・長野県川上村といった縄文遺跡がある自治体が呼びかけ、「日本文化のルーツである縄文文化の価値を見つめなおし、世界に向けて発信してゆく」ことを目的に「縄文文化発信サポーターズ(仮)」なるものが発足するというのだ。記事では関係者の説明をそのまま受けて「縄文文化は約1万5千年前から約2900年前までの長期にわたり自然と共存してはぐくまれた」と紹介していて、日本固有の文化であることを広く知ってもらう」とまで関係者が言ってることまで紹介していた。呼びかけ人の中に昨今はすっかり「保守タレント」化した観のある津川雅彦氏が名を連ねているところなど、何やら香ばしさ(?)を感じてしまった。
 関係記事をさかのぼると、すでに昨年10月の時点で新潟市・三条市・長岡市・十日町市・津南町で作る「信濃川火焔街道連携協議会」(火焔土器が出土した自治体で作ったもの)なる組織が、遠藤利明五輪担当大臣に「新国立競技場の聖火台のデザインに火焔土器を採用してほしい」という要望書を提出していた。そう、つい最近「どこに作るのか忘れてた」ことが発覚した、あの聖火台である(笑)。新国立競技場といえば、「仕切り直し」の再コンペで落選したB案のデザインも「縄文」を意識したデザイン、とか報じられていて、こちらも「縄文=日本のルーツ」という発想があったことになる。
 今年に入って1月末には、国宝とされる土偶・土器の出土地である茅野市(長野県)・十日町市・舟形町(山形県)の三首長が連名で遠藤五輪相に要望書を提出、縄文文化について「国際紛争や環境破壊など現代社会が抱える地球規模の課題解決に向けて、日本が自信を持って発信できる文化」と持ち上げ、やはり聖火台を火焔土器型にするなど、東京五輪で「縄文文化」を世界へ発信してもらいたいと申し入れていた。
 さらにいろいろ調べていると、特にこの茅野市長が市を挙げて数年前から「縄文文化」発信に力を入れてることが分かった。茅野市は国宝土偶を二体も出土させたことから縄文時代には「先進地域」だったという自負があるらしく、「縄文」アピールにえらく熱心なのだ。今年の正月明けに長野日報が報じたところによると、茅野市は今年から東京五輪に「縄文の精神」を反映させるため広域的な運動に乗り出すことを表明しているのだそうで、すでに2014年10月に「縄文プロジェクト」なるものを策定、その中で「人類は農耕の開始に伴って富の蓄積や分配で争いを繰り返し、物質的な豊かさを求めて自然を破壊してきた」と指摘し、「自然と共生した縄文人の生き方がテロや自然災害、 経済格差などで不安定化する現代社会に一筋の光を与えている」とまで縄文文化を持ち上げちゃっているのだそうだ。
 
 最後に引いた茅野市の「縄文プロジェクト」について検索してみたら、「2ちゃんねる」にこの件についてのスレッドが立てられ「縄文しぐさ」とのキャプションがつけられていて笑ってしまった。そうそう、同じ「香ばしさ」を感じた人がいるんだな、と思ったものだ。ひところ公共CMにも使われ、一部企業や自治体、教育関係団体、さらには道徳や公民の教科書にまで堂々と進出してしまった「江戸しぐさ」と扱われ方が似ているのだ。「江戸しぐさ」についてわかんない方は、ウィキペディアでもいいからざっとお調べいただきたいが、要するに現代人が勝手に理想化して勝手にでっちあげた「江戸しぐさ」なる架空のマナーが、「古き良き伝統」みたいに扱われて実在したものとして広まってしまったのだ。詳しくは原田実さんの著書「江戸しぐさの正体」「江戸しぐさの終焉」(星海社新書)を参照されたい。

 「江戸しぐさ」はその創作者や後継者・共鳴者たちの普及運動だけでなく、なんとなく広まっている「江戸時代ユートピア妄想」と結びついていたところがある。そして僕が「縄文幻想」とまとめて呼んでいる動きにも、「縄文時代ユートピア妄想」とでもいうべき、現代人が勝手に思い描いて一方的に押し付ける、かなり理想化された縄文イメージが根底にあるのだ。この記事を書くために見つけた上記の記事だけでその勝手な幻想が思いっきりぶち上げられている。
 まず「縄文時代」「縄文文化」と一口に言っても、それは後世の人間が便宜上ひとまとめにして区分しているだけのことで、実際には地域や時代で多種多様だ。そしてそれは稲作開始=弥生時代突入と共にほとんど消え去ってしまい、その後の日本文化にどこまで「縄文」が引き継がれたかはかなり怪しい。大陸から来た弥生人が縄文人を征服、追放していったとの説もあるわけで(融合、ということはあるだろうが残ったのは弥生的なものだ)、「縄文」を日本文化のルーツだと過剰に言い立てるのは大疑問。こうした「縄文=日本のルーツ」な発想は縄文土器が世界最古の土器だと喧伝されたあたりから生まれたのではないかと僕は感じているが、これだって(予想はされてたことだが)現在では日本以外の地で最古の土器が確認されている(余談だが「旧石器捏造事件」のあの人が「秩父原人の住居跡」を“
発見”した時も「日本は当時から技術先進国とブチあげちゃった人もいたな)。また「日本固有の文化」と言い切ってる人がいるようなのだが、世界的に見れば農耕文化以前ならどこでも似たようなもので、特に日本独自というわけでもない。
 また「縄文時代は一万年も続いた」とその長さを称賛の理由にする声があるのだが、これについてはネット上で「じゃあ旧石器時代の方がはるかに長いじゃないか」とツッコまれていたが、まさにその通りの話。実際には縄文時代の間にゆっくりではあるが変化はそれなりにあって一万年ずっとおんなじだったわけではないのだが、一万年以上ほとんど変わらぬことを評価するのなら、ニューギニアやアマゾンの奥地などにいる、つい最近、あるいは現在進行形で石器時代をやってる人たちをとても素晴らしいと評価してあげなくてはいけない(念のため、そうした文化をおとしめたいわけではない。日本独自のなんとやらと言い出す人への反論として挙げたのだ)

 「縄文人は自然を破壊することなく調和していた」という意見もかなり眉唾。こうした縄文イメージはエコ思想ともマッチするのでよく引き合いにされるのだが、縄文人だってそうしたくてしていたわけではあるまい。はっきり言っちゃえば「そうするしかなかった」のだ。狩猟採集に頼る縄文人の生活は決して楽なものではなく、明らかに農耕社会の方が安定して食料にありつけた。縄文時代の日本列島の推定人口は早期にはたった2万人、中期に26万人でピークになり、その後は10万人を切るまでに減少したとされている。たったこれだけの人口しかいないのは明らかに生活が楽ではなかったためだろうし、そもそも中期でピークになってその後減少するのは「人口増加のための環境破壊」が原因との説まであって、この点でも縄文に過剰な幻想を持ってはいけない。「争いのない平和な時代」というイメージも実はかなり怪しく、農耕以前の社会でも人間が「戦争」をしていた痕跡は世界各地で見つかっていて、アイヌ社会の例などを見ても縄文時代も決して例外ではないはずだ。

 茅野市の縄文プロジェクトにもあるように、確かに農耕が始まると貧富の差が広がり、さらには戦争も起こって国家支配体制が生まれていくことになるので、どちらが「豊かな生き方」なのか、という議論はできなくはない。ただ農耕が始まってからの方が人口も明らかに増えるし、その後の日本文化・国家は明らかにその農耕文化の延長上にあるわけで、それを全否定しちゃうというのはいかがなものか。まさか「原始共産制社会」に帰れ、と言いたいわけじゃあるまい。
 とまぁ、縄文幻想をさんざんクサしてみたけど、こうした縄文文化発信運動を推進する自治体の本音は観光客誘致の「地域おこし」であって、先日とりあげた伊賀・甲賀の忍者観光作戦と一緒、それが史実であるかどうかなんてのは二の次なんだろうと思っている。変な幻想を世界に発信して恥をかかなきゃいいんだけどね。まぁ聖火台を火焔土器にするくらいは面白いんじゃないかな。長野五輪でもなぜか卑弥呼のコスプレで聖火点灯してたし。

 
 ついでに縄文関係の小ネタをくっつける。
 宮崎県宮崎市の大野原遺跡から出土した、推定4300年前の縄文土器から、「ゴキブリの卵」の圧痕(くっついていた痕跡)が確認された、というニュースが2月9日にあった。発見したのは熊本大の小畑弘己教授(東北アジア先史学)の研究チームで、もちろん肉眼で見たわけではなく、土器の表面の穴にシリコンゴムを流し込んで型どりし、それを電子顕微鏡で見て調べる、という方法がとられた。その方法で約4300年前と約4000年前の土器片一個ずからゴキブリの卵数個が入った「卵鞘(らんしょう)」の圧痕が見つかったのだ。
 小畑教授の研究チームは同じ大野原遺跡でコクゾウムシ(稲につく害虫として知られる)の圧痕を日本最多の173点も発見しているそうで、大野原遺跡がかなり定住性の高い集落であることが推測されていた。今回のゴキブリの卵の圧痕発見でそれがさらに裏付けられたことになるそうだが、これは同時に日本におけるゴキブリ生息確認の最古の記録ともなるのだそうだ。
 さらに面白いのが、今度発見されたゴキブリの卵鞘は現在の「クロゴキブリ」のものに似ているという話。クロゴキブリは現在日本では関東から奄美大島まで生息しているが、もともと中国南部原産と推定されていて、小畑教授は中国南部から船に乗って日本に渡ってきた可能性を指摘、今度の発見が「日本のゴキブリの起源と伝播n関する研究に新たな問題を提起した」とおっしゃっているそうで。
 いやはや、なんにでも歴史あり。怪しげな「縄文文化幻想」なんかより、「密航」により海を果敢に渡って生息地を広げるゴキブリたちの大冒険の方に、僕は「歴史のロマン」を感じちゃいますねぇ(笑)。


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