ニュースな
2016年4月8日

<<<<前回の記事
次回の記事>>>


◆今週の記事

◆沈黙の遺骨 

 別にスティーブン=セガールの新作タイトルではない(笑)。そもそも遺骨というのは沈黙してるものだが、遠藤周作の小説「沈黙」マーティン=スコセッシ監督による映画化が現在進行中で、そのつながりで過去の映画化作品である篠田正浩監督版(なんと丹波哲郎がポルトガル人宣教師役)を先日見たので、タイトルにひっかけてみた。
 小説「沈黙」は、島原・天草一揆の直後、鎖国体制の日本に潜入したカトリックの宣教師が主人公で、その宣教師が最終的に棄教する内容となっている。そこに至るまでの葛藤や神の「沈黙」が重大なテーマとなっていて、世界のキリスト教文学でも重要な一篇と評価されているのだが、この主人公にはほぼ同じ経緯をもつモデルがいた。ジェゼッペ=キアラというイタリアはシチリア島出身の宣教師で、1640年代に日本に潜入して捕えられ、江戸で拷問を受けた末に棄教、日本人「岡野三右衛門」となって江戸の「切支丹屋敷」で一生を終えている。キアラはキリスト教の教義をまとめた著作も残していて、これを後年、新井白石が熟読してキリスト教理解につとめたという。

 なんで白石がキリスト教を理解しようとしたかと言えば、白石の時にも潜入宣教師がいて江戸に連行されていたからだ。奇しくもこれまたシチリア島の出身で、ジョヴァンニ=シドッティという。彼はフィリピンから船で屋久島に上陸、月代(さかやき)をそってまげも結い、和服も来て大小二本の刀も腰に差すという本人としては完璧な日本人変装だと思っていたのだろうが、上陸直後に島民に発見され役所に突き出されてしまった。ま、やはり見るからに「怪しい」と思われる外見だったのでしょうな。映画「007は二度死ぬ」「日本人に変装したジェームズ=ボンド」みたいな感じだったのだろう。
 シドッティは江戸に連行され、切支丹屋敷に幽閉された。このとき彼の尋問に新井白石が当たったわけだ。白石は政治家という以前に学者であり、上記のキアラのキリスト教義本をしっかり読み込んだうえでシドッティの尋問に臨んだ。シドッティとはお互いの学識を認め合って大いに共鳴するところがあったようで、この時得た海外事情の知識を『西洋紀聞』という著書にまとめてもいる。

 シドッティはキアラのように棄教を迫られることもなく、切支丹屋敷に軟禁状態とはいえまずまずの待遇で扱われた。ただし「宣教をしてはならない」という条件があり、結局シドッティはこの条件を破ってしまう。この切支丹屋敷には親がキリシタンであった老夫婦が住んで管理にあたっていて、シドッティは彼らに「宣教」して洗礼までしてしまったのである。さすがにこれを幕府は許せず、三人そろって地下牢に投獄、結局三人とも獄死してしまった。棄教を迫られて拷問を受けた可能性もあるが、当時の牢屋の環境は最悪だったからもともと獄死率は高く、どのみち助からなかったかもしれない。シドッティの死は1714年のことと言うから、今からほぼ300年前ということになる。

 さて4月4日、 東京都文京区が2014年に切支丹屋敷跡地で発掘された三体の遺骨について、一体が「シドッティの可能性が高い」と発表した。すでに2年前にマンション建設のために発掘調査が行われ、埋葬されていた遺骨を発見したわけだが、その後これらの遺骨を国立化が博物館でのDNA鑑定や人類学的分析にかけていたとのこと。その結果、そのうちの一体について「身長170cm超のイタリア人中年男性」という鑑定結果が出た。切支丹屋敷にいたイタリア人と言えばキアラとシドッティの二人になるが、キアラは84歳の長寿を全うしているため47歳で死去したシドッティがピッタリということになる。身長についても当時の記録に残っているためまず間違いないと確認できるとのこと。墓が判明している場合は別として、こういう発掘遺骨で個人特定ができたケースはかなり珍しいみたい。
 他の二体の遺骨は、一体が日本人男性と確定、もう一体は遺骨からの性別判断ができなかったが「お歯黒」らしき痕跡があること(当時の成人女性はみんなしていた)、全体的に華奢であることなどから女性と推測、状況から言ってシドッティと共に獄死した老夫婦であろうと推定された。
 僕が読んだ朝日新聞の記事では、世田谷区にある「聖アントニオ修道院」のカンドゥチ神父という人のコメントが出ていて、「最後まで布教をあきらめなかったシドッティは見事な殉教者。列聖をバチカンに働きかけたい」とあった。そういやバチカンが高山右近を「福者」に認定したのも今年1月のことだったっけな。「聖人」となると豊臣秀吉時代の長崎殉教者とか、弾圧を受けて処刑(殉教)した人の方が認定されやすいようだから、シドッティは確かに条件クリアになるかもしれない。でも棄教したキアラについてはバチカンは「沈黙」するんだろうなぁ…


 ついでにもう一つ遺骨の話。
 3月末に奉じられた話だが、イギリスの大劇作家ウィリアム=シェークスピア没後400年(1616年没)を記念して、彼の故郷ストラトフォード・アポン・エイボンの教会にある彼の墓のレーダー探査が行われた。するとシェークスピアの頭骨の部分だけがなくなっている可能性が高い、との結果が出たという。なんでも1794年に墓があばかれて頭骨だけ持ち去られたと記した11879年発表の雑誌記事があり、これまでそれは創作と見なされていたが、今度の発見が事実ならそれを裏付けることとなるとのこと。今度の調査で墓の頭部分が一度破壊されたので修復した痕跡も確認できたそうで、いよいよ話は現実味を帯びている。それにしても盗んだ当人はシェークスピアのドクロなんぞ持ち出してどうする気だったのだろう?またシェークスピアの頭骨は現在どこにあるのだろう?それが問題だ。
 じゃあちゃんと掘って確かめてみたら、と思うのだが、教会側が「故人の遺志に従って墓をあばくことは認めない」との方針なのだそうだ。シェークスピア本人の遺志というのは、彼自身が書いたという墓碑銘に
そして、我が遺骨を持ち出す者に呪いあれ」と書かれていることを指す。シェークスピアのドクロなんぞ持ち出した奴に呪いがかかったのかどうか、それも問題だ。


 墓の話つながりでさらについで。
 4月に入って、天皇・皇后および秋篠宮など皇族たちが奈良県を訪問していた。はて、そんなにおそろいでどうしたんだろ、と思ってニュースを聞いていたら、神武天皇没後2600年で神武天皇陵参拝のため」と聞いてちょっとビックリした。神武天皇とは『古事記』『日本書紀』が伝える伝説的な初代天皇で、天皇家にとっては重要なご先祖様には違いなく、これまでも皇室で何かあると神武陵参拝をするのは定番ではあったのだが、「没後2600年」記念で参拝することになるとは、と驚いたのだ。
 『日本書紀』によれば神武天皇は即位から76年目の3月11日(現在の暦に換算すると4月9日になるらしい)127歳で死去したことになっている。昭和15年=1940年に軍国主義まっさかりの日本では「紀元2600年」で大騒ぎしていたが、これは神武即位年(辛酉の歳)を西暦の紀元前660年と換算したことに基づく。それから今年で76年だから、神武没後2600年ということになるわけだが、そもそも127歳まで生きたはずはなく(古事記にいたっては137歳とする)、神武陵にしたって江戸時代以降に二転三転の末に治定したものだから、正直なところ誰のお墓だかわかったものではない。まあ皇室としては信じる信じないとは別のことになっちゃっているのだろうけど。



◆ほんの70年前の話

 前にも書いた話題だが、今年で没後70年が経過したということで、アドルフ=ヒトラーアンネ=フランクの著作権が切れた。前者の著作「我が闘争」については結局注釈をつけた上で新版を出版ということになり、後者の「アンネの日記」については著作権切れ新版が出たのに対して財団側が反発し著作権保護の起点をアンネの死去時より遅らせる主張をしている。偶然ながら、今回はこの二人の話題が重なってしまった。

 3月18日、アメリカはメリーランド州で「ヒトラーが所有していた『我が闘争』」なるものが競売にかけられた。ヒトラーが所有していたというのはあくまで推測なのだが、ヒトラーが一時期住んでいたミュンヘンのアパートに保管されていたものだから、恐らくヒトラー所有のもの(装丁が割と立派なので支持者にプレゼントする予定だったとの推測もある)とみなされている。このヒトラーにとっての「我が「我が闘争」」は第二次大戦も末、ヒトラー本人も自殺した直後の5月初頭にミュンヘンに進駐したアメリカ軍の兵士たちが入手したもので、日記にはその兵士たち11人の名前と共に「1945年5月2日 ミュンヘンのアドルフ・ヒトラーのアパートより」と書かれているという。
 この「我が『我が闘争』」を競売に出したのはその11人の誰かなのか、それともどこか保管しているところがあったのかは確認していないのだが、ともかく18日の闘争、もとい競売でこの本はアメリカのコレクターが2万655ドル(約230万円)で競り落とした。ヒトラーのサイン入りだったりするともっと値がついたのかな、などと意地悪なことも言ってしまう微妙なお値段という気もする。それでも落札予想価格は1万5000ドル程度だったそうだから、値はついた方なんだな。
 

 アンネ=フランクの方は彼女の著書ではなく、所有していたグリム童話の本が競売にかけられることになった、という話題。
 そのグリム童話の本はアンネの姉マルゴットからの「おさがり」だったそうで、姉の名前とアンネの名前が書かれているという。興味深いのはこの本にまつわる逸話の方で、この本は有名な隠れ家にあったものではなく、その前に住んでいたアパートに残されていたもので、あるオランダ人一家が戦後まもなく古本屋でこの本を購入した(誰が古本屋に売ったかも気になるが)。そして戦後30年もたった1977年になって初めてアンネ=フランクの署名があることに持ち主が気がついた。フランク一家で唯一戦後まで生き延び、当時まだ存命だったアンネの父オットー=フランクさんに連絡をとったところ、「私の娘の形見としてそちらの娘さんに贈ってほしい」と記した手紙が送られてきたという。それでこの本はその一家のもとに長らくあったが、このたびそのオットーさんの手紙ともども競売にかけることになったという(手紙は証拠品ってことだもんね)
 競売は5月に行われるそうだが、2万〜3万ドルくらいが落札予想価格らしい。もちろんアンネの署名入りだからこそのお値段で、それがなければ75ドル程度のものだとか。

 アンネ=フランクと言えば同時期にこんな話題もあった。オランダの北ブラバント州に建設されたレジャー施設に、「エスケープ・バンカー(隠れ家を脱出せよ)」というアドベンチャーアトラクションが作られたのだが、その構造の一部が「アンネの隠れ家に似てないか?」と物議を醸している、というのだ。
 報道によると同アトラクションは、参加者がナチス支配下で戦うレジスタンス戦闘員になり、隠れ家から脱出方法を見つけるという内容であるらしい。だから作り手としては「アンネの隠れ家」を想定したつもりはなかったのだろうが、「隠れ家」ということで無意識のうちに似てしまったのかもしれない。アンネ=フランク財団は「ホロコーストの生き残りへの思いやりが足りない」「そもそもナチスから身を隠すことを娯楽アトラクションにするとは」「隠れ家にいた人たちがもっと利口なら捕まらなかったと言いたいのか」と厳しく非難したとのことで、主催者は「誰かの気持ちを傷つけるつもりはなかった」としつつ、アトラクションの文章表現の手直しなどを考えているとのこと。


 上記の話題で「ホロコーストの生き残り」という言葉が出たが、すでに戦後70年も経つとその生き残りも数少なくなってきている。アンネ=フランクは生きていれば今年でまだ85歳なので、当時少年少女だった人たちはまだ生き残っているだろうけど大人は…と思っていたら、なんと現時点で「世界最高齢の男性」と認定された人物がイスラエル在住の、まさに「ホロコーストの生き残り」だというから驚いた。
 その男性はイスラエルのハイファに住むイスラエル=クリスタルさん(名前で「イスラエル」ってのは初めて聞いた)。今年1月19日に日本の福井県在住の小出保太郎さんが112歳で亡くなり、その次の世界最高齢男性とギネス・ワールド・レコードで3月11日に認定された。クリスタルさんは1903年9月15日にポーランドで生まれ、第二次世界大戦当時は40代前半だった。40歳の時の1943年に名高いアウシュビッツ強制収容所に入れられ、ここで妻を失っている。子供二人もポーランド国内の別の場所で亡くなっていて、まさにホロコーストの生き残り、生き証人なのであった。とうとう世界最高齢男性にまでなってしまったが、「長寿の秘密は知らない。すべては神の決めたこと。自分より賢く強く見栄えの良い男達がいたがみな存命していない」とコメントしていた。
 ついでに調べたのだが、現時点で最高齢の人物はアメリカ在住の116歳の女性で、彼女ともう一人、「19世紀生まれ」が存命しているのだそうだ。


 ホロコースト関連のニュースをもう一つ。
 3月29日、スウェーデンの税務当局がラウル=ワレンバーグの財産管理人から「死亡認定申請」があったと発表した。ワレンバーグは1912年生まれのスウェーデン人で、もともと実業家として活躍していたが第二次大戦中にユダヤ人救出のためスウェーデンの臨時外交官となり、外交官特権を利用して当時ナチス占領下だったハンガリー国内の多くのユダヤ人にスウェーデン政府の書類を発行、彼らをスウェーデン政府保護下におくことで強制収容所送りから救った。彼が救ったユダヤ人は10万人にものぼると言われる。
 ところが1945年1月にハンガリーにソ連軍が進駐、ワレンバーグは今後のユダヤ人保護などを話し合うためソ連軍司令部にむかったのを最後に消息を絶ってしまう。どうやらアメリカ側のスパイと勘違いされて刑務所に入れられてしまったらしく、1947年に死亡したとする情報がソ連側から出ている。ソ連末期の情報公開(グラスノスチ)時にもそういう話になって時のゴルバチョフ大統領が遺族に謝罪したりもしているのだが、一方で直接的証拠がないことや目撃情報から生存説も根強く、イスラエルやユダヤ人団体がその消息を探し続けていたのだった。
 しかし財産管理人が死亡認定の申請をしたということは、さすがにもう存命ではあるまいとあきらめたということなのか、あるいは財産管理上死亡認定の必要が出てきたということなのか(日本の著名人で失踪したまま死亡認定は辻正信の例がある)。もし存命なら今年で104歳ということになり、上記のクリスタルさんの例を考えればありえない話でもないのだけど…



◆発見話はいろいろと・日本編

 よくあるパターンだが、ここ一か月ばかりの間の「発見」ばなしを総まくりで。

 室町時代の画僧・雪舟といえば、子供のころに歴史漫画で読んだ「柱に縛られたまま足を使い自分の涙でネズミを描いたら、和尚さんが本物と勘違いした」というエピソードが強烈すぎて、一連の渋い水墨画とイメージが合わないでいるのだが(笑)、これだけ有名な画家ながら、彼の直筆作品として今日に残っているものは50数点程度だという(真贋論争があるのも結構ある)
 今回初めて知ったのだが、この雪舟、明に渡る前の若い頃は「拙宗」(発音同じ)と名乗っていた時期があるのだそうで。厳密に言えば当時「拙宗」という画僧がいて「雪舟」と活躍時期が重ならないこと、絵の技法に共通性があることなどから同一人物と見て間違いなしと見られている、という話らしい(だからややあぶなっかしさもある話なのだ)
 3月23日に共同通信が、この「拙宗」の印が押され、長らく所在不明となっていた「芦葉達磨図」がアメリカの美術館に保管されていることが23日にまでに分かった、と伝えた。報道記事で「〜日に分かった」とある時は、「関係者の間ではとっくに知られていたが記者がその日に知った」という意味だと聞くのだが、この記事でもこの絵がすでに日本に「里帰り」して京都で修復され、根津美術館で5月から開かれる「若き日の雪舟」展で展示されることがとっくに決まっていることがちゃんと書かれているから見出しで「発見」を報じる記事としては違和感がある。この「分かった」という書き方、もっといい表現がないものだろうか。
 それにしても長らく所在不明で、気がついたらアメリカに渡っていた、って割とよく聞く話のような。


 藤原定家といえば「新古今和歌集」の選者であり「小倉百人一首」の選者としても有名な平安末から鎌倉初期を生きた歌人だ。彼の自筆日記『明月記』は1180年から1235年までの半世紀にわたる貴重な記録であり、定家が生まれる以前のことも含めた「超新星爆発」の目撃記録が記されていることでもよく知られている。そんな『明月記』の、これまで知られていなかった断簡が見つかった、というニュースには驚いた。『明月記』なんて定家自筆の全部がきちんと冷泉家に保管されているんだと思っていたのだが、そんな「部分流出」が起こっていたなんて。
 このたび各種巻物や書物の断片243点をあつめた「日本古筆手鑑」を、所蔵する林原美術館(岡山市)が調査していたところ、縦29.2cm・横10.3cmの断片に、これまで知られていなかった『明月記』の記事が確認された。そこには定家が息子と共に焼失後再建された天皇御所(閑院殿)を訪ねた記事が書かれていて、門や建物の名前を記し「華美」という感想も書いているとのこと。時期は建暦3年(1213)2月16日〜21日とみられるという。
 断簡を調査した研究者はこの未知の「明月記」記事も定家の直筆と断定している。そうなると定家直筆の日記ですら、一部が切り取られて流出しちゃうことがあったわけだ。そういうの、「明月記」に限らずまだまだあるのかもしれないな。


 西暦で1600年ジャスト、慶長5年9月15日におこった「関ヶ原の戦い」は誰もが知る「天下分け目の戦い」。戦国時代の決勝戦みたいに言われ、徳川家康の天下取りと江戸幕府成立への歴史の流れを確定した大決戦だ。参加人数もかなりの規模なのだが、戦闘に参加せず眺めていただけの軍とか、途中で寝返りが出るとそれに応じて雪崩現象が起こり、大合戦の割にあっけなく数時間で決着した戦いとしても名高い。この戦いは何度となく映像作品に登場しているが、TBSが1981年に放送した大型ドラマ「関ヶ原」(司馬遼太郎原作・早坂曉脚本)が決定版的名作と言われる。1600年の正月を「世紀も変わって」とナレーションしちゃうというミスもありますが。
 さて、その「関ヶ原」について、合戦直後の公家の書状で合戦場所が「関ヶ原」ではなく「青野ガ原」と書かれていたことが報じられると、ネット上の歴史ファンの間ではかなりの反響が起こっていた。それだけ「関ヶ原」の名が一般化しているからなんだろうけど、僕のような南北朝マニアにはまた違った感慨があった。南北朝時代でもほぼ同地域で大決戦が行われていて、こちらは『太平記』などの表現で「青野原の戦い」として知られている。だから今度の報道にはむしろ「ああ、やっぱり」という思いがあったのだ。
 西暦の1338年、北朝の建武5年、南朝の延元3年の1月28日から29日にかけて「青野原の戦い」は戦われた。このとき南朝の北畠顕家が奥州軍を率いて今日を目指して二度目の大遠征を行い(一度目は1336年1月)、その進撃を阻止するため足利方の諸将が美濃・青野原で迎え撃ったのだ。これはかなりの大激戦だったようで逸話もいろいろとあるのだが、どっちが勝ったかはやや評価が分かれる。結果的に北畠軍は伊勢方面へ転進するため戦略的には足利方の勝ちと言えなくもないが、こちらもかなりの痛手を受けて全面勝利とはいかなかったのも確か。まぁ関ヶ原の戦いに比べると歴史的決戦って感じでもないのだが、重要な一戦には違いない。
 地図で確かめると分かるが、「青野原」にあたる大垣市青野町は関ケ原よりやや東方にあり、厳密に言えば同地点というわけではない。ただこの美濃・大垣方面から山に囲まれた関ヶ原を通って近江へ抜けるルートは古代より交通の要衝で、古くは「不破の関」が置かれて(「関ヶ原」の地名もそれに由来)、かの壬申の乱でも戦場になるなど、決戦地になりやすい条件を備えていた。その意味では大まかに見て同じ場所での合戦と言えば言える。

 今回確認されたのは公家の近衛前久が合戦五日後に出した書状で、合戦の直後ということもありかなり詳しい情報を書いた、ありそうでなかった「一次史料」だとのこと。この中で前久が合戦の場所を「関ヶ原」ではなく「青野ガ原」としたのは、あるいは『太平記』ですでに「青野原」が著名であったため(当時「太平記」は武将たちの間でも広く読まれていた)、それと同じ地域かということでそう書いたのかもしれない。
 今回の発表をした石川県立歴史博物館館長の藤井譲治・京都大名誉教授にょると、前久の書状だけでなく合戦の参加者でもある吉川広家の書状や「慶長記略抄」に納められた狂歌にも合戦場を「青野が原」と記す例があるという。また当然参加者であった徳川家康も合戦当日付で伊達政宗にあてた書状で「濃州山中において一戦に及ぶ」と記していて、「関ヶ原」という地名は出てこないといい、どうも合戦直後にはこれが「関ヶ原の戦い」であるとは認識されてなかったんじゃないか、という話なのだ。今のところ合戦場を「関ヶ原」とする古い例は翌10月から島津家文書で見られるというが、それが一般化したのはいつ、どういう経緯なのかが気になるところ。
 



◆発見話はいろいろと・世界編

 続いては世界編。

 イスラエルのガリラヤ地方といえば、イエス・キリストが布教活動を開始した地域。ガリラヤ湖はイエスが水上を歩く奇跡を行ったと伝えられている。その伝説の場所をハイキングしていた女性が草原で一枚の金貨を発見した。イスラエル考古学局の専門家が調べたところ、その金貨にはローマ初代皇帝アウグストゥス(そういやイエスと同時代人でもある)の肖像が描かれていた。と言ってもアウグストゥス時代のものではなく、「五賢帝」の一人でローマ帝国の版図を最大にしたトラヤヌス帝(在位:98〜117年)が107年に「歴代皇帝肖像入り記念金貨」なんてコレクター大喜び(当時そんなのがいたとは思えないが)なものを発行した時のものとみられるという。このトラヤヌスが発行した「アウグストゥス金貨」は現在ほかでは一枚しか見つかっておらず、大英博物館の所蔵品となっているとのこと。発見者の女性はあっさりと博物館に寄贈する意向を示しているとのこと(まぁ拾い主に一割、ってわけにもいくまい)
 この地方ではトラヤヌス時代の銅貨・銀貨が見つかることは珍しくないそうだが、さすがに金貨は珍しいそうで、おまけにこの「アウグストゥス金貨」は当時としてもかなり貴重・高価な金貨だったとされるので、この地方で普通に流通していたとも考えにくい。そこで専門家は発行から少し後の西暦132年に起こった「第二次ユダヤ戦争」(バル=コクバというユダヤ人が「メシア(救世主)」を称してローマに反乱を起こした事件)の平定のために派遣されたローマ兵士への給与の一部ではないか、との指摘をしているとのこと。
 しかしまぁ、こんな貴重な金貨をひょっこり拾ってしまうとは、湖の上を歩いてみせるより「奇跡」という気がする。


 コロンブスよりずっと以前に、北欧のヴァイキングが北アメリカ大陸に到達していたという事実はそこそこは知られていると思う。ヴァイキング側の記録でグリーンランドより先の土地「ヴィンランド」に行ったという記録があり、カナダのニューファンドランド島北端のランス・オ・メドー遺跡からは当時のアメリカ先住民は持っていなかったはずの鉄釘などが発見されていて、ヴァイキングの一部が短期間とはいえ北米大陸の隅に入植していたことは事実と考えていい。
 4月4日にCNNが報じたところによると、そのランス・オ・メドー遺跡から南へ約480キロくだったニューファンドランド島沿岸部に「第二のヴァイキング入植地」が見つかる可能性あり、とのこと。まだその跡地を発掘したわけではないのだが、近頃はやりの「宇宙考古学」というやつで、上空640kmから赤外線撮影した画像を分析、
土壌や植生の変化を見つけてその地下に何かがあるとにらんだのだそうだ。そして周辺を探索したところ、やはり当時の先住民は使用していなかったはずの鉄製品仕様の痕跡が見つかったため、ヴァイキングの入植地の可能性が高い、と判断しているという。
 当時グリーンランドやカナダ北部は今よりずっと温暖だったとされるのだが、ヴァイキングの記録で「ヴィンランド」がブドウが生えているほど温暖だったとしているのはさすがに誇張というかホラなんじゃないかと考えられていた。しかし同じニューファンドランド島とはいえそこそこ南に下ったところに到達していたとすると、いくらか信憑性が出てくるんじゃないだろうか。そもそももっと南へ行っていた、という可能性だってある。


 つい先日、1959年のイタリア映画「ハンニバル」を見て、「歴史映像名画座」に入れておいた。ハンニバルは歴史上大変有名な武将だが、映画化・ドラマ化は思いのほか少なく、映画データベースなどで「ハンニバル」で検索するとあの人食いさん関連の映画ばかりがヒットして苦笑してしまった(笑)。歴史人物のハンニバルを映画化するには「象を引き連れてのアルプス越え」を再現するのがネックなのではないかなぁ。その1959年の映画ではサーカスからでも借りてきたのか象がチョコチョコと動員されているものの、アルプス越えはさすがにスタジオ撮り。象たちがささやかに暴走する場面なんかもあったけど、スペクタクル性はほぼゼロだった。
 さてそのハンニバルについて面白いニュースがあった。ハンニバル軍はスペインから南仏を経由、アルプスを越えてイタリア半島に侵攻したわけだが、その山越えの進軍ルートについては複数の説があって決着がついていない。このたび北アイルランド・クイーンズ大学の微生物学者クリス=アレン氏がネット上で研究結果を発表、フランス・イタリア国境のトラベルセッテ峠付近で「動物の大便に由来するとみられる堆積物のかたまり」を発見、炭素同位体年代測定により、まさしくハンニバル戦争(第二次ポエニ戦争)があった紀元前2世紀ごろと断定できたとまで言ってるのだ。おお、それって象のウンコ?と思ったのだが、とりあえずアレン氏は馬の可能性が高いと考えているみたい。まぁハンニバル軍も馬の方が圧倒的に多かったでしょうけどね、と思って記事をよく見たら馬が1万5000頭、象が40頭余りと記録がちゃんとあるのだそうだ。う〜ん、しかし象さんのアレはデカいからなぁ、そっちの可能性も結構あるんでは。人間だって大勢いればねぇ。
 トラベルセッテ峠はこれまでもハンニバル軍侵攻ルートの有力候補ではあったが、道が狭いことと標高3000m超という難所であるために否定的な意見も多かったらしいが、今度のウンコ発見によりハンニバル軍はまさにかなりの難所を強行突破するという、伝説イメージ通りの英雄的偉業をやっていた、ということになるのかも。
 アエン氏はさすが微生物学者、そのウンコの中に寄生虫の卵が残されている可能性にも言及し、その寄生虫のDNAを調べることで動物の出身地域など正確な情報が得られるかもしれない、と期待を示しているとのこと。ウンが良ければうまくいくかも(笑)。


2016/4/8の記事

<<<前回の記事
次回の記事>>>
史激的な物見櫓のトップに戻る