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2016年5月7日

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◆今週の記事

◆ろ号潜水艦急浮上!? 

 珍しくネタ元が地方新聞。我が家の近所でも一部コンビニが置いている千葉県の地方紙「千葉日報」の載せた記事が話の発端だ。この千葉日報オンラインの記事がYAHOO!のニュース記事で転載されていたため多くの人が目を通すことになり、「そんなバカな!」「絶対ウソ!」という声がわきおこることになった。記事掲載から2週間ほど過ぎたが、訂正その他の反応はないようだ。

 問題の記事は4月19日付の『「我々はモルモットだった」 1941年、潜水艦で渡独 88歳神谷さん体験語る』というタイトルの記事だ。元逓信博物館館長の神谷和郎さん(88)が千葉県栄町の「ふれあいプラザさかえ」で講演を行い、その中でご自身が13歳であった1941年に少年たちだけで潜水艦に乗り込んでドイツまで赴き帰国したという体験を語ったという内容で、「モルモット」というのは、日本軍がその後のドイツへの潜水艦派遣作戦の「実験」をしたのであって、彼ら少年たちはその実験台として危険な任務を強制された、ということでご本人が表現しているものだ。

 記事で要約されていた神谷さんの「体験」は以下のようなものだ。1941年5月(この年の12月に太平洋戦争が始まる)に、愛知県に住む中学一年生だった神谷さんは「水泳をやるから」という理由で「海洋少年団」の一員として現在の蒲郡市に呼び出された。そこには同じように12〜17歳の少年たちが全国から集められていたが、本当の目的は伏せられたうえ、少年たち同士も本名や出身校を言うことは禁じられた。神谷さんは「神谷→紙屋」で「ペーパーショップ」という暗号名で呼ばれたという。
 少年たちは蒲郡から木造船に乗せられ、50日かけてシンガポールへ行かされた。ここで12〜13人乗りの「ロ号潜水艦」に分譲させられインド洋から喜望峰経由でドイツへと向かった。昼は潜航、夜は海上を進み、狭い艦内の廊下に寝かされて「暑さでのどが乾いて仕方がなかったがなんとか生き延びた」と神谷さんは苦労を語っていたという。
 記事の最後に出ていたが、神谷さんはこの少年たちの潜水艦によるドイツは健は、それに先立つヒトラーユーゲントの日本訪問への答礼として行われたのだとしている。ドイツに到着すると少年たちはドイツ製品の入手を指示され、神谷さんも指示に従って眼鏡とストップウォッチと革靴を入手したという。それからやはり潜水艦で帰国の途について12月ごろに名古屋港に無事入港したが、「身体はがりがりにやせて骨と皮ばかり」という状態であったとか。その後、乗組員同士の連絡は禁じられ、すべては極秘のままとされた。このあと日本軍はドイツとの潜水艦による連絡作戦を始めるのだが、神谷氏は自分たちがその作戦の前の「モルモット」として使われたのだ、と述懐している――といった記事だ。記事では誇らしげに(?)勲章を胸にぶらさげて講演をする神谷さんの写真も掲載されていた。

 軍事関係に詳しい人ならすぐに「うそだぁ!」と突っ込むところ。軍事関係は疎い僕ですらも常識的な歴史知識の範囲で「ありえないだろ」とすぐに思った(すでに疑問の声が出ているのを見てから記事を読んだんだけど)
 まず、「少年たちだけで潜水艦作戦を実行した」という話じたいが信じがたい。潜水艦乗りって今も昔もかなりの特殊技能者だから、いきなり理由も伏せて集められた訓練も受けていない素人の少年たちが動かせたとはとても思えない。ヒトラーユーゲント訪日への答礼ということだが、この時点なら何もわざわざ潜水艦で行く必要はないし(一応記事では独ソ戦により陸路で行けなくなったとしてるが)、海軍が虎の子の潜水艦をズブの素人のガキどもに預けてしまうはずがない。この場合「モルモット」にされちゃうのはむしろ潜水艦の方だ。また「ロ号潜水艦」に十数人ずつ分譲したことになっているが日本海軍の潜水艦は排水量で「伊」「呂」「波」に分類されていて、「呂(ロ)」は二番目のランクで十数人程度の乗員で済むものではない。
 さらにシンガポールで潜水艦に乗り込んだというのもヘンな話。当時のシンガポールはイギリスの東南アジア支配のかなめとなる軍港であり、まだ太平洋戦争勃発前とはいえすでに日本の南進により日英間は緊張しており、そんなところに極秘任務の日本の潜水艦がノコノコ来られたはずがない。またドイツに着いてからの任務がドイツ製品の購入、というのも訳が分からない話で、神谷さんが購入した品物の極秘作戦の割にチンケなものだ。

 総じてとてもホントの話とは思えず、千葉日報もよくこんなの載せちゃったなぁ、と思うばかり。たぶんだが本人がウソをついているというより、自己暗示のようになって自身の創作を「体験」と錯覚しているのだろう。本人が信じ込んで語ってしまっては、当時の知識がない人ならその語りに真実味を感じてしまうことはままある(実際、詐欺師の中には自分がその気になっちゃうタイプが少なくない)。戦争中に日本からドイツへ潜水艦派遣が行われていた事実を知らない人なんかは、こんなのいきなり聞かされたらコロッと信じてしまうケースも多そうだ。僕は吉村昭の「深海の使者」を読んでいたのでこの話の嘘っぽさに気づいたのだが、ネット上ではこの神谷さんの「思い込み体験」自体が吉村昭の小説に影響されているのでは、との指摘もあった(「呂号潜水艦」にその気配がある)。また話が往年の少年向け冒険小説じみているので、何か同じような設定の小説があるのではとの憶測も見かけた。
 最悪、本人が「分かっていてウソをついている」可能性もある。写真で勲章を胸にぶらさげて講演してるところなんか、聴衆の誤解を招こうという意図を感じなくもなかった。よく見つけたものだと思ったのだが、この神谷氏本人が2011年に中学時代の回想を書いている文章が確認され、そこには「勲三等瑞宝章受章」とあったのでその勲章をぶら下げたのだろうが知らない人はその極秘任務のためと誤解しそうだ。なおその2011年の文章では潜水艦に乗った話などまったく出てこず、開戦の年に中学に入学したため勉強もろくにできなかったとか、周囲の軍国少年の話が語られていただけだ(その時点ではまだ「極秘」だったから、という解釈もできなくはないけど、この5年で何か変化があったとも思えない)
 意図してかしないかはともかく、近現代史の研究者が書いてたが、当時を生きてる人間に話が聞けるというのはありがたいことながら中には思いっきりウソをつく人もいる。時に「職業的詐話師」のたぐいの人もいるので注意が必要なのだそうだ。まぁ歴史話だけのことじゃないのは昨今の佐村河内さんやら小保方さんやらショーンなんとかさんやらの事件を見ていても分かるけど。


 上記の話題だけで済ませる気だったのだが、この2日間で「関連」といえば関連しているニュースが2つも次々と入ってきた。
 5月3日の憲法記念日に元ゼロ戦パイロットの原田要さんという人が99歳の長命で亡くなっている。太平洋戦争では真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦にも参加したという人で、こういう人がまだギリギリ生きてたのだな、と改めて思い知らされた(念のため書くがこちらの経歴は自称ではなく確かなものだ)。今年で99歳、調べたところ1916年8月11日生まれで、太平洋戦争勃発時は25歳。あの「撃墜王」「大空のサムライ」として名高い坂井三郎も1916年8月26日生まれの同学年だ。原田さんはガダルカナルの戦いで負傷、死線をさまよったそうだが、坂井三郎の方も同じくガダルカナルで負傷して死にかけた経験があり、二人の経歴はいちいちかぶる。こちらもいろいろ著書を出しているが坂井三郎ほどには有名になっていないはず(僕も今度の訃報で初めて知った)
 戦後は農業や幼稚園経営などをやっていて、湾岸戦争あたりからキナ臭さを感じたのか戦争体験を語って平和の尊さを訴える活動もしていた。昨年4月にアメリカのメディアのインタビューを受けて現在の安倍政権の改憲姿勢を批判し、「戦前の指導者に似ている」とまで語って警戒感を示していたとのこと。直接戦場を体験した人の言だけに重みがあるし、そうした世代の存命者が残り少なくなっていることを改めて気に留めておきたい。


 もう一つの話題も同じ5月3日に大きく報じられた(AP通信が2日付で発した)。近年映画「父親たちの星条旗」の題材にもなった、硫黄島に星条旗を掲げるあの有名な写真について「新説」が飛び出したのだ。あの写真に写っている6人の兵士は)多少の紆余曲折の末)全て特定されたはずだったのだが、2014年にアマチュア歴史家が「一人は違うはず」と主張しだしため、ついにアメリカ海兵隊も調査に乗り出した、というのだ。
 詳しい話は映画「父親たちの星条旗」を見てもらう方が早いのだが、あの見事な構図の写真が撮られたのは偶然の産物で、しかもそこに映っている兵士の特定には当時すでに混乱があった。うち3人は戦死、生きていた3人は帰国させられ戦時国債キャンペーンの「広告塔」に使われたうえ、戦死した戦友たちへの負い目からある者はこの件に関して口を閉ざし、ある者は酒におぼれて自滅した。生き残った兵士のうちジョン=ブラッドレーは1994年に亡くなり、その息子のジェームズ=ブラッドレー氏が父親や関係者の経緯を取材して「父親たちの星条旗」というノンフィクションを出版、これが映画の原作ともなっている。
 しかし今回「別人では」と問題になっているのが、まさにそのブラッドレー氏だというから驚く。なんでもそのアマチュア歴史家がブラッドレー氏が映った別の写真から服装が星条旗掲揚写真と異なると指摘、実際に星条旗掲揚写真に写っているのは別人なのでは、と言い出した。それが2年前なのだそうだが、どうも一定の信用性が出てきたらしく海兵隊でも調査を始めることになったらしい。息子のジェームズ氏は取材に対し「信じられない」と動揺を隠していないと報じられているが、さて。続報を待ちたい。



◆紙幣に描かれる人たち

 今の日本の紙幣に肖像画が使われているのは一万円札の福沢諭吉、五千円札の樋口一葉、千円札の野口英世だ。一応「二千円札」というものがあって、これには小さく紫式部が描かれている。当時、明治時代の神功皇后以来の女性肖像紙幣と騒がれた記憶があるのだが、近頃まったく見かけなくなってしまった。その後樋口一葉が五千円札に登用されて本格的な「女性紙幣」になってるんだけど、五千円札というのはどうも印象が薄いんだよな。前任者の新渡戸稲造も完全に忘れられてるし。

 2000年に二千円札が出た当時、そんな中途半端な額の紙幣を使うだろうかという声に対して「欧米では2を単位とする紙幣の例は多い」とし財務省が反論していて、その一例としてアメリカの20ドル紙幣が挙げられていた記憶がある。20ドルと言えばだいたい2000円である。
 その20ドル紙幣の肖像画について、どうやら女性になりそうだという話は去年くらいから聞こえていた。そして4月20日、アメリカ財務省は新20ドル紙幣の肖像画に黒人女性のハリエット=タブマン(1820?〜1913)を採用すると発表した。アメリカ紙幣に黒人の肖像画が採用されるのは初(ただし後述するように同時採用があと二人いる)、女性の採用はかつて1ドル紙幣に採用された初代大統領ワシントンの妻マーサ=ワシントン以来120年ぶりぶりとのこと。これまで20ドル紙幣を飾っていた第7代大統領アンドリュー=ジャクソンは同紙幣の裏側にまわるのだそうだ。

 で、このハリエット=タブマンというのがどういう人なのかと調べてみると、なるほどなかなかの人だ。まだ奴隷制が存在した19世紀前半にメリーランド州の黒人奴隷の子として生まれ、自身も奴隷として長年過酷な支配をうけた。奴隷主が死んだ際に自分たちが売り飛ばされることを知って北部へ逃亡、そこで奴隷解放運動の組織に入って南部奴隷をひそかに北部へ逃がす地下ルートの案内役をつとめ多くの黒人奴隷を救出、解放したという。1861年に南北戦争が始まると北軍のスパイとしても活動したとされるのだが、彼女が生きている間に出た伝記本の内容については誇張や虚偽もあるとの声もあって全面的に信用できるものではないらしい。ともあれ彼女は黒人運動家・女性運動家として活躍しつつ20世紀まで生き抜き、1913年に推定93歳の長寿で世を去っている。
 「ハフィントン・ポスト」の記事で紹介されていたが、その信用できるかどうか若干の疑問もある伝記本のなかで、タブマンが両親を奴隷の身から解放する資金を得るために奴隷解放化の事務所におしかけて「20ドルを要求するよう神のお告げがあった」と言ってハンストを実行したという逸話が書かれているという。、また他の話では北軍のスパイ活動をやったのに何ら恩給がもらえなかったので裁判を起こし、結局月々20ドルの年金をもらえるようになったとか、20ドルにまつわる因縁話がついてまわるようだ。

 本来は2020年に10ドル紙幣を新しい変え、従来の10ドル紙幣肖像画になっている初代財務長官アレクサンダー=ハミルトンをそのままに裏面に女性を採用しようかという話で、新20ドル紙幣は2030年から発行という計画だった。しかしタブマンを推す草の根運動の団体が「女性参政権百年の2020年に女性肖像の20ドル札を」と強く働きかけたこともあって、新20ドル札を2020年発行に前倒しし、その肖像にタブマンを採用することになった。なお10ドル札はそのままハミルトンで行くのだそうだ。
 これと同時にマーティン=ルーサー=キングjr、いわゆる「キング牧師」と歌手マリアン=アンダーソンの二人がが5ドル紙幣の裏にデザインされる(表はリンカーン)ことが発表された。この二人については裏面のセット扱いではあるが、紙幣に肖像画が載る黒人が三人、女性が二人に増えることとなる。


 さてイギリスでも2020年から新20ポンド紙幣が登場するとのこと。中央銀行にあたるイングランド銀行が4月25日に新20ポンド紙幣の肖像画に19世紀の画家
ジョゼフ=マロード=ウィリアム=ターナー(1775〜1851)を採用すると発表した。海・船を主題とする風景画で名高い画家で、イングランド銀行総裁も「英国の芸術家で最も影響力の大きい人物と言ってよい」と太鼓判を押していた。紙幣のデザインはターナーの代表作「戦艦テメレール号」を背景に本人の自画像が配されたものになるとのこと。
 それにしても画家を選出するのは珍しいんじゃないかと思ったら、そもそもこの新20ポンドに採用する人物については「視覚芸術家」という条件での一般公募が行われていた。全部で590名の推薦があり、そこから5人まで絞り込んで最終選考が行われた。ターナー以外では無声映画時代から活躍した俳優兼監督のチャールズ=チャップリンの名も含まれていたことに映画ファンとしては注目してしまう。映画俳優の肖像画入り紙幣ってさすがにまだないんじゃなかろうか。
 


◆島か岩か岩下志麻か

 すいません、ただのダジャレで大女優さんの名前を使ってしまいました(汗)。まぁ「シマ」といえばヤクザ、ヤクザといえば姐さん、姐さんといえば「極道の妻(おんな)たち」、と連想は一応あるわけでして。

 さて、とうとう台湾政府からも言われてしまった。日本最南端の島「沖ノ鳥島」について、「ありゃ岩だろ」と。以前から中国や韓国は主張していた一方で台湾政府はこれまであいまいな態度をとり続けてきたのだが、このたび沖ノ鳥島周辺の日本の経済水域内で台湾漁船が拿捕され担保金支払いで解放された一件に対し台湾漁民たちが抗議活動を行い、間もなく任期が終わる馬英九総統がとうとう「あれは島ではなく岩」と断言してしまい、漁民保護のためとして沖ノ鳥島近海に巡視船やら軍艦やらを派遣する動きを見せている。

 報道によると馬総統は沖ノ鳥島について「ダブルベッド二つ分」と表現、首相にあたる張善政・行政院長も「榻榻米(タタミ)三枚分」と表現したという(「畳」をわざわざ出すところが面白い)。日本政府はもちろん従来通り「島だ」と主張して台湾側に抗議しているが、社会科の講師として毎年生徒たちにこの島のことを説明している僕としては、あれを「島」と断言するのはいささか無理を感じるというのが正直なマリアン・アンダーソンところ。サンゴ礁で形成された「陸地」で上空からの写真で見るとほとんどが水面下にあってうっすらと浅瀬が見える。この中に「北小島」「東小島」と呼ばれる満潮時でも水面に出ている部分があるのだが、それぞれ面積は7.86平米と1.58平米しかない。合計して9.44平米、畳三枚よりは大きそうだが、これを「島」と呼ぶのは日本人でもちょっとどうかと思う人が多いはず。一応満潮時でも水面に出てる部分があれば国連の定める「島」になるらしいのだが、満潮時に北小島が16cm、東小島が6cmしか水面上に顔を出さないと説明されると中学生たちもそれを「島」と呼べるのかとツッコミを入れてしまう。しかもその二つの「小島」は周囲をコンクリとテトラポッドでガチガチに固めて保護しているので、なんだか「ズル」をしているように感じる人も少なくないはず。実際、島ではなく「岩」と認定されイギリスが経済水域設定をあきらめた例として知られる「ロッコール岩」なんか写真で見るとそちらの方がよっぽど大きい。

 教科書でも説明しているしテストでも定番で出される話だが、日本政府があくまで「島」と主張し護岸工事までするのは沿岸200カイリの「経済水域」を保持するためだ。「島」そのものには利用価値はほとんどないが、これを「島」として領土と主張することでその周囲、半径200カイリの円内が日本の経済水域となり、そこからとれる水産資源や鉱産資源が日本のものになるわけだから、そりゃ必死になるのも無理はない。国連の規定ではもう一つ、「人が居住できない「岩」は経済水域を持たない」というルールもあって、日本としては経済活動の場で人が立ち寄るようになっていれば主張を強化できるということで近年では船着き場など周囲の整備工事を進めてもいる。
 近頃中国が南シナ海でサンゴ礁を埋め立てて「人工島」を建設し周辺国から非難されているが、中国が日本の沖ノ鳥島を例に挙げて正当化したこともある。そのとき日本のどっかの新聞で「まるっきり違う」と主張する文章を見たが、客観的に見ると軍事利用こそしないもののやってることはそう変わらんのじゃないか、とも思う。

 一方で台湾政権が今になって急に言い出した、という面も気になるところ。台湾では先の総統選挙で民進党が政権を奪回、5月20日にも蔡英文氏が初の女性総統に就任する運びとなっている。政権交代のこの時期にわざわざ日本とのもめ事のタネを残す嫌がらせをしてるようにも見えるのだが、政権交代とはいえ領土問題などについては蔡政権も従来の公式姿勢を引き継ぐと思われるし、実際今度の日本に対する抗議声明に民進党も同調姿勢を見せているし、民進党の国会議員が馬総統の姿勢を「弱腰」(!)と批判してもいる。日本だとすぐ親日反日だのと自己中心的に色分けしたがるが政治外交というのはそう単純なものじゃない。
 総統選挙の直前に馬総統が南シナ海で台湾が実効支配する「太平島」(面積51ヘクタール)に上陸するパフォーマンスを見せていて、今度の態度表明もこれと連動するんじゃないかとの見方もあった。毎日新聞の記事にあったのだが、現在フィリピン政府が南シナ海で中国や台湾、ベトナムなどが実効支配する「島々」について全部まとめて「岩だ」とする主張を国際仲裁裁判所に出しているというのだ。その判断が6月にも下るそうで、馬総統としては「沖ノ鳥島は岩、それよりずっと広い太平島は島」と強調する狙いでは、とする多分に憶測を交えた記事だったが、そんな心理は確かにありそうな気もする。政治的に弱い立場になると領土問題で強硬になるというのも一つのパターンではあるし、いずれまた国民党が政権を奪回する足掛かりにでも、という意図だってありそうだ。

 ともあれ、間もなく蔡英文総統が誕生、韓国に続いて東アジアにおける女性指導者誕生となるわけだ。彼女たちを「極東の女たち」と言うとか言わないとか(笑)。



◆先住のひとびと

 前に書いたような気もするのだが、僕も商売道具に使用する社会科の教科書の、シェアがトップを占める某社の地理の教科書で、アメリカのインディアンについて「先住の人々」という謎の用語が使われていたことがある。今年から使われるバージョンでは消えたと思うのだが、変な表現だなと首をかしげたものだ。「インディアン」という呼び方自体は本物のインドとはもう無関係なんだから変えようというのはわかるのだが(それでいて中南米の「インディオ」はそのままなんだよな)、「ネイティブ・アメリカン」という呼び方も定着してるのか疑問もあるので「先住民」と呼ぶ当たりが妥当かと思うのだが(ただ最近は「インディアン」自体を放送禁止用語にして古い映画まで全部「先住民」にしちゃうのはどうかと思う)、なぜかその教科書は「人々」という表現にこだわっていた。日本の先住民であるアイヌ民族についても「アイヌの人々」という表現が使われていて、まさか文科省の検定では「民族」「民」をアウトにしてるんじゃあるまいな、と勘繰りもするのだが、どうもこれはその教科書の執筆者が「民」という字に「被支配」のニュアンスを感じて意識して避けたのではないかと推測している。「子供」の「供」がダメ、とする意見が大手をふるうようになってるのとおんなじなんじゃないかと。

 最近、ネトウヨ業界の一部ではアイヌを「先住民族」はおろか「民族」とみなすこと自体を否定しようと躍起になる動きが目についた。札幌市議まで務めた人でそれを言ってるのがいたから呆れる。じゃあ北海道の地名がアイヌ語だらけなのは何なんだよ、のツッコミ一つで否定できる妄説なのだが、すでに日本政府としても国会の議決としてもアイヌ民族は日本における「先住民族」と明確に認定されてもいる。もちろん日本全土の先住ってことじゃなくて北海道方面の、ってことだけど。
 日本の敗戦時、占領した連合国の中でも北海道をアイヌの民族国家として独立させては、という案が実際にあったという話も聞くのだが、さすがに人口面で無理があっただろう。榎本武揚たちが建国した「蝦夷共和国」がそのまま残っていたらアイヌの扱いなんかどうしたのかなぁ、と想像をめぐらすこともある。

 そして同様に、沖縄県を「琉球民族」の独立国にするという案も存在したとされている。実際明治政府による「琉球処分」で消滅するまではレッキとした独立国として「琉球王国」が存在していたのだから、決して無茶な話ではない。そりゃまぁ江戸時代初期に薩摩藩に征服されて以来、薩摩藩の裏からの支配をうけ、江戸幕府には定期的に使節を送るという形で半独立状態でもあるのだが、それでも幕末期に江戸幕府とは別に各国と条約も結んでいるし、清からの冊封も受け続けてもいた。「琉球処分」も明治政府は清と折衝をしたうえで実行していて、位置づけが微妙な地域であることは認識していたのだ。ヨーロッパで特にみられるが、世界的にはこのくらいの歴史事情があれば独自の「民族」とみなされ独立騒動の火種がくすぶるのはよく見られる現象だ。

 ただ沖縄で大規模な独立運動が起こった例はない。琉球処分時に一部知識人が清に亡命して日本支配に反発したという例もあるにはあるが、日本統治下の朝鮮ほどに起きてなかったのは事実。むしろ多民族国家になった「大日本帝国」の中で沖縄人は積極的に自らを「日本人」に位置づけようとし、ともすれば「我々をアイヌや朝鮮と一緒にするな」というような言説が見られたこともあった。太平洋戦争時の沖縄戦ではなおさら日本人として軍に積極的に協力した人もいる。それは一方でともすれば日本軍側から「異民族」扱いされたことへの反発もともなってた気配があるが。
 そして戦後は米軍による占領下で「琉球政府」が置かれ、実質的に日本とは別の国にされた。だが沖縄県人は「日本復帰」を強く望み、米軍基地がそのままという状態ではあったが「本土復帰」を果たす。その後も基地問題をめぐって沖縄県と日本政府が微妙な関係になることはしばしばで、今は一応和解してるとはいえ裁判闘争をしたことだってある。そうした流れで少数派とはいえ「独立論」を唱える人もまた出てくるわけだ。

 と、長々と書いたが、今回この記事を書くきっかけになったのは、4月27日に国会で沖縄県民を「先住民族」とみなすのかどうかについて質疑と答弁があったことが報じられたからだ。僕自身は不覚にも記憶になかったのだが、2014年に国連の人種差別撤廃委員会で沖縄県民を「先住民族」と明確に定義したうえで、その人権の保護を日本に求める「最終見解」の勧告が出されていて、この件について自民党の宮崎政久議員(沖縄出身ではないが沖縄の選出議員。比例復活だけど)「(日本人に)沖縄県民は先住民族だと思っている人はいない。誠に失礼な話だ。民族分断工作と言っても良い。放置しないでほしい」と政府に対応を求め、木原誠二外務副大臣が「事実上の撤回、修正をするよう働きかけていきたい」と答弁した。
 このニュース自体もそれほど大きく報じられたわけではないが、それ以前の2014年の国連人権委員会の勧告というのも大きく報じられた記憶がない。調べてみたらすでに2008年に沖縄県民を「先住民族」と明確に定義していて、以来4度にわたる勧告を日本政府に行っていた。この手の話には敏感に反応してるつもりの僕だったが、まるで気づかなかったのは不覚と思うしかないのだけど、そもそも日本国内のマスコミの扱いが小さかった、あるいは無視されていたのではないかと。今回は国会でとりあげられたから記事になったんじゃ…という気もしてくる。さすがに沖縄の「琉球新報」など地元メディアは大きい扱いをしていたようだが、「本土」のメディアはそうではなかった、ということなのかも。どうもここらへんにも「沖縄」と「本土」の意識の違いを感じてしまう。

 国連人種差別撤廃委員会が沖縄県民を「先住民族」と認定したのは、やはり「琉球処分」まで独立国として存在していたことを重視しているようだ。確かに、例えばアメリカに強制的に併合されたハワイ王国のことを考えて、ハワイに昔から住む住民を「先住民族」と認識するなら、確かに沖縄人は「先住民族」だろう。またユネスコでも沖縄に歴史・文化・伝統の独自性からやはり独立した「民族」と認めているらしく、2014年の「最終見解」では、それにも関わらず日本政府が沖縄県民を「先住民族」と認識しないことに懸念も示されていた。特に米軍基地問題で沖縄人の人権が侵害されているとの指摘もしており、「もともとその土地の住民でありながら他民族の支配を受け抑圧されている」という先住民問題のパターンに当てはまると言えば確かにあてはまってくる。木原副大臣は日本政府の従来の見解として「日本に先住民族はアイヌの人々以外にいない」と明言していたが(お、そういやここでも「人々」って言ってるな)、世界的にみれば日本人と沖縄人くらいの違いがあれば「違う民族」とされちゃうことは珍しくない。
 この勧告にイラッとくる本土人は少なくないだろうし、僕ですらちと押しつけがましさを感じなくはない。でもそれって、チベットやら人権のことで欧米からチクチク言われてイラッとする中国人とおんなじだよなぁ、とも考えている。沖縄にしてもチベットにしても、実のところ話はそう単純に割り切れるものではないし、国連の判断が100%正しいと考えるのも正直あぶなっかしいとは思う。

 沖縄側もこの国連の勧告に対する反応はいろいろだ。ごく一部ながら沖縄の新聞の過去記事なども当たってみただけだが、我が意を得たりと好意的な反応もある一方で、人権問題に重点を置いて明確に「先住民族」と規定されることには抵抗があるようにも読める意見も見かけた。木原副大臣も答弁で言及していたが、豊見城市議会では国連の勧告に対し撤回を要求する意見書を賛成多数で採択してもいる。上で長々と書いたような歴史的経緯をふりかえってみても、沖縄人の自身の位置づけ、アイデンティティというのはそう単純には割り切れない複雑なものなのだが、その一方で本土側が都合のいいときだけ「同じ民族」と扱い、意見が異なると異民族扱いのような態度をとれば「民族主義」的な反発も出てくるだろう。そんなことを書いていたら、ふと東映実録ヤクザ映画の一本「沖縄やくざ戦争」を思い出しちゃったな。あれはヤクザの世界を描いてるんだけど、その複雑な構図はヤクザ社会以外にも通じると思ったものだ。

 まぁ「民族」なんてのは実際にはかなり人為的な、所詮「想像の共同体」であって、結局は当人たちがそう思うかどうかにかかっている。沖縄の話をあんまりこじらせると本当に「民族」と自覚しちゃう可能性もあるんだよな、というくらいには本土側の人間も考えるべきだと思う。そういや、ディズニーランドやUSJを沖縄に作るとかいう話が急に持ち上がってアッサリ消えたりもしてたなぁ…。
 


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