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2016年6月20日

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◆今週の記事

◆蝶のように蜂のようにアリのように

 「蝶のように舞い、蜂のように刺す」という言葉、僕は子供時代に「ドラえもん」で覚えた。それをやるのが「アリ」というボクサーで、ドラえもんの道具によりアリになりきって「僕はアリだぞ」と言うのび太がジャイアンに「じゃあアリみたいにふみつぶしてやる」とやられてしまうという一幕があったのだ。このギャグの意味が最初わからず、母親に聞いてようやくモハメド=アリという人物について初めて知ることになったのである。
 前回の史点の「贋作サミット」を書いてる最中に訃報が飛び込んできたのでチラッと触れただけだったが、世界的スポーツ選手というだけでなく、時代を象徴する歴史的ヒーローの死ということで改めて書いておきたいとはその時から思っていた。なお、今回の彼に関する報道では「モハメド」ではなく「ムハマド」「ムハメド」といった表記をするものもあったが、僕は従来もっともポピュラーである「モハメド」で通す。「アリさん」と書く記事もずいぶん見かけたが、なんだか引っ越しの会社みたいで(笑)。

 知ってる人は知ってるように、「モハメド=アリ」は彼がイスラム教に改宗した際に名乗った名前だ。モハメドはもちろんイスラム預言者ムハンマド(マホメット)のことであり、アリはその従兄弟で第四代カリフのアリーに由来し、ともどもイスラム圏ではポピュラーな名前。世界史でもエジプトの君主でムハンマド=アリーがいるし、現在でも世界的に同名の人はやたらにいるのではないかと思われる。
 彼のもともとの名前は「カシアス=クレイ」だった。父親も同じ名前なので正確には「ジュニア」がつくそうだが(キング牧師もそうだった)。アマチュアボクサーでめきめきと頭角を現し、1960年のローマオリンピック、ライトヘビー級で優勝、金メダルを獲得する。それから間もなくプロに転向するのだが、その時期にイスラム系宗教団体「ネーション・オブ・イスラム」(そのまま訳すとこれも「イスラム国」だな)に入信、「カシアス=クレイは奴隷の名前だ」としてリングネームもイスラム風に「モハメド・アリ」と変えた。

 この「ネーション・オブ・イスラム」というのは1960年代の黒人運動の一つで、あくまでキリスト教牧師の立場で黒人解放運動を進めたキング牧師とは異なり、キリスト教を白人の宗教ととらえて、黒人がそれに対抗するにはイスラム教だという志向の団体だった。教祖はイライジャ=ムハマドだが、なんといってもここで有名なのは映画でも話題になったマルコムXで、この人もこの団体に入信してから元の姓は奴隷主の姓をそのまま受け継いだものだとして捨て去り「X」を名乗っている。「ネーション・オブ・イスラム」は黒人を白人と対等にしようというよりも黒人こそが至上、という過激な面を持っていてマルコムXはそれをアジった演説により勢力拡大に貢献したのだが、途中で教祖の思想に疑問を感じて離脱、白人との共存路線に転換したが直後に暗殺されてしまっている。
 スパイク=リー監督、デンゼル=ワシントン主演の映画「マルコムX」では、マルコムがまだ町のチンピラだった時代に「カシアス=クレイ」が試合に勝ったぞと黒人たちみんなで大喜びするというシーンがあった。そのシーンで名前が出てくるだけで映画の中でモハメド=アリは一切登場しないのだが、実際にはアリとマルコムは短期間とはいえ親密な関係であったらしい。(ご指摘を受け、訂正します。くだんのシーンで言及されるのはカシアス・クレイではなくジョー・ルイスとのこと。筆者の記憶違いでした。つまりこの映画ではモハメド=アリはその名も出ないということです)
 だがアリの入信から数週間後にマルコムは教団を脱退、アリはそのときマルコムと決別しているため、映画では登場させにくかったということなのだろう。アリ本人は後年、このときマルコムXと決別したことを人生で悔いることの一つに挙げていたという。なおモハメド=アリも後に教団を離れて正統スンナ派に改めて改宗、実名も正式に「モハメド=アリ」にしている。

 モハメド=アリは1964年、22歳でWBA・WBC統一世界ヘビー級チャンピオンに昇りつめる。そのボクシングスタイルはヘビー級らしからぬ軽やかさで「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と評された。それから9回の防衛を果たすことになるのだが、試合前に「○ラウンドで沈めてやる」だのといった挑発的言動をよくするのも彼が始めた悪童的スタイルで、今日までこの手のスタイルは真似されている。
 しかしアリの真の「悪童」ぶりが発揮されたのは1967年にベトナム戦争への徴兵を拒否した時だ。当時のアメリカ世論はベトナム参戦支持が圧倒的で、まして国民的人気者のスポーツ選手が戦争批判をするなど大変なことだったのだが、アリはそれを彼流の調子でやってのけた。「俺はべトコン(北ベトナムに味方した南側のベトナム民兵)たちに何の恨みもない」「ルイビル(アリの故郷)の黒人が基本的人権もなく犬みたいに扱われてるのに、なんで軍服を着て一万マイルも先のベトナム人に空爆や銃撃をしなきゃならないんだ?」「俺の敵は白人で会ってべトコンではない」といった発言は物議を醸し、「ネーション・オブ・イスラム」に改宗していたこともあって当時のアメリカではほとんど「非国民」扱いされた(時期は諸説あるが金メダルを川に投げ込んだ逸話もある)。アリは徴兵拒否で有罪とされて禁固刑を言い渡され、WBA・WBCのチャンピオンの座も剥奪、ボクサーのライセンスさえも取り上げられた。以後ほぼ3年間アリはボクシングから離れることになるが、選手としてはこの空白期間が一番あぶらの乗った時期だったとの声も多い。

 その空白のあいだにベトナム戦争の「正義」に対する疑問はアメリカ国民にも広がった。またアリも指摘していたように実際にベトナムへ行かされるのは貧しい黒人たちの比率が高く、戦争には実はアメリカ国内の人種問題の矛盾もむき出しになっていた(映画「プラトーン」でも「なんで金持ちの白人の坊ちゃんがこんなところにいるんだ?」ってセリフがあったな)。結果的にアリはベトナム反戦運動や黒人公民権運動の先駆けをなすことになり、世間の風向きも変わって行く。そして1970年にボクシングに復帰したアリは、すでにピークを過ぎたと言われながら次第に調子をつけていって、1974年10月30日にコンゴ(当時はザイール)のキンシャサで行われたジョージ=フォアマン戦、いわゆる「キンシャサの奇跡」でWBA。WBC統一チャンピオンに返り咲く。この試合に先立ってアリはキンシャサの町に繰り出して市民と交流、試合会場をすっかりアリびいき一色にして相手に精神的ダメージを与えた、なんてしたたかな策略家の一面を見せてもいる
 それから10回防衛に成功し、1981年に39歳で引退。日本人には有名なアントニオ猪木との異種格闘技戦は1976年のことだそうだが、僕はリアルタイムでは彼の活躍をまったく知らない。

 僕自身が意識して「ああ、この人がアリか」と見たのは、1996年のアトランタ・オリンピックの開会式で聖火の最終ランナー、点火役をつとめた時だ。すでにパーキンソン病に犯されていて、聖火台を前に体がガタガタと震えていたのを覚えている。パーキンソン病の原因はいろいろなのだろうが、彼が「パンチドランカー」であったのも明らかだと思う。以来、アリというとパーキンソン病と戦ってる人、というのが流れてくる話題のほとんどだった。
 2016年6月3日に死去、74歳の生涯を終えた。オバマ大統領が当然のごとく追悼コメントを出し、その「公葬」には元プロボクサーたちや、映画でアリを演じたウィル=スミス、はてはアトランタ五輪の時の大統領であるクリントン元大統領まで出席して弔辞を読み、彼の信仰していたイスラム教だけでなくキリスト教や仏教など宗派を超えた祈りがささげられるという、まさに「国民葬」状態になっていた。かつて「非国民」扱いされた彼がこれほど丁重な、国民的な「見送り」をされている光景に、彼が生きた「歴史」の重みを感じたものだ。



◆花押とハンコ

 「花押(かおう)」とは、言ってみれば本人証明のサインのこと。日本では中世文書によく用いられていて、南北朝マニアの僕は南北朝有名武将の花押の画像を集めてみたりもしている。以下のようなものなのだが、いろいろバラエティに富んでいるのがお分かりだろう。「サイン」というと自分の名前を崩したり図案化したりするものだが、実のところどういうつもりでこの花押なのか分からないのも多い。特に変なのは名和長年。伯耆国(鳥取県)の土豪で建武政権成立に功績があった武将だが、「鰯(いわし)売り」だったという話も残る謎多き人。花押も何やら思い付きで作っちゃってるような…赤松円心のもハンガーみたいだし(笑)。



 そんな花押について、6月3日に最高裁判所が一つの判断を下した。ある人物がしたためた財産分与の遺言書について、その末尾にあった本人の花押だけでは遺言としての効力を持たないという判断が下ったのだ。実はこの裁判、二審までは花押による遺言の効力を認めていて、最高裁でそれをひっくり返して「最終判断」を下した形になる。
 なんでもこの裁判で争われた遺言書は、あの琉球王国の貴族の末裔とのことで、そのせいかこの人物はかねてより文書に花押をしたためる習慣があったという。で、この人が不動産などの遺産を次男一人に引き継がせると遺言書を作ったものだから、長男と次男が反発、その遺言書の効力自体を疑問視して提訴に踏み切ったのだ。
 前述のように、二審までは花押だけが書かれたこの遺言書の効力を認めていた。だが民法968条では自筆の遺言書について「自筆の署名と押印の両方が必要」と定めている。じゃあ花押は「署名」にあたるから、「押印」つまりハンコが押してなきゃダメじゃん、と思うところだが、二審までは花押に「署名」「押印」の両方の要素があると認めていたようなのだ。遺言した当事者が花押を書く習慣を持っていたこと、そして花押の方が「認め印より偽造が困難」ことも挙げて、花押で「押印」の役目を果たしていると判断したということみたい。

 しかし最高裁判所の判断は、あくまで「花押は押印ではない」というものだった。報道によると判決文でわざわざ「花押は『書く』もので『押す』ものではない」と指摘、民法968条の「押印」は文字通りハンコを押すことであって花押はたとえ「押」の字が入っていようと「押印」ではない、とまぁ、原理原則論というか、文字の直接的解釈というか、そういう判断を下したわけだ。「重要な文書は署名、押印して完結させる慣行が我が国にはある」とも述べたとのこと。

 前から思っていることなのだが、なぜ日本ではハンコを押すことであれほどの信用性が持たれるのだろう。二審までの判断にもあったようにサインや花押の方が偽造が難しいのでは、と考えてる人は少なからずいると思う。サインの偽造というと映画「太陽がいっぱい」で完全犯罪を狙うアラン=ドロンが必死にサインの真似の練習をしてたシーンが思い浮かぶが、花押というのはデザインにもよるけどサインより偽造が難しい気がする。そうそう、大河ドラマ「独眼竜政宗」でも「それがしのセキレイの花押にはひそかに目のところに針の穴があけてある」ととっさ言い出して難を逃れる場面があったっけ。

 上にも挙げたように、中世では花押を文末に記すことでその花押は文書を発給した本人にしか書けないことから文書の信用性が保たれた。足利尊氏なんか、一時九州へ逃げてる間に花押だけしたためた白紙の書状を大量に用意し、部下に預けて領地安堵の「ばらまき」をやったりもしているのだが、枚数が多くなると書く方も大変なので鎌倉時代からハンコ状の「押す花押」が使われ始めていた。調べてみると江戸時代になると花押はほとんど使われなくなりハンコに取って代わられたというから日本のハンコ社会の直接のルーツは江戸時代にある、ということになるんだろうか。今回の裁判で花押をしたためた当人が明治初期まで独立国だった琉球王国の貴族の末、という話を聞くとなんとなく納得するところがある。

 ただし、現代日本でも花押が現役で使用される場所がある。それも国家行政の最高部分、内閣の閣議の場だ。閣議で閣僚の全員一致で決定されたことについては文書に閣僚たち全員が花押をしたためる慣習が今も続いていて、日ごろ花押なんか使わない大臣たちもこのために花押が容易されるとのこと。それこそ国家レベルの重要文書に花押が使われているということになるのだが、民法の遺言書規定とは無関係の話なので引き合いにしてもあまり意味がない。ただ、今度の判決のニュースを受けてネット上では「じゃあ閣議の花押は?」という声は結構上がっていた。
 最高裁の判断だから、今後も踏襲される法判断ということになるんだけど、このケースについては正直釈然としないものはあるなぁ…。



◆発見話の詰め合わせ

 よくあるパターンだが、このところ続いた発見関係の話題をまとめて。

 前回、星座の位置と衛星写真からマヤの遺跡を発見?という話題をとりあげて、実際にはとっくの昔に航空写真や衛星写真を使った遺跡発見が行われている、という話を書いたが、その格好の実例が日本であった。
 ところは宮城県の多賀城市。古代以来東北支配の中心となった「多賀城」が存在したところだが、このたび戦国時代の堀にか囲まれた屋敷の跡が発見された。発見のきっかけは航空写真で水田の中に明らかな四角い「模様」が浮かび上がったことだった。なんでもかつて建物が存在していた遺構が埋まっているところは仮にそこが水田などになっても土壌に影響が残って植物の育成にも差が出るため、上空から見るとその模様がくっきりと浮かび上がるのだそうだ。これは「クロップ(農作物)マーク」あるいは「ソイル(土壌)マーク」という名前もつけられていて、すでに遺跡発見に利用されている。
 今回その「クロップマーク」を発掘したところ、堀に囲まれた屋敷跡が見つかり、井戸の跡などから漆器やお椀、ひしゃくに下駄など日用品も見つかった。規模からそこそこの有力者の屋敷と見られ、この地点に隠居所を構えていたことが分かっている留守顕宗(1519-1586)の屋敷であろうと推定されている。「留守」という不用心な家名(「風雲児たち」の表現)はもともと陸奥国の「留守職」という職名に由来し、奥州にあっては平安末以来の名家である。戦国時代から伊達氏の養子が入っていて、この顕宗の養子が伊達政宗の叔父の留守政景で、この後は伊達一門になっている。


 京都新聞からは、前回に続き京都市民が丹念な調査により歴史的名場面に関する発見をした話題が。
 「薩長同盟」は今からちょうど150年前の1866年に薩摩藩と長州藩が坂本龍馬らを仲立ちにして結んだもので、その後の倒幕、明治政府成立へと突き進むきっかけとなった、日本近代史上重要な密約だ。この同盟の締結場面は小説やドラマなど各種メディアで何度も描かれてきたが、かつては京都の薩摩藩邸で締結されたことにしているのが多かった。しかし最近では薩摩藩の家老・小松帯刀の京都の屋敷で結ばれたことが明らかになっていて、ヒットした大河ドラマ「篤姫」で小松帯刀が主役級で扱われる一因ともなっている。
 で、意外だったのだが、この京都の小松帯刀邸というのがどこにあったのか、これまで判然としていなかった。小松邸といってももともと近衛家が所有し「御花畑」と呼ばれていた屋敷を借りていたもので、それは「室町頭」にあった、というところまではこれまで分かっていたそうだが、それが現在のどこに当たるのか突き止められていなかったのだそうだ。京都新聞の記事によるとこれを元小学校教員の歴史研究家・原田良子さんが膨大な諸資料を片っ端からあたって突き止めた。突き止める過程は記事で読んでいても複雑だったが、当事者である西郷隆盛の書状に「御花畠水車」の記述があり、水路の存在も手掛かりにして近衛家所有の土地に関する明治初期の行政資料などから、現在の「上京区森之木町」だと確定したとのこと。
 それにしても日本近代史の大転換点の現場が「お花畑」であったと聞くと、なんだか頭の中がお花畑な志士たちが集まって何やら妄想を語り合ってるようなイメージが…いやまぁ、革命なんてそんなもんかもしれないんだけどね。


 幕末の話題をもう一つ。薩長同盟なみに「名場面」としてしばしばドラマ・映画でも描かれてきた「池田屋事件」に関してだ。
 「池田屋事件」とは元治元年(1864)6月5日、近藤勇率いる新選組が池田屋に集っていた長州藩などの尊攘派志士を襲撃、多数の志士を殺害、あるいは自刃に追い込んだ。新選組ものの作品では彼らの最大の見せ場、ハイライトになっているが長州藩側にとっては痛恨の大被害であり、これがその後の長州軍の状況、「禁門の変」につながってゆく。
 共同通信が6月18日付で報じたところによると、宮内庁宮内公文書館に所蔵されていた、明治時代編纂の幕末維新史「維新階梯雑誌」という資料に、この池田屋事件の経緯が記されていた。記事で注目していたのは池田屋に突入した近藤勇の第一声が「御上意」であったという点。これまでこの事件を描いた膨大な数のドラマ・映画では別のセリフになってることが多く、「御上意」というのはこれまでなかったからだ。「上意」という言葉は「これは主君の命令・意図により行う措置である」と示す言葉で、ここでは新選組の上にいる京都守護職で会津藩主の松平容保の意向という意味で使ったのだと思う。幕末史におけるもう一つの宿屋の斬り合い事件である「寺田屋事件」でも「上意」と叫んで斬りつけてるから、同じようなものだったろう(要は「俺の意思じゃないんだよ」ということ)。実質問答無用で斬りかかったと言っていいと思う。
 その記事ではどの時点で「御上意」と言っていたかは出てなかったので、僕は近藤の第一声というと「御用改めである」がまず頭に思い浮かんだのだが、それはまず宿屋に入るときに使う言葉だよな。ついでに言えば今度内容が確認されたこの史料も会津藩松平家の所有というから、基本的に会津藩の立場で編纂されてるはずで、本当に近藤が「御上意」と言ったかどうかは確定できないんじゃないかと。


 上の話題で日本のハンコ文化に触れたが、日本におけるハンコの現存最古といえば、いわゆる「漢委奴国王印」。江戸時代に福岡県志賀島で発見され、通説では「漢の倭の奴(な)の国王」と読み、『後漢書』に記載のある西暦57年(建武中元2年)に「倭奴国」が入貢してきたので光武帝が印綬を与えたとする記事に出てくる「印」そのものだとされている。「委奴」を「いと」と呼んで魏志倭人伝に出てくる「伊都国」と解する説もあるのだが、「奴国」もまた魏志倭人伝に出てくるし、地域的に博多湾の那珂川河口付近(古代「なのつ」と呼ばれる港だった)と考えられることなどから、「金印を受け取ったのは博多湾にあった奴(な)国」ということで教科書にも出てくる通説とされている。
 この「奴国」の中心地と考えられている遺跡が福岡県春日市の「須玖岡本遺跡」。6月17日に春日市教育委員会は同遺跡から墓穴の大きさが国内最大級となる「甕棺墓」が発見されたと発表した。この遺跡からはすでに多くの甕棺墓が見つかっていて「奴国」の王族の集団墓地があったものと推定されていて、すでに「国王墓」と見られる副葬品が豪華な墓も発見されている。今回発見された甕棺墓も大きさや副葬品から王族レベルの身分の高い人物のものと推定されるという。
 「甕棺墓」というのは弥生時代の北部九州で特に多くみられるもので、粘土を焼いて作った大きな「甕(かめ)」を二つくっつけてその中に遺体をかがんだ形で納めて埋葬するもの。世界的には子供の遺体の埋葬に使う例が多いらしいが弥生時代の北部九州では成人の埋葬にも使っていて、身分のある人にも使われていた。今回見つかった甕棺には銅剣やそれを飾る把頭飾(はとうしょく)が出土し(把頭飾出土はこの地域では初とのこと)、さらに多くの布が敷かれていた痕跡も確認された。先に発見されている「王墓」より年代が古いとみられていて、「王墓」への途中過程ではないかとの見方も出ているみたい。



◆排他的な空気

 来る6月23日に、イギリスではEU離脱か残留かをめぐる国民投票が行われる。そもそも現在のキャメロン首相が公約に掲げていたことなのだが、実はキャメロンさん自身ははっきりと残留を希望している。EUに不満をもつ党内の保守派を黙らせるため、あるいはEUに対する条件闘争を有利に運ぶために持ち出した「国民投票」であって、キャメロンさんとしては結局残留という結果になるだろうと踏んでいたらしい。
 ところがここに来て「離脱派」の勢いが一気に増してきてイギリスのEU離脱が現実になるのでは、との観測が広まり、おかげさんで日本の円が買われて円高になり、株価はダダ下がり…という、とんだトバッチリを日本経済は受けている。安倍首相が先日のサミットで言ったの言ってないの騒いでいた「リーマンショック前夜の状況」が、まったく違うところから飛び出してしまいそうな感じだ。日本のニュースで聞いていると、イギリスの有名人や識者、さらには企業経営者や経済学者、世界主要各国の首脳たちまでEU残留支持を表明する人が多いように感じるのだが、大衆紙は「離脱!」を煽りまくってるそうだし、妙な「祭り」現象になってしまってノリで離脱に傾く人が多くなってしまってるらしい。アメリカ大統領選における「トランプ現象」との類似を指摘する声もある(我が国の「舛添騒動」の祭りぶりにも似たものを感じなくはない)

 当初この話題は国民投票の結果が出てから書こうと思っていた。しかし6月16日に起こったショッキングな事件を受けて結果を出す前に書かなきゃいけないと思った。そう、残留支持を表明していた労働党の女性国会議員ジョー=コックスさんが、離脱支持の極右思想の持ち主に襲われ、銃とナイフにより殺害されてしまったのだ。国会議員の殺害、というだけでもイギリス史上では異例のことで(1990年にIRAのテロで議員が死亡したのが前例)、しかも昨年議員になったばかりの41歳、二児の母親で労働党でも将来を担うホープと目されていた女性だっただけに衝撃はイギリスにとどまらず、世界に広がった。
 逮捕された犯人についてはまだ捜査中だが、襲撃時に「ブリテン、ファースト!(英国第一!)」と叫んだとされ、これがEU離脱派が口にするスローガンであり、同名の極右政党の影響も考えられている(その政党自体は関与を否定しているが)。容疑者は裁判所で名前を聞かれた際に「私の名前は、裏切り者に死を、英国に自由を」と答えたと言い、これじゃISのテロリストと何ら変わらんじゃないかと思わされた。

 僕は2002年にイギリスを訪問し、ロンドンにも数日間滞在したことがある。まず驚いたのは事前の想像以上に「人種のるつぼ」になっていたこと。黒人もインド系も東アジア系もかなりの割合を占めてゴチャゴチャに行き来していたのだ。僕の目では区別がつかないがアラブ系やイスラム教徒だって結構な数いたのだろう。ロンドン市長に初めてイスラム教徒が選ばれて話題になったのはつい先日のことだ。こういうあたり、イギリスという国、あるいはロンドンという町が基本的にはヨーロッパのみならず世界にオープンになったグローバルな姿勢なんだなと思わされる。
 その一方で、ロンドン滞在中に恐らく反ユダヤと思われるヘイトデモが警察に追い散らされてるのも目撃したし、他のEU諸国同様に反イスラム・反移民の排他的な声が少なからず叫ばれているのも事実。特に最近ではEU加盟国の東欧諸国からイギリスへの移民が多いといい、昨年来の中東・アフリカからの難民もドイツに次いでイギリスが目指す人気国になっていて、英仏海峡トンネルのフランス側入り口でコロニーを作ってしまっているのには心穏やかでないイギリス人も多いだろう。そもそもイギリスはEUの前身ECにも後から加盟し、EU発足後もユーロ使用には加わらないなど一歩引いた姿勢をとっていて、国民や政治家にEU懐疑論は根強い。前ロンドン市長は熱心なEU離脱派だったし、なまじかつて世界を制覇した国であるためかEUに「束縛されている」と感じる人は多いみたい。といって、残留支持の誰だかも言っていたが、今さら大英帝国が復活するわけでもない。EU残留派が圧倒的に多いスコットランドでは、「もしEU離脱が決まったら独立を再考する」という声まで出てるそうだし。
 そもそも国民投票なんて実施したから寝た子を起こして離脱論が盛り上がってしまったところもある。今度の事件が残留派に有利に働くのでは、との見方も出ているが、何はともあれ頭を冷やして考える機会にはなったと思いたい。アップ直前に見た世論調査では残留派が再逆転したとの報が流れて株価も一気に上昇してるんだが、もしこのまま残留決定になったらなったで、議員殺害について陰謀論が出回りそうだな。


 排他的な…というつながりでインドの話題を。
 現在のインドで政権をとっているモディ首相は、ヒンドゥー至上主義団体をバックにしている、というのは彼が政権を取った時から懸念されていたこと。今のところ政権としては事前に懸念されたほどヒンドゥー主義に走らず経済優先でまずまずのバランスでやってるように見えるのだが(この辺、安部政権と似てるかな)、その基盤となっている地方ではかなり排他的な姿勢の教育が進められている――という話が、日経新聞の電子版に載っていた。読んでみたが結構衝撃的。

 モディ首相率いる「インド人民党」はヒンドゥー至上主義団体「民族義勇軍」を支持母体としており、支配下におさえた州の社会科の教科書でジワジワと巧みな「改訂」が進められているという。例えばインドの憲法についての紹介で、その前文に「宗教に関係なく民主的な共和国をつくる」とある部分を宗派に関係なく…」と差し替えて、宗教を越えた連帯ではなくあくまでヒンドゥー教徒の枠内での違いを乗り越えるという趣旨に書き換えてしまう。インド初代首相であるネール(ネル―)の記述をうっかりを装って削除する(ネールがライバル政党の国民会議派であるため)。さらにはインド文明の源流とされる「インダス文明」を、ヒンドゥー教の女神の名をとって「サラスバティ文化」とわざわざ変える、といった類だ。特に最後の「インダス文明」の改名の理由について州政府は「サラスバティがインダス川の川岸を巡礼したという叙事詩があるから」と理解不能な回答をしているのには呆れた。インダス文明はヒンドゥー教の成立よりもはるか昔に存在していたものなのだが、そんなこともお構いなしなのだ。いやいや、記事中にこうした姿勢に批判的な学者が「神話と歴史をわざとゴッチャに教えている」とあったから、それこそヒンドゥー教がインダス文明以前からあったのだと主張してる可能性もある。日本の保守系の歴史教科書運動でも歴史の教科書に神話を入れようと躍起になっていたのを想起してしまう。どこも思いつくことは一緒のようだ。
 以前ここで書いたことだが、最近のインドではいわゆる「アーリア人侵入説」について激しく否定する言説がある。それこそ「リグ・ヴェーダ」などの神話的な史料を元にした説でもあるのでその説に慎重になるのは理解できるのだが、僕もネットで目にしたそうした言説は明らかにインド・ナショナリズムと結びついたもので、その口調は激しい攻撃性に満ちていた。そうそう、かつてインドで製作されたドラマ仕立ての通史TV番組がyoutubeにアップされていたのだが、その「アーリア人侵入」の回のコメントにそうした激しい罵倒の書き込みが見られた。あれもネールのインド通史が原作なので俳優が演じるネールが案内役を務めているのだが(映画「ガンジー」でネールを演じた俳優さんだった)、その「ネール」に対しても激しい罵倒が浴びせられていて、今にして思うと上記の歴史意識問題と見事にリンクしていたと思えてくる。
 
 記事ではこうした問題について「インド人民党」の国家総書記にして「民族義勇軍」の幹部でもある人物に取材していたが、彼の回答は「インドの人口の8割がヒンドゥー教徒。ヒンドゥーは宗教ではなくインドの文化」というものだった。さすがに他宗教の存在の許容はしたがヒンドゥーも優位は当然という態度だった(この点は世界の多くのイスラム国家にも言えることだが)。隣のミャンマーでも仏教原理主義者がイスラム教徒などに排他的・攻撃的な態度をとっているそうだが、一神教多神教を問わず宗教とナショナリズムが結びつくとかなり厄介。突き進めば「純化」にしか行かないだろうし。
 インドというとガンディーのイメージが強く「非暴力」の印象もあるが、記事ではこうしたヒンドゥー至上主義者たちはこの「非暴力」が中国におくれをとった原因とみなして敵視する傾向もあるという。またさらに恐ろしいことに一部の州の高校社会科教科書ではアドルフ=ヒトラーを称賛する記述が新たに加わったという話。記事では具体的にどういう記述なのか紹介してなかったけど、どこの国でも排他的なナショナリスト、民族主義者はヒトラーやナチスを評価したがる傾向があるからなぁ…。


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