ニュースな
2016年8月16日

<<<<前回の記事
次回の記事>>>

※例によって、なのでありますが、この時期執筆者が仕事で多忙になったため予定より一か月遅れの更新のため、話題が古めです。


◆今週の記事

◆譲位の上意

 それは7月13日、午後7時直前のことだった。もうすぐ7時のニュースが始まるという時間のNHK総合テレビの画面上方に「ニュース速報」のテロップが音楽と共に出た。すぐにニュースだというのにわざわざ速報を打つとは何か緊急事態下、と身構えていると、「天皇陛下が…」で始まる文字列が表示された。それを見た瞬間、「重態」「危篤」といった連想が頭をよぎったが、よく見ると続く文章は「生前の退位の意向を示した」となっていた。なーんだ、と一瞬思ったが、次の瞬間「ええー!」と結局ビックリさせられてしまったのだった。
 一応社会科の講師ですからね、公民の授業で象徴天皇のネタは雑学たっぷりで結構話す。そのネタの一つとして「今の天皇制では天皇は死ぬまで辞めることはできない。死去をって皇位継承が行われて元号も変更される」と長年教えてきた。それが「生前退位」である。まず「できるの?それって?」と驚いた。憲法には規定はないはずだが、少なくとも皇室典範は変えなきゃいけないのでは…とあれやこれやといろんなことが頭を駆け巡った。そもそも天皇自身が「意向」を示すこと自体が異例の事態である。以前、自身の死去時は火葬で、と異例の「意向」を示したことは確かにあるが、「退位」となると同じく天皇自身の話とはいえ問題のレベルは格段に代わってしまう。
 それに、なんといっても歴史好きの人間の多くが真っ先に考えたのは、「これは『上皇』の出現ってこと?」ということだったはず。退位した天皇は「退場天皇」じゃなかった、「太上天皇」略して「上皇」と呼ばれ、時期によってはこの上皇の方が実力者となる「院政」が常態化していた、なんてのも歴史の授業で習う通り。21世紀になって「上皇」なんて中世の響きたっぷりの言葉が現実になるのか?と驚いた人は結構多いと思う。ネット上では「平成院」とお呼びするべきなのか、と気の早い声もあった(笑)。そもそも1989年に「平成」の新元号が発表されたとき、何だか一気に古代か中世に引き戻された気が僕はしたのだが、ありゃ「平城」と字面が似ていたからだろうな。


 さてこの報道が流れて各マスコミで日本史上の天皇退位の前例についてずいぶんやってくれていたが、ここでもサラッとまとめておこう。
 あくまで『日本書紀』の記述が根拠だが、生前に退位した天皇の最初の例は飛鳥時代の女帝・皇極天皇だった。舒明天皇の后にして天智天皇・天武天皇の実母である。彼女の在位中に「大化の改新」につながる蘇我氏打倒クーデター「乙巳の変」が起こり、直後に彼女は退位して孝徳天皇に譲っている。だがこの孝徳が死去するともう一回即位(重祚という)して斉明天皇となった。史料上確認できる生前退位の例はいろんな意味で異例続きだったのだ。
 古代史の天皇を見渡すと、女性天皇に生前退位の例が目立つが、これは彼女たちがもともと後継本命の男子成長までの「中継ぎ」であったことが原因。奈良時代には聖武天皇が娘の孝謙天皇に譲位、その孝謙も甥の淳仁天皇に譲位するが、結局皇位を取り返して称徳天皇になっている。平安初期には平城天皇が弟の嵯峨天皇に譲位したが皇位奪回を図ったとされる「薬子の変」という事件も起きている。
 平安時代も半ばを過ぎると、天皇の生前退位の例は急増する。というか、「天皇が在位中に死ぬと不吉」という信仰のようなものまで生まれてしまい、天皇が元気なうちに退位することも珍しくなくなり、在位中に死去しても表向きは生前譲位という形にしちゃう例も出てくる。平安後期になると上皇が実権を握る「院政」が常態化し、天皇は本当の支配者である上皇になる前段階程度の存在になって、子供のうちに在位、大人になったら退位、というケースも目立ってくる。このような実態と建前の乖離が進んで複雑化していった結果が保元の乱、さらには「持明院統」「大覚寺統」の皇統分裂、ひいては天皇が二人存在する南北朝時代につながっていった。室町時代以降も生前退位の例は多いが、それ以降だと皇室自体の権力が縮小していくので皇族内で権力闘争するエネルギーもなくなってしまう。

 今のところ最後に生前退位をした天皇は江戸時代の光格天皇である、というのもマスコミでずいぶん取り上げられた。在位したのは1780年(安永8)から1817年(文化14)で、死去したのは1840年(天保11)。なるほど、死去の20年以上も前に退位している。この天皇は明治天皇の曾祖父にあたり、なおかつこの天皇から現天皇まではまっすぐ直系で継承されている。
 この光格天皇というのも天皇史では注目されるべき存在で…詳しくは系図を調べてほしいが先代の後桃園天皇からはかなり離れた親戚である。この時も後桃園は実際には在位中に死んでいたのだが、一か月ほどその死を秘して光格がその養子となる形をとったうえで継承が行われた(江戸時代の大名もよくそんな手を使った)。ところが即位からしばらくして、光格は実父の典仁親王に「上皇」の尊号を贈ろうと画策、幕府と朝廷が対立する「尊号一件」と呼ばれる政治闘争に発展してしまった。室町時代にも傍系から養子相続した後花園天皇が実父の貞成親王(いわゆる「旧宮家」と現皇室の共通の祖先)に上皇尊号を贈った例があるにはあるが、本来天皇になってもいない人を「上皇」にするわけにはいかないと当時幕府を仕切っていた松平定信が徹底反対してこの動きをつぶしている。この騒ぎを起こした当人が「最後の上皇」になってるのも何かの因縁だろうか。なお、典仁は明治になってから「慶光天皇」の尊号を贈られている。
 光格はもう一つ天皇史上重要なことに絡んでいる。歴史用語として使う「○○天皇」という名前は当人の死後に「贈り名」としてつけるものだが、平安前期の光孝天皇を最後に(流刑先で死去するなど一部の例外を除き)中国風の「漢風諡号」は途絶えて和風の贈り名が常態化していたが、実に1000年近くぶりに漢風諡号を復活させたのだ。これはその後「仁孝」「孝明」「明治」「大正」「昭和」…と現在まで続いている。これは天皇権威を高める尊王思想の現れでもあるのだろうけど、儒教(朱子学)の影響を強く受けた「中国化」とみることもできる。

 そして「明治」になると、天皇在位中は元号を変えない、天皇生前退位は認めない、死去すると元号が贈り名とされる、という「一世一元制」が導入される。これまた日本のオリジナルではなく明の建国者・洪武帝が始めた制度である。今度の騒ぎで天皇家の伝統がウンヌン言ってる人を見かけるが、これは天皇史からいえばずいぶん最近の制度であり、しかも「中国化」の実例そのものなんだよな。どういう経緯でこれが日本に導入されたのか興味のあるところ。明代史やってた僕は以前から「明治=明の治」という冗談ネタを言ってるが(笑)。
 その中国における一世一元制だが、その中でも例外はあった。清朝の乾隆帝はその在位期間が祖父の康熙帝を越えては恐れ多い、という理由から生前退位し「上皇」になった例が存在する。そのときは元号も「嘉慶」と変えられ、乾隆帝は嘉慶4年に死去している。現在の天皇が仮に生前退位を実行した場合、元号法に「元号は皇位継承があった場合に限り改める」とあるため、結果的に乾隆帝の先例にならう形になる。そもそも元号自体も四書五経など中国の古典から文字を選び出すのが恒例になっており、これが次の元号選定でも引き継がれるのか注目点だ。

 話を明治時代に戻すと、天皇の生前退位を完全に封じていたのが大日本帝国憲法と同時に制定された皇室のルール「皇室典範」だ。その第10条に「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」とあり、皇位の継承は「天皇崩スルトキ」すなわち天皇が死去した時に行うと規定されている。生前退位をしちゃいけないという文言は見当たらないのだが、一応この条文が生前退位を禁じたと解釈されている。少なくとも起草の中心にいた伊藤博文はそのつもりで、一部にあった生前退位ありの意見を明確に退けている。このような規定を導入した理由として、上にもダラダラ書いたような日本史上の多くの騒乱が上皇・天皇の併存にあるとみなされたから、という説明も聞く。光格のあとの仁孝天皇孝明天皇はいずれも急死により生前退位をするヒマもなかったのだが、うまい具合にしばらく生前退位がなかったこともこの規定の根拠になったかもしれない。
 ただし、天皇生前退位の可能性がまったくなかったわけではない。太平洋戦争の敗戦時、昭和天皇の退位が検討された事実がある。近衛文麿らが天皇制維持のために画策したと言われ、昭和天皇が敗戦の責任を取る形で京都の仁和寺で出家して退位、皇太子(つまり現天皇)に譲位、という計画は存在したのだ。わざわざ仁和寺で出家して…というあたりが大時代的というか京都の公家さんらしい発想ではあるのだが、結局この計画は実行はされなかった。これは敗戦という非常事態のケースではあるが、皇室典範が生前退位を直接的には否定していないという解釈から出たものかもしれない。
 その後、皇室典範は敗戦後に現憲法に合わせて改正され、皇位継承については第4条に「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。」と規定された。これも旧皇室典範の条文を簡易化したもので、基本的には生前退位はできないと解釈されてきた。だが「やっちゃだめ」とも書いてないのは確かで、そこらへんが今度の「意向」につながっているようにも思える。


 今度の件はまずNHKがスクープとして報じ、他のマスコミもそれぞれに宮内庁や政府関係者への取材で裏を取り、どうやら天皇の「意向」が存在することは疑いない状況になってきた。すでに天皇も皇太子秋篠宮らの理解を得ており、今年5月には話が具体化して宮内庁幹部と政府とで連絡をとりあい協議もしているとされている。それでも宮内庁は公式に「そのような意図を示された事実はない」と否定、安倍首相もノーコメントの姿勢だ。だからこのスクープをリークしたのはどの筋で、どういう意図なのかと憶測を呼んでいる。
 ただ、宮内庁や政府が公式には否定あるいはノーコメントで通したのは、これが憲法上の問題を含んでいるからだ。立憲君主制、象徴天皇制にあっては天皇は「政治的権能を有しない」と定められている。天皇が自分自身、あるいは「自分の家」のこととはいえ、「意向」を発動し、それを受けて政府が皇室典範改正など法律整備に動くとなると、天皇が「政治的権能」を持ってしまったことにもなる。退位問題くらいなら…と思う人も多いだろうけど、こういうの、例外を認めると際限なくなる可能性も高いわけで、政府としては「意向」の存在を公式に認めることは最後までないと思う。それこそ今の天皇は「平和憲法」とわざわざ口にするなど今の政府の意向とは違う「意向」をお示しなんじゃないかとささやかれてきた経緯もあるし。今度の退位意向だって、今度の参院選の結果と合わせて一部には憲法改正に突き進む政権への牽制じゃないか、なんて深読みする向きもある。


 にわかに大騒ぎになった「退位の意向」だが、当初はその方向に進むのかな、という気配があったが、一週間くらい経ってくるとどうもそう簡単にはいきそうにはない、という空気も漂ってきた。予想していたことなのだが、天皇制擁護者を自認する保守系人士ほどこの手の話を嫌がるのだ。たかだか明治以後の伝統のはずだが、不思議とこの手の人たちは明治以後敗戦以前の時代を理想としている人が多く、「一世一元制」を断固守るべきとの主張を見かけた。それこそ「国体」の破壊につながる、とまで騒いでる人もいるようで…あと、この方面の人たちの間では以前から皇太子夫妻への風当たりが強く、天皇の生前譲位により次期天皇・皇后が確定してしまうことへの反発も口にこそ出さないがあるように感じている。
 皇室典範改正といえば、小泉政権時代に「女系天皇」の是非が議論となり、その後も「女性宮家創設」「旧宮家の皇族復帰」の議論が現れては消えている。ガチガチの保守系、というより右派な人たちは「男系男子継承」は絶対に譲れないと考えており、「女性宮家」には消極的、「旧皇族復帰」には前向き、という傾向がみられる。どっちにしても男系男子が今の状態では悠仁親王が即位するような時代には皇族がほとんどいないという事態もありうるため、皇室典範の改正は避けられないところではあろう。ただ「旧皇族復帰」については小泉政権時代の有識者会議で「共通の祖先が六百年前」(上記の貞成親王のことね)と強く否定的な見解が出されたことがあり、確証はないのだがそこには現皇室の「意向」が反映してるんじゃないかと僕は勝手に推測している。後で知ったが光格天皇即位の時も伏見宮系をという話があったが流れている。実はそれ以来の暗闘でもあるのかも…。

 
 …以上のようなことを夏休み前の時点で書き終えていた。それから夏期講習で多忙になっちゃったものだから更新できずにズルズル放置しているうちに、8月8日に天皇自身が国民に「お気持ち」を語りかけるビデオメッセージが公表された。全テレビ局(あのテレ東までが)が横並びで特番を組んで一斉に放送したのは大袈裟なとは思ったけど、やはり国の象徴が気持ちを吐露するんだからその地位を「総意」で認めている国民としては聞くのが筋ではあろう。おかげですっかり「玉音放送」状態になってしまい、僕も出先で仕事の合間にこっそりスマホのワンセグ映像で一部だけ生視聴した。現天皇は東日本大震災の時もビデオメッセージを出していて、これが二度目の「玉音放送」ということになる。
 事前の予想では憲法上の問題もあるからかなり遠回しな「ご意向」表現になると思ったのだが、実際に見聞きしての感想は「思いのほか自分の希望を強く出したな」というものだった。さすがに命令するような形は避けているものの、政府周辺で上がっていた「摂政案」をはっきりと否定し、あくまで生前退位にこだわっている。ああいう風に言われては政府としても全く無視することなどできまい。実際放送を受けての世論調査では国民の生前退位支持は80%〜90%と圧倒的で、なんだか渋る政府を天皇が国民を利用して動かした、という構図に見えなくもない。ま、さすがにここまでする段階ではほぼ政府との話はついていたのだと予想するけど。
 天皇のコメントで一つ大いに同意したのは、天皇の死去と新天皇の即位に至るまでに起こるさまざまな面倒が国の負担となる、という指摘だ。これは昭和から平成への変わり目をリアルタイムで見た人なら実感を持つはず。昭和天皇が危篤となってからの数か月に及ぶ自粛ムードや、今だとプライバシー問題と感じる「ご容体」報道、実際に死去してから大喪の礼、即位式にいたる一年に及ぶ各種行事などを思い起こすと、確かに天皇が生前退位しておいた方がいろいろと簡素化できて国民の負担も減るだろうと思える。

 安倍首相もメッセージを「重く受け止める」として、生前退位実現に動く模様だが、皇室典範改正には手を付けずにこの場合限りの特別立法にする方向だとされる。皇室典範に手をつけると、それこそ保守派が嫌がる女性宮家・女系天皇の問題や、逆に推進従ってる旧皇族復帰論が絡んでくるのでやりたくはないのが本音だろう。ただ、そうしょっちゅうあることではないとはいえ、国の象徴の進退を本人の意向というあいまいなものでその都度決めちゃうというのは問題があるのではないかなぁ。
 ところで、僕が仕事で相手にしている中学生の間では、この8月8日のビデオメッセージをもって天皇が退位、元号も変わる思い込んでた子が少なくなかった。ネット上で「次の年号は『安久』と決まっている」との噂が広まってることまで聞かされたが、調べてみるとすでに2012年の段階でYAHOO知恵袋で話題にされていたので、結構前からあるガセネタのようだ。まぁ子供たちの間では7月末某日の何時何十分に関東に大地震発生、なんて噂も流れていたので、そもそもアテにならないのだが。

 なお、この一か月の間に元千代の富士が死去した。連勝記録を止められた取り組みは1988年=昭和63年の本場所最後の取り組み、つまり昭和最後の一戦だったわけで、つくづく「昭和が遠くなる」感を覚えてしまった。
 そしてその同じ昭和63年に結成された「SMAP」も結局8月14日に解散を発表。天皇に先立っての「生前退位」だなんてジョークもネット上でみかけたが、ここでも「昭和が遠くなる」と同時に「平成の終わり」の到来を感じてしまうのだった。



◆島と岩の話の続き

 これまたすでに古い話になるが、かねて注目されていた、南シナ海の領有問題をめぐる国際仲裁裁判所の判断が7月12日に出された。中国とこの問題で争っているフィリピン政府が訴えたもので、中国政府は提訴自体を問題視、あくまで当事国間の話し合いで決めるべきと主張、「判決」の日が近づくとどうも不利な決定が出そうと察したのか、「紙屑」「茶番」などいろんな言葉を駆使してその決定は一切無視するとの態度を見せた。もっとも無視という割に気にはしてるんだな、と思わせる反応だったけど。
 で、その決定は中国にとっては全面敗訴といっていいくらいの内容だった。僕は正直なところここまで全面的に中国の主張を退けるとは思ってなかった。どっちにでもとれる曖昧なことを言ってくるような予想もしたのだが、さすがに中国が主張する「九段線」、南シナ海をほとんどその手中に収めてしまうラインについては認めるわけにはいかなかったろう。
 中国側が判決に対して「中国の南シナ海支配は2000年にわたる」と言ってるのも凄い。たぶん古い歴史の本の「地理」のところで南海諸国に触れている程度の話を根拠にしてるのだろう。すでに言ってるのかもしれないが、ずっと時代を下る明の時代の鄭和の大航海を根拠にするのでは、との見方もあった。そんなバカな、とつい笑っちゃうのだが、実のところ世界を見渡せば探検隊が行った程度で領有の根拠にしてるケースは多いから油断はできない。南極なんて自国の探検隊の足跡を根拠にイギリスやら各国が領有主張を実際にしているのだ。

 さて中国の反発ばかりが大きく報じられているが、実は台湾政府も今度の決定に激怒、台湾が実効支配している南シナ海最大の「陸地」である「大平島」周辺に軍艦一隻を派遣するアピール行動をしていた。軍艦の出発を就任したばかりの蔡英文総統が港まで見送りに出て、台湾政府としてあくまで領有主張をするとの決意をはっきりと表明していた。その後、国会議員や漁民が次々と「大平島」に上陸を行い、蔡総統自身も上陸する可能性を示唆している。
 この蔡総統が南シナ海問題の平和的解決について声明も出しているのだが、その内容でつい「面白い」と思っちゃった点がある。蔡総統は仲裁裁判所の判決について、「中華民国(台湾)に触れていない」点にも怒っていたのだ。どうも判決文では台湾について「中国の台湾当局」といった表現になっていたらしい。台湾=中華民国を承認している国家は少ないとはいえ存在はするが、仲裁裁判所としてはここで「二つの中国」問題に踏み込みたくはなかったのだろう。だが蔡総統はそこを逆手にとり、「判決に中華民国の名が出ていないのなら、中華民国政府は判決に拘束されない」という論法で判決無視を宣言したのである。ついつい「その手があったか!」と笑ってしまった。もちろん中国政府とは一切歩調を合わせてはいないが(蔡政権発足で中台当局者間の連絡はあらかた途絶えた)、結果的に中国と同じ姿勢をとっているわけだ。中国が主張する「九段線」ももとはと言えば台湾政府が言い出した「十一段線」にルーツがあって、その主張は今も放棄していないんだよな。

 以前の当欄で「島か岩か岩下志麻か」という記事で触れたように台湾の馬英九前総統の政権は任期終了直前に日本の沖ノ鳥島について「岩」との主張を行い、それは「大平島」の件との対比を狙ったのでは、と言われていた。その後政権交代が行われると蔡政権は日本への配慮として「沖ノ鳥島=岩」判断をひっこめて曖昧な状態に戻していた。国民党との違いを出し、中国とは異なる外交色を出そうとしたのかもしれないが、どうも南シナ海の件では国民党政権と同じ路線を踏襲することにしたようである。この調子だと沖ノ鳥島についても態度を変えてくるかもしれないな…と思っていたら、やはり日台間の海洋協定の交渉が急に棚上げにされたとの報道があった
 で、日本政府も今度の仲裁裁判所の決定について表面には出さないものの懸念を抱いているらしい。少なくともその内容を綿密に検討することは表明している。なぜかといえば、まさしく「沖ノ鳥島」が「岩」と認定される根拠にされかねないからだ。
 フィリピン政府の提訴は南シナ海にある小さな「陸地」のたぐいを一律に「岩」認定せよ、との内容を含んでいた。そしてこれがほぼ「満額回答」された。前述の「大平島」も「岩」認定されたから台湾が激怒したわけで、それより明らかに小さい沖ノ鳥島なんてひとたまりもない。今のところすぐにその動きはなさそうだが、どっかの国が沖ノ鳥島は岩だろ、と仲裁裁判所に訴えればこの判例からするとほぼ間違いなく「岩認定」されちゃうはず(さらにアップ直前に在米中国・台湾系団体が米紙に沖ノ鳥島と大平島を比較する意見広告を載せたとの報道があった)

 判決直後、中国では今度の判決の判事選定に日本人が関わっていることなどから批判の矛先を日本に向けようとするようなコメント、報道もあったみたいだが、実のところ日本にとっても不利な判決だったわけで、そのせいか一般レベルでは日本へ矛先を向けようとする動きはほとんどなかった気配(ただ一時集中した尖閣周辺への漁船・公船出動はどっかの政治的意図は感じる)。むしろ反米気分が一部で盛り上がってマクドナルドなどの不買運動の呼びかけがあったと報じられたが、なんだその程度か、という気もしちゃう。
 アメリカと言えば、政府関係者だったかシンクタンクの誰かだったか忘れたが、中国の南シナ海支配について「このままではアメリカにとってのカリブ海にされてしまう」と警告していたのを新聞で読んだ。わかりやすい例えなのだが、そもそもアメリカにカリブ海を我が物にしていい権利があるのか?という素朴な疑問もわいてくる。振り返ればアメリカもパナマ侵攻、グレナダ侵攻などなどカリブ海地域や南米では手前勝手な行動をずいぶんしてきたわけで、つくづく大国になるとみんなズウズウしくなるものだと思うばかり。


 領土問題というと、どこの国でも単純にエキサイトし、かくもドロドロでキナ臭い話ばかりになってしまうものだが(大平島や竹島に台湾・韓国の議員たちが上陸パフォーマンスをするのを見ても、ある種の政治家にとって美味しい素材だと分かる)、ひとつ心安らぐようなニュースもあった。なんとノルウェーが、お隣のフィンランドに領土の一部をプレゼントしちゃうかもしれない!という話なのだ。
 ノルウェーとフィンランドの国境にまたがるハルティア山という標高1331mの山がある。両国にまたがるということはその山頂付近に国境があるわけだが、ノルウェー側が40mほど国境を後退させて山頂部をそっくりフィンランドに譲ってしまおうという話である。なんでわざわざそんなことをするかといえば、来年でフィンランドが独立百周年を迎えるので、そのプレゼントとして、というなかなか粋な計画なのだ。
 まだ決定したわけではないのだが、ノルウェーのソルベルグ首相が口にしたことだからそこそこ公式な話。もともとは1972年にハルティア山を測量したノルウェー国土地理院の職員が言い出したアイデアだそうで、その意志を引き継いで近年フェイスブックで運動が広がっていた。ノルウェーには山が多いがフィンランドには山はほとんどなく、その一つくらいくれてやるのもいいじゃない、というノリのようだが、同時に「北欧諸国の相互信頼」のアピールにもなる、というわけだ。とうとう首相まで口にしたとなると実現の可能性は高そうだ。
 なお、この山頂部がフィンランドに譲られると、いきなりこれがフィンランド最高峰になってしまうとのこと。日本でも一部の自治体で山頂をめぐる「領土紛争」があったりもするが、



◆ヨーロッパはいつも激動

 時間が経ってくると、イギリスのEU離脱も世間的に「事実」として受け止めてしまったようで、ひところのパニックは収まったように思う。新首相もライバル候補の撤退によりテレーザ=メイさんにあっさりと決定、マーガレット=サッチャー以来四半世紀ぶり、イギリス史上二人目の女性首相が誕生することになった。彼女自身はEU残留派だったといわれるが首相就任にあたって国民投票の結果を尊重してEU離脱の方向を再確認している。そして離脱派のシンボル的存在であり、ひところは最有力首相候補とまでみられていたボリス=ジョンソンをなんと外相に「抜擢」した。もともと問題発言の多い人なのでイヤガラセで外相に任命したんじゃないかとの見方も出てるほどだが、ジョンソンさんとしてもちゃんと責任をとれ、ということでもあるのだろう。


 イギリスのEU離脱の騒動がひとまずの一段落をする一方で、フランスとドイツでは移民によるテロ事件が相次いだ。
 南仏の観光地ニースでは革命記念日の花火大会をトラックが襲い、80人以上の犠牲者を出した。射殺された犯人はチュニジア系だったがイスラム教徒としてはかなり不信心であったらしく(事件直前に禁酒しだしたというからそれ以前は飲んでたわけで)、近所の住民からも「日本語でいう『ひきこもり』」と評されていたし(この日本語がすでに世界に普及してることにも驚いたが)、日常からいささか問題行動の多い人物ではあったらしい。それがISに刺激されたかどうかは判然としないが、何かデッカいことをやって死んでやれ、ってくらいの気分だったんだろうか…日本の小学校襲撃とか秋葉原事件とかに近いものだったんじゃなかろうか。

 ドイツではまず電車内でアフガニスタン難民の少年がナタを振り回す殺傷事件を起こした。その直後にはイラン系の青年がマクドナルドで銃を乱射。さらにその直後には自爆テロを実行して自分だけ死んだ男もいた。いずれの事件もISとの結びつきについては薄いとみられ、特にマックで銃乱射した犯人はノルウェーで起きた反移民思考の人物による大量殺人の例など「大量殺人事件」に興味を抱いていた様子で、イスラムがどうのはあまり関係なさそう。そりゃ移民はいろいろと社会で差別緒受けるだろうし、難民認定されない不安定な立場は精神的にも不安定になりがちだろうが、こうも移民・難民による凶悪犯罪が続いてしまうと結局はドイツ国内の反移民感情を刺激するだけで、移民への風当たりはますます強くなる悪循環が予想される。メルケル首相はそれでも難民受け入れを続けると表明したのはエライとは思うのだけど、風当たりは強くなるだろうな。
 さらにフランス・ノルマンディーで事件が発生。今度は二人組が教会にたてこもり、神父一人を殺害、彼らも殺害された(最初「仏教会が襲撃…」という見出しを見て「ついに仏教徒が標的に」と一瞬勘違いした)。このケースは犯人たちがISに共鳴してシリア入りを目指して阻止されるなど当局の監視対象にもなっていたというから、ISとかなり直接的なかかわりを持っていたとみられるが、これだって「イスラム」「移民」の犯罪とひとくくりにされるだろう。

 こういうことが続くと、「反移民」「反イスラム」を掲げる各国の極右勢力が勢いを増す。そうなるとこういう勢力は基本的に「反EU」だから、それこそ政権を取った日にはEU離脱の国民投票をやっちゃう。すると勢いで離脱が通ってしまう可能性も高く…と、ますます「EU解体」が現実味を帯びて来てしまう。もしかしてISはそこまで意図してテロ扇動をしてるんじゃあるまいな…。
 ヨーロッパでそんな事件が続いた直後、日本では障害者施設で19人もが殺害される、被害人数としては戦後最悪の事件が発生。別に連動したわけではないのだろうが、犯人が「重度の障害者は安楽死させた方が社会のため」といった、ナチスそのまんまの主張を確信をもって言っちゃってたあたり、いま世界に漂う排他的空気と通ずるものがあった。この犯人、かなりオカルトな陰謀論にドップリと浸かってしまっていて、独自の解釈から自分が選ばれた特別な存在と勘違いしたようだが、テロ事件を起こす連中だって似たようなものだ。


 それはヨーロッパの話題なのか、とツッコまれそうだが、トルコでは7月にクーデター騒ぎが発生した。トルコはイスタンブール以西の領土がヨーロッパに属しており、ケマル=アタチュルクによる建国以来「ヨーロッパ」を志向し、EU加盟を国家的悲願としている国であり、一応ヨーロッパ国家扱いするのが筋ではあろう。ただ今回のクーデター失敗とその後の展開はトルコのヨーロッパ志向そのものの転回すら予感させるものだ。
 トルコでクーデターが発生したことに僕はもちろん驚いたが、同時に「とうとうやっちまったか」という思いもあった。穏健イスラム政党を率いてすでに十年以上も政権を握っているエルドアン大統領だが、近年その野党勢力やメディアに対する強権姿勢が何かと批判されていたからだ。さらにはアタチュルク以来、徹底した「政教分離」「世俗主義」を国是としてきたトルコにおいてイスラム傾向の復活(公の場での女性スカーフ着用の解禁、酒類販売の規制など)を進めることに、「世俗主義の守護者」を任じる軍部に不穏な動きがあることはこれまでもチラチラと報じられていたのだ。
 だからクーデター自体はいつ起こってもおかしうないんじゃないか、という気はしていた。ただ結果からみると軍の一部が動いただけだったみたいだし、大衆も多くはエルドアン政権を支持してクーデター部隊に立ち向かって犠牲者を出しつつもその動きを止めてしまった。クーデター実行者たちもこういう時のお約束のテレビ局占拠も行って政権転覆を放送したものの結局それ以上のことはできないままアッサリと敗北してるところを見ると、もともとしっかりした計画性も組織力もなかったようにも見える。そのアッサリとした敗北ぶりは1991年夏のソ連での反ゴルバチョフクーデター(このためソ連は年末に解体となる)を連想させた。

 クーデターの実態は一か月たった今でもよくわからない。トルコから聞こえてくるのは、エルドアン政権がクーデターに関与したとして軍人・教師その他の公務員を数万人も「公職追放」したとか、多くの民間メディアを活動禁止にしたとか、支持者からの要請に応えてという形ではあるが「死刑復活」に繰り返し言及するなど、むしろこのクーデター失敗を奇貨として自分に対する「抵抗勢力」を根こそぎにしてしまえと、いっそうの強権をふるっているという報道である。真偽は定かではないがエルドアン大統領はクーデター騒ぎについて「神からの贈り物」と発言したという報道もある。
 エルドアン政権はこのクーデターの首謀者として、かつて同じく穏健イスラム勢力として政権獲得まで協力関係にあったが、その後対立してアメリカに亡命しているイスラム運動家フェトフッラー=ギュレン氏を名指ししている。例えると「二・二六事件」における北一輝みたいなもんだろうか。ただギュレン氏当人が関与を全面否定しており(まぁ北一輝も直接関与したわけではないが)、そもそも今度のクーデターとギュレン派の関係は客観的に立証されてはいない。公職追放された人たちが全てギュレン派なのか?という疑問もあるし、その思想、所属組織だけで公職追放、はては死刑まで行うとあってはクーデター軍事政権とどこが違うのか、と思えてしまう。あるいはトルコ人にしか分からない、政権関係者にしか分からない裏事情があるのかもしれないが、これじゃ傍目には政権側によるクーデターとも見えて来てしまう。そのためもあってか、アメリカにいるギュレン氏は「政権の自作自演」を主張しているという。さすがにそこまでのリスクは犯せないとは思うが、生まれた状況を最大限に利用しているのは間違いない。

 実はクーデターに先立って、僕が「おや?」と思う動きがあった。先ごろ、シリアを爆撃していたロシアの戦闘機をトルコ空軍が「領空侵犯」として撃墜してしまい、トルコとロシアは一時断絶状態にまでなった。それが7月に入って急転直下、トルコ側がロシアに事実上の「わび状」を送って関係修復を行っていたのだ。事件直後の強硬姿勢からしても驚くほどの急変だったし、この手の国家間のモメ事で一方が完全に頭を下げるというのはめったにない(これも一応表向きは謝罪じゃないんだろうけど)。その直後のクーデターだったものだから、僕なんかはこのロシアへの「わび」が軍の一部の反発を招いたのでは、と思ったくらいだ。そしてクーデター騒ぎ収拾の直後にトルコ・ロシア関係は完全復旧が宣言されている。うーん、思えばプーチンさんとエルドアンさんってもともと政治的手法は似ていたような。
 一方で、トルコとアメリカの関係は悪化している。先述のようにエルドアン政権はアメリカに亡命しているギュレン氏をクーデター首謀者と見なしていて、アメリカ政府にその身柄引き渡しを要求している。オバマ政権としてはトルコ側の主張は証拠不十分として当面引き渡さない構えだが、このためトルコではクーデター騒ぎ自体が「アメリカの陰謀」とする説まで流布しているらしい。「自作自演説」ともども考えにくい話なのだが、トルコ側が対米姿勢を硬化させる可能性が出てきて、むしろロシア側に接近しようとするんじゃあるまいか、という状況にもなっている。
 そしてヨーロッパ、EUとの関係も微妙になってきたトルコはかねてよりEU入りを熱望していて、そのためにEUが加盟国の条件としている死刑も廃止したりしているほどなのだが、その死刑の「復活」に何度も言及することにEU側が神経をとがらしている。EU側の批判に対しエルドアン大統領は「死刑はアメリカでも日本でも中国でもやってる」と反論しているのだが、これはもうエルドアン政権としてはEU入りはあきらめた、ということなのかも。EU自体もイギリスの離脱決定で先行き不安になってきたと見定めちゃったのかもしれない。


 EUによるヨーロッパ統合、というのは一つの大いなる実験、理想を現実化する試みであったと思うのだが、ここに来て問題が一気に集中してしまったようでここ数年は本当に正念場というところだと思う。今になってみると東欧諸国の加盟など、急ぎすぎた面は否めないのではないかなぁ…なんとなくこのところ東欧諸国がかつての社会主義政権の雰囲気に戻って来てロシアに接近するかのような動きも出ている感もあるし。
 そんなEUとは別に、将来的にEUのような統合を目指しているのが「AU」=アフリカ連合では、加盟54カ国をビザなしで往来できる「共通電子パスポート」の構想が浮上しているそうで。今月中にルワンダで開かれるAU首脳会談でまずは参加する首脳・高官らに発行されるとのこと。もちろん狙いはEU同様に域内での人や資本、物の移動の活発化を促進するためで、早くも2018年までにアフリカ全域の市民にも発行する計画であるという。AU政治局長のコメントではさすがに2018年までにというのは「野心的」と表現していたが、EUと比較した場合、AUのほうが難民問題や主権喪失の懸念といった問題が起こることはないと楽観的な見通しを語っていた。AU内の人・物の移動が活発化して経済が活性化すれば、若者がサハラ砂漠や地中海を渡る危険を冒してヨーロッパに渡る必要もなくなる、とも言っていて、うまくやればEUが頭を痛めてる問題の解決にもつながりそうだが、南スーダン一つ見てもなかなか楽観はできないなぁ。



◆掘れば出てくるものがある

 またまた…なのだが、ここ一か月間の発見話を羅列。

 京都北山にある鹿苑寺は「金閣」を抱えているため「金閣寺」と通称されるが、建物の金閣まで「寺」つきで呼ぶことがほぼ定着してしまっている。三島由紀夫の同名小説の影響大という気もするのだが、社会のテストでは建物の方について「金閣寺」と書くとバツをくらう可能性大なので学生は注意のこと。
 先月、その鹿苑寺=金閣寺の境内から、室町時代に存在した高層の塔の最上部の破片が発見された、という発表があり、南北朝マニアにして足利義満主役の仮想大河まで書いちゃった僕の目を大いに引いた。なんでも昨年8月に行われた工事にともなう発掘調査の際に、境内の第一駐車場売店のそばから三つの金属破片が発見されていたそうで、それを調査した結果、寺院にある高層の「塔」の最上部につける「相輪(そうりん)」の一部であり、青銅製で金メッキがほどこされ、復元してみると輪の直径が2.4mにもなる巨大なものであると分かった。さらにかなり高いところから地面に落ちて破損した痕跡があるといい、塔の高さもかなりのものと推定されるという。
 金閣を建設したのはもちろん足利義満だが(現在建ってるやつは復元だけど)、当時は金閣だけでなく周辺一帯が「北山殿」と呼ばれる「宮殿」なみの壮大な建物群が存在した。ここに義満が巨大な塔、「北山大塔」を建設していたという記録が当時の公家日記に残っていて、それは応永11年(1404)4月に起工され、義満死後の応永23年(1416)に落雷により焼失したとされている。つまりちょうど600年前に焼失したことになるのだが、この塔が実際にちゃんと作られたかについては疑問の声もあったという。今度の「相輪」の発見で巨大な塔がやはり完成していた有力な証拠となりそうだ。
 この「北山大塔」に先立って、義満は相国寺にも巨大な塔を建設している。それは七重の大塔で、高さ360尺=約109mと記録があり、日本の建築物でこの高さが破られたのは実に大正時代のことであった。高いせいで落雷のため焼失し、その後再建されたがやはり義満死後に焼失していて、この一度目の焼失の翌年に義満は自身の拠点である北山にも同様のものを建設したということらしい。「北山大塔」のサイズについては記録がないが、相国寺大塔と同レベルとの予想もあり、今回巨大な相輪が出土したことでその可能性もますます高まることになる。改めて義満という人物のスケールの大きさを感じる発見であった。


 イスラエル南部では、意外にも史上初となる「ペリシテ人」の墓の発掘が行われた。「ペリシテ人」とは旧約聖書においてイスラエル人(ユダヤ人)の敵対者として登場する民族で、その名が「パレスチナ」という地名の由来となっている。この地にその名がつけられたのは彼らがバビロニアの攻撃で滅んだずっとのち、ユダヤ人たちがローマ帝国に逆らった際のことではあるが。従って、現在の「パレスチナ人」とは全くの無関係だ。
 発掘調査されたのは地中海に面したアシュケロンという都市の近くにあったペリシテ人の墓地で、すでに145体もの遺骨が発掘されたという。すでに30年も彼らについて調査してきた考古学者も「ついに彼らと対面できた」と大喜びであた。文献資料と言えばそれこそ旧約聖書くらいしかなく、実態が謎に包まれているペリシテ人について、その葬送儀礼その他の文化等が解明できるかもしれないと期待されている。


 続いては、過去に「掘りだしてしまった」遺骨が返還されたという話題。それも日本国内の話だ。
 1930年代に、日本では人種研究のためとしてアイヌの遺骨がその墓から数多く「発掘」され、大学など研究機関に納められた事実がある。今からすればひどい話だが、当時は世界的にも「未開人」扱いの人々に対する態度はそんなものだった。2012年に遺骨を奪われた遺族たちが北海道大学を相手に遺骨返還の訴訟を起こし、今年三月に和解が成立、7月15日に北海道大学から12体の遺骨が遺族に返還され、受け取ったアイヌの人たちや支援者らによりアイヌの儀式「カムイノミ」がささげられた。17日に浦河町にあるもともと埋葬されていた共同墓地に納められた。
 たったこれだけのことをするために80年以上も時間がかかってしまったわけだが、国の調査によると同様に勝手に発掘され全国の大学など研究機関に納められた遺骨の数はなんと約1600人分にも及ぶという。そんなに大人数の遺骨を集めてどうする気だったのか分からないのだが、とにかくこれら遺骨についても身元が分かり次第返還し、引き取り手のない遺骨については2020年までに白老町に建設予定のアイヌ文化振興施設「民族嬌声象徴空間」に治められる予定とのこと。
 
 8月に入り、同様に「研究用」として勝手に集められていたアイヌの遺骨がドイツにもあることが確認されたと毎日新聞で報じられた。今のところ確認されただけで全11体、このうち4体は日本国内、6体はロシア領内(樺太など)、残り一体は不明、という構成だそうである。それらは19世紀末までに収集されたとみられ、うち一体については札幌で墓地から夜陰に紛れて「盗掘」されたことが、収集者自身によりきっちり記録されていた。これらの事実は二度の大戦やドイツ分断で長らく忘れられていたが、ようやく光が当たった格好だ。
 ドイツ側ではこうした遺骨について「不適切に収集」したと確認できるものについては返還する方針を定めていて、最近でも旧植民地ナミビアで虐殺の犠牲となった現地住民の遺骨をナミビアに返還した例があるという。アイヌのケースでは、先述の札幌の盗掘が本人の手になる明確な証拠があるので返還に持ち込めそうだと北海道アイヌ協会では見ているとのこと。当時ロシア領であった樺太南部で収集された遺骨についても北海道アイヌの可能性があるため、それについても交渉したい意向だそうだ。


 発掘や発見の話ではないが関連する話題を。
 日本はアイヌに対して同化政策をとり続け、「先住民族」と認めてその文化の振興を図るようになったのはつい最近の話だが、このたび台湾の蔡英文総統が台湾先住民(「原住民」と呼ばれる)に対して過去に行った差別について政府として謝罪表明を行っている。「原住民の日」に定められた8月1日、蔡総統は先住民16族の代表を総統府に招いて過去に台湾を統治した各種政権が武力をもって彼らを鎮圧したり、文化的アイデンティティーを否定してきた歴史を挙げて謝罪、今後は彼らの文化を尊重して共存共栄をはかりたいとの演説を行った。総統府に招かれた代表たちはもちろんそれを受け入れたのだが、総統府の外では一部先住民らが「口で言うばかりで具体性がない」と批判して騒ぎ、警官隊と衝突したりもしていたという。
 なお、蔡総統が挙げた過去の「誤った政策」の中には日本統治時代の同化・皇民化政策もしっかり含まれている。先ごろ台湾で大ヒットし、日本でもささやかに公開して僕も見に行った映画「セデック・パレ」は、当時日本では「霧社事件」と呼ばれた先住民セデック族の日本人に対する壮絶な蜂起を描いたものだったが、ああいう映画が製作されヒットするようになったのも台湾における意識の変化の表れでもあるのだろう。


 その台湾からほど近い与那国島から、西表島へ向かって「古代人の航海」を再現しようという実験が7月に行われている。
 日本人のルーツをめぐっては、今から一万年以上前の日本が大陸と陸続きだった時代に北方や朝鮮半島方面から人が渡って来たとする説がある。だが日本最古の人骨は沖縄本島から出土した3万2000年前のもので、南方から海を越えて渡ってきた人々もいたのでは、との説も有力。しかしどうやって渡ったのかはまるで分かっていない。そこで海部陽介・国立科学博物館人類史研究グループ長率いるプロジェクトチームは当時の技術で製作可能と考えられる「草船」を製作、移住に最低限必要とされる男女を乗せて、実際に航海できるか実験してみることにしたわけだ。
 7月18日に実施された実験航海だったが、残念ながら潮流が予想より強く、予定の半分ほどを伴走船に曳航されこととなり、少なくともこの方法では渡海はかなり厳しい、という結果が出た。もちろんそれがわかっただけでも実験の価値はあるわけで、 プロジェクトリーダーの海部氏も「どうやったらできるのか改めて考え、次に生かしたい」とコメントしている。
 この手の航海実験はノルウェーの人類学者ヘイエルダールが南米大陸からポリネシアへの人類拡散を実証すべく行った「コンティキ号の航海」が有名だ。この実験は一応成功してるんだけど、一部航路で曳航されていることや、そもそもその航海自体が可能だからといって実際に人々の移住があったことの立証にはならない(ヘイエルダールが唱えたいくつかの渡海移動説は実際ほぼ否定されている)、といった問題点を抱えていた。今度の実験は大変興味深くはあるのだけど、渡航可能ということと実際に移動があったかということはまた別の話であることに注意が必要だ。古代人の航海技術が意外とバカにしたものではない、ってのも事実なんだろうけどね。


 最後にまた人骨の話題。8月1日にロイター通信が報じたもので、ギリシャの首都・アテネで古代の共同墓地から80体もの「手枷でつながれた人骨」が発掘されたという。
 発掘自体は4月に行われていて、アテネ市内の国立図書館・国立歌劇場の建設予定地でそれは見つかった(余計なお世話だが、ギリシャはそんなの建設する余裕ができたのだろうか)。見つかった80体の人骨は手枷でつながれ、その手枷をはめられた両手を頭上にのばす形で整然と並べられていた。歯の状況から健康な若い男性が多かったと判断され、集団で処刑されたが一定の敬意をもって葬られたものと推定されるという。共同墓地の年代が紀元前8世紀から紀元前5世紀のものであることから、前630年ごろにキュロンという貴族が僭主になろうとして反乱を起こした事件に連座して処刑された人々とする説が有力とのこと。いやぁ、実在すら怪しい神武天皇と同時期というえらく古い話で、ギリシャ史上でも史料的に確認できる最古の政治的事件とされるそうだが、その関係者の骨をいま目の当たりにできるというのもすごい話である
 

2016/8/16の記事

<<<前回の記事
次回の記事>>>
史激的な物見櫓のトップに戻る