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2016年10月15日

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◆今週の記事

◆民の声は天の声

 そのむかし、「民の声は天の声というが、天の声にもヘンな声がある」と名言を吐いたのは元首相・福田赳夫。自民党総裁選で大平正芳に敗れて退陣が決まった時に記者団に吐いたものだ。この当時の自民党はいわゆる「三角大福中」と呼ばれた総裁候補がひしめいて内紛のエネルギーが凄かった、ある意味での「最盛期」で、大平勝利の背景には福田と対立する田中角栄の意向が強く働いていた。この対立は一時は自民党分裂寸前のところまでいくのだけど、大平の急死により分裂は回避されることになる。
 現在の自民党では総裁の安倍首相が福田派の流れを汲んでいて、大平派の末裔が自転車でコケてしまった谷垣前幹事長、旧田中派の流れは二階現幹事長ということになるんだろうけど、総裁任期の延長(なんと無期限の意見もあるとか)が特に反対もなく実行に移されるところを見てると、自民党も議席数はともかく総理総裁候補者の人材不足がかなり深刻で、内紛を起こすエネルギーすら欠乏してきてるように思う。つい先ごろ総裁有力候補と言われた加藤紘一が死去したが、彼の起こした「加藤の乱」の腰砕けぶりに内紛エネルギーの欠乏が見えていたんだよな。話題にのぼる選挙の候補者も世襲ばっかりだし。


 で、本題は日本政界の話ではなく、「天の声」とされる「民の声」で、いろいろ注目されるものがあった、という話題。まずは南米はコロンビアからだ。
 このコロンビアという国、すでに半世紀にわたる内戦が続いてきた。都市部のブルジョワ層を基盤とする政府に対して、山岳部農民などを基盤とする左翼ゲリラ「コロンビア革命軍」が武装闘争を展開し続けてきたのだ。1980年代に一度は和平が成立して「コロンビア革命軍」も合法政党として議会に参加するところまで行ったのだが結局話が壊れて内戦が続けられた。以来紆余曲折があるのだが一気に省いて、2011年にアメリカの応援を受けた政府軍の攻勢でコロンビア革命軍の幹部が戦死、以後革命軍は劣勢に立つようになり、政府側はこれをいい機会として掃討ではなく和平交渉を進めて、それが今年に入って「歴史的和解」として実を結んだのだ。和平交渉は中南米における「社会主義国」であるキューバで、ラウル=カストロ議長の仲介で行われていて、このあたりにも今年のキューバの存在感の高まりを感じる。

 2016年の9月26日、コロンビア北部のカルタヘナで和平協定署名式典が盛大に執り行われた。仲介役のカストロ議長はじめ中南米諸国の首脳も列席、潘基文国連事務総長やアメリカのケリー国務長官なども顔をそろえるなか、政府側のサントス大統領と革命軍側のティモチェンコ最高司令官はそろって白い服を身に着けて署名を行い、固い握手を交わすというお約束の感動演出のうちに式典を終えた。サントス大統領は「われわれ全員が愛する祖国の元首として、あなたがたを民主主義に迎え入れる」と演説、ティモチェンコ最高司令官も「和解と平和構築の新しい時代を始めるため、私たちは生まれ変わる」と宣言、過去の内戦による犠牲者(死者・行方不明は30万人に上るとされる)への謝罪も一応表明しつつ、「武器を捨てて政治の世界に入る」ことを約束した。

 とまぁ、ここまでは話は順調に進んだのだ。しかしこのあと、この和平協定の承認をめぐる国民投票が10月2日に行われ、フタをあけてみたらタッチの差ながら「反対」が「賛成」を上回ってしまったから大騒ぎになっちゃった。和平協定成立時点での世論調査では「賛成」が5〜6割、「反対」は3割台との数字が出ていて、政府としてもビックリの結果であったらしい。それだけ左翼ゲリラに対する敵視が実は強かった…ということなんだろうけど、なんだか先日のイギリスのEU離脱国民投票の展開に似たところがあるようにも思う。ここまで進めた話だから今さら内戦再開!ってわけにもいかんのだろうが、和平交渉はまた仕切り直し、ということにはなる。コロンビア革命軍側も武装放棄に応じず、下手するとまたややこしいことになりかねない。
 その直後にサントス大統領に対してノーベル平和賞が贈られる、という皮肉な展開が続くのだが、おそらく平和賞を決めた人たちはむしろ和平の後退を恐れて「がんばれ」というエールのつもりで授与を決めたのだと思われる。平和賞受賞の報にコロンビア国内では賛否両論だそうだが、そもそも平和賞ってのが毎年議論を呼ぶ存在だものね。


 そのノーベル平和賞、今年の有力候補として「ギリシャのレスボス島の住民」なんてのも挙がっていた。去年から今年にかけてのヨーロッパの大問題「難民」に関係しているからだが、その難民受け入れについてハンガリーで国民投票が行われた。EUでは押し寄せる難民を各国で分担して引き受けることを決定したがハンガリーやスロバキアがこれを拒否し、ハンガリーではオルバン=ヴィクトル首相(ハンガリーって「姓・名」の順なんだよね)率いる中道右派政権が拒否姿勢を貫くために国民投票という「天の声」を利用しようとした。EUではそもそも国民投票を実施すること自体に反対したが、投票は10月2日(奇しくもコロンビアの投票と同日)に実施されてしまった。ちなみに今回ハンガリーが拒否している難民割り当てって、対象となる難民16万人のうちの1294人という思いのほか少人数なのだが、それをきっかけにされてはかなわん、ということなんだろう。

 国民投票の結果、投票実数の実に98%が難民受け入れ「反対」に投票し、仕掛けたオルバン首相は高らかに「勝利宣言」までやってしまった。しかし、実は投票率が43%と低迷、有効とされる50%越えを達成できず国民投票自体無効という結果なのだ。オルバン首相は投票率については口にすらせず勝利をうたったというからヒドイ。2003年にEU加盟の賛成票より多いんだ、とオルバンさんは言ってるそうだが。
 今のオルバン政権は議会でも3分の2を占めるほどの優勢を誇っており、オルバン首相も国民投票でも反対が多いと踏んでいたのだと思う。しかし政府が多額の金をかけて仕掛けた難民受け入れ反対の大キャンペーンがあまりに露骨だったためかなりの国民が辟易し、野党が呼びかける投票ボイコットのほうに振れてしまったということらしい。これなんかも国民投票という「天の声」を利用しようとして失敗した例と言えるだろう。
 難民受け入れについてはどこの国でも反発は強く、各国で反EU派、右翼勢力などにより国民投票をやって難民・移民拒否やEU離脱を一発勝負で決めちゃおうという動きが起きている。今度のハンガリーでの国民投票はかろうじてこんな結果になったけど、一歩間違えれば仕掛けた政権の思惑を超えた重大な結果を招いてしまうかもしれない。国民主権というのは近代国家の大原則なんだけど、その投票による一発勝負のあぶなっかしさというのを改めて感じてしまうんだよなぁ。国民投票とは違うけどアメリカの大統領選だって結構怖いことやってるなぁ、と思う昨今だ。まさに「天の声にもヘンな声」がある、と。



◆シルクロードの旅の果て

 先月の末に中国から報じられた話。北京西部にある古寺・雲居寺で、近くの山の中に作った石室内で厳重に保管されていた石に唐の僧玄奘の訳した「般若心経」が刻まれているのが確認された。「般若心経」とは大乗仏典の中でもその真髄を短くまとめた経典として知られ、日本でも写経や読経で人気(?)のあるお経だし、玄奘がサンスクリット語から漢訳したものが一番広く流布しているから、それが石に刻まれて石室内で大事に保管されていたこと自体は特に驚くことではない。驚いたのはこの石が西暦661年に刻まれたものだと明記されていた点だ。これまで玄奘訳「般若心経」の最古のテキストとされていたのは672年のものだったからそれをさかのぼる最古記録になるし、その般若心経を訳した当人である玄奘がまだ存命の時点に刻まれたことになる。

 玄奘は西暦で602年から664年まで生きた。当時の中国における仏教経典の内容に疑問を抱き、仏教発祥地のインドへとはるかな旅に出た。苦難の旅の末にインドへたどり着き、仏教衰退が目に見えつつある中で研究に励み、645年(大化の改新の年ですな)に大量の経典を唐へと持ち帰った。その後の人生をすべて経典の翻訳に捧げ、その仕事の中に「般若心経」もあったわけ。玄奘は自身の旅と西域情報をまとめた旅行記も書いていて、のちのちこれが玄奘こと「三蔵法師」と孫悟空猪八戒沙悟浄の弟子たちが活躍する『西遊記』へと発展してゆくことになる。『西遊記』は孫悟空が主役の話になってしまって、三蔵法師は真面目だけどてんで頼りない臆病者で物分かりも悪い坊さんにされてしまい、実際の玄奘とはまるで違うキャラになっちゃったが。日本の映像作品だと女性化させられちゃうしね(笑)。

 さて「般若心経」は正式には「般若波羅蜜多心経」といい、玄奘以前にも4世紀に生きた鳩摩羅什による漢訳がある。玄奘自身が書いてる話によると、玄奘がまだインドへ旅立つ以前、蜀(四川省)の寺にいた時に寺に入ってきた衣服もぼろぼろで汚れた病の僧に衣食を与えたところ、そのお礼にとサンスクリット語での「般若心経」を授けられたといい、その後鳩摩羅什訳その他にあたってみると内容の異同があったらしく、玄奘以後も義浄など多くの僧が漢訳を行っているが当然微妙に違いがあり、今のところ玄奘訳が一番広く流布している。調べたところ日本で流布してるものも玄奘訳らしいのだがなぜか「一切」の二文字だけ多いのだそうな。
 今回の発見の検証はまだまだこれからだが、これが玄奘生前段階での「玄奘訳般若心経」だということになると、それ自体で貴重なものだし、加えてそれがどういう経緯で北京の寺にやってくることになったのか、何やら壮大な歴史ドラマがそこに隠されてるような気もしてくる。


 玄奘はいわゆる「シルクロード」を通った有名人の一人だが、そのシルクロードの終点は奈良だ、なんてことも日本人はよく言う。遣唐使によって当時の唐の文物が日本に持ち込まれて正倉院に保管されているが、その中には遠くペルシャ(現在のイラン)から伝わったと思われるガラス製品なんかも混じっているからだ。
 そしてつい先日、ガラス製品どころかペルシャ人自体が日本に来ていたのではないか?という発見報告があって、ちょっと驚かされた。奈良文化財研究所が発表したもので、1966年に平城京跡から発掘された木簡の文字で薄くて読めなかったところを赤外線撮影で判読したところ「破斯清通」という名前と「天平神護元年」(765年)という年号が読めたというのだ。「破斯」という姓は「波斯」と同じ発音で、これは中国語で「ペルシャ」にあてられた文字。だからこいつはペルシャ人だ!という話のようである。
 正直なところ、ちょっとあぶなっかしい推理かな、という気もする。もちろんありえない話ではない。当時の奈良には菩提僊那のようなインド人や仏哲といったベトナム人の僧侶も来ていたくらいだし。高句麗や百済の亡命者が「高麗」「百済」の姓を名乗ってる例もあるからペルシャ人が「波斯」もしくは「破斯」と名乗る可能性は十分に考えられる。そもそも「破斯」なんて姓は他に例がないはずだし由来も他に思いつかない。
 だけどそれ以上のことは言えないわけで、決定打にはもう一つ欠けてるような。さすがにペルシャ人くらい珍しいと何らかの記録に残るんじゃないかという気もするが…長安は国際都市だったし、唐ではそう珍しくなく、それが遣唐使についてきちゃった、ってところなのかなぁ?
 なお、問題の木簡は当時の官僚養成機関「大学寮」の役人たちの宿直勤務記録とのことで、「破斯清通」は大学寮の役人だったということになる。ペルシャ人なら何か特殊技術か言語を教える担当だったのかもしれないけど、宿直勤務というのがあまりイメージに合わない気もする(あくまで印象)。わざわざ日本くんだりまで来た人をお前はイランと追い返すわけにもいかなかったろうし(笑)。



◆獣と人間の戯画

 「日本漫画のルーツ」などと呼ばれることもあるのが『鳥獣戯画』。平安時代末に鳥羽僧正が描いた…とされるが、この手の話はたいていアテにならず、実のところ作者も製作事情も不明のままの作品である。現代漫画のルーツともいえる手塚治虫は代表作「火の鳥」の「乱世編」の中で「鳥獣戯画」を登場させ、実作者が名を伏せて鳥羽僧正の名義にする(本人の了解をとってる)という話に描いているのも、実のところ正体不明の作品であることを巧みにストーリーに組み込んだものだ。その昔の名物番組「クイズ面白ゼミナール」の漫画をテーマにした回で「特別講師」として手塚治虫が出演して漫画の歴史を簡単にしゃべったことがあったが、そこでもルーツとして「鳥獣戯画」がとりあげられていたはず(「漫画」という言葉のルーツにはもちろん「北斎漫画」を挙げていた)。近代初期に漫画(風刺画)のことを「鳥羽絵」と呼んだことがあるのも漫画のルーツを鳥羽僧正に求めたものだ。

 その「鳥獣戯画」について、一つの発見が発表された。発見というより「確認」という方が正確かも。このたび「鳥獣戯画」の修復作業が行われ、その報告書が刊行されたが、その中で「鳥獣戯画・甲本」の一部に絵の順番が本来の形から入れ替えられていたことが和紙の分析により確認されたと公表されたのだ。
 「鳥獣戯画」の甲本とは、ウサギやカエル、サルなどが擬人化され戯れている様子を描いた有名な部分で、「鳥獣戯画」といえばこの部分ばかりが紹介されている。これは絵巻の全編がWikipediaほかネット上に紹介されているので興味のある方は確認してほしい(読む順は右から左へ)。この甲本は23枚の和紙をつなぎあわせて11mもの長さに仕立てたものだが、第11紙のところで唐突に猿の僧侶が登場してウサギやカエルがその猿に贈り物をしている場面が出てきて、前後とのストーリーのつながりがまったくない。よく紹介される猿の僧侶がカエルのご本尊の前で読経をし、ウサギやカエルがその返礼をしようとする場面は甲本の最後の方に出てくるので、第11紙の場面は本来この最後の部分につながるのではないか、とは以前より指摘されていた。

 今回の修理の過程で和紙の透過光調査が行われ、和紙を作る際にできる「はけ」の跡が、この第11紙と甲本最後の第23紙とで一致して本来はつながっていることが確認された。やはりこれまで推測されていた通り、本来第11紙は現在のラスト部分の続きであったのだ。ではなぜそんな入れ替えが施されているのか、ということになるとそれは謎のまま。ひとつ考えられているは、「鳥獣戯画」を保管している高山寺が中世に何度も火災や戦災に襲われているため、そのいずれかの時にドサクサに紛れて「戯画」が盗み出され、「バラ売り」されてしまったのち高山寺が取り返し、その際の修復作業で間違えてつないでしまった…というシナリオだ。実際、「鳥獣戯画」はその断片(断簡)と推定されるものが数点確認されているし、バラバラになる前の段階で製作された模写本から高山寺にある現物はもっと長いものでラストにちゃんとオチがあったことも分かっている。
 当時この「鳥獣戯画」がどれほど知られ、どれほど貴重と見なされたのかはわからないが、もしかして一部に熱心な「漫画マニア」でもいて、火事場泥棒したやつが切り売りしてしまえるような「市場」が存在していたのかもしれない…などと考えると楽しくなってくるではないか(笑)。


 続いてはあのアドルフ=ヒトラーに関する「発見」ばなし。
 ヒトラー最初の伝記は本人が生きているうち、どころかまだ政治家の道を歩み始めたばかりの段階で出版されている。それは1923年に出版された「Adolf Hitler - Sein Leben Seine Reden.」(アドルフ・ヒトラー-その生と演説)と題する本で、作者はヴィクトル=フォン=ケルヴァー。検索してみたらアマゾンのドイツ版で取り扱いページがヒットして驚いた(こちら)。さすがに現在取り扱い不可能な旨が書かれていたが、表紙写真など各種情報はちゃんと載っている。
 作者のフォン=ケルヴァーは「フォン」号がつくことからわかるように貴族の出て、第一次世界大戦の英雄として知られた人物であったという。そんな人物が当時地方で台頭してきたヒトラーの伝記を書いて出版していた。それもヒトラーをキリストになぞらえ「ドイツの救世主」と大絶賛する内容とのこと。第一次大戦の英雄とされる人物にこんな伝記を書いてもらったんだからヒトラーにとっては大変な宣伝になったはずだ。しかいこのケルヴァ―は保守的な人物ではあったらしいが当時まだまだ無名といっていい政治家についてそこまでの絶賛本を出すというのはいささか不自然に感じるのも確かだ。この本が出た1923年の11月にヒトラーは「ミュンヘン一揆」を起こして失敗、服役されることとなるが、たぶん問題の伝記はそれより前に出たのだろう。

 このヒトラー最初の伝記本が、実はヒトラー自身の手になるものだった可能性が高い、という研究をスコットランド・アバディーン大学のトーマス=ウェーバー教授が発表した。ウェーバー教授はもともとヒトラーに関する著作を執筆していたが、その過程で南アフリカの大学にあったケルヴァーに関する資料を調査、その中に伝記を刊行した出版社の発行人の妻の証言を発見した。詳細は不明だが報道によるとその女性はケルヴァーが伝記執筆者ではないと明言しているほか、ヒトラーが伝記作者にできるような保守的な人物を探してほしいと盟友のルーデンドルフ将軍に依頼していたことまで語っているという。よくある有名人名義の著作のゴーストライターとは逆に、宣伝効果を狙った「名義貸し」というやつである。実はヒトラー自身による「自画自賛の自伝本」であったと聞けば、なるほどと納得できるところは多い。
 ヒトラーは「ミュンヘン一揆」による服役中に自伝「我が闘争」を記すことになるのだが、ヒトラーが第一次大戦時の軍病院で「覚醒」したとする描写がケルヴァーによる伝記本と共通することもウェーバー教授は指摘していて、このほかドイツ国内でも傍証となる資料を確認している、あくまで状況証拠に限られるが事実である可能性は高いように思える。自ら救世主と大宣伝し、やがて大衆に救世主と崇められ政権をとった男が、どういう結果をもたらしたかは歴史の語る通り。だから妙に英雄的に持ち上げられて登場する政治家には用心した方がいいんだよな。


 続いても「発見」つながりの話題だが、こちらは「世紀の捏造」と言われた「ピルトダウン人」に関する「発見」だ。
 「ピルトダウン人」とは、1912年にイギリス南部で「発見」された、太古の化石人類とされるものだ。アマチュア考古学者のチャールズ=ドーソンが頭蓋骨などを「発見」して、大英博物館のアーサー=スミス=ウッドワード卿の研究室に持ち込み、二人で追加発掘や共同研究を進めた結果、ウッドワード卿は現生人類と類人猿の特徴を併せ持つこの化石を現在の人類につながる最古の人類のものだと断定して「エオアントロプス・ドーソニ(ドーソン夜明け原人)」という、発見者ドーソンを称える学名までつけてしまった。

 実は発見当初から疑問の声は少なくなかったらしいが、イギリスでは「最古の人類が我が国にいた」という優越感も手伝って研究者たちも本物と見なす声が多かった。結局捏造品であることが立証されたのは検証方法が確立した1950年のことで、現生人類とオランウータンの頭蓋骨を組み合わせるという単純な仕掛けであったことが確認されている。その時にはドーソンもウッドワード卿もこの世を去っており、捏造したのが誰であるのかは確認しようもなかった。ピルトダウンの近くに住んでいたコナン=ドイルが犯人、という面白説もあるのだが、状況から言えばアマチュア考古学者のドーソンが一番怪しいのは衆目の一致するところ。ウッドワード卿にも疑いはかかっているが、アマチュアがプロを巧みにだましたという構図の方がしっくりくる。2000年に日本で「旧石器捏造」が発覚した際、こちらのサイトの「史劇的伝言板」で「まるでピルトダウン人じゃないか!」という書き込みがあったものだが(興味のある方は過去ログを発掘してください)、恥ずかしながら僕はその書き込みで初めて「ピルトダウン人」について知ったんだよな。あの旧石器捏造事件も、危うく「日本が世界人類の発祥地」にされかねないところだったから、その点でも似てるのだ。

 で、ニュースの話になるのだが、このたび大英自然史博物館などが「ピルトダウン人」について最新技術による検証を行い、捏造の犯人をほぼ断定した、と発表した。その犯人とは……やっぱりチャールズ=ドーソンだ、とほぼ断定(「ほぼ」ってのが微妙だが)するものだそうで、推理小説のように意外な犯人という話にはならなかった。どういう検証の結果そうなったのか、僕が見た限りの報道ではわからないのだが、興味のあるのはドーソンがなんでそんなことをしたのか、という方なんだよね。冗談で作ったらプロが本気にしちゃって引っ込みがつかなくなったんじゃ…という見解が真相に近い気もしてるんだけど。



◆秋に逝くひとびと

 いうの季節でも人は死ぬものだが、北半球がぼちぼち寒くなってきたこの季節に、目に留まった訃報が続いたのでまとめてみた。

 ちょうどノーベル平和賞の話題が取りざたされていた9月28日、イスラエルの前大統領であるシモン=ペレスが93歳で死去した。実はこの人もノーベル平和賞受賞者だった。1993年にイスラエルがパレスチナ自治政府の樹立に合意、イスラエル・パレスチナの共存に道を開いた「オスロ合意」のときペレスは外相として合意成立に尽力、当時のイスラエル首相のイツハク=ラビン、パレスチナのアラファト議長と三人そろって1994年のノーベル平和賞を受賞したのだ。いま、その三人のうち最後の一人がこの世を去ったことになる。
 
 シモン=ペレスの生まれ故郷は当時のポーランド領ヴィシェニェフ。現在はベラルーシ領になっている土地だ。彼が生まれた1923年といえば、上記の話題で出てきたヒトラーの自画自賛伝記本が出た年だ。その後ヒトラーが政権をとり、ユダヤ人弾圧や周辺地域への野心を見せていったことへの不安もあったのだろうか、ペレス一家は1934年に当時はイギリスの委任統治領であった現在のイスラエルに移住している。イスラエル建国以前の段階で後のイスラエル国防軍の前身となる民兵組織に参加し、イスラエル建国後は若くして国防次官、国防相をつとめイスラエル建国者の一員とも目された。なお、彼が国防相を務めている間にイスラエルの核兵器開発が進められたとされている(もちろん今日まで公式に認めたことはない)
 政治家としてはイスラエルの労働党、左派の中心人物とされ、後に首相となるラビンとは同党内の政敵関係にあって個人的にも仲は良くなかったとされるが、皮肉にもこの二人が首相・外相をつとめていた1993年に「オスロ合意」が成立、パレスチナ和平協定を実現して上述のノーベル平和賞の栄誉にも輝くことになった。しかし1995年にラビン首相がユダヤ強硬派により暗殺されてしまい、ペレスが首相の座を引き継いだがイスラエル・パレスチナ双方で和平に反発する動きが強まり、右派リクードのネタニヤフシャロンらが政権をとってパレスチナ和平も崩壊状態になってしまったのは当「史点」でリアルタイムに見てきた通り。2004年にアラファトも死去し、ペレスはシャロン政権で外相をつとめたり、ネタニヤフと対立したシャロンと中道政党を結成したりとややこしい動きを見せたのち、2007年から象徴的な国家元首である大統領に当選、実質的影響力は失いつつも2014年まで勤め上げた。まさにイスラエル建国以来の複雑な政治史を体現したような政治家人生だったと言える。
 
 9月30日、エルサレムの「シェルツェルの丘」でペレスの盛大な国葬が営まれた。国葬なのでネタニヤフ現首相はもちろん出席、パレスチナ自治政府のアッバス議長も列席して久々に両首脳が顔を合わせた。このほか国連事務総長から始まってアメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・カナダなどなど、挙げたらきりもないほど各国の言首脳・前首脳が参列し、参列者約5000人という、イスラエル史上最大の国葬となってしまった。
 その政治経歴には賛否いろいろ出るところだろうが、イスラエルにとって建国以来の「第一世代」の大物政治家の逝去であり、「ひとつの時代の終わり」を感じさせるものではあるのだろう。パレスチナ和平の方はいまだゴチャゴチャしていて(つい先日もイスラエル側の入植活動が国連に批判されたら「民族浄化」と逆ギレしてたしなぁ)後世への大きな宿題を残したままの死となった。「仲の悪い同志」であったラビンの墓の隣に葬られるとのことだが、それは本人の希望なのかな?


 10月9日には、ポーランドの映画監督アンジェイ=ワイダが90歳でこの世を去った。「巨匠」とまで呼ばれるようなベテラン映画監督のなかで、「まだ生きてたよな?」とついつい思ってしまうお一人であった。高齢ながらギリギリまで現役監督であり続け、2013年に公開された「ワレサ 連帯の男」が遺作となったが(その後、掲示板で教えて頂きましたが、このあともう一本製作していて、遺作はそちらだそうです。訂正します)、この映画も含めて日本に来るポーランド映画というとこの監督の作品ばっかりだった印象もある。
 1926年にポーランド北東部スヴァウキ生まれ。父親は軍人で、第二次大戦勃発直後にソ連軍に収監されて、「カティンの森虐殺事件」で犠牲になっており、ワイダ監督は晩年の作品「カティンの森」でこの事件を映画化している。この映画でも描かれるがソ連はこの虐殺をナチスの仕業に転嫁して1980年代のペレストロイカまで認めることはしなかったのだが、ワイダが1950年代に連打し映画監督として名を挙げた「抵抗三部作」と呼ばれる「世代」「地下水道」「灰とダイヤモンド」といった作品にもソ連に対するポーランド人の鬱屈した感情が読み取れる。特に終戦直後にソ連の影響下に置かれたポーランドを舞台に、親ソ政治家暗殺をはかるテロリストの末路を描いた「灰とダイヤモンド」は、表面的には「反ソ的なテロリストはこんな末路になる」という展開で当局の目をごまかしつつ観客にはそのテロリストに感情移入せざるをえなくさせる内容で世界から激賞された。
 
 その後も高い評価を得る作品を連打するが、反体制的な姿勢から当局の弾圧も受けるようになり、1980年に始まるワレサらの自主管理楚労組「連帯」の活動に共鳴する作品を製作したことで一時は国を追われた状態になり、フランスの出資でフランス革命を描いた歴史映画「ダントン」を製作したりしている。80年代末に東欧革命となって社会主義体制が倒れると「連帯」から立候補して政治家にもなっている。ただその後大統領にまでなったワレサとはケンカ別れもしていて、そのおかげか後年の映画「ワレサ」ではワレサを客観視したつくりにもなっていた。
 日本にきたものでは「コルチャック先生」なんかも話題になったが、僕がたまたま見てるのはナポレオン時代にロシア支配下からの独立を夢見たポーランドのひとびとを描いた「パン・タデウシュ物語」なんてのもあった。実際「歴史映像名画座」のポーランド史コーナーで紹介してる作品はワイダ監督作品なだらけなんだよな。
 芸術家を志したきっかけが喜多川歌麿、葛飾北斎らの浮世絵を鑑賞したことにあったというほどの日本芸術通で、ドストエフスキー原作の「ナスターシャ」の舞台演出と映画製作ではわざわざ坂東玉三郎ら日本人を主演にしたし、クラクフに日本美術技術センターを開設するのにも尽力するなど日本とも縁が深かった。僕もまだまだ見てない作品があるので、それらを見てポーランド近現代史を学んでいきたいものだ。


 そして10月13日、おりから容体不安定が報じられていたタイのプミポン=アドゥンヤデート国王(別名ラーマ9世)がついに88歳で死去した。
 1946べbに兄の死を受けて18歳で即位して以来実に在位70年。現役の君主としては世界最長記録となっていた。第二次大戦直後から今日まで延々と君臨、単に君臨していただけでなく、政治的な不安定が続いたタイにおいて調整役として「出すぎない」程度の積極性で立ち回り、存在感を示してきた。特に軍事政権と民主化勢力とが衝突して多くの死者を出した1992年の騒乱の際には双方の代表が国王の前にひれ伏し(あまり正確ではないがタイ独特の正座)事態が収拾された時には世界が驚いていた記憶がある。僕の身近なところでは、日本中世史の研究者たちの興味を大いに引き、「王権」テーマであの光景がよく引き合いにされていたっけ。

 タイでは国民の国王に対する尊崇の念が凄いというのはよく聞く話で、戦前の日本レベルなんて例えもされるが、それも実際に混乱を収拾したり各地を視察してまわったりと立憲君主制の枠内ではあるがそこそこの政治力を発揮してきた実績があるからだ。もっともタイが経済発展はしつつも政治的には相変わらず不安定なのも事実で、ここ10年来の地方のタクシン派、都市部の反タクシン派の激しい対立、クーデターによる軍事政権樹立といった事態にプミポン国王が指導力を発揮できなかったことも確かだ。すでに高齢でそこまでやれなかった、ということでもあるんだろうけど。
 そこで気になるのは次の国王。ワチラロンコン太子(64)が即位することは動かないが、この人、一部でスキャンダラスな話もあって、国民の支持は少なくとも父親ほどはないとみられていて、タイの不安定要因ともみなされてしまっている。すぐにも即位するのかと思ったら、本人が「国民と悲しみを共にしたい」と即位の延期を表明、憲法の規定により新王即位までのあいだ軍人出身で元首相でもあるプレム枢密院議長が「摂政」をつとめることとなった。ちなみにこの方、なんと96歳!

 プミポン国王クラスの葬儀となると、それこそ昭和天皇の葬儀の時みたいな各国元首首脳殺到の盛大なものになりそうで、実際日本の天皇も出席の意向と宝治らえている。ただ王族の火葬はその祭壇を建設するなど手間がかかるため、すでにワチラロンコン太子が「一年先になるかも」と口にしているくらいで、葬儀自体その時にやるのかどうかも良く分からない。日本でも飛鳥時代なんかに一年ほど王の遺体を埋葬せず安置しておく殯(もがり)なんてのがありましたがねぇ…そもそもその一年のあいだタイは国を挙げての服喪期間になるとのことで、経済の萎縮がまず心配されている。


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