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2016年11月4日

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◆ヒトラーの亡霊

 なんだかんだ言って20世紀の重要な歴史人物であり、全世界公認(?)の悪役であるアドルフ=ヒトラーに関すニュースはほとんどとぎれることがない。当「史点」でも前回に続いて今回もヒトラーネタになってしまった。それも今回は複数まとめて、である。

 ヒトラーがドイツではなくオーストリアのブラウナウ出身であり、その生家が今もブラウナウに現存している、という話題をつい最近書いた。このヒトラーの生家がネオナチたちの「聖地」となることを防ぐため、オーストリア政府はついに建物の強制収用に乗り出したという報道が先ごろあったばかりだが、早くも建物自体を取り壊すとの決定がオーストリア政府から発表された。建物の基礎部分は残るかもしれないが建物自体は新築し、慈善団体などに使用してもらう予定とのこと。
 結局は壊しちゃうのか。写真で見る限り特に歴史的建造物というほどのものではないようだけど、古い建物には違いないのでもったいないという気はする。だが後述のようにネオナチ的な言動をする人々というのが実際にいて、なおかつ勢いを増している気配ともなるとやむをえない措置とも思える。もっとも建物を壊しても「生家の跡地」ということで「聖地」化してしまう可能性はあるんじゃないかな(基礎は残るようだしね)。建物自体にはもちろん何の罪もないが、そこでヒトラーが生まれてしまったのだから、誰のせいかといえば、やはりヒトラーのせいか(笑)。


 その直後に同じくオーストリアから流れたニュースにこんなのもあった。今年4月にオーストリアとハンガリーの国境で検問にあたっていた29歳の警官が、入国した車の運転手に「ハイル・ヒトラー」と声をかけ、それを聞きとがめた同僚が当局に報告、訴追を求めた。オーストリアでもドイツ同様にヒトラーやナチスを賛美するような行為は罪に問われることになっており、10月20日に裁判所はこの警官に対して執行猶予つきながら禁固9カ月の有罪判決を下したとのこと。
 ただこの若い警官、調べられた限りではネオナチ勢力とのつながりはないというし、一度は自分の発言を認めながらも公判では一貫して「同僚の聞き間違い」と主張していたというから冤罪の可能性も感じる。そもそもなんでそこで「ハイル・ヒトラー」なんてわざわざ言う気になったのかが謎。ハンガリー経由で難民とおぼしき人でも入って来たので聞かれても分かるまいとイヤミでつぶやいた、ってあたりが考えられるかな。ふと日本でも最近機動隊員が「土人」「シナ人」発言していたのを思い出したりして。
 もしかして入国してくる人たちを指して「入る人ら(複数形)」と日本語の練習をしていた、というオチがあったりしないだろうか(笑)。


 AFP=時事配信記事で、「ドイツでナチスの言葉が復活」なんてのもあった。
 これまで難民・移民の受け入れに寛容姿勢であったドイツでも、このところ排他的な極右運動が目立ってきている。そういった勢力の使う言葉に、ナチス時代に使われ、戦後はほとんど使われなくなっていた単語がしばしば顔を出している、という内容だ。例えば反イスラム右派団体「「西洋のイスラム化に反対する愛国的欧州人」は一年以上前から彼らにとって「正しい報道」をしないマスコミのことを「luegenpresse」(虚言メディア、日本のスラングだと「マスゴミかな)と呼んでおり、これはかつてヒトラーが主要マスコミを攻撃するのに使った単語であるという、また同様のデモ隊がプラカードでメルケル首相ら政権幹部を「volksverraeter」(裏切り者)と呼んだが、これまたヒトラーらナチス幹部が自分たちの「敵」と見なした者に対して使った用語とのこと。「売国奴」といったといころなのだろう。10月初めにドレスデンで行われたドイツ統一記念式典ではナチスの宣伝相ゲッペルスのプロパガンダを大書した横断幕が出た例もあったとか。
 ナチスと言えばドイツ人=ゲルマン民族を「優秀」、ユダヤ人を「劣等」とみなすといった民族優生思想が特徴だが(これにかかると日本も列島、もとい劣等)、その際にゲルマン民族を指す言葉として使われた「voelkisch」(民族)という単語は戦後はタブーとなっていた(日本だと「皇民」あたりが近いかな)。だがこの単語について右派政党「ドイツのための選択肢」の党首フラウケ=ペトリーが、「汚名を返上させ負のイメージを払拭すべき」と復活を主張して物議を醸しているとのこと。
 記事では、ドイツ統一から四半世紀を経て、ドイツ人の中でも意識の変化があるのでは、との分析もされていた。特にナチスへの反省が強く叫ばれたりトルコ系移民も受け入れてきた西ドイツに対して社会主義政権だった東ドイツではそうでもなく、統一後に旧東ドイツ地域で極右活動が盛ん、という面は確かにあるらしい。もちろんそれだけでなく統一から四半世紀たったドイツがヨーロッパを牽引する大国となり、自信もつけてきたこと、そこへ昨今の大量の移民・難民問題が重なってドイツ全体で一部に排他的な動きが出てきて、それが「言葉」の上でも表れてきた、ということだろうか。
 日本でも言葉については心配なところはある。数年前に雑誌の見出しで「暴支膺懲」なんて見出しが出てギョッとしたことがあるし、「八紘一宇」なんて言葉を臆面も知識もなく平然と口にした国会議員が最近いた。現政権の「一億総活躍」にも「国家総動員」「進め一億火の玉だ」を連想しなくはないしねぇ。

 そんなところで文章を終わらそうと思ったら、日本のアイドルグループがハロウィンイベントで「ナチス」を連想させる軍服コスプレをしたとして海外にまで報じられ、例によってアメリカのユダヤ人団体「サイモン・ヴィーダルセンター」から抗議を受け、関係者が謝罪という騒動があった。あのコスプレはナチスというよりドイツ軍服というのが正確なような気がするが、連想するのは確かだろう。ただ日本では、少なくとも旧日本軍服を着せるよりは抵抗がなく、過去にもナチス風なファッションを芸能人がした例はある。漫画でもかつて「リングにかけろ」とか「キン肉マン」とか、「ドイツと言えばナチス」(戦後なのに!)というイメージが普通に横行していたものだ。それらをいちいちケチつける気はないのだが、情報がすぐに世界を駆け巡る昨今、気をつけた方がいいとは思う。
 


◆兵馬俑はギリシャの影響?

 「兵馬俑(へいばよう)」といえば、秦の始皇帝の陵墓の地下に埋まっていた、数千体に及ぶ陶器製の大軍団のこと。始皇帝を死後も守るべく本物の人間の代わりに製作され埋められたものなのだろうが、その造りは本物の兵士や鎧に武具、馬車とみまごうばかりのリアルさで、その兵士一人一人の顔が異なることからおそらく全員実在した兵士をモデルに製作されたと考えられている、現在ではほとんど褪色しているがごく一部に残る塗料から制作当時はカラーであり、それこそ本物の大軍団に見えたことだろう。いまだにその全貌が分からないといわれるほどの数が埋められており、中国世界を最初に統一した始皇帝本人のスケールのデカさ、統一帝国の新時代にふさわしい清新な文化の香りとが感じられ、「古代中国」と題する本やメディアではしばしば象徴的にこの兵馬俑の写真が使われている。

 ただこの兵馬俑というやつ、まさに空前にして絶後というやつで、こんなものを作った例は中国古代史でも後にも先にもない。一応単体で似たようなものがないわけでもないそうだが、これだけ大量に、かつリアルサイズに、という例はないという。その後の文化に引き継がれなかった、いや引き継げなかったということかもしれない。それだけ始皇帝というのが大変な存在であったということになるのかもしれないが…

 ところが先日、イギリスのBBCが「兵馬俑はギリシャ文化の影響を受けた可能性あり」という報道をした。根拠として、始皇帝時代以前の中国ではせいぜい20cm程度のあまり写実的なものではない彫刻しか作られていない。実物大のリアルな彫刻と言えば古代ギリシャのそれがよく知られるが、始皇帝時代にすでに中国と西洋文化が接触していた証拠がある、と中国の始皇帝陵研究者が証言しているとのこと。ウィーン大学の教授も最近発見された像の特徴などからギリシャ彫刻の影響の可能性を指摘、「ギリシャ彫刻家が中国人に技術指導したかもしれない」とまで言っているという。
 ただこの報道に対して、中国のネット上では批判がわきあがっている、と僕が読んだ時事通信記事は伝えていた。中国版ツイッターでは「中国の技術が西洋に伝わったんじゃないか」と逆の意見を言い出す書き込みもあったという。まぁネット上ではいろんな声が出るからねぇ、その一部だけで記事をまとめられても。

 それはそれとして、ギリシャの写実的な彫刻が東アジアに影響を与えた明白な例としては、「仏像」の存在がある。もともと仏教では仏の像など作ることはせず、開祖の釈迦についても後年のイスラム教のムハンマド描写同様に直接的に描くことは避けていた。その後、紀元前4世紀にアレクサンドロス大王の西北インド侵入があり、ヘレニズム時代にはギリシャ人たちがこの地に住み着き、彼らが仏教徒化したことで仏像が誕生する。初期の仏像がやたらとギリシャ風の顔立ちで、衣服のしわ表現にギリシャ彫刻の特徴がみられ、それが流れ流れて日本の仏像にまで名残をとどめることになる。
 始皇帝は紀元前3世紀、アレクサンドロスより100年ほどあとの人間になる。いわゆる「シルクロード」は秦の次の漢の時代にできたとされるが、それ以前からなにがしかの連絡ルートはあったはず。だから直接的にギリシャ人が始動したかはともかく、彫刻作成法に何らかの西方から伝播があり、それが兵馬俑に反映しているのかも…という推測はできるように思う。ただこれもその後に引き継がれていないことが難点ではある。それにそもそも兵馬俑の「リアル」は写実的な意味でのリアルであって、ギリシャ彫刻や仏像にみられるような理想化されたリアルとは違う、という気もするんだよね。

 この話題で思い出したが、日本の法隆寺の回廊の柱について「ギリシャ建築のエンタシスの影響が…」と歴史の授業で習った人も多いはず。これ、最近ではほとんど触れなくなってるんだよね。僕自身子供心に両者の柱の絵を見比べて「ちょっと無理がないか?」と思ったこともある。考えてみればギリシャの柱の作り方が日本にじかに伝わるわけはなく、伝播はあったにしても途中のペルシャや西域、中国、朝鮮半島を経由してのこと。法隆寺建てた連中だってギリシャの真似してるという意識はなかっただろう。
 以前、たまたま車を運転しながら聞いていたラジオで、保守系論客のどなたかが言ってたが、これ、単なる日本人の「西洋コンプレックス」の表れの言説にすぎないのではないか、と。その人の政治的意見にはちっとも同意できない僕もこれには「おお、そうだな」と合点したものだ。この法隆寺のエンタシスは今の歴史の授業ではまず触れなくなったのも、そうした指摘が出てきたためだと思う。日本史の授業ではほかにもマルコ=ポーロが「ジパング」と紹介したとか、鉄砲伝来やらキリシタンやら蘭学やら文明開化やらを強調する傾向は今でも残っていて、それぞれの事項の重要性は僕も認めるけど、その触れ方にどこか「西洋コンプレックス」が見え隠れしている気はしている。どれだけ日本が西洋に近いか、で価値判断をしているような…と。まぁ最近は僕自身の専攻も絡めた話で、東アジア周辺諸国とのつながりに着目した教科書記述が多くなってきてるけどね。



◆不明の作者は大物だった

 前回「鳥獣戯画」の話題のなかで「漫画」という言葉のルーツが葛飾北斎にあると書いた。現在でいう「漫画」とはずいぶん違うとはいえ、デフォルメして描いたスケッチ集「北斎漫画」はまさしくその後の日本の漫画文化のルーツと言っていい。もちろん北斎の業績は漫画だけではなく大胆な構図やモチーフを描いた多数の錦絵、肉筆画があり、ゴッホゴーギャンら印象派の画家たちに多大な影響を与えたこともよく知られる。西暦2000年を期して米誌「ライフ」が「この1000年で最も重要な功績を遺した人物100人」を選定した際、日本人でただ一人、86位でランクインしたのも北斎だ。

 そんな超大物の、知られざる作品が確認された、というニュースがゴッホの故国オランダから報じられた。あのシーボルトが持ち帰った日本コレクションの中に含まれ、ライデン国立民族学博物館に所蔵されていた「江戸の町を描いた西洋風の絵」6点について、これまで「作者不明」とされてきたが、どうやら北斎の肉筆画であるらしい、というのである。
 この絵の存在自体は以前から知られていたが作者の落款(らっかん)がなく、「作者不明」とされていた。当時の日本でヨーロッパ人から絵を依頼されるほどの西洋画技能を持った画家としては、出島への出入りも認められていた川原慶賀(1786-1860)がおり、この作品も彼もしくはその助手の作ではと推測されていたという。しかしッ北斎を専門とするライデン博物館のマティ=フォラー研究員がシーボルトの子孫が保管していたシーボルト直筆の目録を調べたところ、問題の6枚の絵について「北斎がわれわれ(西洋)の技法で描いた」と明記があったというのだ。本人が直接そう書いてるんじゃ、北斎の絵ということなんだろう。

 シーボルトは1826年にオランダ商館長に同行して江戸を訪問している。このときすでに有名人であったシーボルトは当時の日本の著名文化人の多くと交流しているが、その中に葛飾北斎も混じっていた。商館長とシーボルトが北斎に絵の製作を依頼し、シーボルトがはじめ代金をケチったため北斎が激怒という一幕がったとの話も伝わるが、これまで確認されてる記録ではシーボルト自身は「上手な絵師に会った」と書いてるだけで北斎の名は出していないという。
 しかし北斎がわざわざ西洋風のスタイルで絵を描いたとなると、シーボルトもしくはオランダ商館の関係者から直接的に依頼されたとみるべきではなかろうか。北斎自身も晩年まで貪欲に新技法を学び、肉筆の天井画にこっそり翼の生えた天使(西洋風のエンジェルである)を書き込んだりしてる人なので、西洋風の絵にも意欲的に取り組んだと思われる。報道で出ていた絵も空を大きくとる構図、日本の絵のように物体の輪郭を黒く縁どる(つまり今日の「漫画」風に)ことはせずに描くといった手法は言われなければとても北斎の絵だとは分からない。「北斎タッチ」はあえて封印して西洋風の絵を描いたのは注文に応じてかもしれないが、あるいは「俺、こんなのも描けるんだぜ」と言いたかったんじゃないのかな、なんて想像してみると楽しい。
 これで確定と言っていいのかは躊躇もするが、もしこれが北斎の真筆ということであれば、北斎伝説にまた一つ大きな輝きが加わりそうだ。


 やや強引に話をつなげるが、続いては逆に、これまで作者と考えられていたものが実は違ってたんじゃないの?という話。こちらの主役もシェークスピアという大物だ。このたびシェークスピア全集の新版が発売となったが、その中で「シェークスピア作とされるもののうち17作品は実際には他作家との共著」とする最新研究が載ったとのこと。どうやってその結論を出したのかと言えば、「ビッグデータによる検証」というあたりが今風である。
 「ビッグデータ」というと、一般に昨今のネット上にあふれる大量の情報からさまざまな分析、活用を行うとう話になるが、この研究の場合はシェークスピア作品に使われている単語について、当時限定された身分・立場の人しか使わない言葉とか、個人特有の言葉の「クセ」などで分類、同時代の他の作家のものと突き合わせてみるという作業だったらしい。うーん、ビッグデータといえばそうだけど、ビッグの度合いがだいぶ狭いような気も…

 報道で実例として紹介されていたのが、1591年に書かれた史劇「ヘンリー六世」だ。今度の研究によると、これはシェークスピアのライバル的存在であったクリストファー=マーロウとの共著と断定されたという。つまりシェークスピアとマーロウは言われているほどライバル関係ではなかった…ということになるらしい。うーん、どうもあぶなっかしさを感じてしまう話なのだが、多くの専門家が議論の末に出した結論で、ほぼ全員一致の見解だというからデータの扱いに自信もあるんだろう。少なくとも「シェークスピアの正体は〇〇」みたいな話よりはアテになりそう。



◆ある宮様の一世紀

 前回も訃報を集めた記事を書いたが、ここ二週間の間にも日本では著名人の訃報が相次いだ。「ミスターラグビー」と呼ばれた平尾誠二、迫力ある存在感で知られた俳優・平幹二郎、僕にとってはスネ夫というより999の車掌さんであった声優の肝付兼太と続いて驚いているところへ、皇族で初めて100歳の大台を昨年越えたばかりだった三笠宮崇仁親王の訃報が飛び込んできた。
 激動の一世紀を生き抜き、近代皇族としては初めての歴史学者でもあったこの人については僕もいささか思い入れがあるので、今回はこの人一人について書いてみたい。

 三笠宮崇仁親王が生まれたのは1915年(大正4)。父は大正天皇、母は貞明皇后。兄に昭和天皇(1901生まれ)秩父宮雍仁親王(1902生まれ)高松宮宣仁親王(1905生まれ)の三人がいて、末っ子の崇仁親王はすぐ上の高松宮より十歳も下、昭和天皇とは実に14歳も離れていた。なお、この大正天皇の皇子たちについては「実は父親がみんな違う説」を某旧宮家が流していたり(「仁義なき戦い」で知られる脚本家・笠原和夫がその情報源から力説していた)「三笠宮には実は双子の姉妹がいてそちらは寺に預けられた説」なんてのまであったりするが(こちらはさる皇室評論家がしつこく主張。これも何か怪しい情報源がありそう)、いずれも妄説と処理していいと思う。

 三笠宮の訃報で「元軍人」であることに注目した報道も多かったが、そもそも戦前では皇族男子は軍隊入りするのが常で、秩父宮や高松宮もそれぞれ陸軍・海軍の軍人になっている(ヨーロッパ王室の真似でもあるし、生活のためという面もある)。三笠宮は陸軍の参謀として日中戦争のさなかに中国に派遣され、南京に駐在していた時期もある。「宮様」と周囲から呼ばれ、軍務も形式的なものだったようにも思えるのだが、この宮様参謀、四男くらいだと比較的自由にふるまえたのかここで戦場の実態をきっちり目の当たりにし、日本軍の軍紀の乱れ(要するに略奪暴行の横行)や指導部の無計画ぶりを痛烈に批判する意見書を提出するという驚きの行動に出ている(1944年)。「宮様」だからこそできた行動なのだが、この軍批判の意見書はしっかりとにぎりつぶされた。太平洋戦争で敗色濃厚となると、東條英機首相を暗殺するクーデターまで計画したとされる(兄の高松宮にも同じ話があるが連携していたかはわからない)

 戦後は近代皇族としては初めての「歴史学者」となったことでも注目された。日中戦争における体験が歴史研究に足を踏み入れるきっかけになったともいわれる。古代オリエント、とくにアナトリア(現在のトルコ東部)の専門であり、研究論文はもちろん大学で教鞭をとることもあり、エジプトのアスワン・ハイダム建設で水没する遺跡を移築する運動にも積極的に声を上げていた。僕自身はまるで専攻ジャンルが異なるので直接その研究を詠んだことはないのだが、大学の図書館のオリエント史コーナーに「三笠宮」の名がデカデカと記された分厚い本が置いてあるのは目撃している。これまた専攻はまるで違うが現在の皇太子徳仁親王が日本中世史研究者の道を選ぶという思い切ったことをしているのも、もしかすると三笠宮という先例があったからかもしれない。
 そうそう、今年大きな話題となった「天皇の生前退位」についても、1946年の新憲法に合わせて皇室典範が改正された時に三笠宮はすでに「認めるべき」とする意見書を提出している。その理由に「『死』以外に譲位の道を開かないことは新憲法第十八条の『何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない』という精神に反しはしないか」というものだったのもすごい。そうだよなぁ、天皇の立場ってのも「奴隷的拘束」といわれりゃそうも思えてくる。天皇の生前退位に反対する保守論客に改憲論者がぴったり重なるのもそういう背景があるのかもしれない。


 三笠宮が歴史学者として注目された点は専門外の分野でもあった。神武天皇の即位日とされる戦前の「紀元節」を「建国記念の日」として政府が復活させたとき、三笠宮は2600年以上前という神武天皇の存在自体が疑わしいこと、そもそもその即位日が特定できるものではないことを歴史学者としてきっちり説明し、「私はむしろ日本の建国を何年何月何日と規定することこそ、祖国の悠久な歴史をみずから否認し、なまはんかの外国かぶれをした論であると思う」と反対を表明したのである。単純に復古調に反対してるのではなく、そもそも紀元節という存在自体が「外国かぶれ」の所産であると喝破しているあたり、さすがは歴史研究者だと思う。

 紀元節批判の論文の中で三笠宮は「架空な歴史―それは華やかではあるがーを信じた人たちは、また勝算なき戦争―大義名分はりっぱであったがーを始めた人たちでもあったのである。もちろん私自身も旧陸軍軍人の一人としてこれらのことには大いに責任がある。だからこそ、再び国民をあのような一大惨禍に陥れないように努めることこそ、生き残った旧軍人としての私の、そしてまた今は学者としての責務だと考えている」と述べ、自身も含めての戦争責任に振れつつ、「架空の歴史」をもてあそぶ危険が戦後もまた顔をのぞかせたことに警戒をしめしている。
 また後年、三笠宮はインタビューでこうも言っている。「私が感心するのは、外国の政治家には歴史をよく研究している人が多いことです。日本の政治家の方々にも、歴史を十分勉強して頂きたいと思います」と。これ、日本の政治家が歴史に不勉強であることを批判しているとしか思えない。まぁ外国の政治家がみんな歴史通だとは思わないが、どうも我が国の政治家には歴史、ことに近現代史にものすごく疎い、ともすれば「架空の歴史」にズッポリハマっている人が少なくない気がしているのだ。それも現在の政権幹部にその手の人が多く、歴史妄想を世界に開陳して恥をさらしたり、道徳心や愛国心に成績評価をつけろとか言い出してるのを見ていると暗澹たる気分になる。

 おりしも、この文章を書いている11月3日=「文化の日」を、「明治の日」に変更しようという国会議員の集会があったことが報じられている。現在の「文化の日」は日本国憲法の公布日を祝日化したものだが(今年はちょうど70周年となる)、もともとは明治天皇の誕生日で戦前まで「明治節」とされていた歴史がある。「明治の日」集会に集まった国会議員たちは「明治節がGHQの圧力で変えさせられた」と主張していたそうだが、それこそ「架空の歴史」。GHQの意図とは関係なく当時の日本政府が現憲法を公布日を最初は紀元節に合わせようとし、続いて明治節に合わせてこれを祝日として残すことに「成功」したというのが実態だ。この手の政治家たちは当然日本国憲法を「GHQの押し付け憲法」と信じているので、その公布日を「明治節」に戻すことはまさに戦前回帰の宿願を象徴するものだろう。2018年が明治百六十年という半端な記念年にあたるので、それまでに実現を図る気だそうだが…
 この集会に参加した稲田朋美・防衛相に至っては「明治維新は神武天皇の偉業に立ち戻り、日本のよき伝統を守りながら改革を進めるのが明治維新の精神だった。その精神を取り戻すべく、心を一つに頑張りたい」とか発言していてゾクッとさせられた。三笠宮が案じた「架空の歴史」は相変わらず元気なのである。


2016/11/4の記事

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