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2017年10月5日

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◆独立、独立!

 「クルド、クルド、クルド、クルド、てごわ〜い〜ぞ♪」という歌詞をクルド国家成立のあかつきには国歌につけてみてはどうか、というギャグをずいぶん昔に伝言板に書いた覚えがある。元ネタ知らない方は自分で調べてね(笑)。
 しかし実際、クルド人といえば歴史的英雄のサラディンがいるし(IS関連ニュースでたびたび名が出たティクリートの出身である)、最近のイラクやシリアでの対IS戦争で活躍ぶりには「てごわいぞ」とホントに思わせるところがある。それだけに周辺各国も警戒してるわけだが、去る9月25日、とうとうイラク北部のクルド人自治区において独立の是非を問う住民投票が実施され、当たり前だが93%におよぶ賛成票を集めてしまった。じゃあ即独立かというと、さすがにそうはいかない。

 そもそもイラク政府が当然認めるはずがない。イラク政府は住民投票の実施に再三反対を表明、もし実行したら各種の「報復」を行うことを示唆していた。とりあえず現時点で実際に行った「報復」としては、クルド人自治区の空港から外国への直行便を全て飛べなくする、いわば「空の封鎖」を開始している。またクルド人自治区が独立の経済的よりどころとしているイラク北部の油田についても、イラク議会が「奪回」を求める決議を行っており、場合によっては軍事的な手段をとる可能性もある。
 それと、イラク以外でも国内にクルド人住民を抱えているトルコ、イラン、シリアなど周辺各国もクルド人独立国=クルディスタンの出現には警戒の目を向けている。特にトルコはかなり強硬姿勢で、シリアとの国境周辺でのIS勢力との戦闘のなかドサクサまぎれのようにクルド武装勢力を攻撃したこともあり、実際にすぐ隣にクルド国家が出来たりしたら本気で軍事的なちょっかいを出しそうな気配もある。また、なんだかんだで「世界の盟主」であるところのアメリカ政府もクルド独立という事態は中東情勢を混乱させるから投票は中止か先送りをしてくれ、と要求していて、実のところクルド人国家が独立しようにも味方はどこにも存在しない、という状況だったりする。それはクルド自治区の指導者たちも分かってはいることなので、現実的な狙いとしては、独立自体は将来のことと考え、自治条件のつり上げるための住民投票なんじゃないか、という見方も結構強い。

 ところが、である。意外なところが「クルド独立」に賛成の意を表してきた。イスラエル政府である。住民投票実施前の9月12日に、イスラエルのネタニヤフ首相が「自国を持とうとするクルドの人々の正当な努力を支持する」という声明を出していたのだ。今のところクルド独立の住民投票を支持した政府はイスラエルだけ。サラディンがエルサレム奪還に成功した歴史を思い起こすと、妙な因縁を感じなくもないんだが、イスラエル政府としては対立しているイラン、トルコ、シリアがそろって「いやがること」なので、「敵の敵は味方」の論理で支持を表明したものだと思う。ちょうど敵対する国家の間に「くさび」のようにクルド国家が打ち込まれるのは、あるいはイスラエルにとっては好都合なのかもしれない。
 その一方で、長らく「国家を持たぬ民族」であり、やっとの思いで自民族の国家を建設した歴史をもつユダヤ人としては、クルド人の立場に共感・同情する心理も結構あるのかもしれないなぁ。


 さてこの文章を書いている10月1日には、もう一つ、独立の是非を問う住民投票が実施される地域がある。スペインからの分離独立を目指す、カタルーニャ地方だ。
 カタルーニャの独立問題についてはずいぶん前に書いたので省く。ま、とにかく歴史的経緯からスペインに対して文化的・政治的に独立意識が強く、しかも大都市バルセロナを抱えて経済力があるため「自分たちの金がスペインに吸い取られている」という被害者意識もあって、特にここ10年くらい独立機運が妙に高まっていたのだ。カタルーニャ州議会はすでに独立支持派が圧倒的多数を占めており、10月1日に住民投票を行うことに決してしまった。スペイン政府は当然これを批判しており、住民投票自体を無効、というより無視する姿勢を続けてきた。
 先日、バルセロナではイスラム過激派によるテロが起きたが、その追悼式典に出席したスペイン国王フェリペ6世が、「テロに屈しない」ことをアピールするデモ行進にも参加したところ、通行人からからかいの口笛や「出て行け」と罵声を浴びせる一幕があった。そのせいかどうか知らないが、住民投票を前にしてフェリペ6世は「憲法の枠の外にあってスペイン国民の分裂を企む勢力」という、国王としては踏み込んだ表現でカタルーニャ独立派を牽制する発言をしている。

 そして投票当日となったわけだが、スペイン当局は投票そのものが憲法違反であるとして完全に封じ込める「実力行使」に出た。スペイン警察がカタルーニャ各地の投票所を「奇襲」し、海上の封鎖や投票箱の押収などを行って、一部ではもみ合いでけが人が出る事態にもなったと報じられている。カタルーニャ独立運動側も負けじと投票開錠の小学校を自分たちで占拠するなど、実力には実力での抵抗を始めているという。こうした混乱の末に開票が進められ、カタルーニャ側は「90%以上の賛成票があった」として、独立の権利を得たと勝利宣言を出した。これ、どういう事態になっても勝利宣言出す予定だったようにも見えるなぁ。
 その後、国王自身がいわば「玉音放送」でカタルーニャ独立の動きを批判し、明確にスペイン政府側を支持する姿勢を見せ、これがカタルーニャのさらなる反発を招いて大規模デモやゼネスト、さらには「独立宣言」強行の動きまで出てきている。幸いというべきか、カタルーニャ側に独自の軍事組織などはないので武力衝突みたいな事態にはならないと思うのだが、投票実行も強行なら抑え込む方も強硬ということで、下手すると本当に衝突事態に発展して「独立戦争」みたいな事態にならないとも限らない。スペインで独立闘争というとバスクばっかりだったんだけどねぇ。どうせどちらもEUには居続けるつもりなんだろうから、わざわざケンカせんでも、と思うのだが、EU加盟国でもあちこちでこの手の話ってあるんだよな。

 そういやイギリスがEU離脱を決めた直後、スコットランドがまた独立の是非を問い直す、と息巻いてた覚えがあるのだが、あれはその後どうなったんだ?



◆発見、発見!

 「本能寺の変」は多くの日本史好きが関心をもち、その背景をめぐってあれやこれやと昔から議論がなされてきた。また織田信長という強烈な個性が、天下取り目前にしていきなり明智光秀の反乱によってあっけなく死んでしまったこの事件は、「もしこの事件がなかったら…」という発想を多くの人に抱かせる。そのため本能寺の変に現代人がタイムスリップする創作作品は後を絶たず、そういったタイムスリップが実際におこっていたら本能寺は時間旅行者たちで大渋滞になってんじゃないか、という冗談をネット上で見かけたこともあった(笑)。
 タイムスリップやIFばなしはさておき、「本能寺の変」に黒幕がいるのでは、という推理も昔から人気のネタだ。明智光秀という人もいろいろ謎の多い人であるし、本能寺の変をやっちゃってからわずか11日後に死んでしまっているため動機がはっきりしないのがその原因だが、もう一つ、「信長ともあろう人がそう簡単に家臣に討たれるはずがない、何か大きな策謀があったのだ!」と思いたい信長崇拝心理もかなり作用しているように思う。
 で、事件の黒幕として名が挙がるのは、朝廷・秀吉・家康ら政治勢力から仏教かい・イエズス会など宗教勢力まで幅広い。その中には、織田信長によって追放されていた室町幕府最後の将軍・足利義昭の名も含まれている。このたび、この「義昭黒幕説」を補強しそうな光秀直筆の書状が確認された、と大々的に報じられた。

 問題の書状は天正十年六月十二日付の、明智光秀から土橋重治(雑賀衆)にあてたもの。6月12日といえば本能寺の変から十日後、翌13日には「山崎の戦い」が起こって光秀は非業の死を遂げることになる、という時点だ。本能寺の変からその死までの間に光秀が出した書状が確認されること自体が貴重に思えるが、この書状、これまで内容の写しだけは伝わっていたものの現物そのものは確認されていなかったという。どこから出てきたのか知らないが、今年五月から三重大学の藤田達生教授らが鑑定し、花押や筆跡などから光秀当人のものと断定したという。

 この書状の中で光秀は「上意」という言葉を使い、その「上意」を持つ人物が「御入洛」することになろうと伝え、今後の詳細についてはその「上意」から伝えられるので、私(光秀)からは何とも申し上げられない」といった内容が知るされているという。「上意」といえば自分の主君の意向を指す言葉で、この光秀にとって信長であろうはずはなく、しかも「御入洛」とあることから京都在住ではないことになり、そうなると考えられる人物は、もともと光秀も個人的に深く関わっていた元将軍・足利義昭ということになる。
 小中学校の歴史の授業では「織田信長が足利義昭を追放して室町幕府は滅亡した」と習ってしまうが、それは結果論であって、義昭は毛利氏の保護を受けつつ備後の鞆(とも)に滞在、京都への帰還を画策していた。当人や周囲は「室町幕府滅亡」などとは思っておらず、義昭はあくまで「将軍」であり幕府は鞆に健在と見なしていた。一定の権威を保っていたのも確かで、研究者の間でもこの時期の「義昭政権」を「鞆幕府」などと呼ぶ人がいるくらいだ。
 報道からすると藤田教授はこの書状を根拠に、光秀が信長を討ったのは義昭を迎え入れて幕府復活を図るためだったと主張しているようである。「義昭黒幕説」とまではいかないのかもしれないが、光秀が信長を倒したあとの政権構想に「幕府復活」を考えていたという話自体はありえなくはないだろう。

 ただ、この書状ひとつでそう断定しちゃうのも危ない。実際直後から多くの研究者たちが批判や異論を唱えている。まず挙げられるのは、「本能寺の変」前後の光秀の行動におよそ計画性が感じられず、一番味方になりえたはずの細川幽斎・忠興父子にすらソッポを向かれるなど、あまりに性急に事を運んでいる点だ。あの様子では義昭と事前連絡していたようには思えない。今度確認された書状では光秀が重治を通じて義昭と連絡をとっていたようにも読めるみたいだが、それだってあくまで間接的な連絡という話でしかない。
 これはあくまで僕の想像だが、光秀は信長を殺してしまったあとで、味方が全然集まらず、しかも秀吉が大急ぎで進撃してきたことに慌て、味方になってくれそうな人には自分の背後に義昭がいるんだぞ、とにおわせていた、という程度のことではないかなぁ、と。


 続いて、一転して話は20世紀のフランスに飛ぶ。
 『失われた時を求めて』といえば、マルセル=プルーストによる半自叙伝的な長編小説で、20世紀文学を代表する一作とまで評される。といっても僕は全く読んだことがない。ほとんど同時期に出ていたフランス文学なら純文学出身の作家モーリス=ルブラン作品だけはやたら読んでるんだけど(笑)。『失われた時を求めて』はやたら長い作品ということもあり、それを読むことで時を失う方が恐ろしくて手を出さないままでいる。
 『失われた時を求めて』の第一巻「スワン家のほうへ」の初版が刊行されたのは第一次世界大戦前年の1913年のこと。当時プルーストはまったく無名の作家で、書き上げた原稿はあちこちの出版社で断られ、友人のツテでとある出版社から事実上の自費出版で世に出ている(プルーストは結構裕福だった)。ただプルースト自身は自信もあったようで価格を安くおさえるなど広く読まれるようあれこれ工夫もしていた。また新聞・雑誌の編集部に書評を載せてくれるよう運動していたことも知られていた。それら書評は絶賛から批判までいろいろだったそうだが、結局は反響を呼んでこの小説は「古典的名作」として評価を定めていくことになる、のだが…

 実はそうした書評の中には、なんとプルースト本人の手になるものが含まれていた、という驚きの事実が9月29日に報じられた。プルーストは自作を絶賛する書評を自ら編集、それをカネの力で掲載していたというのである。彼の複数の直筆書状から判明したのだそうな。
 プルーストが自作絶賛書評を全部自作自演したというわけでもないようで、まず絶賛書評を書いたのは友人の有名画家ジャック=エミールブランだった。それをプルーストがさらに都合のいいように切り貼り編集し、直筆原稿だと自分の手がついたことが見破られてしまうので編集部でタイプライターで清書するよう依頼、さらに有力日刊紙「フィガロ」の1面にその絶賛書評が載るよう300フランのカネ(現在だと13万円くらいとのこと)を使って工作した。また同じ書評を編集した別のものを他の日刊紙にも660フランを使って掲載させていたという。

 無名のプルースト氏の手段を選ばぬ努力には呆れもするが、感心もしてしまう。実際こうした努力が実って本は売れたし、評価も挙がったのは事実だし、そもそもそれが一時的現象ではなくフランス近代文学を代表する名作と評価が定まってしまったのだから、根も葉もないサクラ工作ではなかったわけだ。逆に、そうしたズルい手段を使ってでも宣伝しなければ名作はうずもれて忘れ去られてしまっていたかもしれない。
 先述のモーリス=ルブランが海だ出したキャラクターも言っている。「諸君、頭の良い宣伝をばかにすべきではない。かならず利益をもたらしてくれるものなのだから」(「ふしぎな旅行者」より)


 さらに話は16世紀のイタリアへ飛ぶ。
 レオナルド=ダ・ヴィンチといえば説明不要のルネサンスの巨匠、画家にとどまらない「万能の天才」と言われた人物だ。特に「モナ・リザ」は世界でもっともよく知られた絵画の一つであり、先述のルブランが生み出したキャラクターもそれをルーブル美術館から盗み出して模写と入れ換えるなんて芸当をやっていた。そしたらそんな話を発表した直後に本当に「モナ・リザ」盗難事件が起こったりしちゃうのだが…
 ルーブル美術館のあるパリの近攻に、「コンデ美術館」なるものがある。この美術館に1862年から所蔵されている一枚の肖像画が「ダヴィンチ自身の手になるモナ・リザの習作では?」との見解が出て来て大騒ぎになっている。問題の肖像画はある女性の裸体を木炭でラフ(裸婦)に描いた、スケッチといっていい作品で、確かにポーズが「モナ・リザ」のそれに似ている。特に両手を前に組んだ形が酷似している。
 実はほとんど同じ構図、描写の絵画がルーブル美術館に所蔵されている。こちらは完成された肖像画になっていて、俗に「モナ・リザのヌードバージョン」などと呼ばれていた。ただし作者はダヴィンチではなく、彼の晩年の弟子で行動を共にしていたアンドレア=サライ(本名ジャン=ジャコモ=カプロッツィ)と確定されていて、しかもサライのオリジナル作品ではなくダヴィンチが描いていて現在は消息不明となっている「モナ・リザ・ヌードバージョン」の模写であると考えられてきた。今回話題になっているコンデ美術館蔵の肖像画もこのサライの手になるものと考えられていたようだ。

 ところが―ブル美術館尾専門家たちが詳細に鑑定したところ、制作時期が「モナ・リザ」とほぼ同時期であること、さらには使用されている紙が当時の北部イタリアでしか作られていないものであることが判明、おそらくそのタッチなども調べたうえでだと思われるが、ダヴィンチ自身の手になる可能性が高い、と判断された。そうなるとこれは「モナ・リザ・ヌードバージョン」のダビンチ自身による習作なのでは、という話になってきたのだ。本当にそうだとすれば美術史上の大発見になるのだが、結論を出すにはまだまだいろいろ調べなきゃいけなさそう。続報を待ちたい。



◆回避、回避!

 世間が大騒ぎしている中で当「史点」では昨今の「北朝鮮危機」を全然とりあげてこなかった。水爆実験はやるわ、ミサイルは遠くまでぶっ放すわ、とやりたい放題なのは確かなんだが、茨城県南部在住であるために例の「Jアラート」で二度も叩き起こされた僕としてはそれが最大の迷惑、という感覚だったりする。そりゃまぁ日本上空を飛んでったといえばそうなんだけど、そもそも宇宙空間まで飛んじゃってるものを撃ち落とすなんてできっこないし、襟裳岬の住人たちが何も見たり聞いたりできるわけもない。それでも仕事で何かやんなきゃいけないからなんだろうが襟裳岬の人たちに取材しまくるマスコミの姿とか、各地の学校などで行われた地震のそれとほとんど区別がない避難訓練の様子なんか眺めていると、どうも日本人は竹やり訓練やバケツリレーのころからさして変化してないな、と思うばかり。そりゃまぁ実際に核兵器を摘んだミサイルが日本めがけて飛んでくる可能性はあるんだが、正直なところ最初から核シェルター内で生活でもしてないと何をしyたって間に合わないのが実態。
アラートがまったく無意味とまでは言わないが、それをめぐる人々の言動を見ているとかなり「ズレ」ちゃってるように感じたものだ。

 で、北朝鮮はアメリカを激しく非難、アメリカもなんせトランプ大統領だから、どっちのセリフか分からなくなるくらいお互いにかなり口汚く相手を罵倒、どんどん形容詞が増えていく脅迫文句を並べ立てている。こりゃ大変だ、米朝開戦か、というとそこまでの危機感は世界的にも流れていない(騒いでる日本ですらそう感じる)。過去のキューバ危機だのと比べれば実のところ危機感はぐっと低いはず。
 そもそも北朝鮮の政権の最大の目的は「国体護持」であり、アメリカから保証を取り付けることだけである。ここ十年以上、ひたすらその一念だけで核開発、ミサイル開発を進めてきた。アメリカと少しでも好条件で対話するためには相手を直接脅せるぐらいの武器を持たなきゃ…という一念である。実際にアメリカと戦争になったらアウト、ということは重々承知のはずで、やたらに勇ましい罵声を叫ぶ割にどこか「引いた」姿勢を見せるあたり、少なくとも太平洋戦争直前の日本指導部よりは冷静に彼我の国力をわきまえているようではある。北朝鮮に対する石油禁輸についても日本の前例が引き合いに出されることがあるが、あの時の日本は東南アジアに石油をとりに行ったけど北朝鮮にさすがに同じことはできない。
 一方のアメリカ側は北朝鮮が思ってるほど北朝鮮に関心がないというのが実態。中東のシリアやイランの方に手を出す可能性のほうがよっぽど高い。正直北朝鮮については「面倒くさいやつ」と思ってるんだろうなぁ。むかし、いしいひさいちが北朝鮮のアメリカに対する「イヤガラセ」のような態度を「屈折した愛情表現」と漫画で描いたことがあったけど、まあその辺が結構真理を突いているような。

 そうはいっても、人間には「もののはずみ」とか「行き違い」とかいったものがある。緊張状態をあんまり作っていると、上層部は冷静でも末端ではそうもいかず、偶発的に大戦争勃発、なんてことがありえないとはいえない。スタンリー=キューブリック監督の傑作「博士の異常な愛情」がまさに「狂気」と「行き違い」が核戦争を招いてしまうというテーマを扱ったブラックユーモア作品だったが、この映画の明らかな下敷きとなっているキューバ危機も誰かがどこかでつまらん勘違いをしたら米ソ核戦争になりかねないきわどい状況だったのだ。北朝鮮危機についてもそれはもちろんゼロとはいえない。

 …と、前ふりが長くなったが、ニュースネタはここから。9月18日にアメリカのメディアなどが、スタニスラフ=ペトロフという元ソ連軍人が今年5月に77歳で死去したと一斉に報じた。当人の死からだいぶ遅れて訃報が報道されるというのは最近よくあるが(日本では先日の俳優・土屋嘉男さんの例が)、4か月も遅れて死が報じられたこの人、僕も全然知らなかったのだが、欧米ではそこそこ「知る人ぞ知る有名人」であったようだ。この人、何者なのかというと、「核戦争勃発を防いだ男」「世界を救った男」だったりするのだ。

 時は34年前の1983年9月26日。ペトロフ氏は当時ソ連軍の中佐で、アメリカ軍の核ミサイル攻撃を軍事衛星の監視を通して警戒する任務にあたっていた。この日、この衛星の監視システムが「アメリカから5発のミサイルが発射された」との警報を発したのである。ペトロフ中佐はこれをただちに上官に報告しなければならなかったのだが、「システム誤動作の可能性が50%はある」と判断、上官への報告を行わなかった。このため彼はあとで規定違反で左遷されることになるのだが、このとき規定通りに上官に報告していたら、ソ連軍はただちに報復ミサイルの発射を実行、そのまんま核戦争に突入…という悪夢が起こっていたかもしれない、という話なのだ。また映画の話になってしまうが、「クリムゾン・タイド」って潜水艦映画の展開を連想しちゃう。

 ペトロフ中佐が慎重な判断を下したのは、アメリカが本気でソ連を核攻撃するなら一気に何百発ものミサイルを発射する「総攻撃」になるはずと予想されていたのに、ほんの数発のミサイルしか発射していないのは「おかしい」と感じたためだという(そもそも警戒システムは最初一発しか表示せず、あとからさらに4発増えたという)。また実際にこの衛星警戒システムには誤動作もよくあったとされ、ペトロフ中佐は世界平和ウンヌンということではなく現場の軍人として冷静な判断をした、というだけの話なのだろう(当人も特に自身の行為を誇ったりはしなかった)
 ただこの当時、米ソ関係はかなり緊張していた。この直前の9月1日に「大韓機撃墜事件」が起こっている。アラスカから韓国へ向かっていた大韓航空機「007便」がなぜかコースを逸脱してカムチャツカから樺太のソ連領空に侵入、ソ連空軍機が出動してこの民間機を撃墜して乗員乗客全員死亡という惨事になった。今も謎の多い事件なのだが、ソ連側が民間機撃墜という手段に出てしまった原因はいかにもソ連官僚的な組織体制、融通の利かなさというか、命令絶対性というか、そういうあたりに大きくあり、ペトロフ中佐のケースとちょうどいい対照になっている。案外ペトロフ氏もこの直前の事件が念頭にあったりしたのかもしれない。
 この時期の米ソ関係をふりかえると、1980年にはソ連がアフガニスタンに侵攻、アメリカをはじめとする西側諸国がモスクワ五輪をボイコット、1984年のロス五輪ではソ連ら東側が報復ボイコットなんてのをやってたし、アメリカのレーガン政権が対ソ強硬姿勢を強めて「スター・ウォーズ構想」なんて言われた宇宙からの戦略防衛を推し進めたりもしていた。また映画の話になるが、1984年版「ゴジラ」にも当時の空気がほんのりと漂ってはいる。そうした空気を反映して創作作品でも「核戦争で文明崩壊、その後の世界」を描くものがこの時期やたら多く、調べてみたら「北斗の拳」の連載がやはり1983年の41号から、つまりちょうどこの事件の時期に始まっているのだった。

 ペトロフ中佐の行動はソ連崩壊後しばらくたった1998年に知られるようになり、2004年にアメリカの平和団体から「世界市民賞」を贈られたほか、2006年には訪米して国連本部にも赴き、2013年には国際ドレスデン賞を受賞、同年に国連では9月26日を「核兵器の全面的廃絶の国際の日」と定めて核軍縮会合を行ってペトロフ氏の行為を顕彰した。2014年にはデンマークの監督によりドキュメンタリー映画にもなったとのこと。こういう人なのだが、「唯一の被爆国」日本ではあまり話題にされなかったような…。
 彼の「功績」についてロシアでは疑問の声もあり、その訃報も全然報じられなかった。このため欧米でも彼の死は9月になるまで知られず、ドイツの知人が78歳の誕生日を祝おうと自宅に電話をかけて初めて判明したのだとか。「世界を救った」人にしてはさみしい訃報という気もするが、当人も自分の行為をちっとも英雄視してなかったというし、彼らしいこの世の去り方、という気もする。



◆解散、解散!

 ちょうど中学三年生に公民の政治分野を教えている最中だったので、今度の唐突な解散劇には「いいタイミングで」と喜んでる部分もあるんだが、一選挙民としては正直なところ、日本政界の在り方に改めて深く静かに絶望的になってもいる。ま、顧みれば南北朝時代だって足利尊氏が南朝と手を組むとか、滅茶苦茶な離合集散をやっていたものだし、明治時代の最初の帝国議会からして野党側があっさり政治的取引で妥協したため議員だった中江兆民が憤慨、「アルコール中毒」を理由に議員辞職第一号になっちゃったりしているわけで(いずれも当サイトに載ってるネタです)、日本政治なんて昔からそんなものなのかもしれないが。

 8月末くらいからチラチラとは噂されていた衆議院解散だが、9月中旬から一気に「解散風」が吹き荒れ、9月27日に実際に解散となった。例によって「七条解散」というやつで、総理大臣が決めちゃう解散の方式だが、今回はかなり慌ただしく話を進めた感が強かった。衆議院の任期は来年までなのでどのみち近いうちに総選挙をしなくちゃいけない、遅れれば遅れるほど与党にとって状況が悪くなる可能性が強い、だから野党側がガタガタしている今こそ解散、という判断自体は党利党略と言っちゃえばそれまでだが、それなりの合理性はある。ここで解散総選挙ってことは北朝鮮危機なんて特に気にしてないんだな、とも思わされたが、大臣の誰だかが「北朝鮮の脅威に民主主義が負けるわけにはいかない」と、むしろこの時期に選挙をやることの意義づけをしちゃっていたのには、まぁ何でも物は言いようだな、と思うばかりだ。

 9月27日に臨時国会を召集、開会式やって衆議院を開いた直後に、おなじみの「解散の詔勅」が届けられて議長が解散を宣言。例によって謎の万歳三唱…となったわけだが、民進・共産は異例の「冒頭解散」に抗議して欠席、ずいぶん席の空いた物寂しい感じの万歳三唱の光景ではあった。国会召集していきなり解散、というのは僕も記憶になく、安倍晋三首相個人のスキャンダルである「加計・森友両学園問題」をあれこれつっつかれたくなかった、という本音はあるだろう。そして解散後の騒ぎのなかで実際この問題はどっかへ飛んで行ってしまっている。

 もう一つ解散を急いだ理由として、先ごろ都議選で自民に圧勝した「都民ファースト」を率いる小池百合子都知事が国政進出を本格化させる前に不意打ちをかけてしまえ、というのもあったと言われる。解散風が吹き始めるまでは、小池都知事の腹心ともいえる若狭勝と民進党を離党した細野豪志の両衆院議員による新党結成が噂され、「若狭新党」「若狭細野新党」だのと呼ばれていたのだが、解散が現実のものとなると小池都知事はいきなり「希望の党」立ち上げを宣言、自らその代表となることを表明した。若狭・細野両議員もそれに入ることとなるのだが、なんか若狭さん、意気消沈した表情を見せていて、どうも事前の打ち合わせがない急な話だったみたいなんだよな。
 小池都知事といえば、前回も書いたように表面的にはソフトにふるまっているが、実はかなり「保守」というよりド右翼寄りなのでは、と思っていたのだが、この「希望の党」に「日本のこころ」代表だった中山恭子参院議員が、代表でありながら「日本のこころ」を離党して「希望の党」への入党を表明、彼女の夫である中山成彬元衆院議員も一緒に入党することが明らかとなり、この「ド右翼政治家夫妻」の参加で「希望の党」の傾向はほぼ明らかになったと僕は感じた。自民党に対する対抗軸としてにわかに注目の勢力となった「希望の党」だが、銀英伝的に例えると、門閥貴族連合と救国軍事会議のガチンコ勝負みたいな、悪夢的光景に僕には見えてしまうんだよなぁ。潰し合いになるなら結構だが、この二者択一みたいな報道のされ方見てると、本気で絶望的になってくる。

 さらに驚いたのが、民進党の解党→「希望の党」への合流がいきなり決まったことだ。つい先ごろ民進党代表になったばかりの前原誠司氏が小池都知事と会談、いきなり党をまるごと全部「身売り」するという、日本政治史でも例を聞かない大胆といえば大胆な策に出た。民主党から数えれば二十年近い歴史を持ち、一応野党第一党の勢力をもつ政党が、ポッと出をしたばかりの新党にまるごと合流、というのは奇策も奇策で、確かに与野党ともに誰も予想しなかった手段だ。民進党はこのところ離党者続出でガタガタだったから「解党」という選択肢は実際に考慮されていたようなんだが、小池百合子人気をアテにして名前も捨ててまるごと合流、というのはさすがに誰もが驚いたはず。
 小池人気と民進の組織力が組み合わされば、あるいは自民党に大きな脅威となるかもしれない。しかしいくら民進党が極左から極右まで幅広いといったって、あの「希望の党」とすんなり合流なんてできるのか?と僕は首をかしげた。いきなりの話で民進党内でも少しは反発が出るだろうと思ったら、直後の議員総会では全員一致で了承しちゃったので、これにも呆れた。ま、国会議員は選挙に落ちてはただの人、下手するとそれ以下であるから、まず選挙に勝たなきゃしょうがない、というのはワカランではない。だけど組む相手をよく見ろよ、と。

 そう言ってたら案の定である。小池都知事は自身の政策方針、特に憲法改正論議や安保法制に関して反対の者は排除するとハッキリ表明、民進党内のリベラル派の切り捨てを明示した。流れてる噂として、その選別を中山成彬がやってるらしい、と聞くと、真偽はともかくありそうな話とは思ってしまった。「希望の党」に受け入れられないと察した民進党左派は枝野幸男議員を代表として新党「立憲民主党」を立ち上げ、民進党はここに完全に分裂、消滅することになった。解散表明から一週間で一つの政党が消え、二つの新党が出来ちゃうという大激動が起こってしまったわけだ。
 ところで「立憲民主党」という名前、歴史を知ってると古めかしい印象を受けるのは「立憲」を冠する政党は戦前に多くあったためだ。大隈重信の「立憲改進党」や原敬が初めて本格的政党内閣を作った「立憲政友会」なんかが有名で、他にもいくつも「立憲」を冠した政党がある。今度の「立憲民主党」の名前について「立憲=改憲なのか?」とか揶揄する無知な人がネット上で結構わいたようだが、もちろん「立憲」とは普通「立憲主義」のことで、憲法に立脚する、憲法に従った政治をすることを意味する。最近「立憲主義」を根本的に理解してない政治家がかなり多く、つい先ほども自民党現役議員で「立憲主義など学生時代に聞いたことがない」とつぶやいてる人をみかけたが、そういうこともあってか最近は中学生の公民でかなりバッチリ「立憲主義」を教えるようになっている。その意味では堅苦しくはあるけどいい命名だと社会講師としては思う。
 一方で「希望の党」という名前については、不気味な暗合が話題になった。2005年に総務相などの依頼で製作された選挙の大切さを訴えるための短編映画(金子修介監督)で、奇抜な政策で国民、とくに若者の支持を急激に得て国政を握り日本を一気にファシズムへと突っ走らせてしまう政党の名前が「希望の党☆」だったというのだ。脚本を手掛けた松枝佳紀氏は「前向きな印象をもたせつつ票を集め、結局ひどいことヤラカスならどういう政党名がいいかなと考えた結果『希望の党☆』だったんです」と党名発表直後にツイートしてて、いろいろ思い当たるところも多(「都民ファースト」も「都民ファシスト」と揶揄されてたし)、何やら怖くなる。「日本をリセット」という掛け声だって、「リアル北斗の拳」状態からやってみよう、というふうに聞こえなくもない(笑)。
 

 一連の経緯でどうしても思い起こしてしまったのが、いしいひさいち氏の時事ネタ漫画だ。前原誠司という政治家が自民党とまったく変わらない政治志向を持ってることをとりあげて「前原はなんで民主党にいるの?」と聞く息子に「あれは自民党のスパイ」と父親が答えちゃう、という作品があったのだ。いま確認してみたら収録しているのは「大問題’10」(東京創元社刊)で、2009年から2010年にかけての時事ネタを集めた一冊。その末尾部分に「なぜなぜマー君そんなもんだとうさん」という父子対話シリーズがあり、その中にこの前原ネタがある。当時でも「ずいぶんキワどい漫画だな」と思ったものだが、いま読み返してみるとまるで「予言」のような会話があって慄然とした。

子「とうさん、民主党の前原誠司は自民党のスパイだよね」
父「そうだよ」
子「なにをしようとしているの?」
父「破壊工作だよ。自民党の執行部の指令を受けて潜伏してるんだ。見ててごらん。いずれ動き出すよ」
子「ほんとう?」
父「ガセネタだよ」

 実際に読んでもらわないと雰囲気がつかみにくいと思うが、オチで「ガセ」としつつも、前原さんの政治志向や立ち位置が実際にそう見える、ということを示唆するやりとりだ。そして今回の顛末を見てからこのくだりを読むと、ますます本当っぽく見えてくるから恐ろしい。もちろん僕も前原さんが自民党のスパイで破壊工作をやったと本気で思ってるわけではないが、今回前原さんが果たした役割自体は、まさに「民進党破壊工作」であり、意図してやったとしたら見事なまでの大成功、と言えるだろう。当人も分裂事態について「想定内」とかコメントしているので、案外本気で自らの手で党をつぶすつもりで代表になったのかも。

 にわかに「政権選択選挙だ!」みたいな騒ぎになったが、小池都知事は都知事のまま出馬しない意向を再三言ってるので、少なくとも今回は政権奪取はできないと考えてるんだろう。まだまだ公示前だしこれから何が起きるか分かったものじゃないが、自民党が本気で危機感を覚えた場合、小池さんに何かスキャンダルが報じられたりするんじゃないかなぁ、という予感も。選挙結果によっては「改憲」の一語で大連立、なんて展開もありそうな気もするし。何だか「大政翼賛会」なんてこれまた懐かしいフレーズが頭をよぎる。

 安倍さんは「国難突破解散」と謎のネーミングをしていたが(「仕事人内閣」なんてのもあったっけ)、僕にはこういう政治状況自体が国難なんと違うかな、と思えてしまう。中江兆民も第一回帝国議会を「悲しむべしこの議場、おそるべし将来の会」とか「無血無私の陳列場」などと罵倒していたから、そもそも国会はその始まりからそんな場所だった、ってことも言えるんだけど。


2017/10/5の記事

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