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2017年9月11日

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◆今週の記事

◆東南アジアで罪と罰

 いささか強引なつながりで三つの話題をまとめてみた。

 タイと言えば東南アジアでも古い王国のひとつであり、立憲君主制をとっているとはいえ国王の権威がかなり高い国としても知られている。特に昨年亡くなったプミポン前国王=ラーマ9世に対する国民の尊崇の念がかなりのものであったことは間違いなく、直接的な権力闘争には関わらないものの、タイで繰り返されてきた内戦一歩手前とも思える政治対立の調停役としてしばしば国王自身が乗り出していたのも強く印象に残ったものだ。ああいうのを見ているとタイにおける国王の存在って、戦前日本の天皇の位置にかなり近いのではないかと思っているのだが、実際、戦前日本に存在した「不敬罪」がタイには今も存在している。国王を何かの形で批判、あるいは侮辱したとみなされると禁固刑を含むかなり重い罪になるのである。

 やや古い話題になるが、先月の8月15日、タイ東北部のコンケン県の裁判所が、現地大学在籍の26歳の学生に対し、「不敬罪」により禁固2年6カ月とする判決を下した。この学生、何をやったかというと、ワチラロンコン現国王の経歴に関する外国メディアの報道を、自信のフェイスブックで「共有」した、という、ただそれだけのことだ。別に本人が国王の経歴をウンヌン書いたわけではない。外国の報道を「共有」したことがその内容に対する同意であるという理屈で、それが現国王に対する不敬になる、ということのようである。タイ人以外からすると「え?そんなことで?」と思っちゃうのだが、タイ国内でもさすがにそれはどうか、という声も出てはいるようだ。
 実はこんなものじゃなく、今年6月にはチュンマイ県の34歳の男性がやはりフェイスブック上で王室を侮辱したとして不敬罪に問われ、禁固35年というやたらに重い判決が下されている。具体的に何を書いたのかは分からないのだが、この男性は王室の写真やメッセージを自身のフェイスブックに載せ、それぞれが王室に対する「侮辱」と見なされる内容だったらしく、一件につき禁固7年で、10件あったから本来なら禁固70年だが、お慈悲で半分にまけてやる、という判決なのだそうな。2015年にも不敬罪で禁固60年のところを半分の30年にした例があるといい、この35年が今のところの「最長判決記録」となってしまうようだ。

 その禁固35年のケースについては詳しく分からないが、先に書いた禁固2年6カ月の学生については、クーデターを起こした現在の軍事政権を批判して有名になっていた人物だそうで、不敬罪での逮捕自体が軍事政権の政治的意図による「別件逮捕」、との指摘もある。実際、2014年のクーデター以後、不敬罪での逮捕者は急増していて、国際人権連盟によるとこの3年間ですでに100人を超える人が「不敬罪」で逮捕されていて、軍事政権が「不敬罪」を濫用(らんよう)して政権批判封じをしているのではないか、とも言われている。戦前・戦中における日本で軍部が「天皇」の名をふりかざして暴走した例を思い起こしまうな。


 その2014年のクーデターの直前までタイの首相をやってたのがインラック元首相。そう、現在亡命中のタクシン元首相の妹さんである。インラック政権はタクシン政権同様に地方農村の強い支持を受けたが、これまた兄の政権同様に都市部のエリート層と激しく対立、結局人事で憲法違反と判断されて首相辞任に追い込まれ、その直後に「政治混乱を収拾する」としてクーデターが起こって現在の軍事政権になってるわけだ。そして報じられているように、今度はそのインラック元首相も亡命という道を選ぶこととなった。
 インラック政権では「米買い上げ制度」を採用、これは農村部の支持は得たのだが反対派からは「国家に損失を与えた」と批判され、首相としての職務怠慢ということで弾劾の理由ともなった。彼女の公民権は剥奪され、裁判所の許可なく出国も禁じられていたのだが、その件についての最高裁の判決が出る8月25日に公判を病気を理由に欠席。そのまま勝手に出国して「亡命」ということになってしまった。判決公判は延期されたが、禁固10年以上の厳しい判決が予想されたため亡命という手段を選んだということらしい。兄のタクシン元首相のいるドバイへ行き、合流したものとみられている。

 反タクシン・インラック派は当然ながらその逃亡に激怒しているが、本人やその支持者に言わせると裁判所がすでに中立でないから、ということでもある。やや不可解なのはそんな立場の人がどうやってやすやすと国外逃亡を実行できたのかという点で、一部では案外軍事政権側が見逃してやった、あるいは積極的に逃がした、という説も出ている。軍事政権としてはこの人が国外に出てくれたほうが助かる、という事情も実際あるらしいのだ。
 結局兄妹元首相がそろって亡命ということになってしまったわけだが、この人たちに「返り咲き」の可能性ってあるんだろうか。今でも地方では支持者も多いと聞くんだが、国内に担ぎ出すべきリーダーがいないとなると求心力は失われてしまうのかも。軍事政権から民政への移行もどうなるんだかわからない状況だし、タイの政治的混乱はまだ当分続くんじゃなかろうか。


 続いてそのタイのお隣、ミャンマーの話題。こちらも主人公となるのは女性指導者。長い間軍事政権により軟禁され、ノーベル平和賞も贈られた民主化運動指導者アウンサン=スーチーさんである。かつての「活動家」も今や政権を握る側にあり、軍部の作った憲法の規定でイギリス人の家族をもつ彼女は大統領にはなれないものの、「国家顧問」という裏技的な地位について「事実上の最高権力者」となっている。かくして天下をとった形のスーチーさんだが、ここ数年ばかり世界の人権団体などから何かと批判される立場になってしまっている。ミャンマーにおける「少数民族」、ロヒンギャ族の問題について彼女がほぼ沈黙、というよりその弾圧に賛同するような言動をみせているためだ。

 ロヒンギャ族というのはミャンマーと西隣のバングラディシュとの国境地帯に住むイスラム教徒の人々で、陸続きの国ではありがちな民族問題の一例となっている。もともとこの地域は多数派の仏教徒と少数派のイスラム教徒が共存していた歴史があったが、イギリスが19世紀にインドを植民地化、さらにミャンマー(ビルマ)を併合していった過程で多数のイスラム教徒が移民してきてバランスが崩れてしまい、この地域で紛争が多発するようになってしまった(こうした事情は前回やったゴルカ人問題にも似ている)。独立後のミャンマーではこれら「ロヒンギャ」を国内の少数民族とは認めず、あくまで「不法入国してきたベンガル人」という扱いをしていて、このためロヒンギャの人たちは文字通りの「無国籍」状態となってしまっている。
 近年ではミャンマーでも「仏教原理主義者」な連中が出て来てロヒンギャの国外追放を主張いて迫害に拍車をかけ、ロヒンギャ側でも一部に武装闘争の動きも出たため軍部がその「掃討」としてロヒンギャ居住地への圧迫を強めている。ロヒンギャとされる人々の数は80万人にも上るとの推計があるが、こうしたミャンマー側の攻撃から逃れてバングラディシュに難民として入った人の数は現時点で27万人(ロヒンギャ全体の3分の1くらい?)にものぼるとされている。今や世界的にも大規模な難民問題となっていて、国際的な人権団体や、イスラム諸国の強い批判がミャンマーに、そして政権を握っているスーチーさんに向けられてきているわけだ。

 だが政権をとるようになる前後から、ロヒンギャ問題に限らず少数民族問題にスーチーさんがあまり積極的ではないな、という気配は出ていた。特にロヒンギャ問題についてはむしろ彼女が政権をとってから状況が悪化していて、それについて批判されるとスーチーさんは従来のミャンマー政権の「公式見解」を踏襲するのみでほぼ沈黙を続けている。一国のトップになってしまうと本人の意志だけではどうにもならないことはあろうし、特にロヒンギャ弾圧を進める主体は軍部であり、軍事政権ではなくなったとはいえ今も軍が強い影響力を持つ政治状態だけにスーチーさんも軍部の反感を買いそうなことはできない、という事情も察せられる。だが、それにしても…という声は多く、最近では「ノーベル平和賞を取り消せ」という署名運動まで起こっている。
 ま、そもそもノーベル平和賞というもの自体が昔から問題の多い賞でもあって、受賞後にあれこれ取りざたされるのはこれが初めてではない。同じノーベル平和賞受賞者である、パキスタンの少女マララさんが同じ平和賞受賞者どうしということでスーチーさんの「沈黙」を批判する声明を出したところ、さすがに無視もできなくなったかスーチーさんもロヒンギャ問題に何らかの努力をしたいという趣旨の発言を出してはいる。ラマラさんもそうだが、どうしてもイスラム教徒の人々がこの問題への関心を深めていて、トルコのエルドアン政権関係者もこの問題に首を突っ込んできてるのだが、トルコはトルコでクルド人問題で似た立場のような…。



◆短かったけど元首相

 すでに政界を引退して久しく、その引退も健康面での問題が理由だったような気がしていたので、8月28日に羽田孜元首相が死去したとの報に接したとき、「意外に長くもったな」という印象を受けてしまった。死因は「老衰」と発表されていて、82歳というとまぁ一応平均値以上の享年ではあるか。政治家の皆さんは長命な傾向があるようにも思ってるもんで、その中では短命にも感じられてしまう。

 短命、といえば、この羽田さんは首相としては間違いなく短命だった。在任期間は64日間で、現憲法下では最短の記録である。旧憲法下も含めると敗戦直後の東久邇宮稔彦の54日間がそれを下回る。また石橋湛山の65日間が羽田さんのすぐ次にいる。女性スキャンダルで辞めた宇野宗佑の69日間という例もあった。
 首相だったという事実を忘れてしまいそうなほどの短命政権に終わってしまったこの人だが、その政治家人生をふりかえってみると、ここ四半世紀ほどの日本政界史を眺め渡すことができるなぁ、と思ったので今回取り上げてみることにした。 

 羽田孜は1935年8月24日生まれ(誕生日と命日が近かったな)。父は戦前から衆議院議員をつとめた羽田武嗣郎、つまりは二世政治家だ、それでも当初は父の後継者となる気はなく、小田急バスでサラリーマンをしていた時期もあるのだが、父親が脳出血で倒れたため後援会の要請で結局政治家の道を選び、1969年の衆議院選挙で初当選。自民党内では農林族としてキャリアを積み、1985年に中曽根康弘内閣で農水省として初入閣。所属派閥は佐藤派から田中派、それから竹下派へと自民党内最大勢力の「下剋上」のルートに見事にのっかって地位を高め、「竹下派七奉行」の一人に数えられるほどになった。その後何かと腐れ縁になる小沢一郎とは「平時の羽田、乱世の小沢」金丸信に評された、なんて逸話ももつ。
 しかしその金丸信が佐川急便事件で失脚、竹下派の主導権争いに敗れた羽田・小沢のグループは1993年に宮澤喜一内閣の不信任決議に賛成してついに自民党を離党、新政党「新生党」(当時「ダジャレかよ」と言われたものだ)を結成して羽田がその当主となった。この年は「新党ブーム」と言われ、その中の「日本新党」(いま話題の小池百合子都知事もここの出身)細川護熙を首相とする「非自民・非共産」の連立政権が誕生、羽田自身も首相候補とみなされたが、とりあえず細川内閣では副総理兼外務大臣、つまりはナンバー2の地位を占めた。

 当初大人気だった細川首相だったが金銭スキャンダルが噴出するなどして1994年4月に唐突に辞任、後継に選ばれたのはナンバー2である羽田ということになったんだけど、このとき「盟友」であるはずの小沢一郎が渡辺美智雄擁立騒動とか(この人の息子さんもいろいろ波乱ですな)、社会党外し画策をして村山富市委員長を怒らせ社会党の連立離脱を招くという大ポカをやらかしてしまい、羽田内閣は発足当初から少数与党の短命内閣とみなされることになってしまった。僕は妙に覚えているのだが、当時海外にいた羽田首相の息子さんが「首相官邸になんてめったに住めないし、長く続きそうにもないから」と急遽帰国してくるという一幕もあったのだ。

 結局羽田内閣は予算を成立させた直後に自民党から内閣不信任案を提出され、抵抗も何もできず6月25日に総辞職、64日の短命記録を作ってしまった。その直後に自民・社会・さきがけが連立を組んで村山富市政権が発足、野党に転落した細川・羽田政権の各政党は解党・合流して「新進党」を結成して対抗した。しかしそれを主導した小沢一郎の強引かつ「黒幕」な手法のせいもあって1997年に新進党は粉々に分裂、羽田もさすがにここでは小沢と袂を分かって「太陽党」なる新党を作った。そしてすぐ翌年には他の二党と合流して「民政党」を結成してその代表となり、さらに他勢力を糾合して「民主党」へと合流してその幹事長、さらに最高顧問にもなっている。いやはや、こうして並べてみてもずいぶんいろんな党を作ってはくっついて離れてを繰り返してきたものである。腐れ縁の小沢一郎は新進党解体後は「自由党」を率いたが、これも2003年に民主党に合流、また羽田と同じ政党に属することになっちゃうのだが、今やその小沢さんはまた「自由党」を作っちゃってて、なんというか、この人一人「歴史は繰り返す」をやっちゃってる観がある。

 2009年の総選挙は民主党政権が成立、羽田さんは政権交代の宿願を果たすことになり、次の総選挙には出馬せず引退すると表明。その2012年の総選挙で結局自民・公明連立政権が成立しちゃうわけだが(その過程にも例によって小沢さんがかなり暴れた)、羽田孜の政治人生はここで終わった。
 先日の民進党との共催での葬儀では、小沢一郎・自由党代表が「ツトムちゃん」と呼びかける弔辞をよみ、そのなかで同志として共闘した過去をしのびつつ、自身の行動により迷惑をかけたことをわびたりもしていた。葬儀というと普通故人の悪口は言わないものではあるが、羽田さん個人については立場を越えて政界では人望もあったようで、惜しむ声は多く聞かれた。政治家としては確かにクリーンなイメージがあったし、「省エネルック」などという、クールビズの元祖のようなそうではないようなもの(調べてみるとオイルショックの時に生まれたそうで)を自分で着て普及をはかるという、ちょっとお茶目にも見える一面もあった。どうも羽田さんというと「省エネルック」が真っ先に頭に思い浮かぶんだよな。合掌。



◆死んでもおちおち眠れない

 亡くなったばかりの人の話題に続いて、とうの昔に亡くなった人たちが「眠りを覚まされる」ような話題。

 今を去ること28年前の1989年1月、日本は「平成」に突入した直後の時期で、政界はいわゆる「リクルート事件」で大騒ぎ、有力政治家が次々と未公開株を受け取っていたりパーティー券を買ったりといった疑惑がかかって大臣辞職に追い込まれていた。そんなおり、1月23日にスペインのシュルレアリスム画家サルバドール=ダリが死去し、山藤章二さんが「ブラックアングル」で「そしてダリもいなくなった!」というギャグを飛ばしてくれて、当時僕は大受けしていたものだ(笑)。
 そのダリの遺体が28年も経ってから掘り起こされることになろうとは、それこそダリも予想しなかっただろう。

 なんと「自分はダリの実の娘だ」と名乗り出た女性がいたのである。その61歳の女性は職業「霊媒師」だそうで(その時点で怪しさ爆発なのだが)、自身の母親がダリの家政婦をつとめていて(これは事実らしい)一時期関係を持ち、それで自分が生まれたと主張、裁判所でその認知を求めたわけだ。もし本当にダリの娘だとすればダリの絵画に関する莫大な遺産の相続者ということにもなるため、ダリの遺産を管理するダリ財団からはハナから疑われていたようだが、裁判所は「ダリの遺体を掘り出してDNA鑑定をせよ」との命令を出したのである。
 遺体の発掘は7月20日に実行された。僕もこのニュースを聞いて「気色わる〜」と思ったものだが、実はダリの遺体は防腐処理がなされていて、棺桶を開けてみても生前の姿をかなり残していたのだそうだ。28年前の防腐処理をほどこした当人も発掘に立ち会い、「ダリに会いたかった。トレードマークのくちひげが10時10分の位置をそのまま指していて感激した」と結構喜んでしまっていた。想像するだけでホントにダリの絵画みたいにシュールな悪夢的光景なのだが、「史点」としては結果待ち状態で待機していた。
 そして9月6日になってDNA鑑定の結果が出た。「その女性とダリとの親子関係は認められない」という結論だったのである。ダリ財団は「ばかげた騒ぎが終わって喜ばしい」とコメントしていた。とりあえず墓堀りにかかった費用はその霊媒師に請求する予定だとか。
 じゃあ、あんたはダリの子だ、とかダジャレを続けてしまうのだが、そもそも「霊媒師」なんだからダリの霊に聞いてみればよかったのでは。いや、実は聞いてみて「お前はダリの子だ?」と言われたんで、ダリの子供だと勘違いしちゃったんじゃないか、って日本人が勝手に喜んでますね(笑)。


 墓を掘る話はほかにもあった。かの「天正少年使節」の一人、千々石ミゲルの墓とみられるものが発掘されたのだ。
 「天正少年使節」は今も昔も小中学校の歴史の授業でとりあげられるから多くの人が知ってるはず(最近ではそれを下敷きに少年漫画にまでなってる)。日本で布教していた宣教師ヴァリニャーノの発案で九州のキリシタン大名の縁者である少年たち、伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン原マルチノの少年4人が遠くヨーロッパへと派遣されたのだ。彼らは1582年2月に日本を発ち、1584年8月にポルトガルのリスボンに到着。スペインを経てイタリアに入り1585年3月11日にローマ教皇グレゴリウス13世に謁見を果たす。翌1586年4月にリスボンから帰途に就き、1587年5月にインドのゴアまで来たところでしばらく滞在、1590年7月にようやく帰国し、翌1591年3月に聚楽第において豊臣秀吉と会見している。
 四人のうち伊東マンショが大伴宗麟の名代ということで「主席正使」となっていて、千々石ミゲルはそれに次ぐ「正使」の立場だった。千々石ミゲルは大村純忠の甥でその名代として正使に立てられたものだが、幼少期に父親が戦死するなどなかなか苛烈な戦国経験を送っている。

 ヨーロッパで大歓迎を受け、8年がかりの大旅行を経て少年たち(旅行中に成人してるが)はようやく祖国に戻ってみれば、ちょうど秀吉による「バテレン追放令」が出されるなど、キリスト教への締め付けはじわりと始まっていた。関ヶ原の戦いで徳川の天下となるとキリスト教への弾圧は明確になり、「少年使節」メンバーも過酷な運命にさらされた。千々石ミゲルを除く三人は司祭となったが、伊東マンショは領主に追放されて1612年に長崎で死去、中浦ジュリアンは1633年に穴吊るしの刑を受けても棄教せず殉教、原マルチノはマカオに追放されて1629年に死去している。
 で、千々石ミゲルはどうしたのかというと、帰国後しばらくすると次第にキリスト教への疑問を感じるようになっていたらしく(旅先で見たキリスト教徒の異教徒への態度に批判的だったとされる)、司祭に向けての神学勉強もおろそかになり、結局1601年に棄教してしまった。その後は大村藩の藩士として600石で召し抱えられたが、キリシタン側からは裏切り者と見なされて殺されかかったこともあるなど、こっちはこっちで大変だったらしい。
 千々石ミゲル(棄教後は清左衛門と名乗ったが、面倒なのでそのまま)の晩年についてははっきりしていなかったが、2003年に彼の領地である長崎県諫早市内の伊木刀」の地でミゲルの息子・千々石玄蕃が作らせた仏式の石碑が発見され、その下にどうやらミゲルとその妻が埋葬されているらしいということになった。その石碑によりミゲルは寛永9年(1633)に死去したことが判明したのだ。当時「史点」で触れてたかな?と思って調べてみたら、ちょうど長期中断中の出来事だったため、再開後の「史点」の中でチラッと触れただけだった。

 そして今年の9月1日から、石碑の下の発掘が行われ、そこに木棺が納められていたことが確認され、人骨や歯の一部などが発見された。それが千々石ミゲルのののかどうかはそれこそDNA鑑定でもやらなきゃいけないだろうが…。
 注目されたのは、発見物の中にガラス玉があったことだ。発掘チームではこれはカトリック教徒が使う「ロザリオ」の一部ではないかとみており、千々石ミゲルは実はキリスト教信仰を捨てておらず、息子の玄蕃が副葬してやったものではないか、との推理を出している(妻のもの、という可能性もあるな)。今年はじめに見た映画「沈黙」のラストを思い起こさせる話である。


 もひとつついでに。こちらは墓が掘られたという話ではないのだが、死んでもその評価でいろいろ言われちゃってるケース。
 アメリカでは、先日の白人至上主義者たちのデモとカウンターデモとの衝突事件をきっかけに南部各地にある南軍関係者の銅像やモニュメントの撤去がかえって加速する事態になっているが、その流れでニューヨークに建てられているクリストファー=コロンブスの銅像についても「撤去」の議論が持ち上がっているのだ。
 アメリカ合衆国そのものとコロンブスには直接的な関係はないが、コロンブスがアメリカ大陸を「発見」(当人はインドだと思ってたけど)したことによりその後のアメリカがある、という考え方は実際にあって、首都ワシントンの正式名称が「コロンビア特別区’D.C)」であるのをはじめ、各地に「コロンビア」という地名があるし、スペースシャトルの名前にもなっているなど、アメリカ人にとってはなじみ深い名前だ。なおコロンブスは本来イタリア人で、イタリアでは「コロンボ」となる。そう、「刑事コロンボ」のコロンボであり、あの独特の刑事さんもイタリア系の設定になっている。
 しかし近年になればなるほど、コロンブスに対する風当たりは強くなっていた。「アメリカ」をヨーロッパ人のために切り開いたパイオニア」ではあろうが、先住民に対する差別と迫害の元祖的存在でもあるためだ。コロンブスのせいで先住民が激減、アフリカから黒人奴隷を連れてくる流れにもつながってくるため、コロンブスを白人優位思想の象徴みたいにみなす声も少なくないらしい。

 8月23日に、ニューヨークのデブラシオ市長が「憎悪の対象となる銅像の撤去」について検討する委員会を設置し、90日間かけて議論すると発表、その候補にニューヨークはマンハッタンのセントラルパークの南西の隅にあるコロンブス像も含まれていることを明らかにした。僕は全く知らなかったが、結構観光名所にもなってる銅像だそうで、1892年に「コロンブスのアメリカ発見400周年」を記念して建てられた、そこそこに年代物だ。そういうものでも撤去の対象、としたところに昨今の人種問題やコロンブス論争の深刻さがうかがえる。
 しかしコロンブスを「わが民族の英雄」と考えるイタリア系移民からは反発の声が上がっている。イタリア系市民団体がニューヨーク・タイムスに「コロンブスの実績が不当に評価されている」との一面意見広告も出したそうで、これはこれで「民族問題」になってしまいそうな気配である。



◆歴史から目を背ける者は…

 先月、イギリスのケンブリッジ大学が中国の要請を受けて同大学出版局で出している中国関係学術誌の一部論文について、ネット上で中国からアクセス不能とする措置をとることにしたと報じられ、僕も「おいおい」と驚いてしまった。ケンブリッジ大学が中国からのアクセス不能としたのは例によって例のごとく、「天安門事件」「文化大革命」「チベット問題」などなど、中国が「国内問題だ、よそが口を出すな」と神経質になる案件についての論文だった。インタ^ネット以前の時代に歴史学の学生やってた僕などからすると、様々な論文にネットで手軽にアクセスできる今日の状況というのは夢のような世界なのだが、それを自主独立をむねとする大学が、外国政府の政治的圧力に屈して自分からアクセス不能にするとは…、とあきれてしまったのだ。それもイギリスの歴史ある名門大学が、である。まぁ再起のイギリスは妙に中国に接近する傾向もあるからなぁ…

 当然学者たちから非難の声があがったが、ケンブリッジ大出版局の言い分は「今後も中国国内の情報へのアクセスを維持するため」というものだった。中国の資料にアクセスするために学問の自由を取引材料に使ったということになる。よくまぁそんな話を飲んじゃったものだと思うばかりで、実際学界の批判も激しく、8月末まえには撤回が発表されることとなった。
 中国国内はすでに日本以上のネット普及が実現しているが、政府に都合の悪い情報にはハナからアクセスさせない、あるいは投稿記事などを即座に消去するといった「情報統制」がとられているのは良く知られている通り。まぁそれでも抜け道がなくはなく、イタチごっこ状態ながらそれなりに情報は出回るようでもあるが、とにかくそうした国内でのやり方を外国組織に対しても要求する、というのがいかにも中国当局的やり方ではある。

 こういう話、他国ごととは言い切れない。日本でも今年4月に内閣府のHPから災害時の教訓をまとめた報告書がいつの間にやら削除され、朝日新聞で報道されたことでちょっとした騒ぎになったことがある。その報告書は江戸時代以来の災害教訓をまとめたものだったが、このうち関東大震災直後に発生した「朝鮮人虐殺事件」について15ページほど記述があり、それを載せていることに対して右側方向から批判・攻撃が相次いだため、面倒になった内閣府では「公開から7年もたったし」という言い訳をして江戸時代以来のぶんとまとめて削除してしまった…と報じられたのア。このとき内閣府では報道を否定し、あくまで作業上の都合で一時的に消えただけということで報告書をまたアクセスできるようにした。それで話は流されてしまったんだが、その後の展開を考えると、これ、やっぱり政府としてこっそり見えなくしてしまおうと意図してやったこととしか思えない。誰かが指示したというより、それこそ流行の「忖度」が働いたんじゃないかと。

 「その後の展開」というのは、もちろん小池百合子都知事が、関東大震災時に虐殺されつぁ朝鮮人らの慰霊行事に対し恒例となっていた都知事の「追悼文」を今年から出さないことにした、あの件だ。あの石原慎太郎も含めて歴代都知事が普通に続けてきたことを、わざわざ「断る」というのは、かなりの政治的意図を感じた。記者会見で都知事は「そこだけ特別扱いはせず、震災犠牲者をまとめて慰霊する」という主張をしたが、天災である地震で命を失った人と、その直後のデマにより罪もなく惨殺された人たちとを「いっしょくた」に扱うということ自体、神経を疑う。しかも記者会見で何度か虐殺事件についての見解を求められても、「様々な議論があり歴史家に任せる」と逃げをうっていたのもかなり悪質。直接的に否定はしなかったものの、虐殺事件の存在自体を見えなくし、ウヤムヤにしたいという意図を強く感じてしまった。
 
 きっかけについては今年の都議会で保守系議員から虐殺事件への疑問を唱える質問がなされたことにあるとされている。このところネット上での議論を眺める中で知ったが、どうもここ2、3年くらいだろうか、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件(念のため書くが中国人や日本人でも朝鮮人と思われ殺された人もいる)そのものの存在を抹殺する、あるいは「実際に朝鮮人らの暴動があった、自衛行動だ」と正当化する言説が保守業界で広がって来ていたのだ。都議や墨田区議でこの主張を熱心にしている人物がいて、元ネタにしてるのはだいたい共通してその手の主張をしたウヨク本だ。小池都知事は最側近がド右翼であり、在特会関係にも接点があるなど、かなりアブない気配を感じてはいたが、今度の一件で都知事自身がその意図を明確に持ってることを確信した。ネット上の知人は「この手の話は石原が底だと思ってたが、底が抜けた」と評していたっけ。

 すでに20年も前になるが、「自由主義史観」だの「新しい歴史教科書をつくる会」だのが盛んに出てきたころは、この虐殺事件については否定はできないとみて、その時に日本人暴徒たちから朝鮮人らを保護した警察署長の話を「美談」として紹介していたものだが(その人のお孫さんは「祖父は職務上当然のことをしたまで」と語っている)、近頃は当時のデマをそのまんま主張する、あるいは事件自体をなかったことにする、という完全な捏造レベルにまで落ちてしたんだなぁ、と思いもした。ここ最近ネット上でみかけたその手の人たちの言説を眺めていると、「日本人がそんな虐殺をするはずがない」と主張してるくせに当人の発言が「そういうことをする気まんまん」という、自分でその矛盾に全く気付いてない人たちを結構見てしまった。幸い実際に類似の事件は起きなかったとはいえ、東日本大震災や熊本地震など、大規模災害が起きるたびに、明らかに「虐殺」をあおるようなデマが飛び交うし、一部にはそれを本気にして「自衛行動」をしようと現地入りしたような連中もいる。決して「大正時代なんて昔の話だから」とは言えない問題なんだよね。
 ネット上ではそうしたネトウヨ主張に対する反論証拠として内閣府の例の報告書がしばしば紹介、引用された。これが当初の通りに削除されていたら…と思うと結構怖い。もちろんそれ以外の証拠を紹介するサイトはいくらでもあるけど政府機関が公表してると重みがやはり違う。「歴史家に任せる」などと都知事は言ったが、とっくに歴史家の史実検証は済んでる話で、それをウヤムヤにしてごまかし、「見えなくしてしまう」という態度は、冒頭に挙げた中国政府のやってることと変わりがないと思う。「歴史家」とまでは自称しないが、歴史やってる者としてはこういうの、ホント腹が立つんだよな。
 

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