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2017年12月19日

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◆ここであったが百年目

 この記事、当初は11月末辺りに航海する予定で書いてたものなんだけど、時節柄とこちらの気分(汗)でなんとなくズルズルと完成が遅れてしまい、いささか季節外れになってしまっている点、ご了解ください。

 3年前の2014年は第一次世界大戦勃発からちょうど百周年だった。それ以前の、2002年の「日英同盟百周年」、2004年の「日露戦争百周年」あたりから意識していたのだが、こうした百年前の歴史上の事件を現在の時間に置き換えてその時間的感覚を肌であじわってみる、という遊びを僕はやっている。2010年には「韓国併合百周年」があり、2011年には「辛亥革命百周年」、そして2014年には「第一次世界大戦勃発百周年」を迎えた。百年前に生きた人々は、これら世界史的大事件をこのくらいのスパンでとらえていたのかなぁ、などと妄想するわけだ。

 そして今年2017年は、「ロシア革命」から百周年となる。第一次世界大戦長期化ですっかり疲弊したロシア帝国で革命が勃発、この「二月革命」で帝政が廃止されて臨時政府が成立するも、その年のの「十月革命」によりレーニンらのボリシェヴィキが政権を掌握、世界史上初の「社会主義政権」となってやがて「ソビエト連邦」のっ区立へとつながることとなった。なおここでいう「二月」「十月」は当時ロシアで使われていたユリウス暦、日本で言えば「旧暦」にもとづく命名で、「十月革命」が終結したユリウス暦「10月25日」は革命後に使用されたグレゴリオ暦では「11月7日」となり、これがソ連にとっての建国記念日にあたる「革命記念日」と定められた。

 そんな歴史的大事件から百周年なんだから、もう少し話題にのぼってもいいのではないかと思っていたのだが、当のロシアでもそれほど話題になってる様子がない。考えてみればソビエト連邦が1991年に崩壊してすでに四半世紀が過ぎ、百周年を盛大に祝おうという主体自体が存在しない。現在のプーチン政権は大統領本人がKGB出身だということもあって、その強権的姿勢がなんとなくソ連的とは言われるものの一応ソ連を否定した流れの上に乗ってるわけで、ロシア革命百周年を称揚するわけにもいくまい。新聞の記事で見たが、実際政府レベルで何か「ロシア革命百周年」を祝うようなイベントはなかったようだ。

 「革命記念日」にあたる11月7日に首都モスクワ市主催の軍事パレードというのは行われている。市が主催する軍事パレードというのも面白いが、これは2003年から始められたもので、特にロシア革命を記念したものではなくスターリンが「革命24周年記念」で始めた軍事パレードを再現した、ということにされてるそうな。今年行われた軍事パレードの際もモスクワ市長はロシア革命に一言も触れなかったとか。しかしロシア革命よりもスターリン賛美の方がアブない気もするんだが、ロシアでは今でもスターリン評価が結構高いなんて話も聞くからなぁ。
 「ロシア革命」には触れなかったものの、ロシア革命直後の内戦に触れる「寸劇」は上演されたという。ただ、これも革命百周年とは関係なく、「モスクワを守った人々」をテーマにナポレオン戦争から第二次大戦までの様々なシーンを並べたものだったという。ロシア革命の扱いは当事国としてはいろいろ面倒なのではあろうが、ここまで触れずさわらずという状態には寂しさも感じてしまう。
 ロシア革命、モスクワ、といえば「レーニン廟」が思い起こされる。保存処理されたレーニンの遺体を安置しソ連の「聖地」であったこの場所、ソ連崩壊時に解体の話が出て、最近また蒸し返されたりしているのだが、とりあえず革命百周年の今年も通常どおり営業中。この11月に見学した人の記事を読んだが、レーニンの遺体は今年四月に着せられた新しいスーツを身にまとい、相変わらず生けるがごとく横たわっているそうで。「本人の意志に従って故郷に埋葬を」という声も相変わらずあるそうだが、ここまで保存が続いてると「もったいない」気がしちゃうのも確か。

 ロシアから革命記念日がらみの話題はないのか、と思ったら、AFP通信が面白い記事を報じていた。この11月7日に、ロシアの各地で半世紀も前に埋められた「タイムカプセル」が開封されたというのだ。半世紀前といえば1967年。そう、「ロシア革命五十周年」の年に当時のソ連で多くの「タイムカプセル」が「革命百周年」にあたる未来の「同志」たちに向けた手紙その他と共にしまいこまれていたのだ。
 当然ながら、当時のソ連の人々(恐らく子供が多い)にとって、百周年を待たずにソ連そのものが解体されてしまうなどとは予想もしていない(1991年末公開の「ゴジラVSキングギドラ」で未来人が「ソビエト」と口にしてたくらいで)。1967年といえば冷戦の真っ最中である意味ではソ連がアメリカに差をつけた部分もなくはない「最盛期」ともいえる時代なもので、五十年後にはよりいっそう輝かしい社会主義大国ソ連が発展しているに違いない、と考える内容の手紙が多く含まれていたという(まぁ「ソ連はもうないでしょう」なんて書いたら逮捕されちゃうよな)。特に宇宙開発でソ連が華々しかった時代ということで、「百周年のころには火星に行ってますか」という内容のものもあったという(残念ながらアメリカも果たせてない)。ついでながら、調べてみたらこの1967年はソ連のソユーズ1号が帰還時に失敗、宇宙開発史上初の死者が出てしまった年でもあるのだな。
 タイムカプセルにおさめられていた手紙の中には、「カラーテレビやビデオ電話をもつ君たちがうらやましい」という内容のものもあったそうで…インターネットやスマホの時代はそうした未来予測をはるかに越えちゃってるのだよな、と改めて思い知らされる。


 ロシア革命百周年の11月7日に先駆けた11月2日も、ある「歴史的事件」の百周年にあたっていた。当時のイギリスの外相アーサー=バルフォアが、いわゆる「バルフォア宣言」を表明してから百周年にあたっていたのだ。こうして並べてみると第一次大戦の推移とロシア革命、バルフォア宣言の「時間感覚」が百年後の僕らにも実感できるわけだ。
 第一次世界大戦で、イギリスは中東においてオスマン帝国と戦っていた。「アラビアのロレンス」で良く知られるようにアラブ民族にアラブ国家樹立を約束する「フサイン=マクマホン協定」を示してオスマン帝国への反乱をけしかけつつ、オスマン帝国崩壊後の中東の分割統治をフランス・ロシアと「サイクス=ピコ協定」で密約していた。そして資金面での戦争支援を得るためにユダヤ人たちに戦後のパレスチナにユダヤ人国家を樹立することを支持すると表明したのがこの「バルフォア宣言」で、バルフォア首相がユダヤ系財閥として著名なロスチャイルド家の当主にあてた書簡という形で表明された。これら三つの「約束」は「イギリスの三枚舌外交」などと呼ばれ、その後の今日まで続く中東の不安定状態の原因となったともされる。そうそう、このうち「サイクス・ピコ協定」はロシア革命で成立したボリシェヴィキ政権によって暴露されるんだよな。

 今年の11月2日、イギリスでは「バルフォア宣言百周年」を記念した夕食会が催され、イギリスのメイ首相、イスラエルのネタニヤフ首相、それからバルフォアの親族が出席した。席上、メイ首相はバルフォア宣言を「たぐいまれな国家を誕生させた、歴史上重要な所管の一つ」と高く評価し、ネタニヤフ首相も「バルフォア宣言と、それを記念することはイギリスを正しい側におく」とほめちぎっていたとのこと。一方でパレスチナ側から出ている「謝罪要求」についてメイ首相は「絶対にない」と拒絶の姿勢を示したという。
 まぁ今さら全否定してもしょうがない、ということはあるんだろうけど、絶賛しちゃうのもいかがなものかと。一応フォローのつもりなのか、ネタニヤフ首相に対して入植地を勝手にドンドン拡大させている件について「懸念」を伝えはしたそうだが。



◆不倒翁ついに倒される

 去る8月、僕の住む茨城県では県知事選挙が行われ、保守分裂状態の選挙戦となって結局自民党が推した新人・大井田和彦氏が勝利した。敗れた橋本昌氏は実に6選、24年にわたって茨城県に君臨(?)してきたのだが、さすがに7選は阻まれた。7選して任期全部やってたら28年も君臨を続けたことになってたのかと思うと、県民の一人としてさすがにゾッとする。いや、別に橋本さん個人については好きも嫌いもなく、それどころか「えーと、うちの県知事は誰だったっけ?」と地元の塾の地方自治の授業で口走ってしまうほど印象の薄い長期君臨者ではあった。前任者は収賄で逮捕されて辞任してるんで、茨城県の知事選は統一地方選とズレてるんだよな、という程度の知識しかなかったりして(笑)。
 その知事選のころ、ネット上で関連話題をぶらついていたら、橋本前知事の長期政権ぶりについて「イバラキスタン共和国」と揶揄する文章をみつけた。それをたどっていったら、カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンといった旧ソ連の中央アジア国家の長期政権指導者たちの顔写真と橋本前知事の顔写真が並べられ、ほとんど見分けがつかないほど似てる、という事実が示されていて爆笑してしまった。「イバラキスタン」という命名といい、よく気がついたものだ。

 …と、以上は本題ではなく「まくら」。こんなイバラキスタンなどメじゃない独裁長期政権を続けていたアフリカはジンバブエの不倒翁、ロバート=ムガベがついに大統領の地位から降りた。正確に言えば引きずり降ろされた。大統領になってから30年、その前の首相時代も含めると実に37年間もジンバブエに君臨、今年で92歳という、歴史上の独裁者の中でも異例の高齢まで政権の座にあったところがスゴイ。調べてみたらこのお年で2013、2015、2016年と連年のように来日していて、外交面でも元気、現役バリバリだったのだなと思い知らされた。

 ジンバブエという国は、もともとイギリスの植民地「南ローデシア」だった。ムガベ元大統領はその南ローデシアに1924年に生まれ、アフリカ各地で高等教育を受けて育ち、アフリカの指導者の中では最高の学識者という評価もあるらしい。1960年代に故国に帰ると当時アフリカ各国で持ち上がっていた独立運動に参加、当時のお約束で社会主義思想に傾倒して中国との結びつきが早くからできていた。
 ジンバブエ国家成立にいたる過程は複雑なので省略するが、紆余曲折の末に南ローデシアの白人政権も1970年代末にはアパルトヘイト的な政策を維持できなくなり、黒人勢力を含めた新国家「ジンバブエ」の建設が進められる。そして1980年の選挙でムガベ率いる政党「ジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)]が勝利し、ムガベはジンバブエ初代首相に就任する。1987年には制度改正で最高権力者となった大統領に自ら就任、以後6期連続で大統領選挙に勝って長期政権を続けることになる。7度目を前にしてダメになったところは「イバラキスタン」のケースとおんなじなんだな。

 ジンバブエという国がムチャクチャなことになってると広く知られるようになったのは21世紀に入ってから。経済が破綻し、世界的にもまれな「ハイパーインフレ」を引き起こし、通貨のジンバブエ・ドルといえば「〇億ドル札」「〇兆ドル札」といった信じられない額面の紙幣を発行していたことで世界の注目を集めてしまった。また、植民地時代から広大な農場をもつ白人たちから土地を強制接収する政策が「逆差別的」だと欧米諸国から批判されていたことも聞くに新しい。そうした政策を推進した責任者も当然ムガベ元大統領当人ということになるのだが、実はその長期政権の前半に関しては案外評価が高かったりする。
 白人の土地接収(GHQの「農地改革」も似たようなものとも思える)については首相になった当初から公約していたが実際には20年以上先送りにしていて、かつて武装闘争までやった人にしては白人勢力とそこそこ妥協していて、90年代までは「人種融和・共存政策のお手本」みたいに評価する声もあった。先述のように当人がアフリカきってのインテリとされるところもそうした姿勢の背景にあるのかもしれない。一方で資源目当てにコンゴ内戦に介入したり、自身の私腹を肥やしてはいたようだし、連続勝利を重ねた選挙にも不正疑惑がなかったわけでもない。そうした例は「開発独裁」ではおなじみのものなので、ほめる必要はないがムガベがそう際立って特異な「独裁者」であったというわけでもないと感じる。なんだかんだ言われながらも90歳を過ぎても打倒する動きが出なかったあたり、国民レベルはともかく政界や軍での支持はそれなりに得ていたのだろう。

 結局、この長期独裁者の命とりになったのは「後継者問題」だった。ま、これも古今東西よくあることですね。
 90歳を過ぎてもバリバリの現役政治家、気がついたら世界の国家元首でも最高齢という立場になっても、ムガベ大統領は後継者も決めず、自身の退任についても態度を示さなかった。それでもムガベの最古参の側近で有力な後継者と見なされていたのがナンバー2の第一副大統領の地位にあったエマーソン=ムナンカグワ氏だ。こちらもすでに75歳だが、これまで政権の要職を歴任し、実力的にも誰もが後継者として納得しそうな人物ではある。
 ところが近年になってムガベ大統領の41歳も年下の妻、グレース夫人がなんと後継者候補に急浮上。ムガベ大統領は最初の妻に先立たれていて、グレース夫人は大統領の秘書から二番目の妻として1996年にムガベ大統領と結婚した。なんでも彼女にはそれ以前に夫がいたのだが、大統領に妻を差し出した形の元夫はその見返りとして出世したと言われ、現在駐中国大使をつとめているとか。ムガベ政権と中国は関係が深く、その辺もこの人事に絡んでるようにも見える。

 で、この「古参側近」と「年下女房」の後継者争いは、ムガベ氏本人の意向で「年下女房」の方が優勢になり、去る11月6日にムナンカグワ氏は第一副大統領を解任されてしまう。危険を感じたムナンカグワ氏は国外へ一時逃亡、この急な解任劇に軍幹部が強い不満を抱き、11月15日についにクーデターが発生、ムガベ大統領を自宅軟禁下においた。それでも強引に辞任させるとか、いきなり殺しちゃうといった乱暴な展開にはならず、あくまで「話し合い」の状況が続き、ムガベ大統領はなかなか辞任を承知しなかった。あの歳で、この状況で、あれだけ粘るというのも凄い執念と思ったものだ。
 結局政権与党もムガベを見放し、議会も大統領を弾劾、という流れになってムガベ氏はついに大統領の座を降り、37年の長期政権も終わりを告げた。それでも彼を「建国の功労者」として丁重に遇する方針ではあるようで、在任中の問題について訴追したりはしないとの密約もあったとされ、まぁ総じてみれば穏便な形で引退に追い込んだクーデター劇となった。最後に奥さんを後継にしようとしたのがヒンシュクを買っただけで、ムガベさんもそう「独裁者」として嫌われたり恐れられたりしていたわけでもないんじゃないのかな、というのが今度の事態を眺めての感想だ。しばらくしてムガベ元大統領と長年の親交があり、今度のクーデター劇でも交渉に立ち会った神父によると、辞表に署名した直後のムガベ氏はうちひしがれるような様子はなく、むしろ「終わった」というような安堵のため息をついていたそうだ。

 帰国したムナンカグワ氏が暫定の同国第三代の大統領となり、その就任とムガベ辞任を祝う国民のはしゃぎぶりがテレビで映されていたが…そもそもムナンカグワ新大統領だってムガベ政権を中枢で支え続けた最側近なんだから、「これで万事うまくいくぜ!」とお祭り騒ぎしてる様子には、つい先日のクルドやカタルーニャの「独立」騒ぎの時の人々の姿が重なって見えてしまう。
 なお、今度の政変の直前に中国の軍人たちが同国を訪問していたり、ムナンカグワ氏が一時中国へ逃げたりしていたので、政変の影の主役は中国では、との見方も一部に出ている。もともと政権との関係は深かったので、中国としてはどっちでもよかったろうし、あまり積極的に介入する理由はないように思う。一方で今度のムガベ失脚により、イギリスの女王エリザベス2世が「最高齢国家元首」の地位を奪取した形になっていて、もしかして旧宗主国の陰謀だったり…するわきゃないか。



◆戦争と平和と罪と罰

 ロシア文学の香り漂うタイトルだが、とりあえずロシアとは何の関係もない。

 11月29日、オランダのハーグで開かれていた「旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷」で、内戦中の残虐行為により禁固20年の有罪判決を宣告されたスロボダン=プラリヤック被告(72)が、「プラリヤックは犯罪者ではない!判決を拒否する!」と怒りもあらわに叫んだ直後、隠し持っていた小瓶に入れていた青酸カリをその場で口に注ぎ込み、そのまま死亡してしまう、というショッキングな事件があった。テレビでも瓶を口にするその瞬間までの映像が映され、世界中が目撃することにもなった(さすがに倒れる瞬間は映像が切り替わっていた)。歴史上、有罪判決を受けた被告人が獄中自殺した例は多いが、裁判の法廷で衆人環視の中で自殺した例は聞いたことがなく、もしかするとこれが初めてなのかもしれない。身体検査くらいはすると思うので、毒物入り小瓶をどうやってもちこんだのか気になるところではある。

 さて、もはや「ユーゴスラビア」という国家がなくなって久しい。1990年代にこの多民族国家が崩壊し、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島の歴史をまたもなぞるような凄惨な民族紛争が勃発した。特にセルビア系、クロアチア系、ムスリム系が入り乱れるボスニア・ヘルツェゴビナの内戦は特に深刻で、ついこないだまで隣近所で仲良く暮らしていた人々が民族や宗教の違いで殺し合いを始めるという、世界各地で起きた民族紛争の中でも特に残酷な例となってしまった。
 今回有罪判決を受けて自殺したプラリヤック被告は、そのボスニアでクロアチア系武装組織の司令官をつとめていた。もともとテレビ番組のディレクターや演劇演出などを手掛けていた「文化人」だったが、ユーゴ内戦、クロアチア側に言わせると「独立戦争」が勃発すると自らクロアチア軍に志願、司令官的立場となって、その流れでボスニア・ヘルツェゴビナの内戦でも指揮をとった。この内戦の中で「民族浄化」などと呼ばれた様々な残虐行為がそれぞれの民族で行われたとされ、プラリヤックはその直接的な命令を出したかどうかはともかく、少なくとも「止められる立場にありながら止めなかった」ということがジュネーブ条約違反の容疑となったようだ。

 ユーゴスラビアは「南スラブ族」に分類される多くの民族が集まって構成された連邦国家だった。このバルカン半島の民族紛争が第一次世界大戦の引き金となったわけだが、第一次大戦終結後に「ユーゴスラビア王国」として一つにまとめられた。ところが第二次大戦時にも特にセルビア人とクロアチア人が激しい紛争を起こし、クロアチア人はナチス・ドイツと手を結ぶことまでした。第二次大戦後のユーゴスラビアはナチスへのパルチザン運動を指導したチトーにより建国されたが、実質的にセルビア中心の態勢になる。そして冷戦終結後のユーゴ内戦でまたぞろクロアチアとセルビアが激しくやりあった。
 当時、「西側」にいる僕らにはなんとなくセルビアを悪者視する報道が多く見られた覚えがあるのだが、それは宣伝工作の成果だったといわれ、実のところクロアチア側だって相当なものだった。名番組「映像の世紀」でこの時のクロアチアのTVで放送された「国家のために戦え!敵を倒せ!」と青年たちがダンスのように動き叫ぶCM(?)が紹介されていたが、これがなんとも「ナチス的」に見えるのは、クロアチアが過去につながりがあったからなのかな…なんてことを考えたこともある。
 急にそんな話を書いたのは、プラリヤック被告がもともとテレビ番組制作者・演劇演出者だったと言いて、そのナチスばりの宣伝映像がすぐに思い起こされたからだ。もちろんその映像を彼が作ったと言ってるわけではないが、どこかしら話がつながってる気がしたのだ。

 ユーゴ内戦、ボスニア内戦からすでに四半世紀が過ぎている。それでもまだその戦犯裁判が続いてたんだな、と驚いたものだが、プラリヤックが戦犯容疑をかけられ「自首」して出て起訴されたのは2004年のことだ。裁判自体は2006年に開始され、最初の判決が出たのは実に2013年。この時も「禁固20年」の判決を下されたが、プラリヤック被告はあくまで全面無罪を主張して控訴した。そしてつい先日にその控訴審判決が下り、彼はそうなったら実行しようと考えていた劇的な死に方をやってのけてしまった。その芝居がかった死に方には、もともと演出家だったからでは、という見方も一部では出ているようだ。なお、禁固20年といっても2004年からすでに13年も拘束されているので、確定してもそう長く獄中にいる必要はなかったはずだ。

 この判決、および劇的な服毒死を受けて、クロアチアでは当然というべきか、国を挙げて同情・追悼の声が起こっていた。クロアチア政府としてプラリヤック被告の遺族に哀悼の意を表し、プレンコヴィッチ首相はプラリヤック被告を含めたクロアチア人・クロアチア系ボスニア人の戦犯容疑被告に対する国際戦犯法廷の扱いが「道徳的に不公平」と非難し、多くの政党の党首たちも国際戦犯法廷が事実や証拠の認定を誤っていると表明した。一方でボスニアやセルビアの首脳たちは彼はやはり戦犯であり、その死をもって英雄視するようなことはあってはならないと発言していた。

 戦犯容疑をかけられての服毒自殺というと、日本では近衛文麿の例が思い起こされる。公爵家に生まれ国民人気を背景に若くして首相となったが、日中戦争を阻止できなかったどころか泥沼化に一役買ってしまい、結果的にはその後の太平洋戦争開戦の原因に一定の責任はあった政治家で、だからA級戦犯容疑もかけられたわけだが、「それには耐えられない」として青酸カリを仰いであの世に逃亡にてしまった。いろいろ弁明の言葉を残しているが、それを読んで昭和天皇も「自分に都合のいい話ばかりしている」と呆れたという逸話もあったりして…
 という、見事なつながり(?)で話が切り替わる。その昭和天皇の「独白録」の原本がアメリカでオークションにかけられ、あの「高須クリニック」の高須克弥院長が3000万円ほど(手数料込)で落札する、というニュースがあった。オークションに出たことにも「へぇ」と思ったものだが、落札したのがあの高須院長であったことには僕も驚かされた。と同時に、あの高須院長だけに、「この人、『独白録』がどういうものか、わかっているんだろうか?」という疑念も抱いた。高須院長、『独白録』を「日本の心」と呼んで愛国心にかられて落札に挑み、見事落札に成功した瞬間、昭和天皇の衣冠束帯姿の写真を手にし自撮り画像とともに「天皇陛下万歳!」とツイッターに書き込み(これ、どう見てもとっくに死んでる昭和天皇に「万歳」と言ってるように見えるんだが…)「『独白録』は国の宝」とか「皇室に返上する」といった発言を続けていたのだが、そうした発言や態度がなおさら僕の疑念を強くしてしまった。
 なにせこの『昭和天皇独白録』なるものは、敗戦直後に自身が戦犯訴追を受けないようにするために、昭和天皇とその周辺がGHQとも連動の上で作成した「弁明書」であることはすでにはっきりしているのだ。

 『昭和天皇独白録』は昭和天皇当人がこの世を去った翌年の1990年に雑誌「文芸春秋」に掲載され、大きな話題となった。経緯は知らないが、昭和天皇が世を去ったから公表されたものだろう。平成もそろそろ終わりという今になるとそうしたいきさつも知らないで、今度落札された『独白録』が門魏不出の新資料と勘違いする人がネトウヨさんたちを中心にかなりいたが、ワイドショーで宮根誠司さんまでが「何が書いてあるんでしょうね?」などとコメントしちゃっていたところを見ると近現代史に興味のない人はだいたいそんな感覚なのかもしれない。それどころかツイッターでは『独自録』なる誤字も大きな広がりを見せていた(笑)。昭和天皇の自筆と勘違いしてる人も少なからずいるようだし、高須院長の発言を見てると、どうもこの人自身何か勘違いしてるのでは、という気がしてくるのだ。

 この『独白録』のもととなった昭和天皇の「供述」が行われたのは1946年2月。前年末に皇族の梨本宮守正が戦犯容疑で逮捕されたことで昭和天皇が自身も訴追されるのかと懸念し、太平洋戦争にいたる自身の立場を明らかにする必要から作成したとされる。のちにGHQに送った英訳版が発見されていることから「弁明書」の性格をもつものであることは明らかたし、GHQ=アメリカ政府側も冷戦をにらんだ日本統治のために天皇免責の方針だったから、実質これはGHQとの共同作業みたいなものだったと思う。それだけにこの『独白録』の内容をそのまんま事実ととるのはやや危険。それこそ昭和天皇が近衛文麿の遺書について口にしていたように、都合のわるいことは話してない可能性が高いからだ。
 このときの昭和天皇の「独白」は詳細なメモがとられたようだが、そのメモは未発見。『独白録』と呼ばれるものは外務省出身で当時昭和天皇のそばで通訳をつとめていた寺崎英成がメモに基づいて口語で(メモは文語だったらしい)書き起こしたものだ。この寺崎英成という人物はアメリカ人女性と結婚してマリコという娘がおり、のちにこの一家の話がノンフィクションとして出版され、NHKでドラマ化されて滝田栄が寺崎役を演じることになったりする、そこそこ有名な人だ。『独白録』はこの寺崎によって読みやすく書き起こされたものであり、昭和天皇の直筆などではもちろんなく、昭和天皇の発言を聞き取って寺崎が文字化したものであって、しかも同じ「独白」に基づく他の資料と部分的に異なる点もあったりして、「日本の心」だの「国の宝」だの、ましてや「天皇陛下万歳」「皇室に返上」だのと騒ぐのはかなり「お門違い」と事情を知るにつけ思う。またこの『独白録』がアメリカにあってあちらでオークションにかけられたことに「流出」「文化財略奪」みたいな憤慨を書いてる人も見かけたが、これも寺崎が作成直後に家族と共にアメリカに戻り、まもなく死去したため遺族がそのまま持っていた、という事情であるにすぎない。

 もちろん、この『独白録』原本の価値はそれなりにある。内容はすでに出版もされているとはいえ、寺崎本人の手で清書されたものという点で歴史的価値はある。その内容についても、公開時点ですでに知られてることが多かったり、もともと弁明書なので割り引いて読む必要があることなどといったところはあるが、昭和天皇もやはり人の子、当時の情勢や政治家・軍人たちに対する当人の率直な認識・評価はだいたい本音が漏れたものと読めるし、秩父宮高松宮といった弟たちに対する微妙な感情、とくに秩父宮に対する警戒心のようなものまでにおわせてりるところなど、面白い史料には違いない。ただ同時代の研究者たちの間では『木戸幸一日記』などよりは価値が落ちるというのが一般的評価のようだ。
 今回の落札価格にしても、高須院長は手数料こみ3000万延を「「リーズナブル」と言ってのけていたが、そもそも当初の予想落札価格はその半額程度だったと言われていて、高須さんがいきなりふっかけてあっさり落札しただけなんじゃ…という気もしている。

 だいたい高須院長といえば、最近「南京虐殺」「ホロコースト」を否定し、ヒトラーとナチスの礼賛までやっちゃって物議をかもした人である。こうした歴史ネトウヨネタだけでなく、アポロ月面着陸はでっちあげと主張する「アポロ陰謀論」にもコミットしており(陰謀論好きの割にフリーメイソン会員というところが面白い)、いろいろな意味で判断能力に疑問のある人としか僕には思えない(昔からそうだったとのかもしれないが、最近になって「ネットで真実」パターンになったんじゃないかという気がしてる)。しかも自己顕示の強い異様なまでのハイテンションぶりは今回の落札でも発揮されていて、それもあって僕は「勘違い」の可能性を強く感じてしまっている。現物を入手してから「新事実判明!」と騒ぎだすとか、逆に史料そのものの改竄に手を出すとか、「ダマされた」と言い出すとか、おかしなことを始めやしないかと危惧…というよりちょっと楽しみにしている(爆)。皇室だってそんなの「返上」されても困るだろうし、原本はとりあえず国会図書館とか憲政記念館とかに納めるのがいいんじゃないのかな。
 



◆いよっ!大統領っ!の一年

 年末になってしまった。毎度のことながら「もうかよ」と思ってしまう。そう思いつつも一年間に起きたことを振り返る、たとえば「史点」を読み返す(笑)といったことをしてみると「ああ、今年もいろいろあったな、結構長かったような」という気になるものだが、今年はその「史点」自体が少ないせいか(笑)いっそう短く感じられてしまった。
 そりゃまぁ今年一年いろいろあったのは確かなんだけど、なんだかんだ言って今年は「トランプ・イヤー」になってしまうのではないか。一年の世界的な出来事をあれこれ思い返すとどこにでもあのドナルド=トランプ大統領の「赤鬼」のような顔が脳裏に浮かぶ、その繰り返しの一年のような気がして余計に短く感じられてしまうのだ。

 この時期は毎年「史点」がとどこおりがちで、昨年もアメリカ大統領選挙の結果が出てからだいぶ遅れた12月にトランプ当選の話題を「史点」で書いている。あれからちょうど一年になるのか…当選直後からえらいことになったとみんな思ったものだが、予想どおりというか予想以上というか、トランプさんは世界をいろいろとひっかきまわし続けてくれた。

 トランプ大統領の就任式が行われたのは1月20日のことだった。すでに前年の選挙中から「メキシコとの国境に壁建設」だの「特定の国の移民制限」だのを主張して内外から批判と、一部の称賛を浴びていたトランプ氏の就任式だけに、参列者の数は少なく、反対デモもかなり目立った。しかしトランプ大統領はこの人数についてツイッターで反論、有力メディアことにCNNを「フェイクニュース」呼ばわりし、この手の「ツイッター罵倒」はこの一年間延々と繰り返されることとなる。
 大統領に就任した直後に実行した公約が、「環太平洋経済連携協定(TPP)からの離脱」だった。アメリカ抜きじゃ意味がないよ、と特に日本の政府や財界が今もアメリカが考え直して復帰してくれると望み続けているんだが、トランプ在任中は無理だろうな。

 このアメリカのTPP離脱については賛否両論あるんだけど、少なくとも一点に関して、僕は「よかった」と思っている。それは「著作権保護期間延長」の問題だ。日本では現在著作者の没後50年まで著作権保護が行われるがTPP実現後はアメリカに合わせて「没後70年」に延長されることが確定していたのだ。こんなの長くしてもいいことはない、というのが僕の持論で、幸いなことにアメリカの離脱によりこの件はアメリカ抜きのTPP協議でもとりあえず現状維持の方向になっている。ま、この点はトランプ氏に感謝しなきゃいけないかも。

 そして1月25日にはシリアなど中東・アフリカの7カ国からのアメリカ入国を制限する大統領令に署名。おかげで空港は混乱、ハリウッドやIT業界は猛反発、裁判所の判断で執行差し止めになったり、いろいろと騒動が続くことになるのだが、結局年末になって最高裁が一部の国については認める判断を下してしまっている。
 
 4月にはシリアのアサド政権が化学兵器を使用したとして、いきなりミサイル攻撃をかけたりした。ちょうどそのころから今年のお騒がせのもう一方の雄である北朝鮮の金正恩委員長とのお互い言葉のきたない挑発・罵倒の応酬が繰り返されるようになり、シリアにした調子でいきなり北朝鮮攻撃とかするんじゃないか、という見方も流れた。これも一応12月19日の現時点までは実行せずにいるけどねぇ…さすがにシリアに対するよりは攻撃の引き金が重いらしい。
 また北朝鮮への影響力をアテにしてなのだろうが、トランプさん、中国の習近平国家主席を持ち上げる発言がめにつく。アジア歴訪の中で中国を訪問した際にも中国側は紫禁城を貸し切りにしてえらいもてなしようだったし、トランプ大統領もアメリカ大統領が恒例で口にする「中国の人権問題」を一切口にせず、中国メディアの称賛を浴びてしまっていた。ま、天安門事件の直後に中国政府寄りでは、と批判を浴びる発言もしたことがあるそうだし、トランプさんのアメリカ国内での人種問題関連の発言を見ても人権問題なんて関心なさそうではある。このとき中国で万引きで捕まっていたアメリカ人たちを解放させたのは自分の手柄、と発言して、その一人の父親が「感謝の必要はない」と言ったら、えらい剣幕でツイッターで罵倒していたものだが、この人、ホント、細かいところでいちいち人に噛みつくんだよな。アメリカではもともとそういうキャラだと知れ渡ってるんだろうけど、大統領の「品格」ってやつが…などと、どこぞの大相撲の話題を連想してしまったりして。

 6月には「やはり」と思ったものの、地球温暖化防止のための「パリ協定」からの離脱を表明。ブッシュ・ジュニア大統領も京都議定書離脱をやってるから、これはトランプさん個人というより、共和党政権の傾向なんだろうな。ただトランプさん、それ以外でも国内での国定公園について資源開発優先のために指定の見直しを検討するなどしてるから、そもそも環境問題にも関心が薄そうだ。
 8月にはバージニア州シャーロッツビルで白人至上主義団体と反対派が衝突、反対派に死者が出る事態となったが、トランプ大統領が「どっちもどっち」といったツイートをかましたことで騒ぎが拡大。事件の発端となった南北戦争の南軍関係者銅像があちこちで撤去される事態にもなったし、オバマ前大統領が事件に関して人種・宗教間の理解・共存を訴えるツイートがツイッター史上最多の320万の「いいね!」を獲得するおまけもついた。トランプさん、オバマさんのやったことをことごとくひっくり返そうとしているのは明らかなんだけど、結果的にオバマさんの評価がどんどん上がっていくことになっちゃてるような。

 トランプ政権は人事面でも話題や騒動が尽きなかった。閣僚ポストですったもんだがあり、全員が議会で承認されたのはようやく4月末のこと。その閣僚のうち厚生長官がすでに辞任・交代していて、現時点で外交担当の国務長官の近日中の更迭がほぼ確実と奉じられている(当人や政権は否定してるけど)。このほかにも報道官や、大統領側近であるはずの補佐官が次々と辞任していて、僕もそこそこの年齢になるけど、これほど辞任の多い政権というのはアメリカはもちろん、それ以外でもほとんど記憶にない。
 トランプさんがクビにしたポストの中にはFBI長官もあった。政権はもちろん否定しているが、CNNなどトランプさんに目のカタキにされてるマスコミは「ロシアンゲート捜査への妨害では」と騒ぎ立てた。いまさら説明の要もないだろうが、「ロシアンゲート」とは、2016年の大統領選挙に際して、ロシアのプーチン政権が一部の激戦州の選挙にひそかに介入、これにはトランプ陣営もロシアと連携し主体的に関わっていて、トランプ当選の結果をもたらしたのでは、という疑惑だ。一部の激戦州の票をそんなにうまく操作できるのか疑問も感じるんだけど、選挙中にトランプ陣営の幹部クラスがロシア大使館関係者と接触を持っていた事実までは確認されていて、「何もなかった」わけではなさそう、というのが現段階。「ロシアンゲート」という名前もニクソン大統領を辞任に追い込んだ「ウォーターゲート」にひっかけたものだが、果たしてトランプ弾劾。辞任まで追い込めるのかどうか。今年一年のあれこれの騒動を見ていると、アメリカでも幅広く「トランプおろし」が起きそうな感じはあるんだけどな。
 トランプ大統領の支持率も低迷を続けていて、11月には戦後最低となる31%なんて数字もたたき出している。もっともこの30%台が「底値」のようで、そっから下は何があろうとトランプ支持、という固い層になるらしい。またトランプ政権になって株価が上昇、大型減税も実行が決まるなど、経済政策面では支持されそうなところはある。北朝鮮との院長状態が支持率を上向きにしてるという話もあるし、それにからめて日本や韓国に高い兵器をどんどん売りつける話も実際に進んでいる。兵器と言えば、トランプさんが核攻撃を命じた場合でも「違法であれば拒否する」なんて軍司令官が発言するという異例のこともあったっけ。

 とまぁ、振り返ればたった一年でこれだけ話題や騒動をふりまき続けたトランプさんだが、年末になってまた盛大な花火を一発ブチあげてしまった。12月6日、トランプ大統領は「エルサレムはイスラエルの首都である」と正式に認定、現在テルアビブにあるアメリカ大使館をエルサレムへ移転させるよう指示を出した。かねてからトランプさんが公約に掲げていたものなのだが、さすがに先送りかな…と思われていたやつを、この年末に唐突にブチこんできたのである。
 このエルサレム首都問題は以前にも書いたはずなので詳細は省くが、実はトランプさん個人が急に言い出したわけではなく、1990年代にユダヤ・ロビーの影響を受けたアメリカ連邦議会が一度決議しちゃったもので、その付帯条項として「状況により判断する」とあるのを根拠に歴代大統領は首都認定を先送りにしてきた経緯がある。これは共和党政権でも民主党政権でも同じで、それだけ「ヤバい案件」であったためだ。

 現在のイスラエルが第二次大戦後の「パレスチナ分割」により誕生したが、その後の度重なる戦争でイスラエルは古代イスラエルの都であった聖地エルサレムを占領、ここを自国の首都と定めた。しかしエルサレムはイスラム教徒にとっても聖地であり、パレスチナ自治政府は将来のパレスチナ国家の首都とする意向を変えてはいない。イスラエル・パレスチナの一応の共存は実現してるのだが、エルサレムをめぐってはこれまでにも多くの挑発行動や衝突が繰り返されてきた。アメリカがイスラエル寄りすぎるのは周知のことだが、それでもこの件でイスラエルに肩入れしてしまうとさすがにマズイ、という判断が歴代大統領により下されてきたわけなんだけど、トランプさん、「先送りにしても状況は改善しなかったじゃないか」という理屈で突破してしまった。
 
 トランプ大統領のこの決定を、当然ながらイスラエルのネタニヤフ首相は「勇気ある決断」と大賞賛。アメリカ国内のユダヤ・ロビー団体も新聞に一面広告を出してトランプ決断を称賛していたが、一方でパレスチナとの共存を主張するユダヤ人団体は反対デモをやったという。同様のことはイスラエル国内でも起こったのだろう。
 パレスチナはもちろんアラブ諸国、イスラム教多数派国家などは当然みんな猛反発。ヨーロッパでも有力国はみな首脳みずから反対表明を出していて、上の「百年目」の記事で触れたようにバルフォア宣言とイスラエル建国を称賛したイギリスのメイ首相ですら強く反対を表明した。グテーレス国連事務総長も反対を表明していて、安保理では撤回を求める決議案が出され、さすがに子分国・日本(議長国でもある)も含めた14国が賛成したが(安保理が15カ国構成なのはご存知ですね?)、案の定アメリカが拒否権を発動して潰しているイスラエルがらみではすでにユネスコも脱退してるし、トランプさん、あの調子だと国連脱退まで言い出しかねない気もする。
 トランプさん、世界のほとんどを敵に回したようにしか見えないんだけどなぁ。これでますますアメリカが敵視されてテロの標的になる…から、入国規制だ!という話にますますなってしまうのだろう。トランプさん、わざと波風を起こしてるようにも見えちゃうんだよな。
 エルサレム承認騒動の直後には、「火星有人探査へのステップとして月面有人着陸計画を推進する」と発表、これについてはNASAはもちろん、宇宙開発ネタ好きの僕も胸躍るものはあった。この指示文書の署名式には1972年にアポロ17号で月面に着陸したハリソン=シュミット氏も同席(そもそも彼が月に降りた12月12日にこの署名式が行われた)、トランプ大統領は「彼を(月に降りた)最後の一人にしないと誓う。月以外の着陸もやる」と明言した。ま、どこぞの国みたいに国民を飢えさせてでも核兵器やミサイルを開発するより何百倍もマシな政策ではあるのだが、カネはかかるよね…だから1972年以来途絶えていたわけで。
 とにかくこのたった一年目でこれだけの大騒動になったお方である。来年一年はどうなることやら。いや、まだ今年も二週間近くあるから油断できない。


 話題は変わるが、「大統領」の話題として、黙殺するには惜しいものがあったので、この末尾にくっつけておこう。
 サアカシュビリ、という名前を聞いてどこの大統領をやってた人だか分かる人はなかなかの国際情報通。僕ですら忘れてしまってましたから(笑)。旧ソ連構成国の一つであったジョージア(旧名グルジア)の大統領をつとめ、反ロシアの姿勢で南オセチア紛争などでロシアと全面対決していた人物だ。「史点」でも過去にちょこちょこ名前を書いていたのだが、そういえばここしばらく登場させてなくて、僕もすっかり忘れてしまっていた次第。振り返ってみたら2010年まではその名を書いていたのだが、その後「史点」更新ペースが落ちたこともあってぷっつりを後を追う機会を逸してしまっていた。その間の2013年にサアカシュビリは大統領選挙に敗北、さらには在職中の汚職やら何やらを追及されてウクライナに亡命していたのだった。

 ウクライナでは同じく反ロシア姿勢のポロシェンコ大統領と意気投合してその顧問となり、ウクライナ国籍を取得、さらにはロシア系住民が多いオデッサ州知事にもなった(「戦艦ポチョムキン」で有名なところですね)。州知事辞任後もポロシェンコ大統領の顧問を続けていたが、近年は方針をめぐって関係が悪化、サアカシュビリ氏はすっかり「反ポロシェンコ」の姿勢を鮮明にして政府打倒の扇動活動までやり始めたため、ポロシェンコ政権は彼のウクライナ国籍を剥奪してしまった。
 文字通りの「無国籍状態」となってしまったサアカシュビリ氏だが支持者もそれなりに多くいるようでウクライナ国内に滞在し続け、12月5日には首都キエフの自宅の屋上から「ポロシェンコは泥棒、裏切り者だ!」とアジ演説をして反ポロシェンコ蜂起を呼びかけた。彼は速攻で逮捕されてしまったが、その護送車を支持者たちが襲撃(!)して力づくでサアカシュビリ氏を解放してしまったとのこと。その後逮捕されたという話は報じられていないが、身柄を拘束されないまま起訴はされたらしい。

 なんともはや、大統領辞任後も波瀾万丈の人生を送っておられるサアカシュビリ氏だが、ウクライナの最高検察庁によると、2014年に失脚してロシアに亡命したヤヌコヴィッチ元大統領のグループから資金援助を受けている疑いがある、とのことで、これが事実とするとサアカシュビリさん、実は反ロシアでもなんでもないという可能性も出てくる。もちろんポロシェンコ政権側がそう思わせるためにわざと流してるデマの可能性も十分あるんだけど、旧ソ連諸国、ことに黒海沿岸地域の政界模様もなかなか複雑怪奇である。


2017/12/19の記事

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