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2018年2月19日

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◆今週の記事

◆新年快楽!

 みなさま、あけましておめでとうございます。今年も「ニュースの史点」をよろしくお願いいたしますです。
 …などと、2月も半ばを過ぎた今頃になって挨拶するかとお思いでしょうが、旧暦で言えば今が「お正月」なんでありますね。中国・韓国・ベトナムなどでは太陰暦にもとづく「旧正月」のほうが「春節」として今なお「本当のお正月」扱いで祝われているわけで。今年の春節、旧暦の元旦は2月16日にあたり、僕がときおりのぞいてる中国のサイトでは「新年快楽(あけましておめでとう)!」という書き込みが乱舞していたものだ。だから僕も「まだお正月」ということで挨拶して二か月も更新が遅れたことをごまかそうとしている次第でありまして(笑)。
 なお、日本では2月11日が「建国記念の日」として祝日になっているが、これは伝説上の初代天皇・神武天皇が即位した日を太陽暦に換算してあれこれ考慮した上で明治時代に「紀元節」として設定されたものがもとになっている。中国・韓国の「春節」と時期が近いのは当然で、実はこれ、『日本書紀』ではその年の元旦(もちろん太陰暦)に即位したことになっているから当然のことなのだ。2月11日なんて半端な日に設定してること自体がむしろ伝承を軽んじてることになるんじゃないのかなぁ、と僕などは思うのだが、「2月11日に神武天皇が即位して建国した」と大真面目に言い出す国会議員なんかもいたりするから不思議。
 さらに連想ばなしを続けると、来年は4月と5月で天皇の交代があり、そのため「天皇誕生日」が消滅するという初の事態が起こる予定なのだが、現皇太子・徳仁親王の誕生日が2月23日で、再来年からこれが「天皇誕生日」になって2月の休みが増えることになる。

 さて春節ということで中国では日本の帰省ラッシュなんてメじゃない「民族移動」と呼ばれるほどの大移動が起こったり、爆竹・花火で死傷者が出たり、大気汚染防止のためにそれらが禁じられたりといった毎年恒例のニュースが伝えられているのだが、そうした春節関連ニュースの中で僕の目をひく話題がCNNサイトで報じられていた。中国が絡んだ話ではあるのだが、舞台は中国系の華人も多く住むマレーシアからの話題である。

 ご存知のように今年の干支(えと)は戌=イヌ。年賀状に犬のイラストを描いた人も多いだろう。マレーシア華人社会でも犬をデザインした飾り物などが飾られ、売られる風景が見られるのだそうだが、どうも今年は様子が違うらしい。同国の多数派であるマレー系イスラム教徒に配慮しなさい、ということで、こうした犬の飾り物を屋外に並べることが事実上禁じられる事態になっているというのだ。記事を読む限りでは政府など公的機関のお達しが出ているわけではなく、なんとなく圧力があっての自粛、って雰囲気なんだけど、これまで比較的寛容とされてきたマレーシアのイスラム教徒たちの中で保守派の勢いがましているのでは、と危惧する記事になっていた。
 「あれ、イスラムって犬もダメなんだっけ?」とお思いの人もいるだろうが、一応イスラムでは犬も「不浄な動物」とされていて、好まれはしない。イラク戦争の際にアメリカ軍兵士たちがイラク軍捕虜たちに犬をけしかけてる写真が出て、世界のイスラム教徒が大いに憤ったことがあり、僕はその時にイスラムにおける犬忌避を知った。
 よく知られているように豚にいたってはなおさらで、そのため十二支の最後の亥(い)年の飾り物もやっぱり忌避される(日本では「イノシシ」とするが中国では「ブタ」の意味に使う。まぁ動物学的にはおんなじものだけど)。今年のはじめにマレーシアの大手スーパーで売られた十二支Tシャツのうち、「戌」と「亥」だけは外されて一部で反発を呼んだという話もあったそうで、今年より来年の方が締め付けがきつくなるんじゃないかと思われる。

 CNNサイトの同記事では、最近マレーシアではビール祭りが中止になったり、外国人歌手の衣装にケチがついたり、キリスト教の教会で十字架を建てさせないといった他宗教への締め付けの一方で、それまでに比べて女性がスカーフをかぶる(イスラム圏では定番)光景もよく目にするようになったり、犬に触るなと学校で子供に教えたりといった「イスラム保守」な空気が強くなっていることがまとめられていた。どうしてそうなるのかについては、サウジアラビアなど保守色の強い国へ出稼ぎに出る人が多く、それで影響を受けるようになったのでは、ということが書かれていたが、それだけなのかどうか。現政権が今年行われる総選挙に向けてイスラム保守派と結びついて保守色を強くしている、との見方も出ている。
 マレーシアは一応「国教」をイスラム教に定めている国で一部にイスラム法が使われてもいるが、中国系、インド系(ヒンドゥー教徒)も入り混じる多様性のある国でもあって、その中でマレー人優遇政策があるためこれまでにも議論になってきた経緯がある。変に排他的な宗教態度をとりはじめるとそのあたりの対立に火をつけちゃわないかと心配ではある。


 犬といえば、ということで中国と同じく「春節」を正月として祝う韓国の話題も。
 韓国はただいま平昌オリンピックを開催中で、北朝鮮が急に対話姿勢になって五輪参加、金正恩委員長の妹・金与正さんまで韓国入り(北朝鮮「王族」では史上初の韓国入りである)、そして例の「美女応援団」、金正恩・トランプのそっくりさん登場などなど、いろいろ世界の注目を集めている。日本のメディアは始まるまではいろいろと「大丈夫か」とくさすような報道がチラホラあったが、開催されちゃうと五輪報道一色になっちゃうのも毎度の光景かな。
 そんな日本メディアの中で韓国くさしネタをよく飛ばしている産経新聞が、欧米メディアが韓国の犬食文化を批判的に報じていることを奉じていた。韓国では伝統的に犬肉を食べる文化があるが、ソウル五輪の際にも欧米から叩かれて表に出にくくなったとは聞いていたが、欧米メディアの一部では韓国で五輪というので、またこの件を引っ張り出したらしい。さすがに最近の韓国では若い人は抵抗が強く、年配者を中心に犬肉文化が細々と…と聞いているのだが、さすがの産経もこの件では欧米メディアの半分のっかりつつも一応韓国人の反論も載せる両論併記。日本だってクジラやイルカの件ではおんなじ目にあってるもんな。

 なお、わたくし「徹夜城」は戌年生まれで今年「年男」である。スマホを使ってるソフトバンクの「犬のお父さん」から年賀状が来たのにはビックリしたなぁ(笑)。ということで、遅ればせながら今年もよろしく!



◆マケドニアには負けどにあ

 実は昨年末に持ち上がった話題なんだけど、1月からまた話題がぶり返す事態となったので、これ幸いと今回とりあげてみた。

 「マケドニア」と聞けば「アレクサンドロス大王」の名が連想される。マケドニア王国は古代ギリシャの北方にあった王国で、住民はギリシャ系であったとされるがギリシャ人たちからは「バルバロイ」すなわち「聞き苦しい言葉を話す者」という意味の言葉で呼ばれる「蛮族」扱いだった。どこの文明でも見られる現象だが、たいていこうした「蛮族」扱いされた周辺民族が「文明」地域を征服、その文化を吸収、同化していってしまう。マケドニアもアレクサンドロスの父フィリッポス2世の時にギリシャをほぼ征服、一方でギリシャ文化を積極的に学ぼうと大学者アリストテレスを息子の家庭教師につけたりしている。
 その後マケドニア王国はアレクサンドロスの東方遠征により一時的に大帝国に発展したが、アレクサンドロス死後に分裂、アンティゴニス朝が本来のマケドニア王国を引き継ぐことになったが、前2世紀半ばにローマに滅ぼされ、その属州となって独立したマケドニアの歴史は終わることになる。

 その後時代は流れて、7世紀以降にこの地には南スラブ系の人々が住み着くようになった。さらに時が流れてマケドニアを含めたバルカン半島全体はオスマン帝国の支配下にはいり、近代に入ってオスマン帝国が衰退するとマケドニアの地はギリシャ・ブルガリア・セルビアの争奪戦の地となる。第一次大戦が終わると「マケドニア」はセルビアとギリシャに分割され、セルビア領側は建国された「ユーゴスラヴィア」の一部になる。その後第二次世界大戦で枢軸国側についたブルガリアに一時占領されたりもしたが、戦後の社会主義国「ユーゴスラヴィア連邦」を構成する一国「マケドニア共和国」となった。
 そして冷戦終結後にユーゴスラヴィア連邦が解体されてゆくなか、1991年にマケドニアは独立を宣言。めでたく独立国となったのだが、国旗に「ヴェルギナの星」という、古代マケドニア時代に使用された紋章をあしらってしまったことが内外の批判を呼んだ。国内ではマケドニア人以外にアルバニア系住民がいて、「この国旗ではマケドニアだけを強調しすぎる」と反発、そして国外、ことにギリシャからは「お前ら、あとから来たスラヴ系だろ、古代マケドニアの継承者はうちだ!」と反発があった。このためマケドニア側も折れて国旗デザインを改め赤字に黄色の太陽をあしらったものに変更している。

 しかし、ギリシャのマケドニアへの反発は国旗だけにとどまらなかった。そもそも「マケドニア」という国名を名乗ること自体がけしからん、と言っているのだ。このためマケドニアは国連加盟を果たしたものの、暫定的に「マケドニア旧ユーゴスラヴィア共和国」という長ったらしい名前にさせられている。
 「マケドニア」と名乗ることすら許さん、というギリシャの態度は、傍から見るとイチャモンのようにも見えるのだが、上記のように「マケドニア」と呼ばれる地域は現在のギリシャ北部にもあり、過去にはブルガリアも交えて争奪戦をやった歴史がある。さらにはマケドニア共和国が憲法に「国外のマケドニア人にも関心をもつ」といった文言を置いたことから、「周辺の『マケドニア』に領土的野心があるんじゃないのか?」とギリシャが疑念を抱くのは無理もないところもある。ギリシャは同国が「マケドニア」を名乗る限りは許さんという姿勢を崩さず、マケドニアがEUやNATOへの加盟を希望しても常に反対してつぶしてきているのだ。


 そんなこんなで、独立以来四半世紀が過ぎてもまだこの問題は解決していないのだが、昨年末からマケドニア・ギリシャ両国で微妙な変化も出てきた。両国政府がやっと国名問題の解消についての協議を再開することで合意、しかもギリシャ側がようやく「マケドニア」の名称を容認する方向らしい、と報じられたのだ。
 ギリシャ側が一番懸念しているのが、「マケドニア」と名乗ることでギリシャ国内の「マケドニア」に対する領土的野心があるのでは、という点なのだが、これについて現在のマケドニアの政権は明確に野心を否定、「マケドニア」の名はあくまで現在の地名からついたものであって古代マケドニアおよびアレクサンドロス大王とは無関係、という態度も明確にした。それならば、といつまでも隣同士の対立を続けていてもしょうがないと思い始めたギリシャ政権側も「旧ユーゴ」の名をつけるかどうかはともかく、何らかの形で「マケドニア」と名乗ることを容認しようとしているらしい。もちろん「らしい」であって、なかなか厳しい姿勢なのではとも言われているのだが、少なくとも長年のかたくなな姿勢に少しは変化が出たのは確かだ。

 ところがこれが1月に報じられると、ギリシャ国民のかなりの人が自分たちの政府に対して反発。2月4日に首都アテネで大規模な「マケドニア容認反対デモ」が行われ、参加者はなんと警察発表で14万人(!)。ギリシャ全土からかけつけたというから、この問題、ギリシャ国民がかなりエキサイトするものであることが改めて浮き彫りになってしまった。世論調査によるとギリシャ国民の7割が「マケドニア共和国」の名乗りに同意しない意向だそうだ。
 しかし古代の「マケドニア」だってもともとギリシャ人からギリシャ扱いされなかった歴史があるし、現在のマケドニア人がスラヴ系だから古代とは違うというのはそりゃそうだが、それを言い出すと現在の「ギリシャ人」ってのも近代以降に作り出されたもので古代ギリシャ人と直結した連続性があるのかいな、という世界史的なツッコミもしたくなる。どうも先年のギリシャ経済危機以来、ギリシャ国民のあれこれのデモには手前勝手さも感じてしまうんだよな。

 これだけの国民の猛反発があると、ギリシャ政府としてもそう簡単に「マケドニア」を容認できなさそう。だけどそれを理由にEUやNATO入りを阻止し続けるというのも理不尽な話ではあり…。ここはマケドニア側が思い切って「カチドニア」と縁起良く改名したら、なんて日本人にしか通用せん提案をしてみたりして。



◆記憶は刻んだ方がいい

 ものすごい量の情報が日々生まれ、記録され、読まれ再生されている「情報社会」の今日であるが、これだけデジタル化が進むと便利である反面、こうした記録が後世にどれだけ残るんだろうか、と歴史をやってる者としては気になることもある。クラウドの仕組みやら入念なバックアップやらでデータは半永久的に保存される…という声もあるんだけど、数千年、数万年というレベルの時間に果たして耐えうるのか。データそのものが残ってもそれを読み取る仕組みがあるのかどうか、という問題もある。3000年ほど使用されたエジプトのヒエログリフがその後ずっと読めなくなってた、という例もあるわけで。
 さらに言えばデジタルデータ自体がどれほど保存がきくものなのか、危なっかしい感もある。デジタルツールの歴史が始まって以来、やれバックアップだ、クラウド保存だとデータ保存の戦いは続いていて、一見半永久的に残りそうにも見えるのだが、それこそ第三次大戦あるいはその「なりかけ」くらいの地球規模の破壊が起こったりした場合、かなりのデータがあっさり消し飛ぶのではないかなぁ。

 デジタルデータ以前に人類が発明した便利な記録媒体に「紙」があるが、これだって様々な事情により永遠に失われた紙記録は数多い。古い文献は写本に写本を重ねて「たまたま」残っているものだ。その存在は知られながら、引用された断片的な内容だけしか伝わらない貴重な人類の英知の記録のなんと多いことか。
 そう考えてみると、人類が最初に文字記録を残し始めたメソポタミアの「粘土板」って最強の保存媒体という気もしてくる。かさばるのが難点だが、発掘されたこれら粘土板のおかげで5000年も前の人々の記録がこんにちでもバッチリ読めるんだから。現代人も念のため記録を粘土板なり石なりに刻んでおいたほうがいいんじゃないか、と僕は半分本気で考えている。

 さて昨年の暮れに奉じられた、やや古いニュースから。
 12月28日付の朝日新聞で「モンゴルで後漢時代の碑文を確認」という記事が出たことに注目した人も多いと思う。後漢の軍隊が永元元年(西暦89年)に匈奴を攻撃して大勝を挙げた際に記念として岩に彫り付けたもので、その内容が『後漢書』の記録と一致、という話で、日本とモンゴルの研究者たちによりそれが確認されたという趣旨の記事だった。モンゴルにおける現存最古の漢文資料とみられ、僕も「へぇ、そんなことが」と驚きつつ、「やっぱり記録は岩に刻んでおかないと」と改めて思ったのだ。
 で、その後「史点」ネタにでもするかと正月明け位にネットで調べ始めたのだが、どうも日本で報じられたものと微妙に異なる話が中国では報じられていた。中国の報道ではすでに昨年の8月15日モンゴルのチンギスハーン大学がこの碑文発見を発表したと大きく報じられていて、それは中国とモンゴルの考古学者たちの成果、ということになっていた。この碑文の存在自体は歴史上何度か「確認した」という話があったものの正確な位置は分からなくなっていたが、1990年代に現地の人がそれらしきものを発見、2014年からようやく本格的に調査が行われて、このたび完全に確認、という経緯であったらしい。
 不思議だったのは、中国報道では『後漢書』ウンヌンよりも「『封燕然山銘』が再発見された!」という点に力点があって日本の年末報道と微妙にズレていたことだ。あちらの報道をよく読むと、なるほどこれは興奮せざるをえない。この『封燕然山銘』の文章を書いたのは、あの『漢書』の作者・班固その人なのだ!なぜか日本の報道では班固の名前がまるで出ていなかったのだが…両方の報道を突き合わせるとどう見ても同じ碑文の話なんだけどな。
 永元元年の対匈奴遠征軍を率いたのは竇憲という人物なのだが(この名は朝日記事にも出ていた)、班固は彼のブレーンとしてこの遠征に従軍しており、勝利を記念して『封燕然山銘』を書いてそれを岩に刻ませた。残念ながらそれからわずか3年後に竇憲が失脚して自殺、班固も関係者として投獄されそのまま獄死するという悲劇に見舞われることとなる。
 そして『封燕山銘』は『後漢書』列伝の竇憲の伝記にも全文が載せられ(朝日の記事で『後漢書』との一致を強調したのはこのためだろう)、5世紀に編纂された目古典名文集『文選』にも収録され後世に伝わった。遥かな土地へ遠征し勝利してその記録を後世に伝えることを「燕然勒石」「燕然勒功」と故事成語として言うようにもなった。日本では聞いたことがない故事成語なので、その辺が日本と中国での報道の差にあらわれたのかもしれない。
 やはり文字は刻んで残しておくもんですな、ハンコだけに(笑)。


 と、オチがついたのだが、関連続報になるかもしれない話題が2月に入って報じられた。
 これも朝日新聞が報じたものだが、南京北東部で南北朝時代の「皇帝陵墓級」のれんが造りの墓が2つ見つかり、2013年に調査が行われていた。墓室の壁には「竹林の七賢」の図が描かれていたといい、当時の南朝で好まれた素材で皇帝の墓にもよく描かれたものだという。墓はかなり破壊されていたが、南朝の「梁」の時代の形式だといい、片方の墓からは「中大通弐年(530)」、もう一方の墓からは「普通七年(526)」と年号が刻まれたレンガが見つかっていて、ここから被葬者を推理すると531年に亡くなった梁の太子・蕭統と、526年に亡くなったその母の二人ではないか、という。

 …と、ここで驚かなきゃいけない。「蕭統」などと本名を聞くとピンとこないが、彼の通称が「昭明太子」だと聞けば、「ああ!あの!」と声を上げる人も多いはず。501年から531年までと30年しか生きておらず、「太子」のままこの世を去ってしまった人物なのだが、大変な読書家、文章家、、研究者であり、その時代における古典詩文を集めた『文選』を編纂した張本人なのだ!そう、上記の班固の『封燕然銘』もこれに収録されている、ということでつながってくるのだ。これもレンガに年号を刻んでおいたおかげ。まだ昭明太子の墓と確定したわけではないが、可能性は確かに高いといえそう。つくづく中国の文献資料、ことに紙以外に書いたり彫ったりしたものの蓄積の凄まじさを感じてしまいますな。


 そんな中国、年明けには今後使われる歴史教科書の一部で、「文化大革命」についての記述が消えるのでは?とネット上で騒ぎになったことが報じられた。実際には記述そのものは消えずに章立てが変更されて「コラム」に独立して扱うことになるのだそうだが、まぁ扱いが小さくなるのは間違いなさそう。現在の中国共産党政権は「文化大革命」を「誤り」と公式に認めているんだけど、毛沢東と共産党の歴史の「暗黒面」には違いなく、あまり大きく扱いたくないという本音はあるんじゃないかな。どこの国でも権力者側は自分に都合の悪い歴史は隠したがるもんである。ただ、今回のケースでは中国でもそれを露骨にやるとネット上で「炎上」が起きるということが証明されたわけで、まさに「上に政策あれば下に対策あり」という中国の歴史を改めて見せられた思いもある。



◆年末年始の小ネタまとめ

 2月の半ばも過ぎてこんなまとめをやるというのは季節外れもいいとこなんだけど、意外とこの間独立記事にするには…と思うネタが多かったんだよね。


◇ショパン、今頃診察を受ける!?

 昨年おおみそかにAFP=時事で報じられたネタ。19世紀のポ^ランド生まれの作曲家ショパン(1810-1849)は39歳の若さで死んでいて、これまで死因は結核というのが通説だった。ところが2008年に「嚢胞(のうほう)性線維症」が死因ではないかとの新説が出て、それを主張する研究者がワルシャワの聖十字架教会に保存されている「ショパンの心臓」の調査を求めたが却下され、その後2014年に高解像度で写真が撮影されて、それをもとにした研究論文が今頃になって医学雑誌に載った、という話題である。
 ショパンは身長170cmあったが体重は40kgくらいしかなく、それが「嚢胞性線維症」の症状では、という説が出たわけだが、ショパン本人の心臓がいまだに保存されている、という事実の方に驚かされる。なんでもショパンはパリで死ぬ間際に姉を呼び寄せ、心臓だけは故国のポーランドに帰らせてほしいと遺言したらしい。ショパンに墓はパリにあるが、心臓のみはポーランドに送られ、経緯は分からないが瓶の中にコニャック漬けにされて今日まで保存されているのだそうで。ショパンより半世紀ほど前のルイ17世の心臓が今日まで保存されていてDNA鑑定を受けたこともあったから、この時代、「心臓の保存」というのはよくあったことなのかも。
 ショパンの心臓の保存状態は良好で、コニャック漬けの瓶から取り出すことは禁じられたが(文字通りの「ハートブレイク」を恐れたという)、瓶の外からもよく見えるので高解像度の写真撮影が行われて「診察」が可能になったわけ。で、結論は「やっぱり結核が死因」ということになるみたい。正確に言えば嚢胞性線維症の可能性もゼロではないが、結核とみても矛盾はない、というところのようで。
 ただちと気になるのは、肝心のこの心臓がショパン当人のものとは実は断定されておらず、「そう言われている」レベルのものだということで…

 
◇カナダ国歌、歌詞変更!

 カナダの国歌「オー、カナダ」の歌詞の一部の変更を実現する法案が、2月2日にカナダ上院を通過(下院は2016年にとっくに通過)、2月7日にカナダ君主=イギリス女王の代理人であるカナダ総督の承認を得て、国歌は正式に変更された。
 どこを変えたのかというと、「True patriot love in all thy sons command(汝の息子全ての中に流れる真の愛国心)」というくだり。この中の「sons(息子たち)」という部分が「カナダには男しかいないのかよ?」という批判が出ていたわけだ。現在のカナダのトルド―首相の自由党政権は昨今のジェンダー意識を考慮して歌詞変更を推進し、「息子たち」から「われわれ全て」への変更を実現した。現在開催中の平昌五輪でさっそくカナダ選手が金メダルをとるとこの新国歌が流されている。
 ところでこのカナダ国歌「オー、カナダ」の歴史を調べてみたらこれがまた興味深い。もともとは、カナダ東部の旧フランっす植民地で今も頑固にフランス語を使い、独立機運も高い「ケベック州」で「国歌」として1880年に作られたのが最初で、もちろんフランス語の歌詞だった。その段階では歌詞にある「カナダ」は「ケベック州」限定のつもりだったのだが、「オー、カナダ」という響きがいいということで英語版も作られていつしかカナダ全体の歌ということになり、作られてから1世紀後の1980年になってようやく法的に「カナダ国歌」と定められた。
 で、実はもとのフランス語歌詞では問題の「息子たち」部分はないのだそうだ。英語版はフランス語歌詞を直訳した者ではなくかなりアレンジしていて、しかも時代により歌詞が変化してきている。「息子たち」のくだりは第一次大戦時の愛国ムードに乗って入って来たものだというから、第一次大戦終結百年目の今年に消えるのもめぐりあわせというものかもしれない。


◇「凌雲閣」の土台、発掘!

 「凌雲閣」とは、俗に「浅草十二階」とも呼ばれた明治から大正にかけての建築物。1890年(明治23)に建設され、約52mという当時としては日本でもっとも高い建築物となり、日本初の電動エレベーターまで備えていた。「日本のエッフェル塔」として一時浅草のシンボル、東京名所のひとつとしてにぎわったが、大正時代には客足が低迷、さらに1923年(大正11)9月1日に発生した「関東大震災」により8階から上が崩壊、もともと経営難ということもあり再建はされずに取り壊された。たかだか33年しか建っていなかった建物なのだが、関東大震災での崩壊写真のインパクトもあって、結構有名な「歴史的建造物」になっている。
 今年になって浅草のビル工事現場で八角形のコンクリート土台やレンガが出土、2月9日に台東区の教育委員会の調査が入り、「凌雲閣」の遺構だと断定された。1980年代にも近くの工事で同様のレンガが見つかっていて、それと照らし合わせて同じ建物のものと判断したという。残念ながら「凌雲閣」は文化財の扱いは受けておらず、また保存状態もよくないことから、このまま工事続行で遺構は残されないとのこと。
 ちょっと怖いことを書くと、次に首都直撃地震があったとき、新たに「遺物」になってしまう建造物が出てきた李するんだろうか…。


◇マレーシアの森林で「未知の言語」発見!?

 2月15日にAFPが伝えた話題。スウェーデン。ルンド大学の言語学者チームが、マレーシアのマレー半島側北部のクランタン州の森林に住む狩猟採集民たちの言語を調査するうち、これまで存在に気付かなかった言語「ジュデク語」の存在を確認したという。記事では経緯がよく分からないのだが、以前の調査と質問を変えてみたところ、「違う言語」があることに気づいたのだとか。話者はわずか280人で、研究チームによれば欧米よりも男女平等で暴力的でなく、子どもたちも競争しないことをよしとする考えがあり、「職業」「裁判所」にあたる言葉も、「買う」「借りる」「盗む」といった所有に関する言葉もなく「交換」にあたる言葉はあったとのこと。
 いわゆる「原始共産制社会」というやつなら、そうした言語状態になること自体は考えられると思うし、アマゾンのジャングルにいる先住民の言語との比較なんか面白そうとは思ったのだが、記事から伝わる「男女平等」「非暴力」「共有」といったキーワードがいささか欧米人の理想というか妄想が入ってるように見えなくもないんだよな。地理的に見ても周囲と接触がなかったわけはないし、どうしてそんな少数すぎる言語が残ったのか、疑問がふくらむばかりで。正直なところ半信半疑。


◇髪はなが〜い友達

 アメリカはニューヨーク州のユニオンカレッジの図書館の蔵書の中から、初代大統領ジョージ=ワシントンの「髪の毛」が発見された、という話題をCNNが報じていた。
 図書館の蔵書から著名人の髪の毛、という話にビックリしちゃうが、髪の毛といっても一本二本の抜け毛ではなく、ちゃんと「房」にしたもの。当時は友人に「形見」として髪の房を贈る習慣があったんだとか。問題の髪の房は1793年の年鑑にはさまっていて、この年鑑と付随する書簡などの分析から所有者はアメリカ建国の父の一人とされアメリカ合衆国憲法起草者でもあるアレクサンダー=ハミルトン(1755-1804)であるとみられるという。調べてみると確かにこの人、アメリカ建国時の政治・軍事・外交面での大英雄には違いないのだが、最後は決闘を行って撃たれて死ぬという意外な死に方をしている。ついでに書くと彼の長男もその3年前に父の名誉が怪我されたとして別の人物と決闘して死んでいる(それも父子同じ場所で)
 話を髪の毛に戻すと、こういうハミルトンなので当然ワシントンとの付き合いは深く長く、友人関係といっていい。髪の房を贈られるのは当然と考えられる。記事では「DNA鑑定をする必要もなくワシントンの髪だ」との専門家の意見が載っていた。真相は髪のみぞ知る、というところかな。


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