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2018年8月30日

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◆ついにその時が来て

 とうとう二か月以上も更新をサボってしまった。本来この記事は7月19日公開を目指して書いていたんだけど、それからあれやこれや仕事が立て込んできちゃって、執筆がズルズル遅れてしまった。8月後半になってやっとことさ気持ちの余裕ができたんでこうして書いている。
 さて、この間に「ドカベン」の連載は完結するわ、サッカーW杯は番狂わせ多発になるわ、タイの洞窟に閉じ込められた少年たちが救出されるわ、西日本各地で大水害になるわ、映画脚本家の橋本忍氏がとうとう100歳で死んじゃうわ、東から西へ向かう逆走台風は出現するわ、甲子園では100回記念大会で「金足フィーバー」が起こるわ、漫画家のさくらももこさんが亡くなるわ、いろいろな大事件があった。

 だがこの間に起きたことで一番「歴史」を感じてしまったのは、なんといっても麻原彰晃(本名;松本智津夫)ら、オウム真理教死刑囚13人の死刑執行だ。あの地下鉄サリン事件が起こり、麻原らが逮捕されたのが1995年で、それ以来実に23年。2006年に死刑が確定してから12年。その2012年に事件の特別指名手配を受けていた逃亡者二名が逮捕され(当時「麻原の処刑を延期させるためでは」との憶測もあった)、彼らの裁判が終結したのが今年の1月。関係者の裁判が終結するまでは死刑は執行されないのが通例で(このため海外逃亡者がいる「連合赤軍」の死刑囚はまだ処刑されていない)、今年はじめにオウム真理教事件の裁判全てが終結したことで死刑執行はいつ行われてもおかしくない状況になっていた。さらに来年は新天皇の即位が予定されているという事情もあり、今年中に行われるのでは、との推測はあった。そして今年の3月に死刑囚の一部が東京から各地方の拘置所へ移送され、いよいよカウントダウンか、と騒がれた。それも大方の人が忘れたころの7月6日になっての死刑執行となったのは、国会での「森友・加計」疑惑での騒ぎが一段落したタイミングに見えなくもなかった。この処刑実行の前夜に死刑執行命令にサインした法務大臣を含めた安倍首相のとりまきたちが飲み会をやっていた、それがまたちょうど豪雨水害の始りの夜だった、というとこもあっていろいろ批判も呼んでるわけだ。

 僕自身は死刑制度に「消極的反対」をしている立場なのだが(最近は「死刑になりたい」型の無差別事件も多いしねえ)、麻原一個人に関しては死刑もやむなし、な気分を持っていた(あくまで死刑制度がある状態で、ということだが)。そして今回処刑された他のメンバーについては麻原に操られた被害者という側面も強いので死刑まではどうかなぁ、と思っている。このオウム真理教が起こした一連の事件は、結局のところ、教祖の麻原自身のカリスマと影響力、殺人から国家転覆まで正当化、実行しようとした構想力によるところが大きい、 日本のみならず世界犯罪史上でも稀有な例になっているとも考えている。

 「オウム真理教」という宗教団体の存在を、僕も含めて多くの人が知ったのは1989年、つまり平成元年に起こった「坂本弁護士一家殺害事件」(当時はあくまで「失踪事件」扱い)だった。年代を確認して、これって平成のはじめの年の事件だったんだなぁ、と驚きもする。ほぼ三十年も前の事件なのだ。オウム真理教信者の家族などから依頼されてオウムに批判的な活動をしていた坂本堤弁護士を、麻原の指示で教団幹部が一家もろとも殺害した事件で、現場にオウムのバッジ「プルシャ」が落ちていたこと、なおかつ状況的に教団による犯行が疑われ大きく報じられもしたのだが、あくまで「疑惑」のままで終わる形になった。
 事件の発端にTBSのワイドショー番組スタッフが坂本弁護士が出演した番組ビデオ内容を教団側に見せて取引してしまった件があったことや、坂本弁護士がいわゆる「左翼的」「反権力的」立ち位置であったために神奈川県警幹部が捜査に身が入らず「失踪」で片づけようとした(宗教団体が相手になると面倒、という意図もあったともいわれる)、などなど、あとから思えば「あのときちゃんと処置していれば」と思う側面がいろいろとある。

 この事件でついたイメージを払拭する狙いもあったのだろう、翌1990年にオウムは「真理党」を結成して政界進出を狙い、選挙で全国に候補者を立てた。「ショーコー、ショーコー♪」の教団ソングや麻原のお面をかぶった信者たちの異様なダンスなどが目を引いたが、全員落選に終わる。これを受けて麻原は非合法手段による政権掌握を考えるようになり、教団の武装化を進めるようになった、とされているのだが、このころ世間的にはオウムは「面白キワモノ集団」扱いで、しばらくTVのバラエティ番組に麻原ら教団幹部が出演したり、一部の宗教学者・評論家がオウムを真面目な宗教団体と評価したりもしていた。
 バブル時代は新宗教ブームの時代とも言われていて、この「オウム真理教」と「幸福の科学」が、それぞれカラーは違うが教祖が個性的で露出度も高く、急激に台頭した二大勢力という印象だった。僕はこのころ大学生だったが、ある年の秋の大学の学祭でオウムと幸福の科学がそれぞれ教室を確保して何か展示を行っていた記憶があるし(さすがに見に行かなかったが)、友人の中には幸福の科学の教祖の本を知人から山と贈られてしまったひともいたものだ。麻原処刑を受けて「もしや」と思ったのだが、やっぱり幸福の科学の教祖様は「麻原守護霊インタビュー」をやっちゃってたな(笑)。

 平成になってまもなくバブルが崩壊、70年代に流行った「ノストラダムスの大予言」の1999年も近づくという、なんとなくの不安感の中で、人類救済やら超能力獲得を売りにするなどオカルト色の強かったオウムにひかれる若者が多かったのかもしれない。今でもよくわからないのが、このオウム幹部に高学歴の理系の人間が目立つことで、これがオウムのサリンやVXなどの化学兵器武装化を実現させてもいる。高尚な科学知識を持った若者たちがなんであんなのに、と後に多くの人が首をかしげたのだが、オウムまで極端ではないレベルで文系理系を問わず高い学識を持ってるはずの人が非常識な言動を始める例は結構あるので、「そういうこともある」と思っておくしかないのかもしれない。
 オウムはひそかに化学兵器開発を進めつつ、ちょうどソ連崩壊後だったロシアに布教し、武器の入手まで計画していた。またオーストラリアでウランの入手も試みていたといわれ、核兵器の保有まで視野に入れていた。そこまではさすがに無理だったと思うけど、麻原はそこまで野望を膨らませていたのは確かだと思う。

 そして1994年6月27日に「松本サリン事件」を引き起こす。これは当時教団が不利になっていた裁判の妨害を企図して、裁判官の官舎を狙って毒ガス「サリン」を散布したものだったが、付近の住民を巻き込んで7人死亡、600人ほどの負傷者を出した。この事件直後の報道はよく覚えているが当初は何が起きたのか分からない謎だらけの怪事件で、被害者・通報者であった河野義行さんが一時「犯人」と疑われる方向になったのも、多くの人が「腑に落ちる解決」を求めた結果だったと思う(僕自身、「これで事件の真相が分かればいいな」という気分だった)。だが猛毒の「サリン」がそんな一個人の手でお手軽に作れるようなものではないことを専門家が指摘、弁護士の応援で本人も露出して反論したことで、いくらか河野さんへの疑念はやわらいだように記憶している。それでも一部マスコミは河野家の家系図まで引っ張り出して疑惑を報じ続けたし、そもそも長野県警が未練がましく河野さんへの聴取を取り続けた。このとき捜査員の一部は不審な大型車両の存在をかぎつけていたのだが、どうも警察の捜査本部というところは初動でこうだと方向を決めちゃうとなかなか転換できないものであるらしい。

 そして1995年元旦、読売新聞で、山梨県上九一色村のオウム教団施設で「サリン」残留物が検出されたというスクープを報じる。あとから知ったことだが、前年末に警察・マスコミに松本サリン事件とオウムの関連を示唆する「怪文書」が流れていたといい(この辺真相は藪の中だが、内部の告発者がいたのかも)、また警察でサリンの原材料入手ルートを追っていた捜査員もオウム真理教の関与にたどりついていたと言われている。そしてこの年に入ってからオウムは批判的なジャーナリストや弁護士への毒ガス攻撃、トラブルになっている関係者の拉致・殺害など行動をエスカレートさせてゆき、ついに警察は教団への強制捜査に踏み切ることを決定する。麻原は東京都心で大きな事件を起こせば警察の目をそちらにそらせるだろう、と浅はかと言えば浅はかな作戦を立て、3月20日に「地下鉄サリン事件」を起こすのだ。

 この事件が起こった時、僕は箱根で合宿中だった。すでに日常と違っていたせいもあって、この時のことは克明に覚えている。そういう合宿なので朝起きるのはみんな遅く、テレビをつけたらワイドショーが何やら都内で大騒ぎが起きていることを伝えていた。なんだろうと様子を見ていると、早くも「サリン」検出との話が流れた。僕も含めて多くの人が「オウム」を連想し、宿の売店の人も僕らの話で「サリン」と聞いて「オウム?」と即座に口にしたのもよく覚えている。そのあと僕らは予定通り箱根の大涌谷観光などしたのだが、現場で注意が出ている「毒ガス」の話題がシャレにもならず、東京まで小田急で帰ったら、車内を小田急の社員たちが本当に目を血走らせて調べて回っていたのも印象的だった。
 都内の地下鉄各所で同時多発的に、しかも大量殺害の可能な毒ガス「サリン」を無差別に散布する、という前代未聞のテロ事件は日本のみならず世界に衝撃を与えた。サリンはともかくとしてその後の様々な公共の場での無差別テロに大なり小なりの影響を与えているように思う。これだけの規模のテロだと13人どころか数千規模の死者が出てもおかしくない状況だったが、元旦のスクープでオウムはサリン施設を一度解体していて、それで大量のサリンが造れなかったらしい。

 結局このサリン散布はオウムへの疑いをいっそう強める結果となり、3月22日に教団施設への大規模な強制捜査が実施された。ものものしく防毒マスクを装備した捜査員たちが上九一色村の教団施設へ突入していく様子を僕もTV中継で見て大いに緊張したものだったが、事態は即座に動いたわけではなく、教祖の麻原も地方へ逃亡したんじゃないかとの憶測も流れ、 4月から5月にかけてはニュースやワイドショーだけでなく報道特番が連日組まれ、オウムに批判的な人たちとオウム幹部たちがテレビでそれこそ毎日のように激論、という不思議な光景が続いた。
 地下鉄サリン事件から日数がたつと、「オウム」ネタも凶悪事件というよりどこかキワモノ的面白扱いになってた空気はあって、「ポア」だの「サティアン」だの「グル」だのといった「オウム語」が流行語のように使われ(この年の流行語大賞は「オウム関連は一切入れない」と決めたりした)、オウムの弁護士や報道部長が一部でタレント的人気(?)を呼んでしまってもいた。この間に「警察庁長官狙撃事件」「村井秀夫刺殺事件」といった、今でも謎のままのオウム関連事件が起こって、とにかく話題は尽きなかった。

 そして、教祖・麻原の逮捕がようやく実現したのは5月16日のこと。結局上九一色村の教団施設の隠れ部屋に潜んでいたところを発見され御用となった。翌年の初公判の際にはマスコミがアルバイトで雇った人々が傍聴券を求めて記録的な長蛇の列を作ったが、その中に僕の知人が紛れこんでいた、なんてこともあったっけ。史上まれに見る凶悪事件を起こした麻原には弁護士がなかなかつかず、一時「これで弁護士?」というおかしな老人弁護士が登場する一幕もあり、公判が始まると麻原が意味不明の言動を始め、以後刑の確定まで心神喪失なのかどうか議論が続くような状態が続いた。刑確定後もそれは続いたが、報道されるところによると執行直前に遺骨の引き渡しについて意思を示したという。それが事実なら正気ではあったということになるんだが、そもそも「狂気」だったという見方もできるしなぁ。

 事件自体は平成初期のことだが、こうして教祖や幹部の処刑にいたるまで平成時代三十年のほとんどを使う事件となってしまった。後世、「平成」という時代を語る際に必ず言及される事件になるだろうし、先述のように世界犯罪史上においても重大な位置づけがなされるはず。麻原彰晃とオウム真理教が「歴史的存在」になっていくのは間違いない。そして今後もこういうことが起きないとは言い切れない。
 考えてみるとオウムに参加した当時の若者たち、というのは僕と同世代と言ってもいいわけで…自分が同世代として目の当たりにした歴史的凶悪事件を、この教祖処刑の節目で自分なりにまとめて書いておくのも、「史点」としての使命じゃないかな、と大袈裟かもしれないが考えてこの一文を書いてみた。
 


◆平成の最後の夏に

 上記の「オウム真理教事件」は「平成」という時代における歴史的事件の一つとして記憶されてゆくと思うのだが、気がついたら今夏は「平成最後の夏」だ。来年5月1日をもって新天皇の即位、新元号への移行と決まっているからだが、そんな経験自体歴史上初めてなので、「平成最後の〜」が乱発される今年の夏はなんだかヘンな感じもする。その一方で、新元号発表は当初言われていたよりズルズルと遅れて現時点では来年2月以降などと言われているが、先ごろ「日本会議議連」の保守系国会議員たちが「元号は新天皇即位当日に発表すべき」と政府に要請したりもしていた。明治以降の近代習慣をなんとしても維持したいらしいが、そんなことやってるうちに運転免許証などでも西暦表示が広まる状況にもなっちゃっている。元号制度自体、やる意味があまりなくなってきてるのではないかと。
 そんなことを書いちゃう僕でも「平成も終わり」と言われるといろいろ感慨深いものはある。今年の8月15日の戦没者追悼式典は「平成最後」のものとなり、今上天皇の参列もこれが最後となる。戦争のあった「昭和」という時代がさらに遠くなることが実感されてしまうわけだが、そのせいなのかどうか、ここ二週間ほどの間に昭和天皇と戦争に関する新資料の発見があいついで報じられた。
 

 太平洋戦争の開戦を決定したのは陸軍軍人であった東條英機首相の内閣で、このために東條は東京裁判でA級戦犯として死刑に処された。だがその東條が裁判の最初の段階では「当時陛下の意向にさからえるわけがない」という趣旨の発言をポロっともらして、天皇訴追を回避しようとしていたアメリカや日本の関係者を慌てさせた一幕もある。結局説得を受けてそのあとは昭和天皇をかばい、自身に敗戦の責任があると言って自己弁護をしなくなるのだが、そういう東條を「自己犠牲」と美化して描いた映画「プライド 運命の瞬間」の公開時、一部の学者からは「かえって昭和天皇の責任を追及した映画になってないか」と皮肉られたこともあった。なお、この映画で東條を演じたのがつい先日亡くなった津川雅彦で、彼が晩年に行くにつれネトウヨ的発言を繰り返すようになったキッカケはこの時できた人脈にあったんじゃないかな。

 一応、昭和天皇当人は対米英開戦に積極的であったとは思えない。いくつか伝わる話では遠回しながら戦争回避の意思を示したとされるし、昭和天皇とその周辺が東條を首相にしたのも、陸軍代表の彼を首相にすえることで逆に開戦回避に持っていく狙いがあったともされる。だが開戦という方向が変えがたくなると立憲君主のふるまいとして開戦に反対はしなかった(憲法上「大元帥」の天皇だが、あくまで形式上のことであり、明治天皇だって日清・日露戦争には乗り気でなかったが反対派しなかった)
 といって戦後に言われたほど平和主義者だった…とも思えない逸話も残している。対米英戦開戦前に作戦の説明をした杉山元参謀総長に対して、日中戦争の時も簡単に勝てると言ったじゃないかと文句を言い、「絶対に勝てるか!」と怒鳴りつけたというエピソードなんかはむしろ「戦争最高司令官」の姿そのものに見えるし、開戦直後の日本軍の快進撃には「戦果が早くあがりすぎるよ」と喜びのコメントをしたという話もある。まあその特殊な立場を除けば案外一般庶民と変わらない戦争感覚だったのかもしれないが。戦争については「負けたら困るな」くらいの感覚で。

 先日報道されたのは、まさにこの太平洋戦争開戦直前、それも12月7日という開戦前日の時点で、東條英機が昭和天皇に開戦についての最後の報告を行った際の具体的内容を記したメモが発見された、というものだった。メモの主は当時内務次官を務めていた湯沢三千男(1963没)という人物で、このとき東條が内務大臣も兼任していたために東條から天皇とのやりとりを聞き、その日の深夜までにメモを残した。わざわざ「11時20分に書き上げた」とメモに書いてるところからすると、当人もこれが歴史的な史料になりうるという自覚があったんじゃななかろうか。
 メモによると、東條は同日夜に湯沢を首相官邸に呼び出し、開戦について天皇に報告して同意を得たと、やや酒のにおいをさせながら、肩の荷を下ろしたような様子で語ったという。東條によれば天皇は「うむうむ」と説明に応じ、開戦と決まった上はいつもと変わらぬ様子で動揺もしていなかった。外交交渉に未練があるのなら暗い影がありそうだが、それもなかった、という。東條は「これで勝ったようなもの」とまで言い、「陛下の命令を受け一糸乱れることのない軍紀の下、行動できるのは感激に堪えない」という発言まであったという。これなんか、モロに昭和天皇の責任問題にひっかかってくるし、東京裁判での東條の当初の発言ともつながってくるように思える。
 なお、昭和天皇とは直接かかわらないが、このメモでは開戦となったら各国の大使などの扱いをどうするかなどについても方針が書かれていた。当たり前だがどの国であろうと外交官の扱いは丁重にすることが書かれていたのだが、当時日本国内では非合法の存在であった共産党の処置についてもソ連を刺激しないようにする、という記述もあったというのが面白い。当時は日ソ中立条約もあったし、英米などを相手に南進するにはソ連とはケンカはしないようにしておかないと、という意図は当然あったろう。ま、それが敗戦間際にソ連に対して変な期待を抱いてしまうことにつながたりもするわけだけど。


 結局戦争は昭和天皇の「聖断」で終わる、という形がとられ(これ、旧憲法下でも問題のある異例の手段ではあった)、アメリカの思惑もあって昭和天皇は戦争責任を負うことなく、結果として東條が「生贄」にされた。東條らA級戦犯が合祀されたために昭和天皇が自身の意思で靖国神社に行かなくなった、という「富田メモ」によって判明した事実があるが、正直なところ彼個人として「寝覚めが悪い」ところがあったんじゃないかなぁ、と僕は思っている。地方の護国神社などを訪れる時も戦犯を祭っていないかとかなり気にしていた、という話もあるし、長い戦後の人生のあいだ「戦争責任」は昭和天皇の重大なトラウマになっていた気配がある。

 このたび共同通信が、昭和天皇・香淳皇后に仕えた小林忍元侍従の日記を入手、その内容を報道した。特に注目されたのが、1987年(昭和62)の4月7日の記述で、その前日、すでに85歳になっていた昭和天皇が小林侍従に「楽して細く長く生きても仕方がない。つらいことを見たり聞いたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸もあい、戦争責任のことを言われる」と愚痴った、というのだ。当時、高齢の天皇に配慮して宮内庁が公務の軽減を検討していたことが発言のきっかけなのだろうが、この直前に昭和天皇の弟の高松宮宣仁親王が死去しており(そういやこの人は東條暗殺を計画したりもしたんだよな)、それで「長生きしても…」という気持ちを抱いたのだと思われる。

 問題の「戦争責任のことを言われる」というのが、具体的に何を指しているのかは分からない。僕は一瞬「長崎市長の発言かな?」と思ったのだが、長崎の本島等市長の「天皇に戦争責任はある」発言と直後に右翼の銃撃を受けた事件は翌年のことだった。だがあの発言が出るまでの流れは確かにあったように記憶していて、昭和天皇はもともと気にしていることだっただけに神経をとがらせていたのかもしれない。
 小林侍従は「戦争責任のことは一部の者が言ってるだけですから」となぐさめたとのこと。なお、このやりとりが詳しく分かったのは今度の日記が最初だが、すでに例の「富田メモ」の中でも昭和天皇と小林侍従の間でそんなやりとりがあったこと自体はすでに知られていた。

 この小林元侍従の日記だが、他にもいろいろと面白い話が出てくる。昭和天皇は直接かかわらないものの、小林侍従と徳川義寛侍従長の間でA級戦犯ら(容疑者含む)について議論があり、文官で唯一死刑となった広田弘毅元首相と、松岡洋右元外相については同列に扱えない、という話になったというところが目をひいた。広田についてはどう論じたのか記事では分からなかったのだが、松岡洋右については開戦に重大な責任があったと強く非難されていた。これ、確か昭和天皇自身の「独白録」でも同様の評価があったはずで、侍従たちの論評は昭和天皇自身の意見を強く反映していたように思える。


 小林元侍従の日記には他にも興味をそそられる記述がある。特に「昭和天皇が日記をつけていた」ことを示唆する記述は目をひいた。
 小林侍従日記の1976年(昭和51)の元旦の記述にそれがあった。この日宮中では恒例の元日早朝の祭祀行事があったが、天皇が高齢のためか側近が代わりにそれを行い、天皇は居間で待機していたという。このとき小林侍従は天皇が机にむかって「日記らしきものをおつけになっておられた」と目撃したところを書いているのだ。昭和天皇が自ら日記を書いていたという事実も、その現物も確認されていないため、もしかすると貴重な大発見につながるのかもしれない。
 小林元侍従も「日記らしきもの」と書いてるのであって日記とは断定されていないのだが、これまでにも昭和天皇の日記の存在をうかがわせる史料があるにはあった。やはり侍従于を務めていた卜部亮吾の日記で、2000年に香淳皇后が死去した際、卜部元侍従が「お日記」を香淳皇后の棺に副葬品として納めるよう女官長に渡した、という記述があったというのだ。これもはっきりとしない書き方だが、状況からすると昭和天皇の日記を皇后と共に埋葬した、というように読める。この場合、昭和天皇の日記はすでに土の中ということになってしまうのだが…


 それから、小林元侍従の日記には、1990年11月に行われた現天皇の即位礼について、かなりきつい、批判的記述が記されていて、これもなかなか面白い。
 その部分の記述がほぼ全文報じられていたが、小林氏としては内閣法制局から儀式のやり方についてあれこれ細かく口をはさんでこられるのが我慢ならなかったらしく、この日記にしてはかなり明白に怒りの表現をあらわにしている。法制局がなぜそんなに口を出したかといえば、戦後、「象徴天皇制」になってから初めての即位礼ということで「政教分離問題」にかなり神経質になっていたためだ。皇室がらみでは結婚式などでもこの手の問題が出てくることがあるが、こうした儀式にはどうしても宗教性がちらついてしまうため、戦前のような国家神道状態ではない今日ではそこらへんを仕分けする必要があった。といっても実態としてはあいまいなグレーゾーンがかなりある仕分けだったのだけど。
 小林元侍従の日記で特に怒っているのが(「心外」とまで表現している)、日本国のハンコである「国璽」と天皇のハンコである「御璽」を、即位礼の舞台の中心となる高御座(たかみくら)のどこに置くのかについて、法制局から細かく言われたことだったみたい。要するに目立たないところに置くようにしてくれ、という注文だったのだが、小林氏にしてみれば「どこに置こうが高御座に入れちゃえばおんなじことだろうに」と思え、少しでも身だたないところに、と細かく口をはさんでくる法制局を「小心」とまでこき下ろしている。

 また、即位礼において天皇が座る「高御座」とその周囲は王朝時代を思わせる古式ゆかしい古風なスタイルであるのに、松の間に控える三権の長などは燕尾服に勲章をつけた西洋的、近代風のスタイルで、小林氏の目にはこれが「ちぐはぐ」と映ったようだ。もっとも皇室の行事って明治以来「和洋折衷」でもともと「ちぐはぐ」にも思うんだけど。
 小林氏は日記のなかで、数十億円もの費用がかかるんだから、いっそ燕尾服スタイルに全員統一して費用を削減したほうがいい、とまで書いているのも面白い。この時の即位礼のスタイルが「今後の先例となることを恐れる」とも書いているのだが、それも来年に迫っているんだよな。たぶん同じようなスタイルになると思うんだけど…
 なんてなことを書いていたら、秋篠宮文仁親王が、新天皇の大嘗祭への公費支出について「懸念」を示した、なんてニュースが。案外意志を発動するなぁ、皇室の皆さんも。



◆沈没の艦隊

 ロシア語の固有名詞というのは、日本人には発音しにくいものが多い。それでなくても外国語名詞に慣れていなかった明治時代、日露戦争時の日本海軍水兵たちにとって、ロシアのバルチック艦隊の軍艦の名前を覚えて口にするのは大変だった。そこで、バルチック艦隊の旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」は「国親父・座ろう」(故郷に帰って親父の前に座って話すイメージ)といった具合に、今でも受験生が使う日本語語呂合わせ暗記方式で覚えたのである。以下、「ボロディノ」は「ボロ出ろ」、「アレクサンドル3世」は「呆れ三太」、「シソイ・ウェリーキ」は「薄いブリキ」、「アリョール」を「蟻寄る」…といった調子で覚えたというのだが、それが日本海海戦勝利の一因となり、それがのちの受験戦争にも応用されているのかどうかは知らない(笑)。

 さてバルチック艦隊の軍艦の中に「ドミトリー・ドンスコイ」という船があった。この名前も「ゴミ取り権助(ごんすけ)」という、ちょっとひどい名前で暗記されたのだが、この船、日本海海戦では最後まで頑張って鬱陵島近くで逃走、そこで自沈して乗組員は捕虜となっている。
 この「ドンスコイ」は撃沈ではなく自沈であったためか1916年に早くも引き上げ計画が持ち上がったが、結局話自体が流れている。わざわざ引き上げを計画した理由は不明だが、あるいは自沈船なので軍艦として再利用なんてことを考えたのかもしれない。しかしこれが一部で「財宝を積んだ船だからでは」と憶測を呼んだらしく、これが尾を引いて韓国では1981年、1998年と二度にわたり引き上げが計画されて結局実現しなかったが、これも「お宝伝説」が存在していたためらしい。特に1998年の時は韓国は通貨危機に陥っていて、倒産寸前だった企業が一縷の望みを「お宝発見」に賭けてしまった、という事情もあったみたい。東南アジアにおける「山下財宝伝説」みたいなものか。

 そしてつい先ごろの2018年7月に、またこの「ドンスコイ」について引き揚げ計画が浮上、あれやこれやと騒ぎになっている。
 今回「ドンスコイ」の沈没位置を確認し、その引き揚げを計画しているのは韓国の建設・海運業者「シニル・グループ」。同社は7月15日に会見を行い、「ドンスコイ」の沈没位置を「鬱陵邑苧洞里(チョドンリ)から1.3km沖の水深434m」と特定、有人探査艇による調査で「ドンスコイ」の船名が書かれていることも確認、内部に何かを納めた箱らしきものがあるのも確認した、と発表した。これを受けて韓国メディアの一部は大騒ぎ、「船内には金貨や金塊を収めた箱が5000箱もある」「総額は150兆ウォン(約15兆円)にのぼる」といった、長年ふくらみ続けた「噂」に基づいて「お宝」の内容を盛りに盛って報じていた。「シニル・グループ」はそうした報道について「150兆ウォンなどと具体的には会見で言っていない」と否定しているが、金貨や金塊などがあることは確実としていて、自分たちが「世界で最初に発見し、権利も自分たちにある」としている。同社の説明によると、「ドンスコイ」が撃沈されたのなら、その中身についてはロシアに権利があるが、「自沈」であるため放棄したとみなされる、韓国の領海内にあるので韓国政府にも20%の権利があるが、発見者である自分たちに50%の権利がある、とも主張している。

 とまぁ、ここまでの話でも、何となく怪しい空気が漂う話なのだが、案の定というべきか、直後からこの話にはいろいろとケチがつき始めた。まず「ドンスコイ」の沈没位置については韓国の海洋技術院は「15年前、2003年にすでに特定して引き揚げの計画もした。シニル・グループは海洋技術院のデータを無断使用している」として、「自分が世界で最初の発見者」としている「シニル」を批判した。あまり大々的ではなかったのかもしれないが、2003年当時に一部メディアで報道もされ、船体の写真なども公開されていたという。7
 また、そもそも「お宝」がホントにあるのか、という疑問の声もマスコミから上がった。考えてみればバルチック艦隊の一軍艦になんでそんな大量の金貨や金塊が積み込まれていること自体がオカシイ。あくまで「噂」「都市伝説」の形でふくらんでいった「お宝」情報であり、その存在を裏付ける資料もない。

 さらに話が怪しくなってくるのが、「シニル」がこの船内の金塊を裏付けとする仮想通貨「シニル・ゴールドコイン」というのを発行していて、引き上げの資金もそこから出すことになっている、という点だ。そもそも金塊があるかどうかも未確認なのに、それを裏付けとする仮想通貨で、それを引き揚げてみます、というのは…(汗)。これは「山下財宝」でもよくある詐欺のパターンでは、との疑いが当然出てくる。実際、7月下旬には彼らを詐欺で訴える「被害者の会」も結成されるなどしていて、どうやら少なくとも「お宝」の方は夏の世の夢と消えていきそうだ。


 8月に入っても、戦争で沈んだ軍艦に関する話題があった。こちらも日本がらみで、太平洋戦争開戦直後に日本軍に撃沈されたイギリス海軍の戦艦に関する話題だ。
 1941年12月8日に真珠湾攻撃が行われ、同時にマレー半島への侵攻も行われて、日本の対米英蘭戦争、当時の日本いう「大東亜戦争」こと「太平洋戦争」が開始された。その直後の12月10日にイギリス東洋艦隊と日本海軍が「マレー沖海戦」を行い、真珠湾攻撃同様に戦闘機による航空攻撃を駆使した日本軍が圧勝をおさめて東南アジア占領への勢いをつけることとなった。この海戦でイギリス側は旗艦の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」および戦艦「レパルス」を撃沈され、合わせて1000人以上の乗員が艦と共に海に沈んだ。この「プリンス・オブ・ウェールズ」撃沈の場面は日本の戦意高揚映画「ハワイ・マレー沖海戦」であの円谷英二によるミニチュア特撮で再現されているので、興味のある方はぜひ。ま、真珠湾のシーンに比べるとマレー沖海戦のほうは今見るとさすがにチャチさを感じますけどね。

 この「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」はかなり浅い海底に沈んでいるようで、直後に日本軍でも引き揚げて自国の軍艦として再利用する計画ももちあがっていた。結局実行しなかったのだけど、今でも条件がいいと海面から沈んだ戦艦が目視でき、観光スポットともなっているとのこと。
 ところがなまじ浅い海底であるだけに別の意味での「再利用」を狙ってサルベージに来る輩が最近現れているという。2014年にすでに報じられていたのだが、なんと爆弾まで使って海底の船体を爆破、その破片を引き揚げていくという荒っぽい「サルベージ」が行われていたという。こちらは船内の「お宝」が狙いではなく、船体そのものが大きな「鉄の塊」であり、鉄くずとしての再利用を狙ってのサルベージなのだそうな。漫画「風の谷のナウシカ」で宇宙船が鉱山化してる描写があったが、あれを思い出しちゃったな。

 8月21日に時事通信が報じたところによると、こうした「船体盗掘」は相変わらず続いているそうで、ついにイギリス政府もマレーシア・インドネシア両政府とれ寧して対策に乗り出すことにしたという。インドネシア政府の名前が出てるのは、1942年のスラバヤ沖海戦で沈んだ重巡洋艦「エクセター」も同様の被害にあってるからとのこと。
 記事では、こうした「船体盗掘」をやっているのが「中国の海賊」となっていた。後期倭寇研究者としてはついついワクワクしちゃうフレーズであるが、中国から着てるのか、現地の中国系がやってるのか判然としない。また「海賊」という表現も、実際マレー半島周辺で海賊が今も活動しているとはいえ、いささか広い意味で使ってるんじゃないのかな、という気もする。ともあれ、沈んだ船とはいえ、その船体を勝手に切り刻んで(カマの形をした錨を利用してるらしい)持ってっちゃう、というのはやはり泥棒行為ではあろう。むかし沈んだ船とはいえ、そこには1000人からの戦死者の遺体も沈んでいるんだから、その眠りを妨げる行為は許せん、というイギリス側の感情も理解はできる。
 はるか将来に、地球にピンチが訪れた時、宇宙戦艦に改造して…という目論見があったりは、もちろんしないが、去る6月にアメリカのトランプ政権が「宇宙軍」の創設を公式に発表したりしてますな。



◆古今東西大発見
 
 他の記事でも書いたが、来年で「平成」が終わる。前回の改元、「昭和」から「平成」への切り替えがあったのh1989年1月7日から8日のことだった。日本にとって文字通りの「時代の変わり目」となった年だが、この1989年は世界史的にも大きな節目となる年だった。東ヨーロッパで民主化革命が次々起こり、「東西冷戦」の終結が宣言された年だからだ。この年の11月に、その冷戦の象徴と呼ばれた、「ベルリンの壁」が人々によって破壊されている映像は、全世界に「歴史的変化」を実感させたものだ。
 「ベルリンの壁」は、東ベルリンから西ベルリンへの人々の流出に悩んだソ連および東ドイツが、その流出を阻止するために西ベルリン地区の周囲およそ150kmにわたって築いたものだ。この壁を越えて西側へ逃げようとする者があれば射殺も認められていて、多くの悲劇がこの壁で生まれた。僕も東西冷戦時代をリアルタイムで見ていた世代になるのだが、「ベルリンの壁」という言葉は越えるに越えられないものの象徴のようにも使われていたものだ。それがああもアッサリと崩壊したのには心底驚いたし、歴史を学ぶ学生として「歴史は動く時は動くものだ」ということを実感した。このとき先輩の一人が一週間ほど下宿にこもって新聞もテレビも見てなくて一週間後に「ベルリンの壁崩壊」を知って仰天していた、なんてこともあったな(笑)。

 「ベルリンの壁」のほとんどは破壊されたが、一部は「史跡」として保存され、今やベルリンの貴重な「観光資源」になっている。そんな「ベルリンの壁」の一部が新たに「発見」されたという話題が8月に報じられ、ちょっとビックリ(笑)。
 なんでも6月に地元の人たちが散策ツアーをしていたところ、ベルリン北西部の茂みの中に落書きされた「壁」の一部が20mほど残っているのを「発見」した。その後専門家らにより調査をうけ、まぎれもなく本物の「ベルリンの壁」の一部であることが確認された。来年で崩壊からまる30年になるという時期になって、「発見」されたことには驚かされるが、なにせ「壁」の総延長は150km以上、見落としもあったのだろう。この部分は茂みに覆われてしまっていたため、人知れず残されてしまったということらしい。
 報道では、さっそく新たな観光資源として期待、なんて書かれていたが、あの分断と抑圧の悲劇の象徴も観光資源扱いとは、「夏草や 共産国の 夢のあと」である。


 日本では「徳川埋蔵金」ならぬ「徳川埋蔵印」が発見される、なんて話題があった。
 今頃ニュースになってたけど、報道によると「発見」自体は一年半も前のことらしい。「埋蔵印」などと面白がって報じられていたが、別に埋まっていたわけではなく、徳川宗家・徳川恒孝氏の屋敷の庭にあった蔵を取り壊したら、その一番奥から長持(ながもち)に入った状態で見つかった、という経緯で、しまってあったのをみんなが忘れていた、という話である。
 その印鑑というのは、9.2cm×9.2cmの大きさの銀製で、重さ2.7kg。「経文緯武」の四字が刻まれていて、これは「文」と「武」を「経」(たていと)と「緯」(よこいと)にする、つまり文武両道にしっかり励んで行う理想的政治を意味する四字熟語だそうな(出典は『晋書』)。このハンコはちょうど160年前に結ばれた「日米修好通商条約」に将軍・徳川家茂の実名のサインと共に押されていて、将軍がこの条約締結を確認した証しとして使用された。そう聞けば確かに「歴史的」なハンコなのだけど、江戸幕府滅亡後150年間行方が知れなかったのが、ひょっこり蔵から出てきた、というわけ。見つかってから一年以上もたって報じられたのは、どういうハンコなのか確認するのに手間がかかったんじゃないかと。
 なお、報道でこのハンコが押された「日米修好通商条約」の本物の写真が公開されていたが、そこに日本の国名が「大日本帝国」になっていることにもちょっと驚いた。調べてみたら公式文書ではこれが「大日本帝国」の使用例の最初らしいのだ。


 お次は場所も時代も大きく飛んで、紀元前のエジプトの話。
 エジプト北部にある「アレクサンドリア」といえば、かのアレクサンドロス大王が作った都市。アレクサンドロスは征服した各地に「アレクサンドリア」を作ったが、現在でも残っているのがこのエジプトのアレクサンドリアだ。
 7月はじめ、このアレクサンドリアの工事現場の地下5mほどのところから、巨大な石棺が発見された。黒色花崗岩でできたこの棺は、縦265cm×横165cm×高さ185cmというサイズで、これまで開けられた形跡はなかった。現場は古代の巨大墓地の一部であったところというから石棺が出ること自体は珍しくないのかもしれないが、その大きさ、素材の重厚さはこれまで見つかったものとはひときわ違っていた。しかも長い古代エジプトの歴史の最後を飾る王朝、「プトレマイオス朝」時代のものと推定されrたため、にわかに石棺の中に葬られている人物について世界中の注目が集まった。そう、「アレクサンドリア」を名付けた本人、アレクサンドロス大王その人の棺ではないか?と騒がれたのだ。
 アレクサンドロス大王は紀元前323年、バビロンにおいて32歳の若さで急死した。その遺体は部下であり大王の後継者(ディアドコイ)の一人としてエジプトに王朝を開いたプトレマイオスが手に入れ、エジプトに持ち帰ってミイラとし、アレクサンドリアに葬ったとする伝承があった。これまでにもアレクサンドロス大王の墓探しは何度か話題にのぼっていて、今度のは発見場所や棺の大きさ・年代から、かなり「それっぽい」のではないかと、世界中の歴史マニアをワクワクさせることとなった。
 7月下旬になって棺がついに開けられた。僕もワクワクとニュースを待っていたクチだが、残念ながら調査した考古学者たちが発表したのは「希望は失われた」という半端なくガッカリ感を漂わせたコメントだった。棺の中にはアレクサンドロスのミイラも豪華な副葬品もなく、汚水に浸されて保存状態の悪い三人分の人骨が入っていただけだったのだ。まったく、思わせぶりな石棺に三人も入りやがって、とボヤいた関係者も多いことだろう。
 ただ、発見された三人についても興味のわくところではある。一人の頭部には鋭利な道具、おそらくは矢で傷つけられたあとがあるといい、もしかすると三人とも戦死者で、何らかの理由でまとめて同じ棺、それもかなり豪華なものに納めて葬られたのではないか、というのだ。人骨の詳しい調査はこれから慎重に進められるのだろうが、これはこれで古代のロマンである。アレクサンドロスの墓については、また楽しみが延びたと思えば(笑)。


 最後に、さらに時間をさかのぼって、1万4500年も前の話。なんとこんな時代に「パン」が作られていたことが判明したとする論文が、7月半ばに出たアメリカ科学アカデミー紀要に掲載された。
 発見場所はヨルダンの「ナトゥフ遺跡」。まだ農業も始まっていない、狩猟採集段階だが定住はしていた時期の新石器時代の遺跡とのことで、イメージとしては日本の縄文時代とそう変わらないだろう。この遺跡で石で作られた「かまど」あるいは「暖炉」の跡が見つかり、そこに焦げた「パン」の残骸が24個発見されたという。調べたところ大麦や燕麦といった穀物の実、あるいは水辺のパピルスの一種の塊茎を粉にして焼いたものとみられ、「パン」といっても発酵はさせない「ビタパン」「アラビアパン」に近いもので、円形に薄く延ばして焼いたものらしい。

 これまで「パン」らしき遺物はトルコで見つかった9100年前とみられるものが最古とされていて、今回の発見はそれを大きく5000年ほどさかのぼることになる。また、これまで「パン」の生産は農耕の始まり以後であろうと考えられてきたが、今回の発見はそれをくつがえすことにもなる。まだ農耕を行っていない当時では穀物を集めて粉にしてパンにするというのは大変な手間と想像されるので、「有力者が人をもてなすために『ぜいたく』を見せつけたのでは」との推理も出ているそうだ。他で発見例もないようなので、かなり特別なケースであり、日常的にそんなのを食べていたわけではない、ということだろうか。
 日本の縄文時代でも木の実などを粉にして「パン」もしくは「クッキー」などと言われるようなものを作っていた形跡はあるので、何かを粉にして焼いて、という料理自体は早期にあったとは思うんだけどね。


2018/8/30の記事

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