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2018年11月18日

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◆過去からのメッセージ

 「歴史は過去と現在との対話である」と言ったのはE=H=カーだったが、歴史上の人物当人が書いた文章というのは、当人にもちろんその気が全くなくても、現在を生きる人々へのメッセージとなり、そこに過去と現在との対話(一方通行だけど)が成立する。なかでも日時が特定できる個人的な手紙類や日記などは「その時点」での当人の事情や心情が生であらわされることが多く、「その後」を知る我々現代人には非常に興味深い歴史証言となってくれる。僕が日々ネット上で空き散らしている長短さまざまな文章だって後世なにがしかの歴史証言になる可能性はあるといくわかは自覚して書いてるつもりなんだが、デジタル記録というのは果たしてどれほどの年月に耐えるんだろうか、という不安もある。いっそ粘土板あ石にでも刻みましょうか。


 さて大石内蔵助といえばご存知「忠臣蔵」の主人公、吉良邸討ち入りを実行して「仇討ち」を果たした赤穂浪士四十七士のリーダーである。一時は毎年のように映画かTVドラマで製作された日本人にとっての定番時代劇「忠臣蔵」も最近はまったくお目にかからなくなってしまったなぁ…などと思っていたら、まさか缶コーヒー「BOSS」のCMで野村萬斎の大石、タモリの吉良で演じられることになろうとは。
 その大石内蔵助が、吉良邸討ち入りのまさに前日、元禄15年(1702)12月13日付で徳島藩の親戚にあてて書いた手紙、というものが「再発見」された。存在自体は昔から知られていて赤穂事件の史料集に収録されたり、昭和20年代後半に全国各地で展示されたという記録もあったそうだが、それっきり存在が確認できなくなっていたものだという。このたび大石の手紙を受け取った親戚の子孫が東京都内にいて、徳島城博物館に寄託を申し出たことで現存が確認されたとのこと。

 さすがに討ち入り結構前日ということで、大石は手紙の中で討ち入りに至る事情や現在の心情などをありのまなにつづっている。大石自身、この討ち入りの成否は別にして実行して命が助かる見込みはないと覚悟していたようで、気心の知れていた母のいとこにあたる三尾豁悟(徳島藩家老の子)に今生の別れを告げる「暇乞い状」としてこの手紙は書かれている。手紙を当人が読むころには討ち入りを実行してしまっているはずなので、討ち入り計画もあっさり明かしているのだが、やはり浅野内匠頭の弟・浅野大学が「お預け」と決まってお家再興が不可能になったことが討ち入り実行の直接のきっかけであることも読み取れる。
 また、妻子や親類も顧みず討ち入りに参加する志の熱い同志たちについて「四十八人」と明記いているのも注目点で、最後の脱落者とされる毛利小平太の脱落が本当に実行寸前のことであったことが分かる。昔見た日本テレビの年末時代劇「忠臣蔵」では西郷輝彦がこの毛利小平太役で、すっかり準備までして討ち入りに参加するつもりが親族らに泣きつかれて断念、翌朝の赤穂浪士たちの「パレード」の場面で大石に不参加をわび、大石からは生き残る者も大変だなとねぎらわれる、という描写になっていた。脱落の真相は不明だが、まぁだいたいそんなところなんじゃないかと。忠臣蔵作品によっては討ち入りに駆けつける途中で殺される、というパターンもあるそうで。

 さて大石はこの手紙の中で、自身の死後の評判についても気にしている。まぁ三百年も経った今日でも討ち入り行為を正当化できないという異論はあるもんな。討ち入り実行直前の大石としても、実行したらそれが世にどう言われるかは分からなかった。あくまで自分たちは主君の恨みを晴らすために私心なく討ち入りを実行したのだ、という気持ちを親族の三尾には知っておいてもらいたい、というのもこの手紙を書いた動機であったようだ。なお、大石は「読んだ後はこの手紙を焼いてくれ」とも書いていて、あくまで読んだ当人の心にとどめておいてくれ、というつもりだったようだが、三尾はその願いに応えなかった。討ち入り実行後にこんな手紙を受け取ってしまったら、そりゃ家宝同然に保管しておきますよね。おかげで今日にまで大石の心情が伝わることになったわけだ。


 忠臣蔵の討ち入りシーン以上に映像化の回数が多いんじゃないかと思うのが「本能寺の変」だ。織田信長明智光秀の反乱・奇襲により命を落とした、まさに「九変」の事件で、今日でも何かと光秀の動機やら、黒幕の存在やら、もしこの変がなかったら、とかいろいろ議論のタネになっている。再来年の大河ドラマは明智光秀が主役なので、それこそ「本能寺」は全体を貫くテーマになってしまうだろう。
 「本能寺の変」のとき、織田家の有力武将は各地へ遠征していて、このうち最も早く情報をキャッチして軍を取って返し光秀を破ったのが羽柴秀吉であり、これが彼が天下人になるきっかけとなったのはご存知の通り。このとき織田家の筆頭家老であった柴田勝家は北陸に遠征中で、情報把握と軍の異同で後れをとったことがその後のケチのつきはじめとなってしまうのだが、その勝家が本能寺の変の直後に書いた直筆の手紙、というものが見つかって話題となっている。

 手紙の日付は天正10年6月10日。「本能寺の変」は6月2日に起きているから、8日後ということになる。宛先は当時越後に来ていた溝口半左衛門という武士(のちの新発田藩の家老家になるらしい)。このとき勝家自身は越前の北ノ庄城にあったと思われる。
 手紙の冒頭で勝家は「天下の形勢は致し方ないことで言語に絶するばかり」、つまりどうしていいか分からず言葉にも言い表せない、と記して本能寺の変の情報に本当に驚天動地の思いでいたことを率直に表現している。勝家が本能寺の変を知ったのは6月5日か6日のことで(秀吉は偶然から3日に知った)、それまで上杉勢と対峙していた軍勢を慌てて撤収、背後の上杉勢の動向をにらみながら光秀討伐に出陣しようとしていた。この手紙の中で勝家は光秀が本拠地の近江にいるものと推測(実際にはこの前日に京へと進出していた)、大坂方面にいる丹羽長秀(家康の堺見物の案内役なんかもしてた)と連携をとって光秀を挟撃しようという計画を明かしているとのこと。もちろん勝家は秀吉のことなんか頭になかったのだが、その秀吉はこの手紙の翌日には「中国大返し」で尼崎に入り、丹羽長秀と合流して6月13日に山崎の戦いに勝利、光秀を戦死に追い込むこととなる。ああ、こうして書いてると、映画「清須会議」での役所広司小日向文世大泉洋といった面々のメイク顔が浮かんできちゃいますねぇ。
 情報インフラの発達した現在でさえ大事件が起こると情報が錯綜する。ましてや当時のことだから勝家もこれでも充分情報把握が早くて正確な方なんじゃないかと思うんだが、秀吉の運が良すぎたのかなぁ…まぁだから、時々秀吉と光秀は実はグル、ってな創作作品があったりするわけですけどね。


 お次は話が一気に飛んで、四万年前の人たちからのメッセージ。ちと強引だがこの話題に含めておく。
 インドネシアはカリマンタン島東部の洞窟に古い時代の壁画があることは以前から知られていた。野牛と思われる動物や、手形などが描かれていて、かなり古いものとは想定されていたが、このたび調査の結果、実に「四万年前」という大変な古さであることが確認された…と、インドネシア・オーストラリア合同チームが「ネイチャー」電子版で発表した。洞窟壁画といえばこれまでヨーロッパで数万年レベルの古いものが確認されているが、「四万年前」となるとそれらに匹敵し、動物など具体的なものを描いた絵としては「人類最古級」であるとのこと。
 諸説あるが、我々現生人類が「出アフリカ」をして世界に散っていったのは7万年前以前ではないかと推定されている。だから四万年前にヨーロッパと東南アジアで洞窟壁画が別々に描かれることは、同じ「現生人類」である以上、別に不自然なことではない。これまで古い洞窟壁画がヨーロッパからばかり見つかるのでヨーロッパに行った人類独自の文化の可能性もささやかれていたらしいのだが、しょせんはみんな同じ人類、洋の東西でおんなじことをするということなんだろう。もっとも最近ではさらに古いとされる壁画について「ネアンデルタール人が描いた」とする説も出てきていて、「絵を描く」ことが現生人類だけの特殊能力なのかどうか、まだまだ議論の余地がありそうだ。 



◆トルコの大使のコスプレが

 前回も触れたが、いまBS日テレで「オスマン帝国外伝・愛と欲望のハレム」が放送中。トルコ直輸入の大河歴史ドラマで、オスマン帝国の最盛期スレイマン大帝の治世を、その宮廷を中心に描いた大作で、主人公はもちろんスレイマン。そしてその寵妃となるロシア出身のヒュッレム、スレイマンに幼少期から仕え宰相に抜擢されるギリシャ人イブラヒームの二人がスレイマンと「三角関係」をなしてあれこれ繰り広げる構造になっている。洋の東西、「大奥もの」は似たような感じになるなと思うばかりなのだが、それだけでなく当時のオスマン帝国が「多民族・多文化帝国」であったこともいろいろ見えて来るところも面白い。
 宰相となるイブラヒームだが、ドラマ中でもギリシャの故郷に一時帰る場面がある。当然イスラム教に改宗はしているのだが、屋敷の庭園にギリシャ神話の神々の彫刻を飾ったりして、「偶像崇拝禁止」のイスラム教的に問題になっちゃう描写もある(美術品、と見なせば別に問題ないんだけどね)。周囲からは「フランクのイブラヒーム」と呼ばれていたといい、この場合の「フランク」とはかつてのフランク王国に由来する表現でイスラム圏では「ヨーロッパ」をおおまかに指すものだから、彼がオスマン宮廷にあってもなんとなく「よそ者」的に見られていたということだろう。

 オスマン帝国の支配下に長年あったギリシャはヨーロッパ列強を後ろ盾に19世紀前半に独立する。しかしギリシャ・トルコ国境は現在と異なりまだ入り組んでいて、現実には雑居状態が続く。近代トルコ国家の父であるケマル=アタチュルクだって今日でいえばギリシャ領内の出身だ。オスマン帝国がどんどん衰退し、第一次世界大戦の敗戦でその滅亡が決定的になると、ギリシャはかつての「ビザンツ帝国」の復興を狙ってトルコ側に攻め込み、これをケマル=アタチュルク率いる新生トルコが激戦の末に撃退、その後現在のような国境が画定してギリシャ人・トルコ人がお互いに「民族移動」を行ってすみ分ける形となった。キプロスが今なおギリシャ系とトルコ系で分断状態にあるのもこうした歴史事情の名残だ。
 とまぁ、そんな歴史事情があるため、トルコとギリシャは時として相手に感情的になることもある。近親憎悪みたいなものでもあるが、隣国どうしというのはそういうものだ、と言ってしまえばそうなんだけど。近頃の日韓関係でもねぇ…どうも最近は日本側でもヘンに感情的なのが多くなってきて、ひと昔前と逆転してきてないかと思うこの頃。

 さて10月29日はトルコ共和国の「共和国宣言記念日」。1923年のこの日にケマル=アタチュルクがトルコ共和国の建国宣言をしたことに由来する実質的な建国記念日だ。こういう記念日にはその国の在外公館が記念イベントを催すのは定番だが、ウガンダの首都カンパラにあるトルコ大使館においても建国記念日を祝う行事が催されたが、このときトルコの駐ウガンダ大使セデフ=ユブザルプさん(女性)が「ギリシャ風のローブ」をまとったコスプレで登場した。同大使館の男性高官もギリシャかローマを思わせる「トーガ風」の衣装をまといオリーブの冠をかぶったコスプレをしていたという。

 このコスプレの様子を映した写真が、ウガンダ議会からツイッターに流れ、トルコ本国でも知られることとなった。特に民族主義系日刊紙が「トルコの大使がギリシャ風のコスプレをするとは!!」と激高して1面記事で盛大に叩いたという。そうした記事では大使のコスプレはギリシャ神話の「ヘレネ」(それこそギリシャを象徴する)、男性高官のコスプレは「ゼウス」であるとして攻撃したという。前述のような歴史経緯があるため、トルコではギリシャ風のコスプレなどというのは民族主義者としては許しがたいことなわけで、それを「共和国記念日」にやるとは大変なスキャンダルだ、と騒いだわけだ。

 騒ぎを受けて、トルコ外務省はこの駐ウガンダ大使を本国へ召還し調査を開始した。その後の報道で、ユブザルブ大使がなぜ「ギリシャ風」のコスプレをしたのかについて「なるほど」と思わされる解答が出ていた。大使当人は「ギリシャ風」のコスプレをしたつもりではなく、「トロイア風」のコスプレをしたつもりだったのだ。実はトロイアをふくむ遺跡群が1998年にユネスコの世界遺産に登録されてから20周年にあたる今年をトルコでは「トロイア年」と銘打ち、観光宣伝キャンペーンをしていて、大使はその一環として「トロイア風」のコスプレをしたということだったのだ。
 かつての「トロイア」にあたる遺跡は現在はトルコ共和国領内にある。トルコにとっては大きな観光資源だが、ホメロスが歌ったトロイア戦争の「トロイア」はまぎれもなくギリシャ・エーゲ文明の一角だった。トロイアの宣伝コスプレをしたら「ギリシャ風だ!」と言われても、という困った話なわけで、こういう内部に敵を抱え込んだ状態を「トロイの木馬」というのかな、などとバカな方向に連想が飛んでしまった(笑)。



◆人類はゲンキを失った

 11月16日、フランスはベルサイユの国際会議場で開かれていた国際度量衡総会において投票が行われ、「キログラム」の定義を変更することが決定された。これまで「キログラム」の基準となるのはパリ郊外に厳重保管されている白金イリジウム製のキログラム原器、通称「ル・グランK」とされ、各国でこれの複製を作ってそれぞれの国の「キログラム」の基準とすることになっていたが、来年5月からはプランク係数などを利用した、より普遍的な基準に変更されることになったのだ。
 「キログラム」といえば日本も含めてメートル法を採用している国々では重さ、質量の単位としておなじみのもので、その基準が変更されるとなると大変なことに感じるのだが、実はすでに長さの「メートル」をはじめとする度量衡の基準の多くがそれまでの「原器」から他の方式に変更されていて、「キログラム」はその最後の一つとして残されていたもので、すでに十年以上前から基準の変更は提案されていたのだった。日常生活では特に問題は起きないのだけど、ミクロ世界を扱う業界ではごくごく微細な差が大問題となるため、どうしても変化をまぬがれない原器を基準とするわけにはいかなくなってきていたのだ。

 ここでちょっとメートル法の歴史の復習。
 「メートル法」はフランス革命の時に、革命の精神を生かした人類普遍の新しい度量衡単位を作ろうということで始まったもの。北極から赤道までの子午線の距離を測り、その1000万分の1の長さを「1メートル」と決定した。余談ながら、「アルセーヌ=ルパン」シリーズの名編『奇岩城』の中で少年探偵ボートルレが古い暗号の数字を解いて秘密の入り口を探す場面で、最初メートル法で測って失敗、「そうか、革命前にメートル法があるわけない」と気づいて古い単位で測り直すという描写がある。

 そうして作られた「1メートル」から、その100分の1の「1センチメートル」が生み出される。そしてその1センチ×1センチ×1センチの体積が「1立方センチメートル」。その1立方センチメートルの水の重さが「1グラム」となる。「キロ」は千倍を意味し、「1キログラム」は水1000立方センチの重さに等しく、それは1リットルの水の重さと同じ。ってな感じで重さ、質量の単位が作られていったわけだ。
 しかし制定した当初はふさわしい基準と思われていた「水」も、温度により体積が変化することが分かってきた。そうなると温度によって重さの基準も変わって来てしまうわけで、「氷から解けた直後の水」とかいろいろ条件を変えて見たりもしたが、結局1889年(エッフェル塔が出来たり大日本帝国憲法が出来た年ですな)に、当時としては最も精密な測定・製造により「ル・グランK」が作成されて、以後130年にわたって「キログラム」の基準とされてきた。なんで「グラム原器」を作らなかったかというと、まぁやっぱり小さすぎるからじゃないかな。「グラム」は「キログラム原器の1000分の1」という定義にされてるのだ。

 前述のようにメートル法を採用した各国はこの「ル・グランK」の複製を作り、40年に一度オリジナルとの差異を比較測定するという形で基準の統一を維持してきた。しかしそれでもこの世に不変のままでいられるものはなく、白金イリジウムの原器も経年劣化、ごくごく微細ながら質量を減らしてしまっていた。同様の問題は他の単位の原器にも起きていて、同じ1889年に原器が選定された「メートル」も。すでに1983年に「真空中で光が299792458分の1秒に進む距離」と覚えにくいが普遍性のあるものに再定義されている。

 というわけで、「ル・グランK」はじめ世界各国にある「キログラム原器」は御用済み、ということになるのだが、さすがに廃棄するわけではなく今後も保管はして「参考分銅」として活用されることも想定されているみたい。タイトルと違って人類はまだまだゲンキいっぱいである。



◆大戦終わって百周年
 
 11月11日は中国では「光棍節」なる「独身者の日」で、ネット通販が大きな売り上げを…なんてな話も聞くが、世界的に見れば「第一次世界大戦の終結記念日」。1918年11月11日にドイツ軍が連合国に降伏、休戦協定が結ばれて同日11時から発効した。つまり今年はちょうどそれから百周年となるわけで、フランスで盛大な記念行事も挙行された。当「史点」でも「〜から百周年」という話を初期からいろいろ書いているのだが、第一次大戦終結百周年はそれらのシリーズの一つの区切りでもある。

 11日に先立つ7日、かつて第一次大戦の戦場となったフランス北部の都市シャルルビル=メジエールで百周年の記念式典が行われ、フランスのマクロン大統領も参列した。このときマクロン大統領が演説の中で、第一次世界大戦時の英雄であり、なおかつナチス傀儡のヴィシー政府首班であったフィリップ=ペタンについて、「第二次大戦では悲惨な選択をしたが、第一次大戦では素晴らしい兵士であった」という趣旨の発言をして、ちょっとした物議をかもしている。前回とりあげたドイツでのロンメル賞賛発言と似ているような、より深刻のような、という話題である。

 フィリップ=ペタンは1856年生まれ。ということは第一次世界大戦の時にはすでに60歳前後だ。調べてみたら大戦勃発の時点で大佐、歩兵連隊長という、あまりパッとしない軍人だったが、当時の陸軍最高司令官ジョッフル元帥に才能を見出されてから戦功を重ねてドンドン昇進、特に1916年の「ヴェルダンの戦い」での活躍によりフランスの国民的英雄へと持ち上げられる。戦後に元帥となり、陸軍最高顧問としてあの「マジノ線」建設にも深く関わっている。第二次大戦ではその「マジノ線」に頼ってしまって裏をかかれ、ドイツのフランス本土侵攻を許すことになってしまうのだが、フランスの降伏後にフランス南部を統治する傀儡政権「ヴィシー政府」の主席の地位にペタンはおさめられてしまい、ドイツの敗北と共にペタンの評価は「国民的英雄」から「売国奴」へとまさにペタンと落ちてしまった。
 ペタンは戦後直後の裁判で一度は死刑判決を受けるが、元部下でもあるド・ゴールにより高齢(この時点で90歳に達していた)を理由に無期禁固刑に減刑され、1951年に流刑先の島で95歳で死去した。その後1958年の11月11日にド・ゴール大統領がペタンを「第一次大戦の英雄」と再評価してペタンの墓に花輪を贈り、これがその後も継続されたが、いろいろと批判があったのも確かで、1993年に当時のミッテラン大統領が花輪贈呈の習慣を打ち切っている。

 とまぁ、ペタンというのはこういう人物なので、歴史的評価の問題が深刻につきまとう。マクロン大統領の発言のように「第一次大戦では英雄だったが第二次大戦では…」と評されるのが一般的であり、一般人が歴史談義で話すぶんには特に問題ないのだが、フランス大統領の発言となるとやはり物議をかもしてしまうわけだ。実際、すぐに左派政党やユダヤ人団体がマクロン発言を「ペタン擁護だ!」と非難している。マクロン大統領自身は「私は何かを許そうとしたわけではない。しかし同時に、我々の歴史から何かを消し去ろうともしていない」という言い回しで弁解(?)し、「ペタンは重大な犯罪に加担した」と強調もしている。
 まぁ言ってること自体は歴史的に間違ってはいないと思うけどね。フランスでも最近は右翼勢力の伸長が見られ、こういう勢力がともすればペタンを評価して持ち出すということもあるようなので、言葉は慎重に選ぶべきではあろう。
 10日には第一次大戦の元帥らを記念する行事がパリで催され、そこではペタン元帥もちゃんと含まれていたらしい(その予定、という記事しか見てなくて)

 そして終戦記念日の11月11日。パリにフランス。ドイツ、アメリカ、ロシアなどなど第一次大戦に関わった各国の首脳を集めて盛大な式典が執り行われた。マクロン大統領は式典の演説の中で「古い悪魔が再び目覚めつつあり、世界に混沌と死をもたらそうとしている」と表現して、EU各国で高まりつつあるナショナリズムへの強い警戒感を示した。「『自国利益が最優先で他国のことなど気にしない』と言うことで、その国で最も大切なもの、つまり倫理的価値観を踏みにじることになる」と述べたくだりなどは、どう聞いてもトランプ米大統領の姿勢を指してるようにしか聞こえず、実際トランプさんは式典中うっと不機嫌そうだった。前日のマクロン大統領との首脳会談でも「アメリカ第一主義」や関税問題、マクロン大統領が言い出した「欧州軍」設立問題などでかなり激しくやりあったと伝えられ、式典後にはお得意のツイッターでマクロン大統領を連続でボロクソに攻撃、「第二次大戦だってアメリカのおかげで勝ったじゃないか」ってなことまで書いていて、フランス人の憤慨を買ってる様子。もっとも、マクロンさん自身も直後に「燃料税」値上げ反対の大規模デモが起こって支持率急低下という苦しい状況にあるそうだが。

 フランスだけでなく第一次大戦に参加した国々では百周年記念行事がいろいろ行われたそうなのだが(インドやオーストラリア、ニュージーランドでもあったそうで)、参戦国の一つのはずの日本では何かあったというニュースは聞いていない。ヨーロッパの激戦地には行ってないし、戦闘と言えば山東省のドイツ軍相手くらいで、しかもその後悪名高い「二十一箇条の要求」につながっていったりするから、「記念行事」をするのも気が引ける、というのが実情なんだろうか。


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