ニュースな
2019年2月9日

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★ご挨拶★
 本日、2019年2月9日は、巨匠・手塚治虫が亡くなってちょうど30年目にあたります。「史点」と特に関係はないですが、なんとなく「歴史的」なこととして一言書いておきたくて。あの衝撃の一報から三十年も経ってしまったのか、と僕自身の時間も振り返って感慨深いものがあります。
 で、当「ニュースな史点」の第一回は1999年2月10日付の記事でした。つまりそれから20年経ってしまったわけで…ヒエエ、恐ろしい。ニュースがゾクゾク来るから続いてるわけではありますは、正直なところずいぶん続けてしまったな、と飽きっぽい性格の僕自身が自分で驚いております。
 ま、今後もマイペースで書いていきたいと思いますです。どうぞよろしく。

◆今週の記事

◆北、見た、勝った?

 どうやらどうやら、長く続いた「マケドニア国名問題」も決着となりそうだ。昨年6月にマケドニアとギリシャの両首相の間で、「国名を『北マケドニア』に変更する」ことで合意が成立していたが、どちらの国でも猛反発する勢力があって承認が通るのかどうかと懸念されていたのだが、先月どうにかこうにか承認にこぎつけることとなった。昨年6月の合意段階では僕も先行き多難を予想していたが、多難ではあったものの半年で大きく前進したんだからたいしたものだ。

 まず「当事者」であるマケドニアでは、国名変更のために憲法を改正しなければならない。昨年9月に憲法改正の賛否を問う国民投票が実施されたが、国名変更反対を唱える野党勢力が投票ボイコットを呼びかけたため、賛成票の割合自体は9割越えと圧倒的に高かったものの投票率が37%しかなく(50%超えないといけないことになっていた)、不成立となってしまっていた。
 そこでマケドニア政府は国民投票ではなく議会で3分の2以上の賛成を得るという方法に切り替えた。今年の1月11日に、マケドニア議会で憲法改正案の賛否を問う投票が行われ、定数120の3分の2をギリギリで越える81票の賛成票が投じられてどうにか憲法改正は決定した。ここでも野党側が抵抗していて直前まで通過するかどうか危ぶまれていたのだが、野党議員のうち昨年の国会議事堂襲撃事件で逮捕された議員たちを救済する「恩赦法」なるものが制定され、それによって野党議員を何人か釣りあげることで「81票」をかろうじて確保するという、なかなかキワドイというか非常手段なやり方をとっていたのだそうで。まぁとにかく通過をしたのでマケドニアのザエフ首相は「未来への扉が開かれた」と高らかに宣言した。

 続いてはギリシャ。ギリシャの方はこの国名変更の合意について議会が過半数の賛成で承認すればいいわけだ。1月25日にその採決が行われ、定数300犠牲のうち153票が賛成という、これまたかなりキワドイ数ではあったが、とにかく議会の承認はなされた。ギリシャのチプラス首相は「今日は歴史的な日だ」とツイッターでつぶやき、ザエフ首相もチプラス首相をツイッター上で祝福、「我々は人々と共に歴史的勝利にたどりついた」と自画自賛した。
 両国ともに承認手続きをクリア、ここに1991年のユーゴスラヴィア連邦崩壊で「マケドニア共和国」が独立して以来、実に四半世紀以上に及んだ両国の国名問題は解決されることとなった。EUのトゥスク大統領も「両国は不可能な任務を達成した」と称賛したように、これ、ホントに解決できるのかよ、と思われてきた難題だったのだ。

 もちろん、ほんとに薄氷の上での「解決」であり、双方の国民で「絶対妥協するな」と徹底反対を主張する人は少なくない。ギリシャのある世論調査では、実に62%が「『北』がつこうが『マケドニア』と名乗ること自体に反対」としており、賛成は27%程度だったとか。昨年中にも大規模な反対デモが起きていたし、それほどの規模ではないにしても採決を行ってる議会前で「マケドニアの名を売り渡すな!」と叫ぶデモ隊がいたという。
 マケドニアといえばアレクサンドロス大王、であるだけにギリシャ人としては「我が民族の英雄」みたいになってて譲れないものではあるらしい。オリバー=ストーン監督の映画「アレキサンダー」の一部描写をめぐって猛反発が起きてたこともあったし。しかし当時のマケドニアって、ギリシャ人たちからは「バルバロイ(野蛮人)」扱いされていたし、アレクサンドロスに対してもその征服に反抗した歴史もあるので何を言ってるんだ、と前から思ってるんだが…アレクサンドロスは征服の過程で諸民族・文化の融和・融合をめざしたとされてるんだから、今のギリシャの態度はアレクサンドロスの考え方からもずいぶん遠いんじゃないのかなあ、と。まぁ現在のマケドニアも場所が同じというだけで後から来た南スラブ系のまったく違う民族で、それでいてアレクサンドロスを何かと自国のシンボルに持ち出したりしてるからケンカにもなるわけで。

 ともあれ、この決定により、交換条件であった北マケドニアのNATO加盟にギリシャが同意、2月6日にとっととNATO加盟が実現した。将来的にはEU加盟も見込まれていて、北マケドニアにとっては得るものは確かに大きい。NATOおよびEUはバルカン半島にいっそう手を伸ばすこととなり、それをいやがるロシアが、マケドニア国名変更反対勢力をバックアップしていたりして、バルカンの「ヨーロッパの火薬庫」状態はまだまだ続いてるなぁ、と思わされてしまう。

 そんな情勢の一方で、イギリスのEU離脱派3月29日に迫りながら、EUとの離脱条件の合意はイギリス議会で圧倒的大差で否決され、このままでは「合意なき離脱」による混乱が起こるんじゃないかと懸念されている。この合意にからめて問題となってるのが、やはり「北」のつく国、「北アイルランド」だ。イギリス=連合王国を構成する一国だがアイルランド島の北の一角にあり、今なおカトリックのアイルランド系とプロテスタントのイギリス系との対立がくすぶっている。お隣アイルランドとは地続きで、同じEUにあるうちは国境はないも同然だったが、イギリスがEU離脱となるとこれがどうなるのか。アイルランド側もこの状況を注視していて、一部では「いっそアイルランドを統一しちゃうか」なんて見方も出て来てるらしく…

 あ、そうそう。もう一つの「北」の国である朝鮮民主主義人民共和国とアメリカ合衆国の二度目の首脳会談は2月27日にベトナムで開催されることが発表された。どうなるか見ものではあるが、そもそも朝鮮戦争を戦った国の首脳同士が、ベトナム戦争のあった国で会談するって組み合わせ自体が歴史的だと思うんだよなぁ。



◆ベネズエラ南北朝時代

 つい先日、ベネズエラ映画という珍しいものを見た。正確に言うとベネズエラ・スペイ合作映画で、「リベレイター」という邦題というより英題がついていた。原題は「LIBERTADOOR」でスペイン語で「解放者」のこと。19世紀に当時スペインの植民地であったベネズエラをはじめとする南米諸国を「解放」して「大コロンビア共和国」を作った世界史上の英雄シモン=ボリバルを主人公とする映画だ。

 「ボリビア」という彼の名に由来する国が存在するように、シモン=ボリバルといえばまさに「南米解放の英雄」だ。母国ベネズエラではなおさらで、特にあの何かと「史点」に話題をふりまいてくれたウゴ=チャベス前大統領はボリバルをしきりに持ち上げ、恐らくは自身と重ね合わせて権威高揚にも利用した。ボリバルの墓を発掘したり、正式国名を「ベネズエラ・ボリバル共和国」に変えることまでした。映画「リベレイター」は2013年に完成・上映されているので、当然チャベス大統領のこうした姿勢が製作の大きな原動力となっていたはず。
 しかしその映画の完成を見ることなくチャベスは2013年3月に58歳の若さでガンにより死去している(当時の「史点」がこちら)。その直前に南米の反米姿勢の政権首脳に病気が多かったことからチャベスは「アメリカの工作」と疑っていたので、当然自身のガン死についてもそう確信しつつ世を去ったのだと思う。それを反映してるんじゃないかと思えたのが「リベレイター」のラストで、史実では失脚して間もなく失意のうちに病死したとされるボリバルが、暗殺されたのではと強く示唆する描写になっていた。チャベスがボリバルの墓を発掘して遺体を調べさせたのも「暗殺説」を信じたから、とも言われていたっけ。

 チャベスの死を受けて、副大統領から昇格する形で権力を引き継いだのがニコラス=マドゥロ現大統領だ。直後に行われた大統領選に勝利し、2018年の選挙でも再選されて現在二期目。もともとチャベスの腹心なので「反米・社会主義」のチャベス体制を引き継いでいて、反チャベスの野党勢力ひいてはアメリカと激しい対立を続けている。昨年の大統領選挙についても野党候補を事実上排除するなどしていて「不正」との批判が「西側諸国」(なんだかんだで消えないな、この用語も)を中心に上がっていて、今年1月10日に行われた大統領就任式もボイコットした国が多かった。国内経済も破綻状態で170万%というハイパーインフレを引き起こして数百万もの国民が国外へ逃れたと言われている。昨年8月にはマドゥロ大統領をドローンで狙った暗殺未遂騒動も起きているし、もはやグチャグチャな状況だ。チャベス存命の頃の方がまだマシだったかもしれない。

 さて1月23日、国民議会の議長であるフアン=グアイド(35)が、突然「暫定大統領」となることを宣言した。「権力強奪に終止符を打つために大統領権限を正式に引き受ける」とグアイド氏は首都カラカスの群衆の前で演説、自らが「正統」の大統領になったと表明したのだ。アメリカのトランプ大統領派当然のこと、最近右派政権に変わったブラジルをはじめ南北アメリカ諸国の多くが「グアイド大統領」を支持、承認した。一方でもともとチャベス時代から「社会主義国」として友好関係にあったキューバやボリビアなどは「マドゥロ大統領」を支持している。全世界に目を向けると、西ヨーロッパはおおむねグアイド支持、ロシア・中国・北朝鮮・イラン・トルコ・ギリシャ・南アフリカなどがマドゥロ支持を表明している。一部例外を除いてかつての「冷戦構造」を思わせる色分けにんっているわけで(「反米」「親米」の色分けともいえるな)。日本はいまのところ態度を明確にはしてないみたいだが、基本的にはアメリカに歩調を合わせるだろうな。

 グアイド議長が「暫定大統領」を名乗ったことに対し、マドゥロ大統領側は「石油利権を狙うアメリカの策謀」と非難していて、直後にアメリカに国交断絶を通告している。実はベネズエラは石油埋蔵量が世界一とされている国で、チャベス時代からアメリカと小突き合っている背景に「石油」の影がチラついてきたのは確か。石油はともかくアメリカは近場に「反米国家」があるのを嫌って実際にCIA工作や軍事介入で政権打倒をしてきた歴史もあるから、「アメリカの策謀」がないとは言い切れない。トランプ政権も情勢によってはベネズエラへの軍事介入も選択肢のうちとはしているのだ。

 こういう「二人大統領」状態、まぁ日本の南北朝時代みたいなもんですか、などと南北朝マニアとしてはちょっとワクワクしちゃうのだが(笑)、こうなってくると鍵を握るのは結局「軍」だ。それが分かっているからグアイド氏は「デモに参加する市民に発砲するな。ベネズエラの再建に参加を」と軍の兵士たちに呼びかけている。報道によると空軍将校の一部にグアイド側につく動きがあるらしいが、この文を書いている時点では軍部の大勢はマドゥロ支持のままであるという。国民の間でも貧困層を中心にマドゥロ支持は結構いるとされていて(つまり富裕層が反体制・親米になる)、今すぐマドゥロ政権崩壊とはならないのかな、という見方もあるようで。ただ、この手のことはいったん動き出すと早いからなぁ。今年じゅうに何らかの決着がつくような気もしている。
 


◆墓掘れワンワン

 前回、昨年末の話題として、4000年以上前のエジプトの神官の墓の発見の話を書いた。それに比べれば2000年もあとというからエジプト史で見れば「近代史」になってしまう時代の墓から、40体以上のミイラが発見されたことが2月に入って報じられた。ミイラ発見には事欠かないエジプトでも一つの墓からこれだけ大勢見つかるのは珍しいようだ。
 発見されたのはエジプト中部ミニヤの遺跡。裕福な人物の墓であったらしく、その墓の内部の床や壁のくぼみ、あるいは土の中に40体以上のミイラが安置されていた。石棺や木棺に納められたものもあったという。ミイラになっていたのは大人の男女から子供までさまざまで、恐らくは同じ一族だったのだろう。古代エジプトでは死後の魂が戻れるように遺体をミイラにしたのだが、その処理ができるのもある程度裕福なひとでないと難しかったらしいし、これだけ大勢の一族をミイラにできるだけの財力があったんじゃないかと。

 墓の中からはパピルスの断片が見つかり、そこから墓の作られた年代が、古代エジプト最後の王朝である「プトレマイオス朝」時代と推定されたとのこと。プトレマイオス朝はアレクサンドロス大王の部下であったプトレマイオスが紀元前320年に建国し(昨年は「アレクサンドロスの棺か」という騒ぎもあったな)、あの女王クレオパトラが死んでローマ帝国に征服されることで前30年に滅亡した王朝でだから、おおよそ2000年前の墓ということになる。まぁそれだけで十分に古い話なんだが、これが古代エジプトの歴史の末期で、その歴史はさらにそこから2000年以上もあるんだもんなぁ。
 ミイラと言えば、やはり2000年ほど前のものとされるペルーで発見された幼児のミイラが、アメリカの博物館からペルーに返還されることが決定、なんてニュースもあった。ここんとこあちこちで続いている「文化財返還運動」の表れの一つですな。


 続いてそのプトレマイオス朝から600〜800年ほどのちの日本・飛鳥時代の墓の話。
 2014年に、奈良県明日香村の看護学校の建て替え工事中に発見された「小山田古墳」という古墳がある。奈良県は古墳だらけの地域といっていいが、これは全くの未知の古墳で、しかも案外規模が大きい方墳(おなじみの前方後円墳ではなく四角形のやつ)ということで注目されていた。調査を進めていた橿原考古学研究所が1月31日に発表したところによると、この小山田古墳の南側の一辺は長さ80m以上はあり、飛鳥時代に作られた方墳としては「日本最大」の方墳であるらしい、というのだ。
 確認されているもので日本最大の方墳は奈良県橿原市にある「桝山古墳」だが、これは古墳時代の5世紀のものとされている。小山田古墳と同じ飛鳥時代のものとしては千葉県印旛郡栄町の「龍角寺古墳群」に含まれる「岩屋古墳」が一辺78mの方墳で、同時期の方墳としては最大とされてきた。この「龍角寺古墳群」は以前「房総風土記の丘」という考古学施設になっていて、僕も比較的近くに住んでることもあって子供のころから何度か遊びに行ってたし、実は博物館実習もそこで受けたりしていて何かと縁があるのだが、この岩屋古墳も名前こそ覚えてなかったが、そばで見た記憶はあった。あれってそんなにデカいやつだったのかと、この報道記事を読んでてむしろそっちに驚いたりしてたのだが、とにかく小山田古墳はそれを少しばかり上回るわけだ。

 同時期の方墳を見渡すと、大阪府太子町にあって宮内庁が敏達推古両天皇の陵墓としている「山田高塚古墳」が59×55mの方墳、同じく太子町にあって聖徳太子の父・用明天皇の陵墓と宮内庁が決めている「春日向山古墳」が65×60mの方墳で、「小山田古墳」はそれらを上回る大きさということになり、あるいは「大王陵クラス」という話になってくる。
 橿原考古学研究所では小山田古墳の築造年代を640年ごろと推定していて、この時期に墓が築かれる大王としては、舒明(じょめい)天皇の名が挙がってくる。舒明天皇はおよそ有名とは言い難いが、皇后が皇極・斉明女帝で、子に天智天皇(中大兄)天武天皇(大海人)がいるという人物。641年に亡くなっていて、まず「滑谷岡」に葬られ、さらに「押坂陵」に回想されたと『日本書紀』は記している。宮内庁では奈良県桜井市の「押坂内陵」を舒明天皇陵墓に定めているが、学者の中には今回話題の小山田古墳こそが最初に舒明が葬られた「滑谷岡」ではないか、と主張する人がいるようだ。
 一方で同じ明日香村にあり、蘇我馬子の墓といわれる「石舞台古墳」との関係から、馬子の子で、蘇我入鹿の父である蘇我蝦夷が被葬者とする説も出ている。この時期だと大王家(天皇家)と蘇我氏はさして差はなかった、なんて話もあるからなぁ。『日本書紀』では蝦夷と入鹿はそれぞれ「大陵」「小陵」という大王クラスの墓を築いたとされていて、小山田古墳が「大陵」、その近くにある「菖蒲池古墳」が「小陵」とする見解もあるそうで。ま、とにかくこうした大型古墳も誰が被葬者か確定してないものばかりで…漫画「究極超人あ〜る」でも修学旅行のバスガイドさんが「まあほんとはだれが埋まってるかわかったもんじゃない」って言ってたしなl(笑)。僕としては発見場所が看護学校だけに「ジョメイ(助命)」の方が有力、なんて思ってたりして。


 最後に、イギリスから。ぐっと時代はくだって、18世紀から19世紀を生きた人物のお墓に関する話題だ。
 1月25日、イギリス政府はロンドンの高速鉄道建設の工事現場で、探検家マシュー=フリンダース(1774-1814)の遺体(遺骨)を発見した、と発表した。不覚にも「誰それ」と思ってしまった僕だが、調べてみればなるほど重要人物。航海者・探検家で、1801年から1803年にかけてオーストラリア大陸をぐるぎと回る航海を行い、1814年に「テラ・オーストラリスへの航海」という探検記を出版してその直後に亡くなっている。「テラ・オーストラリス」とはラテン語で「南方大陸」を意味し、かつては伝説上の存在で、現在の「オーストラリア大陸」発見後はこれを指す言葉へとシフトした。特にフリンダースはそれに由来して「オーストラリア」と呼ぶことを強く主張した張本人で、いわば「名付け親」ということでオーストラリア各地に銅像があったり通りの名前になっていたりするという。

 そんな大物なのだが、彼を葬ったロンドンの墓地が1840年代の鉄道工事のために移転した際、手落ちでもあったらしくフリンダースの墓がどこに行っちゃったのか分からなくなってしまっていた。それから80年近くが過ぎて高速鉄道工事のためにその棺が「再発見」され、プレートに名前があったことからフリンダースのものと確認された。いずれ近くの庭園に埋葬することになるそうだが、「再発見」のきっかけを作る形になった高速鉄道会社の幹部は「彼の業績を学ぶいい機会となった」とコメントしたそうで。実際僕もこの件で初めて知ったもんな。



◆一世紀の時を越えて

 昨年は第一次世界大戦終結から百周年だった。そして今年はヴェルサイユ条約締結百周年を迎える。それに絡めて三・一独立運動と五・四運動から百年目ということにもなるのという話は以前も書いた。
 そんな百年前の戦争の「遺物」が、香港にあるカルビー子会社のポテトチップ生産工場が仕入れたジャガイモの中から発見されて、世界の話題となっている。フランスから仕入れたジャガイモの中に、なんと第一次世界大戦時にドイツ軍が使った「手榴弾」が紛れ込んでいたのだ!

 「手榴弾(てりゅうだん)」とは、もちろん今日でも通常兵器としてよく使用される、安全ピンを抜いてそれっと敵に向かって手で投げて爆発させる、映画などでもおなじみのアレである。ああいった安全装置つきの手榴弾が本格的に使用されたのも第一次世界大戦からであるという。今度ジャガイモの中から発見された「手榴弾」の写真を見ると、ほぼ球状のまんまるなタイプで、土もついて茶色くなり古びていたせいもあってジャガイモと区別ができず「収穫」されてしまったとみられる。いろいろ英語で検索かけて画像をネット上に探してみると確かに第一次大戦時にこうしたタイプのものがあったみたい。詳しくは分からなかったが、こういうのは初期型タイプなのか、やがて投げるのに便利な「柄(え)」がついた長いタイプになってゆき、敵方のイギリス兵からはその形がジャガイモをすりつぶす棒に似てるということから「ポテト・マッシャー」と呼ばれることになるんだとか…と、ヘンなところでジャガイモと話がつながってきたりする。

 今度の手榴弾がフランスのどこで「収穫」されたのかは不明だが、第一次世界大戦の西部戦線となったフランス北部ということでだいたい間違いないだろう。あるとき戦場でドイツ兵が投げたのだろうが不発に終わり、その後戦場はジャガイモ畑に変わって
100年後にジャガイモと一緒に船に積まれて東アジアの彼方に運ばれ、あわやポテトチップにされるところだったなんて、なんだか「歴史的浪漫」を感じてしまうではないか。
 なお、フランスはジャガイモ生産世界第10位、輸出量ではなんと世界第二位をほこる「ジャガイモ大国」であって(輸出一位はオランダというのはちと意外)、香港の企業がはるばる輸入してるのも納得なのだった。生産国一位は香港のすぐそばの中国なのだが、まぁ何か理由があるんだろう。日本国内のカルビーなどのポテトチップスは北海道をはじめとする国内さんジャガイモを材料としていて、そういえば一昨年に北海道を襲った台風の影響でジャガイモが不作となりポテトチップス生産に影響が出ていたりしたっけ。

 ジャガイモに紛れ込んでいた手榴弾は、不発だっただけに起爆部分はついておらず、即爆発する心配はなかったみたい。もちろんポテトチップにするためにスライスされたりしたら火薬があるだけに一定の危険はあったかもしれないが(報道によると工場で荷物を開いたあたりで職員が見つけたらしい)。一応爆破処理班が出動して工業団地内で爆破処理、けが人なども一切でなかった。
 百年も前の話だから、この手榴弾を投げたドイツ兵は戦死してないにしても、すでにこの世の人ではない。どんな兵士が投げたのか、その兵士はどんな人生を送ったのか、知る由もないだろうが想像をめぐらしたくなる。その彼が投げた手榴弾が一人の人も殺さず、百年後に世界の人々にささやかな笑いのタネとなるというのも、なかなか面白い運命ではないか。僕としては歴史の貴重な資料、ポテチではなく平和を考える材料として保管するという手もあったんじゃないかと思うんだよね。
 1月22日にはドイツのメルケル首相とフランスのマクロン大統領が、両国の関係をさらに深める新たな「独仏友好条約」を締結している。近代史上何度となく戦火を交えた両国だが、今やEUの中核として結束を固め合う仲(それぞれに大変な事情を抱えてるけど)。今度の一件を記念して両国で「ジャガイモ投げ祭り」でもやっては…と思ったが、ジャガイモでも当たれば死人も出るか。じゃあポテトチップの投げ合いということで(笑)・


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