ニュースな
2019年3月4日

<<<<前回の記事
次回の記事>>>

◆今週の記事

◆あの写真のもうお一人も

 いささか旧聞に属してしまうが、2月19日に当サイトの「史点」過去記事、2016年9月25日付に妙にアクセスが増えた。といっても一日三ケタまではいかない程度なのだが、こういうことがある時は何かそこに載ってる記事と関連するニュースが出た時だ。さあ何かな、と調べてみると、あの「対日戦勝日のタイムズスクエア」という有名な写真(右下)に写っていたキスする男女二人のうち、水兵の男性の方のジョージ=メンドンサさんが2月17日に95歳で死去したとのニュースが流れていたのだ。アクセスが集まった「史点」過去記事には同じ写真でメンドンサさんとキスしている女性・グレタ=ジマー=フリードマンさんが92歳で亡くなった話題を扱っていたのだ。

 この写真については以前の記事で詳しく書いちゃってるので、そっちの記事を読んでもらいたい。その記事ではメンドンサさんについては「存命と思われる」と書いてるくらいで、ほとんど情報が得られなかった。その時点での年齢すら不明で、今度の訃報でやっと判明した。96歳の誕生日まであと二日だったというから、あの「キス」の日、1945年8月14日(現地時間)には22歳だったということになる。
 その日、メンドンサさんは休みの日で、恋人のリタさんと一緒にタイムズスクエアに映画を見に出かけていた。映画館を出ると外が騒がしいので何かと思ったら「日本が降伏した」とみんなが喜び騒いでいたので、メンドンサさんも大はしゃぎ、近くにいた見ず知らずの女性にいきなりキスをしてしまい、それが写真にばっちり撮られてしまうことに。なお、このキスの場面は数枚撮られていて、アングルによってはデート中だった恋人のリタさんも後ろに映っているそうである。幸い、彼女の目の前でのキスはメンドンサなことにはならなかったようで(ま、当人間で何があったかは分かりませんが)、やがてメンドンサさんはリタさんとめでたく結婚している。

 メンドンサさんは歴史的な写真に写っているのは自分だと早くから主張していたらしい。公式には1987年に名乗り出ていて、この写真が自分の許可なく撮影掲載されたとして、肖像権の侵害であると掲載した雑誌社などを訴える裁判を起こしている。裁判は結局敗訴となり、彼が例の写真の「キス男」であるという確認もなされなかった。実はこの写真については「自分こそがそのキス男である」と名乗り出た人物が複数いて、決め手を欠いている状況だったのだ。
 その後、2005年に海軍大学校の調査チームが写真に写るタトゥーなどから「キス男」がメンドンサさんであることを公式に確認した。2009年の独立記念日に行われたイベントでメンドンサさんはフリードマンさんと共に招待され、キス写真以来およそ64年ぶりの再会を果たしている。
 2016年9月8日にフリードマンさんが92歳で死去、メンドンサさんも長命を保ったが、2月17日にロードアイランド州ミドルタウンの養護施設で転倒して発作を起こし、そのまま息を引き取ったとのこと(娘さんが取材にそう答えていた)。彼個人はそう波乱な人生を送ったわけでもないらしいが、「歴史的写真」にはしゃいだおふざけが写されてしまったことで歴史に名が残る形になってしまった。訴訟をしたところを見ると当人にとっちゃ正直恥ずかしい記録だったのかもしれないが。


 ついでに…などと書いては失礼ながら、同じ時期に同じ年代の方が亡くなったので取り上げておきたい。2月24日に、日本文学研究者であるドナルド=キーンさんが亡くなった。この人も96歳で、メンドンサさんとほぼ同世代ということになる。
 1922年にニューヨークで生まれたキーンさんは、両親が離婚して母子家庭という境遇ながら飛び級制度により16歳でコロンビア大学に入学、ここで最初は中国語と漢字を学ぶが、18歳の1940年にタイムズスクエア(おっ、ここで「キス写真」とちょっとつながるな)で「厚さの割に安い」というだけの理由で英訳版『源氏物語』を購入したことをきっかけに日本文学史にのめりこんでゆく。もっとも同時並行でフランス文学研究にもんめりこんでいたというから、言語的センスがずば抜けた多才な人であったことが分かる。友人から「フランス文学より日本文学のほうが研究者が少ない」と勧められて日本文学研究になったという話もあるくらいで、当初は何が何でも日本一本ってことではなかったようだ。

 太平洋戦争が始まると、日本語ができたキーンさんは日本兵捕虜の尋問や、日本軍撤退後に残された書類解読などの仕事にあたった。日本の軍国主義と日本文化の優雅さのギャップに悩むこともあったそうだが、兵士たちの日記や捕虜たちとの会話から彼らの人間性に触れて安堵したとも語っていた。日本軍が米軍を出し抜いてまんまと撤退したことで有名なキスカ島にも入っていて、日本軍軍医がイタズラで書き残した「ペスト患者収容所」という看板をその通りに読んで報告、米軍をパニックに陥れるという一幕もあったという。
 戦後は日本文学研究者としての道を歩み、古典から現代文学まで幅広く世界に紹介する偉業を果たした。三島由紀夫安部公房をはじめ現代日本を代表する作家たちとも交友があり、1960年代にはノーベル文学賞の選考に参考意見を求められていたことが明らかにされている。2008年には外国人研究者として初めて文化勲章を授与され、2011年の東日本大震災を機に日本国籍を取得(それ以前から希望していたことではあったそうだが)、日本に骨をうずめる決意を表明して大きな話題となった。

 メンドンサさんもキーンさんも、青春期に第二次大戦を経験した世代である。こうした世代がますます少なくなってくる昨今である。



◆ゼンゼン違うんですっ!

 いきなり個人的な話になるが、僕の父方の家系は曹洞宗(そうとうしゅう)の信者ということになっている。先祖の地は宮城県の栗原にあり、そこにあるお寺が曹洞宗で事実上他に選択肢がなかった、というだけの話のようだが。父の代からそちらとはほとんど縁が切れているし、家族全員完全無宗教状態なので、今さら曹洞宗とは何の関係もないのだが、一応日本に曹洞宗を持ち込んだ道元を主役とする映画「禅ZEN」はわざわざ劇場に見に行った。予想はしたけど全編座禅を組まされてるような気分の映画だったなぁ。

 さてその曹洞宗よりやや早く栄西によって日本にもたらされていたのが臨済宗(りんざいしゅう)だ。どちらも、いわゆる「鎌倉仏教」にふくまれるものとして中学校レベルの歴史で覚えさせられ生徒たちを苦しめているが(笑)、曹洞宗・臨済宗は「禅宗」というグループにまとめられるのが一般的。他の鎌倉仏教では浄土宗・浄土真宗・時宗が「念仏」のグループにまとめられ、日蓮宗は特にグループ化しないという扱いを受ける。曹洞宗も臨済宗も座禅が絡んでくるし自分で悟りを開くという姿勢があることから「禅宗」とまとめられているわけで、場合によっては「曹洞」「臨済」といった区別はせず「禅宗」としか習わないケースもある。少なくとも曹洞宗と臨済宗がどう違うかなんて説明はまずしない。僕は授業の中で一応違いを説明してるけど、それはあくまで雑学であってテストなどで出題されたケースもほとんどないと思う。

 そういう中学歴史教科書での扱いに、ついに曹洞宗・臨済宗がキレたらしい。2月21日に、臨済宗・黄檗宗連合各派合議所(京都市)と曹洞宗宗務庁(東京都)が共同で中学歴史教科書出版社5社に対して「禅宗とひとくくりに表記しないように」という要望書を送ったことを発表した。報道によると特に曹洞宗でこの件が数年前から問題視されていたようで、文化庁が発行する「宗教年鑑」でも「禅宗」とまとめられていることに曹洞宗が要望を出し、2018年版から「臨済宗 曹洞宗」と併記状態に改められたという。曹洞宗は昨年にも歴史教科書出版各社に「なぜ禅宗とまとめているのか根拠を示せ」という質問書も送ったとのことで、今度は臨済宗も加わっていっそう攻勢をかけることになったようだ。

 中学歴史教科書を商売道具にしてきた僕などは「何を今さら」という気もしたが、宗教というのは、それぞれ「正しい」と考えることが違うからこそ宗派が分かれてゆき、ともすれば近い立場同士で相いれないほどの対立関係になったりする。現在の曹洞宗と臨済宗がそれほど対立してるとは思わないが(そもそも今回は共同戦線を組んだわけで)、同じ「禅」を掲げながら宗派が異なるのはそこに当然重大な違いがあるわけ。他人から見れば大した問題に見えないけど、宗教家当人にとっちゃ自身の存立にかかわる重大問題ではあるだろう。
 2月15日付で歴史教科書出版各社に送られた要望書の中には「『臨済宗』と『曹洞宗』の分裂は、1300年近く前の中国以来のことと認識している」というくだりがあったという。1300年前というと西暦700年ごろということになる。中国禅宗の祖は5世紀にインドからやってきたボッディー=ダルマ(菩提達磨)とされ、それから6代目の弟子・慧能(638-713)の弟子のうち青原行思(?-740)の系統がやがて曹洞宗となり、南嶽懐譲(677-744)の系統がのちに臨済宗となった、と調べてみた限りでは大雑把にそういう筋書きであるようで、「1300年前」というのはこのことを指しているようだ。

 宗派の分裂は後世の「後付け」でさかのぼる形で作られたところもあるようで、この1300年前の段階ではそう対立はなかったみたい。臨済宗と曹洞宗が激しく対立したのは宋代のことで、臨済宗の大慧宗杲(1089-1163)と曹洞宗の宏智正覚(1091-1157)とが「禅」の在り方をめぐって激しい論戦を交わしている。どこがどう違うのかというと、臨済宗では「公案(くあん)」とよばれる問題をめぐって師弟が議論する(いわゆる禅問答)を重視するのに対し、曹洞宗は「只管打坐(しかんたざ)」といってひたすら座禅を組んで瞑想することを重視する。
 宋代以降、中国では臨済宗が優勢となり、日本にも多くの渡来僧がやって来て特に権力者である上級武士層の支持を得て隆盛した。いわばインテリ好みというんだろうか。曹洞宗は基本的に難しいことは言わず、「ただ座禅せよ」ということで、道元が日本に持ち込んで主に下層武士層や庶民の支持を受けたとされている。
 なお、今度の報道で「臨済宗・黄檗宗連合」という言葉が出てくる。「黄檗宗(おうばくしゅう)」というのは江戸時代初期に来日した隠元隆g(1592-1673)から始まる臨済宗系の宗派。隠元といえば「インゲンマメ」を日本に持ち込んだことになってる人ですな。この宗派は江戸時代に隆盛したが明治初期に政府のお達しで一度は臨済宗に組み込まれてしまった過去もあるとかで、今でも「連合」なんて組んでるのもそういう事情か。しかしまぁ「臨済宗・黄檗宗連合各派合議所」という名前、看板の字面だけ見てると何だか怖い方面の方々の集会所みたいで(汗)。こんなところから要望書を送られたら教科書会社も慌てて書き換えたりすることになるんだろうか。
 


◆統計から元号まで

 もう数の勝負で予算も衆院通過してしまったが、今国会で騒ぎの一つとなったのが「統計」の問題だった。厚生労働省の毎月の勤労統計の不正調査が発覚したのを皮切りに、あれやこれやと政策の根拠となる統計の数値に疑念が出る事態が相次いだ。そもそも「戦後最長の景気」とかホントなのかよ、とその実感のなさがささやかれていたこともあり、政府の思惑で数値を工作している、あるいは官僚側が昨年来の流行語「忖度(そんたく)」により数値をごまかしていたんじゃないかとの疑惑も出ているが、結局これらもウヤムヤのうちに流されていきそう。昨年の森友・加計両学園問題でも似たような展開になったもんな。

 この統計問題に関連して、国会のやりとりでちょっと面白いものがあった。2月18日、立憲民主党の長妻昭議員が質問のなかで麻生太郎・副総理兼財務大臣の著書『麻生太郎の原点・祖父吉田茂の流儀』(2000年刊行)から、吉田茂マッカーサーの「統計」をめぐるやりとりの箇所を引用したのだ。
 この二人のやりとりであるから、もちろんGHQによる日本占領期。当時日本の実質最高権力者であったマッカーサーが「日本の統計はいい加減で困る」と吉田茂首相(当時)に愚痴ったことがあったという。すると吉田は、「当然でしょう。もし日本の統計が正確だったら、むちゃな戦争などいたしません。また統計通りだったら日本の勝ち戦だったはずです」とやり返した、というエピソードである。長妻議員は「戦前、戦中は統計がいいかげんで、権力者の意のままに使われた。非常に示唆に富む話だ」とし、この逸話が事実かどうか著者である麻生財務相にただしたところ、麻生大臣は「小学生のころに何度か聞かされた。おおむね事実」と回答していた。そういや麻生さん、小学生時代に祖父の閣僚候補者名簿を手に持たされて「組閣」に関与させられてしまった、なんて逸話もあったな。

 太平洋戦争開始前において、日本のこの手の統計がいい加減なものだったという話は僕も聞いたことがある。いや、統計を作る官僚たちがいい加減だったということではない。対米英戦開戦直前に各分野の官僚たちが国力の正確な試算をして戦争の経過を予測、数年以内に敗北必至という、まさしく「正確」な予測をはじき出していたのだ。だが開戦しか頭になかった軍部はそれを無視した。開戦後も、日本軍はガダルカナルだのインパールだので補給専門家からの「無理」という指摘を強硬派が無視して作戦を実行、多数の餓死者・戦死者を出す結果となったことも知る人ぞ知るだ。

 いま「無視」と書いてしまったが、正確に言えば開戦や作戦実行にGOサインふが出せるように統計の方を工作したのだ。統計だけではない。海軍では作戦前に図上演習といって一種のシミュレーションゲームを行ってその成功の是非を占うのだが、砲撃が命中するか否かというランダムな要素はサイコロを振って決定することになっていた。ところがそのサイコロの目まで、自軍に有利になるように適当に数字をいじって命中率を上げ(我が軍の砲撃能力は高い、とかなんとか理屈はつけて)、そして「勝利」という結果を出してその作戦を実行しちゃう、という例が多々あったのだそうな。
 笑っちゃうけど笑えなくなってしまう話というか。今度の統計不正問題にも、確かに共通する「におい」が感じられて…考えて見りゃ、事前の統計どころか戦争の結果までごまかす「大本営発表」なんてのもやってたもんな、この国は。


 統計と言えば思い出した話がある。今なお根強い人気をもつ田中角栄は高等小学校卒という学歴(正確にはその後工学の専門学校的なものには通っている)ながら、記憶力抜群、とくに数字に強く、通産大臣時代にはその数字把握力に高学歴の官僚たちが舌を巻いたと言われるほどだ。
 1972年7月に54歳で内閣総理大臣に上り詰めた角栄は、昭和天皇の前でもこの数字把握力を披露した。現在でも続いているが、内閣総理大臣や閣僚が天皇に政治情勢の報告などをする「内奏」という行事がある。もちろん憲法で「天皇は国政に関する権能を有しない」と定められているので、これもあくまで儀式的なもの。天皇が「政治はどうですか」「外交は同ですか」「経済はどうですか」といった型通りの質問をすると、総理大臣が「うまくいっております」「がんばっております」といった当たり障りのない答えをするだけだという。確かに具体的にいろいろ説明して天皇が4それに意見や反応を見せちゃったりするといろいろマズイのだ。ところが角栄はこの「内奏」の際に「経済はどうですか」との質問に、具体的に数字を列挙して詳しく説明、ニ十分におよぶ異例の事態をやらかして昭和天皇をビックリさせたというのだ。「この不肖田中にお任せを」と胸を叩く場面まであったという(これ、当人が周囲に自慢話でしてたらしい)

 その「内奏」を、安倍晋三首相が2月21日に今上天皇に対して行ったのだが、その翌日の22日午後、安倍首相は東宮御所を訪問して皇太子徳仁親王にも内外情勢の報告を行ったことが「異例のこと」として報じられた。もちろん天皇の代替わりまであと2か月ちょっとという時期だったので次期天皇にも「内奏」をしておくべき、という判断があったのだろう。現憲法下では生前退位・天皇交代自体が異例のことなので、皇太子への内奏が異例なのは当たり前ってことになるんだが、逆にそれをわざわざやってるところを見ると、これって単なる儀式ではなく、ある程度の実質的意味があるんじゃなかろうか、という気もしてくる。

 安倍首相による皇太子への「内奏」は3月中に複数回行われる模様、と報じられている。特に4月1日の公表が迫る新元号の候補(現時点で十数個程度に絞られているという)についての報告をしているらしいとのこと。一部の報道では、新元号を天皇交代の一か月前に公表と決定したことについて、安倍首相の強い支持母体といえる保守団体「日本会議」などから「一世一元制」(君主一代で一つの元号を使い、没後にその元号を「おくり名」に使う中国明代に始まった制度の真似)の伝統に反する、といった強い反発が起きたため、新元号について次代天皇に早めに知らせておくことで保守層をなだめる思惑があるんじゃないかと奉じられている。そういや新元号について、これまで多くの元号が中国古典からの出典であったのを日本古典からも考慮、と報じられたのも保守層なだめの一環なのかもしれない。これもフタを開けて見るまでどうなるか分かりませんがね。

 さらに想像を勝手にふくらませると、元号最終決定にひそかに次の天皇が関わるんじゃないかと…これも当然憲法上問題が生じるのだが、「平成」決定の時も噂くらいはされている。天皇本人にしても自分が「歴史上の人物」となった時の呼び名になるんだから、自分で選びたいという思いはあるのではないかと。
 5月1日に皇位を継承するあの人は、史上初の史学科出身(日本中世史)の歴史学者天皇ということにもなるわけで、史学科出身の僕としても親近感はあるのだが、そういう人だけに自身と直接結び付く元号を自分で決めたくもなるんじゃないかな。もちろんそうだったとしても公表は去れないだろうけどね。



◆非情事態宣言っ!

 その当選と就任以来、もはや何をやらかしてもあまり驚かなくなってしまっているのが怖くもなってくる、アメリカのトランプ大統領。先月には、かねて公約に掲げている「メキシコとの国境に壁を建設」という政策に連邦議会が予算をつけないっていうんで(一応フェンスレベルのものを作るという妥協の予算はつけたが)、2月15日にとうとう「国家非常事態宣言」を発動して議会の承認なしに壁建設をの予算を確保するという手段に出た。トランプ大統領に言わせると「さっさと国境に壁を作らないと国家にとっての脅威になる」から非常事態宣言に値する、ということなわけ。いやはや、あんたがアメリカ大統領になったこと自体が非常事態だとは思いますけどね。
 
 一応書いておくと、アメリカ大統領が「非常事態宣言」を出すこと自体は実は珍しいことではない。この件について定めた「国家非常事態法」は1976年に制定されたものだが、それ以来の歴代大統領、とくにクリントン以降の大統領はそれぞれ十数回も「非常事態宣言」を出して議会を通さずに政策を実行している。詳しいことは分からないのだが、この制度は議会で話がまとまらない、あるいはまとめてるヒマがないような時に国家にとって脅威になりうる状況に対処するために大統領に特別の権限を与えるもので、過去のパターンではイランなどアメリカと対立する国への経済制裁のために発動されたりしているようだ。

 調べて見るとトランプ大統領が非常事態宣言を行うのは4度目で、就任3年目ということを考慮してもここ歴代の大統領の中では発動回数は多くはない。だが今回のように自身の公約であり、自身の支持者層には強くアピールするものの、緊急性がない上に内外の強い批判も買っている「壁建設」の予算確保という、えらく国内的といか彼自身の支持基盤に配慮した政策のために発動した例はなかったと聞いている。トランプさんをかついでる共和党の中でも「これを許すと、大統領がなんでもかんでも非常事態宣言をして濫用する悪しき前例になるのではないか」と懸念する声もあるという。

 この壁建設のための非常事態宣言に対しては、民主党議員の間から連邦議会でその非承認決議を出そうという動きも出ている。不承認決議には過半数が賛成すればいいので上下両院で可決される可能性が高いとされるが、トランプ大統領側はその場合には大統領の「拒否権」を発動してそれを退ける姿勢をみせている。この拒否権をひっくりかえすには議会の3分の2以上の賛成が必要ということでさすがに難しい。さすがアメリカの大統領、権限は結構強いんである。


 こうした無茶をしている上に、就任以来の「ロシア疑惑」もますます深まってくるなどしているので、少しでもいいところを見せようと思ったのか、トランプさんは「日本の安倍晋三首相からノーベル平和賞に推薦された」といきなり暴露して、特に日本人の多くを驚かせた。
 トランプさんが「ノーベル平和賞」という話は、昨年の世界を驚かせた初の米朝首脳会談以来言われていたことではある。ただし彼自身とその周辺、支持者たちの間での話…と思ったが、韓国の文在寅大統領も口にしたことはあったし、平和賞を贈る側であるノルウェーの政治家も口にしたことはある。しかし世界中の多くは「トランプが平和賞?なんの冗談だよ」と受け止めているはず。

 ただし、ノーベル平和賞の歴史を振り返れば、「なんであいつが」という受賞者がチョコチョコいるのも事実。代表とされるのが、日本の佐藤栄作元首相。そう、安倍首相の祖父の弟、大叔父にあたる人物だ。1974年に彼が平和賞を受賞した際には多くの日本人が首を傾げ、漫画「天才バカボン」では「佐藤栄作が平和賞を受賞して以来、何も信じられなくなった」というキャラが登場する話があるほど(笑)。受賞理由は「非核三原則」の制定およびアジアの平和への貢献(沖縄返還実現などをふくむらしい)ということになっているが、実際にはアメリカとの間で沖縄への核持ち込み密約を結んでいたし(結んだ相手のキッシンジャーもノーベル平和賞受賞者なのが皮肉)、後年になって「ノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」とまで言われてしまうことになる。

 この件を国会で追及された安倍首相は、ノーベル賞選考過程については半世紀秘密にされるというルールを楯に否定も肯定もしなかったが、政府関係者から報道にはそれとなく話が漏らされ、平和賞への推薦は事実だと確定された。ただしトランプ大統領の方から「推薦してくれ」と言ってきたもので、それでご機嫌がとれるなら安いもんだという感じで推薦しちゃったらしい。さすがにこんなに早く当人の口から暴露されるとは思わなかったろうけど。


 そんなトランプ大統領に、もしかしたらノーベル平和賞をもたらすかもしれないのが、北朝鮮との和解進展。2月27日に、ベトナムの首都ハノイで二度目の米朝首脳会談が開催された。それにしてもかつて朝鮮戦争を戦ったアメリカと北朝鮮のトップ同士が、かつてアメリカとベトナム戦争を戦った国の首都で会談をするというのは、考えてみりゃ歴史的なことではある。三十年前までは想像もできなかった組み合わせだ。
 今回の米朝会談にはベトナムは唯一開催地に名乗りを上げていたので、かなり乗り気だった。最近のベトナムは中国に対抗するためにアメリカに接近しているので、トランプさんのご機嫌取りという狙いもあったんじゃなかろうか。もっともハノイに例の「金正恩そっくりさん」が出現すると速攻で拘束・追放処分にしたあらり、シャレが分からないというか、やっぱり一党独裁体制だなぁと思わされたが。

 前回のシンガポール会談では飛行機を使った金正恩委員長だったが、今回は特別列車を仕立ててのんびり三日間かけ、北朝鮮から中国、さらにベトナムまで鉄道で駆け抜けた。父親の金正日は徹底して列車利用だったが、それに倣ったのか、あるいは中国国内での様子を列車から見たかったのか。中国もそうだがベトナムも最近は改革開放路線で経済発展を遂げていて、北朝鮮にとっては一つのモデルと映ったはず。歴史的に振り返れば朝鮮とベトナムは中国との関係で立ち位置がよく似ているということもあるし。そのせいか、ベトナム側もかなりの歓待ぶりのように見えた。
 金委員長は中越国境を越えたところにあるドンダン駅で列車を降りている。最近の事情は知らなかったが、一応中越国境は列車で通れるようになってるんだな。そのままハノイまで乗るのかと思ったらなぜかここから自動車に乗り換えてハノイ入り。たぶんだが特別列車を置いておく場所の問題などがあったのではなかろうか。

 トランプ大統領は当然飛行機で現地に乗り込み、2月27日にいよいよ首脳会談となった。初日は記者団の前でなごやかなムードを見せ、事前には双方ともご機嫌で、一部には「朝鮮戦争終結はともかく、不可侵の約束ぐらいはするんじゃないか」との見方も出ていた。一方でお互い特にカードを用意してないフシもあったためか「何も得るものはなさそう」という見方も、特にアメリカのマスコミを中心に多かった。アメリカのマスコミはむしろ国内での「ロシアンゲート疑惑」の進展(司法取引したトランプさんの元弁護士がいろいろしゃべりだした)に関心が移ってしまっていたぐらい。

 で、翌日になって会談は一気に冷めた方向に。予定されていた昼食会も中止となり、午後にはトランプ大統領が一人で記者会見して何らの合意にも至らなかったことを明らかにした。トランプさん、一応金委員長と北朝鮮について誉め言葉を並べてフォローは懸命にしていたけど、「次回」があるのかどうかについては明言しなかった。何がどうモメたのかはハッキリしないが、非核化の進行と制裁解除との駆け引きに双方の思惑のズレがあったんじゃないかと言われている。こういう首脳会談って当人同士が会う前に事務方で大筋を決めておくもんなんだけど、今回はそれもどうなってたのかよく分からない。アメリカ側からは「北朝鮮が精査全面解除を要求した」と言い、北朝鮮が「いや、半分くらいしか要求してない」と言い分も食い違っている。トランプさんとしては直前のタイミングでロシアンゲート疑惑に注目が集まったので、下手な譲歩ができなくなった、という憶測もある。

 金委員長はまた特別列車に乗ってベトナムを去り、また中国国内を延々と走って帰国した。途中で中国首脳と会談するのでは、とみられていたが、結局誰にも会うことなく帰国。事前に、あの国では異例なことに金委員長のハノイ入りを大々的に報じたせいもあってか、国内では「会談は成功」と大きく報じたらしい。もっともこれはトランプさん周辺も同様で、母国のマスコミで何かと「失敗」と叩かれるとムキになって「成功」と言い張っていた。前回の会談でも「二人の独裁者」とか言われちゃってたしな、結構似た者同士なのかもしれない。
 だからたぶんトランプ政権のあるうちに「三度目」はあると思う。というか、トランプさんに「二期目」があるという保証はないし、北朝鮮にとっては明らかにトランプさんのほうが相性が良さそうなんだよな。北朝鮮も今さら後戻りはできないと思うんだが、父親の時も一時急に明るく前向きな空気になったのにまた元に戻っちゃった、という経緯があるが、その轍は踏んでほしくないものだ。
 
 そうそう、北朝鮮と言えば。
 3月1日、つまり日本の植民地支配に対して起こされた「三・一独立運動」からちょうど百周年となるこの日、「自由朝鮮」と名乗る団体が、北朝鮮の体制を覆すべく「臨時政府」を発足させたrとネット上で声明を出した。この団体は、一昨年に暗殺された金正男氏の息子を支援していると主張し「千里馬民防衛」と名乗っていたのが改称したものだとか。「臨時政府」というと、日本の植民地支配に抗して中国に作られた「大韓民国臨時政府」を連想させるが、これがどれほどの規模や実力を持ってるものかは全く不明。拠点も明らかにしていないのは、それこそ暗殺などの可能性があるからだろうが…それにしても本当に金正男氏の息子を支援しているとなると、「叔父に父を殺された亡命王子を奉じて祖国奪回を図る忠臣たち」なんて時代劇みたいな話になってくるな。


2019/3/4の記事

<<<前回の記事
次回の記事>>>
史劇的な物見櫓のトップに戻る