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2019年3月15日

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◆今週の記事

◆お国の名前変えませんか
 。
 今年のNHK大河ドラマ「いだてん」は、1964年の東京オリンピックに至る日本のオリンピック史を題材とした作品だ。僕は近年になく楽しく見ている作品なのだが、視聴率低迷が報じられ、それに乗じたバッシングなんかもある状況の中、重要キャラを演じていた出演者が薬物使用で逮捕されるという事態も発生しちゃって、僕としても困っちゃっているのである。
 現在放送されているのは、日本人が初めて参加したオリンピックであるストックホルム大会のくだり。前回放送分で、入場行進のプラカードの国名表記をどうするか議論になるシーンがあり、英語表記「JAPAN」で行こうという意見に対し、マラソンで出場しプラカード担当だった金栗四三が「『日本』でい くべき」と主張する。そこで以下次回になってしまったのだが、結局は「NIPPON」とアルファベット表記にした、という事実があるのだそうな。
 しかしそれ以後現代にいたるまで、オリンピックの入場行進では「JAPAN」表記で通されている。一方でアジア大会では「NIPPON」表記にしていたりしている。たぶオリンピックだと欧米諸侯もいるので英語風表記のほうが分かりやすい、だがアジア大会ではその必要な史、という判断なんだろう。
 そもそも「にっぽん」なのか「にほん」なのかという問題まである。政府もどちらが正解とはしていないし、発音の都合で適宜使い分けてる感じもある。よその国でも似たような問題はあるようで、国名なんてのも自称・他称、発音の仕方などでいろいろあり、これが正解なんてのは案外なかったりするわけで。

 さて、日本の南にフィリピンという国がある。この「フィリピン」という国名の由来が、世界史で有名なスペイン国王フェリペ2世にあるというのは、世界史豆知識の一つとして割と知られてる方だと思う(中学の地理の教科書でも載ってた)
 1542年、ルイ=ロペス=デ・ビリャロボスというスペインの探検家が、当時スペイン領になっていたメキシコから太平洋を横断、ルソン島やミンダナオ島などをまわって、これらの島々に当時のスペイン王太子フェリペ(つまり後のフェリペ2世)にちなんで「フィリピナス諸島」と命名した。その後この諸島はスペインの植民地とされ、「フィリピン」の名が定着してゆく。
 それ以前にこの地域を指す名前はなかったわけではない。現在のフィリピンの中心地であるルソン島については中国の文献に「呂宋(ルソン)」と記されているし、日本でも伝説上の存在ながらルソン島から壺を買って来て大儲けした呂宋助左衛門なんて人物もいる。ただ現在のフィリピン全体を指すわけではないんだよな。

 300年以上にわたるスペインの植民地支配は19世紀の末に終わる。スペインとアメリカが「米西戦争」を始め、それに乗じる形でエミリオ=アギナルドらが独立戦争を起こし、1899年にフィリピン独立を宣言したのだ。ところが直後に米西戦争に勝利したアメリカがフィリピン支配に乗り込んできてアギナルドらの独立政権をつぶしてしまう。
 その後太平洋戦争中に日本の支持のもとに独立政権ができるが、アメリカがフィリピンを奪回したことで崩壊。戦後に三度目の独立を達成して現在にいたるわけだが、植民地支配の歴史と深く関わる「フィリピン」という国名を変えるということはとうとうなかった。もちろん独立後のフィリピンではナショナリズムが称揚され、マゼランを殺したラプラプからホセ=リサールやアギナルドまで、植民地支配に抵抗した人物たちは英雄と持ち上げられた(いずれも映画になってもいる)経緯があるのだが、国名の方を変えようという動きはないのかな、と僕も長らく不思議に思っていたのだ。

 ニュースとしてはちと古い話になるのだが、先月2月11日、「フィリピンのトランプ」の異名で知られるドゥテルテ大統領が演説のなかで「マルコスは正しかった。彼は『マハルリカ共和国』に変えたかった。マレー系の言葉だからだ」と言及、国名を『マハルリカ(Mahárlika)』に変えることに前向きな姿勢を示して、賛否両論波紋を広げている、という。僕はこれを3月9日の報道で知って「あ、やっぱり改名しようという話じたいは存在したのね」と面白がったのだった。
 マルコスとは、1965年からおよそ20年にわたって独裁支配を行い、1986年にピープルパワー革命で国を追われたフェルディナント=マルコス元大統領のこと。彼が場んじゃうの独裁を敷いていた1978年にマルコスは国名を「マハルリカ」に改名しようと議会に働きかけ、実際に議案提出までは持ち込んだことがある。「マハルリカ」という名前は、マルコスが太平洋戦争中に率いた抗日ゲリラの名前と同じであるとされたそうだが、後年そもそもその話自体が彼の捏造であると断じられていたりして、結局この国名変更の話は立ち消えになった。

 で、そもそも「マハルリカ」ってのはどういう言葉なのか。これが報道を読んでも、ウィキペディア英語版の説明を読んでも、いくつもの説が出ていて由来がよく分からない。インド系のサンスクリット語で「高貴に誕生した」という意味だとか、マレー語で「自由」を意味する言葉の変形だとか、スペイン支配以前のタガログ語で「さまざまな職業の人を含む大きな共同体」といった意味の言葉だとか、そういう話で国名候補に選ばれたらしいのだが、言葉の意味についても異論があれこれ出て、それで採用されなかった経緯もあるみたい。

 さて、いろいろ発言で物議をかもしてきたドゥテルテさんだが、ここでかつての独裁者の名前を出し、その国名変更の遺志を受け継ぐような発言をなぜしたのか。問題の演説は同国南部のミンダナオ島にあるマギンダナオ州で行われていて、「マハルリカはマレー語」とわざわざ発言してることから、この地方の多数派であるマレー語系のビサヤ語住民の歓心を買う意図はあったと思う。ドゥテルテさん自身ミンダナオ島育ちで政治家キャリアも積んでいるから南部への顔もきくし、そもそも父親がマルコス政権の閣僚でかねてからマルコスを英雄視する発言もしていたちうから、あるいは自身をマルコスに重ねようとしてるのかもしれない。
 ただ、ドゥテルテさんは「フィリピンという名前は、マゼランがフェリペ国王から資金援助を受けて到達したから命名した」と主張してるそうで、それは完全に史実にもとる。マゼランの航海の時のスペイン国王はカルロス1世で、その子のフェリペ2世はまだ生まれてもいなかった。どうもこの人、他のことでもこの手の間違いがあって、あぶなっかしいんだよな。



◆二代目を作った二代目の話

 僕が在籍した某大学の史学科では、一つの伝説があった。『忠犬ハチ公は忠犬ではなかった』ことを論証した卒業論文があった――という伝説だ。いわく、ハチ公が渋谷駅に毎日行ったのは亡き主人を迎えにいくためではなく、単に餌を探しに行っていたものだった、という話である。そんなことを史学科の卒論にしていいのかいとお思いだろうが、実はこの論文のメインはそこから先にある。別に忠犬ではなかったハチが「忠犬」とされて国民的ブームとなったのはなぜなのか、それは当時軍国主義に突き進んでいく日本の社会状況があったからだ――という方向に話がゆくのだ。ハチ公という小さなテーマを入り口として、当時の日本全体を覆っていた歴史的状況という大きなテーマを論じていくという、名卒論であった…と、伝説になっているのだ。
 あくまで「伝説」であって、本当にそんな卒論が実在したのかは不明のままだ。この伝説、僕は恩師から聞かされたが、その話をいてる当人もその卒論の実在を確信はしていなかった。だがこの話を例に、「いい論文の書き方」を教える、という伝統はどうもあったらしいのだ。

 さて3月8日になって、彫刻家の安藤士(たけし)さんという方が、去る1月13日に95歳で亡くなっていたことが報じられた。この方、実は現在渋谷駅前に建っている、あの「忠犬ハチ公銅像」を製作したご本人なのだ。ほう、そんな方が今ごろ亡くなっていたのか、と記事を読みだしたら、あのハチ公像にも複雑な歴史があることを知ることとなった。この安藤士さんが作った現在の「ハチ公像」って二代目だったのですな。

 忠犬であったかどうかはともかく、渋谷駅前のハチ公が「忠犬」としてもてはやされだしたのは1932年のこと。やがて渋谷駅前に銅像を作ろうという話になり、その製作にあたったのが彫刻家の安藤照(てる)。名前でお察しの方もおられようが、先日亡くなった安藤士さんの父で、代表作に鹿児島市にある「西郷隆盛像」がある人だ。つまり初代のハチ公像は父親が、二代目ハチ公像はその息子が作るという歴史があったのである。

 1934年4月21日に初代の「ハチ公像」の除幕式が行われ、まだ生きていたハチ公本犬も出席した(翌年3月に死去)。このあと日本は1936年に二・二六事件、1937年から日中戦争、そして1941年から太平洋戦争と突き進んでゆき、物資不足を補うためとして進められた「金属供出」のターゲットに「ハチ公像」も狙われることとなる。すでに渋谷のシンボル的存在だったし、「忠犬」ってことになってるし、美術的価値もあるとして反対の声も上がったりしたらしいが、「国民みんなが身近なものから金属供出してるのに、ハチ公像がそのままというのは示しがつかない」という理屈で1944年10月12日にハチ公像は撤去されてしまう。そのときハチ公像には日の丸のたすきがかけられ、いわば「出征兵士」の姿にされたという。この辺の経緯を見てると、この手の金属供出って実効性より精神論の側面が強かったんだろうなと思える。ペットとして飼われている生きている犬のほうだって「供出」させられていたんだから。

 翌1945年5月25日、アメリカ軍による東京への空襲が行われ、3000人以上の犠牲者が出た。その中に彫刻家・安藤照も含まれていた(このとき54歳)。そして玉音放送が行われる前日の1945年8月14日、ハチ公像は浜松にある鉄道省の鉄道部品工場内で溶かされ、機関車の部品に変えられてしまった。あと一日だったのにもったいないことをしたものである。
 敗戦後2年たった1947年にハチ公像再建計画が地元住民から持ち上がり、安藤照の息子でやはり彫刻家となっていた安藤士さんに製作が依頼された。士さんは1923年生まれだから当時は20代なかば。父がハチ公像を作った時に10歳ちょっとの少年だった士さんはモデルのハチ公本犬の世話をしたこともあり、生前のハチ公の姿を知る人物でもあった。かくして二代目ハチ公像は製作されたが、当時は材料となる銅が不足していたため、やむなく他の銅像作品を溶かして製作されたtのこと。そして初代が溶かされてからちょうど3年となる1948年8月15日に除幕式を迎えることとなる。

 これが現在のハチ公像ということになるのだが、1989年つまり平成元年の5月に駅前広場の拡張にともなって現在の位置に移転、向きも変えられている。渋谷なんてろくに行ったことがないんでそんな事実も知らなかったが…。元号「平成」もおしまいという年の初めに像の作り手が亡くなった。前回も書いたことだが、第二次大戦期を生きた人々も確実に少なくなってきている。



◆またお墓の話まとめ

 前にも似たような記事を書いた気がするけど、お墓関連ばなしがまた集まっちゃったので。

 昨年はカール=マルクスの生誕200周年ということで、映画「マルクス・エンゲルス」原題は「若きマルクス」なんだけど内容的には確かに二人主役)が日本でも公開されて僕もわざわざ見に行った。すでにDVDも発売されているが、発売元がマルクス・エンゲルス全集の版元である大月書店であったのにはちょっと驚いた。思えばここって「マル・エン全集」をCD−ROM化して今にして思うと電子書籍化の先駆けみたいなことをしてたし、今では「マル・エン全集」をオンラインで読めるサービスもやっているから、DVD発売をするのもそう変ではないのかも。

 先月2月のことになるのだが、イギリスはロンドンにあるマルクスの墓が二度にわたって荒らされる、という事件が起きていた。まず2月の初めにマルクスの墓の、彼の名前が書かれた大理石の部分が、ハンマーのようなもので傷つけられているのが見つかった。そして2月16日にはマルクスの墓碑の四方に赤ペンキで「憎悪の教え」「集団虐殺の立案者」などといったマルクスを罵倒する文言が大きく書きつけられていたという。
 赤ペンキで書きつけたあたり、かなりの反共思想(古い言葉だなあ)の持ち主の仕業なのだろう。マルクスの唱えた「科学的社会主義」いわゆる「マルクス主義」が、その後のソ連などの社会主義国家を産み、その中で人権抑圧や大量虐殺など悲惨な歴史が刻まれてしまったのは事実だが、それをマルクス個人の責任に帰してしまうのはどうかと。それを言い出すといろんな宗教の教祖にだって同様のことが言えるわけで(実際言ってる人もいるけど)
 ま、ハカに当たるやつはバカということで。


 「曹操の墓を発見!」と大きく報じられたのは、すでに10年ほど前の2009年末のこと。僕もこのニュースを年明けの「史点」(2010/1/11付)で採り上げている。その時点では中国の学者から断定には批判もあったし、僕も正直なところ半信半疑というところだったのだが、その後どうなったのかというと、昨年3月の段階で中国社会科学院など影響力の大きい研究機関が「曹操の陵墓」とほぼ断定する見解を出し、墓から発見された推定60代の男性の遺骨を曹操本人のものとみなすことでおおむね決着がついていたようだ。つまりそこで曹操の葬送が行われたわけですね(笑)。
その曹操の墓「曹操高陵」(河南省安陽県)で、その10年前の発掘で陵墓の前室(棺の置かれた部屋の手前の空間)から出土していた「罐(かん)」と呼ばれる容器が、、よくよく調べてみたらなんと世界最古の「白磁」であったことが判明した――と2月20日に奉じられた。
 「白磁」というのは陶磁器の一種で、表面に釉薬(うわぐすり)をぬって高温で焼き、白く仕上げるものを指すが、これまで「白磁」の発明は6世紀後半とみなされていたらしい。今回の「罐」が白磁に間違いなしとなると、曹操の死んだ3世紀前半には白磁があったことになり、300年以上のさかのぼりということになり大きな発見なのだ。陶磁器に関してはそれこそ門外漢なのでちょこっと調べてみた程度の知識で書くが、「青磁」の方はそれこそ中国文明初期にまでさかのぼってしまうらしく、その発展の過程で白磁が生まれたと考えられているらしい。それなら後漢末の時期にひょっこり白磁みたいなものが発明されていたのかもしれない。
 「そうそう」「うわっ、説曹操、曹操来!」


 話がどんどんさかのぼり、今度は中国の前漢時代の墓の話。
 河南省落陽市にある前漢時代の豪族の墓が昨年発掘され、青銅製の壺が見つかった。その壺の中に液体が入っていて、昨年秋の報道では「酒ではないか」との発掘関係者の推測が紹介され、「古代の酒が出た」とちょっとした騒ぎになったらしい…のだが、僕のアンテナにはひっかからず「史点」ネタにすることもしなかった。
 そして3月に鄭州市で行われた考古学フォーラムで、この液体の正体が酒ではなかったことが報告された。液体の上澄み液と沈殿物を採取して分析したところ、主成分は硝酸カリウムとミョウバンであると判明、これは古代に仙人になるための薬と考えられていた「礬石水(ばんせきすい)」というものだと考えられるという。

 古代中国では神仙思想があり、仙人になって不老長寿を得ようと様々な薬品づくりが行われてきた。もちろん成功した例は一つもなく、「錬金術」みたいな手当たり次第の物質ゴチャマゼ実験というのが実態なんだが(かえって命を縮めた例が多いと思う)、その中に「水法」と呼ばれるものがあった。仙薬を作るための「煉丹術」のうち火を使う「火法」に対してこちらは物質の混合水溶液を作るのが「水法」で、漢の時代よりあとの魏晋南北朝期に編纂されたとされる「三十六水法」という書物が今日まで伝わっている。試しにググってみると即座にその原文全文が読めてしまったところに、凄い時代になったもんだと改めて思ったものだ。

 その原文を読んでみたら、いきなり三十六法の最初に「礬石水」の項目があった。原文、短いんだけど簡潔すぎる上にやってることがやってることだから意味をとるのが難しい。ざっくり読んだ限りでは「礬石水」の製法は三通りあり、そのうち一番最初に書かれているのが「礬石(ミョウバン)」一斤を竹筒の中に入れてその表面を削り、そこに「硝石」四両を上下に詰めて密封、それを「華池」の中に三十日つけておくと出来上がり…ということらしい。「華池」というのが何なのかいろいろ調べたんだが、状況によりいろいろのようで、何かを発酵させた液体であるらしい。

 今度墓の中から見つかった液体はこの記述と一致するとされ、酒ではなく「仙薬」だったというオチだが、そもそもなんでそれが墓の中にあったのか。もう死んじゃってる人なんだからそんなものを入れておいても…とも思うし、あるいは生前にそういうのを飲んでいたから死後も…と墓までもちこまれたのか。どっちにしてもこんなものを常用するくらいなら、酒のほうがよっぽど「薬」になっただろう。「酒は百薬の長」とはよく言ったもので…もちろん飲みすぎも命を縮めるけどね。



◆ディープな印パ

 昨年末以来、日韓関係が最悪だとかなんとかいろいろ言われていて、「三・一独立運動」からちょうど百周年となる3月1日に韓国で何か起こるんじゃないかと期待(?)するようなところが日本の一部にあって、外務省は渡航注意喚起を出すし、雑誌やワイドショーのたぐいでは何か起きると見越して過激な見出しをつけたり現地リポートやらせたりしていたのだが、結論から言うと何も起こらなかった(僕は見てなかったが某ワイドショーでは妙なガッカリ感が流れていて笑えたという話がツイッターで流れてた)。前から思ってるんだが、日本人はマゾ気質なのか、他人から褒められるのにもやたら弱いが、他人から嫌われることに快感を覚えてるとしか思えない態度を見せることがあるんだよな。

 隣国どうしというのは仲が悪いケースが多いが(隣同士だからこそ利害関係ができるわけで)、日韓関係なんててんで生易しく思えてくるのが、インドとパキスタンの関係だ。特に両国はカシミール州の領有をめぐって過去に何度も戦争をしたことがあり、戦争までいかなくても「紛争」レベルなら日常茶飯といっていいくらい。今年の2月からまたこの地域で両国間の紛争が多発して緊張が高まる事態となり、両国とも核兵器を保有しているだけに懸念の声も世界で広がっていた。この文を書いてる現時点ではひとまず沈静化の様相ではあるようだけど…

 そもそもインドとパキスタンは本来は同じ「インド」の枠組みの中にあって、今でも両国では文化面での共通性は多い(クリケットが人気とか、残念ながら女性が低く扱われがちとか)。イギリスによる植民地支配から独立する際に、ヒンドゥー教徒多数派の地域がインドに、イスラム教徒多数派の地域がパキスタンに分裂(バングラディシュもはじめは東パキスタンだった)したいきさつがあり、インド独立の父ガンディーは両教徒合同での独立国家樹立を主張したが、かえってヒンドゥー至上主義者から「裏切り者」と見なされて暗殺されてしまtれいる。ただ現在のインドでも1割程度はイスラム教徒なのだが、今の政権がヒンドゥー至上主義勢力を支持基盤にしてることもあって近年イスラム教徒への抑圧・迫害のニュースも聞こえてくる。
 インドとパキスタンが分裂する際に、それまであった各地の藩王国はそれぞれ帰属の決定を迫られたが、カシミール地方は領主がヒンドゥー、住民はイスラムが多数派という事情があったためにインドとパキスタンの争奪の地となってしまった(北方では中国の支配地域もある)。以来このカシミール地方にからめて武力衝突やらテロやらが続いてきて、今年またそれが起きているわけで…もしかして慣れっこなのかな、現地では。

 2月14日にパキスタンが支援しているとされるイスラム武装勢力による自爆テロがあり、インド側の治安要員41名が死亡した。これは治安要員を移送していた車列に爆弾を積んだワゴン車を突っ込ませるという荒っぽい手口(まぁテロは全部荒っぽいんでしょうが)で、犠牲者数はカシミールでもここ30年で最多にのぼってしまった。2月18日、このテロの捜査をしていたインド軍が威嚇発砲したところイスラム武装勢力側が応戦、激しい銃撃戦となって双方合わせて9名の死者が出ている。

 そして2月26日、インド軍が武装勢力の拠点に空爆を実施。当然ながらそれはパキスタンの支配領域を空爆したわけで、すぐさまパキスタン側もインド支配地域への空爆を行っている。
 2月27日にはインド軍の戦闘機2機が停戦ラインを越えてきたとしてパキスタン軍機がこれを撃墜、パキスタン側に降下したパイロット一人を捕虜とする事態となり、緊張感が一気に増した。直後から両軍の間で砲撃戦が始まり、一般市民も含めて十数名の犠牲者も出た。さすがにこのまま本格戦闘になってはマズイと思ったか、パキスタン側が3月1日になって捕虜のインド軍パイロットを解放してインド側に引き渡したのだが、このパイロットがパキスタン軍を称賛しインド側を批判する動画が公表されるという余計なことがあり、インド側をかなり怒らせるということにもなった。

 その後も散発的な衝突が起きてはいるが、両国政府はこれ以上は事態を悪化させない構えで、一応小康状態の様子。その表れの一つが「列車」であるところが鉄道ファンとしては興味深い。
 こんな関係の両国だが、パキスタン東部の都市ラホールとインドの首都ニューデリーを結ぶ列車が週二回走っている。さすがに直通列車ではなく国境で列車を乗り換えるそうなのだが、まぁそういう「列車を乗り換えるのに直通列車扱い」というのは日本でも例はある(僕は京王電鉄や関東鉄道で覚えがある)。で、この列車、印パ間で紛争が起きると運行停止となり、緊張が緩和すると運行再開となる、というのを繰り返していて、両国関係のバロメーターとみなされて「友好列車」のあだ名までついているという。
 今回の紛争を受けて、この列車は2月28日に運行を停止した。そして3月4日には運行を再開、150人ほどの客を乗せてラホールを出発したとのことである。紛争自体はまだおさまったとは言い難い段階なのだが、わざわざ運行したのはパキスタン側のインドに対するサインなのかもしれない。

 紛争の話から離れて余談になるが、列車つながりの話題を。
 カシミールの紛争が始まった2月15日、インドで同国最速となる最高時速180キロの準高速列車「バンデバラト・エクスプレス」が運行を開始した。高速鉄道というと日本や中国が売り込みをかけてた気がするが、これはほぼ国産なんだとか。それまでのインド最速列車を20%上回る速度で、ニューデリーからバラナシまでこれまで14時間かかっていたのを8時間に縮めるという高速ぶり。開業記念式典にはモディ首相も出席していた。
 ところが運行開始二日目の2月16日、「バンデラバラト・エクスプレス」はウッタルプラデシュ州でと激突、列車への電量供給が止まりブレーキも故障して立往生してしまった。報道によるとなんとか復旧して無事にニューデリーに到着、翌日から通常運転に戻ったというのだが、牛のほうが無事だったかどうかは記事は触れてなかった。
 良く知られるようにヒンドゥー教は牛を神聖視していて、道路や線路で牛が優先されちゃってる光景はインドを紹介するときよく引き合いに出される。牛のほうもそれで油断してたら予想を超えたスピードで列車が走って来たので間に合わなかったか。また事故が起こったウッタルプラデシュ州はもともと牛が多かったところへ、ヒンドゥー至上主義のモディ政権がイスラム教徒らの牛の食肉処理を禁じたりしたことから「野良牛」が急増したという。インド自慢の高速列車が思わぬところでしっぺ返しをくらった形だが、こんな事故にも印パ関係に絡んでくるんだよな。

 一方、この紛争で「戦闘機」のことも妙な問題になっている。
 先述のように今回、インドの戦闘機がパキスタンの戦闘機に撃墜される、という一幕があったのだが、インド側はこのパキスタンの戦闘機をアメリカ製の「F16」であると主張、パキスタン側はそれを否定、しかしアメリカ側は問題視して調査に乗り出すことを表明、という事態になっているのだ。
 要するにアメリカが自国製の武器を他国に売る際には、その武器がアメリカに不利益な使われ方をしないように、と議会の承認を得る必要がある。アメリカはインドにもパキスタンにも戦闘機を売っていて、それが今んとこアメリカと友好関係にあるインドに対して使われた、となると問題ちゃあ問題なのだ。この話を読んだとき、僕などは「よその国に武器売ったら、それをどう使おうがその国の勝手じゃねぇのか」と思っちゃったものだが。インドはインドでかつてソ連と友好関係にあった縁もあってロシアから武器を購入してるんだが、アメリカはロシアから武器を購入した国に制裁を課したりするんだよな。


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