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2019年4月1日

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◆あの大物が薬物使用

 また大物著名人による薬物使用が発覚、大物だけに関係する各方面に多大な影響を及ぼしている。
 その人物とは、イギリスの首都ロンドンのベーかー街221Bに居住する私立探偵業シャーロック=ホームズ氏。その独特の科学的捜査手法により、スコットランドヤード(ロンドン警視庁)からも難事件解決に協力を求められるほどの実力を持ち、友人の医師ジョン=ワトスン氏の手になる回想録によって世界的にその名を知られている探偵であるが、そのワトスン博士の回想録中にホームズ氏がコカインなどの薬物を常習的に使用、心身への害毒も承知の上で使用していることが明確となり、青少年への影響などもかんがみて彼の登場する各種メディアを「封印」しようとする動きが広がっている。

 ホームズ氏についてはそのあまりのヘビースモーカーぶりが、昨今の禁煙・嫌煙の広がりから批判されてきたこともある。彼はタバコについて「毒性のない煙を吸うのもいい気分転換になる」(『悪魔の足』)と発言しているが、タバコに毒性がないなどということはもちろんない。ある事件では一晩に1オンスの刻みタバコ(だいたい現在のタバコひと箱に相当)を煙にして謎を解いた(『唇のねじれた男』)と言ってるほどのヘビースモーカーでなので、体にいいはずがない。このような描写はタバコの害を覆い隠すだけでナウ「頭の回転がよくなる」と誤解を招きやすく、青少年への悪影響が大きいとして、ホームズの登場する書籍や映像作品・ゲームなどから喫煙シーンを削除すべき、との声もあった。

 そしてタバコどころか、明らかな薬物であるコカインにも常習的に手を出していた。このことはワトスン博士の回想録のひとつ『四つの署名』にはっきりと記されている。冒頭いきなりホームズ氏が腕をまくってコカインの注射をする描写があり、その腕には無数の注射のあとがあると書かれていることから常習者であることも明白だ。その様子を見たワトスン博士は「今日はどっちだい、モルヒネかい、それともコカインかい?」と聞いており、モルヒネも同程度に常習していたことがうかがえる。当時コカインはモルヒネ中毒者への中和薬として使用されており、ホームズ氏もまずモルヒネ中毒であったと思われる。なおホーム氏はワトスン博士の質問に「コカインさ。7%の液だ。君も一本どうだい」などと、友人を誘うことさえしている。
 当時は合法的な薬物だったといえばその通りなのだが、このやりとりでワトス博士はコカインが体に悪いことを承知していて断っているし、ホームズ氏自身も「からだによくないかもしれないが、精神をひきたて、すっきりさせる」と身体への害毒は承知の上で使用していることが分かる。
  さらに言えば、この『四つの署名』の記述では、ホームズ氏がコカイン注射をするのは別に推理のために頭脳を働かせるためではなく、単にやることがないときの「暇つぶし」でしかない。事件解決後、妻を得たワトスン博士が「君は何を得たんだい?」と尋ねると、ホームズ氏は「僕にはコカインがあるさ」と答えてまた注射を始める描写がある。完全な中毒者とみて間違いあるまい。

 その後のワトスン博士の回想録でも何度かコカイン注射をして夢見心地になっている描写があるほか、捜査のためと称しているがアヘン窟にまで出入りしていたことも記されており(『唇のねじれた男』)。ホームズ氏の活動記録上ではこうした薬物使用の記述はごく初期のみで、以後はまったく記されていないのだが、これはその時期になるとコカインの毒性が問題視され法的にも規制されたため、記録中から削除した可能性が高い。あれだけの中毒者が簡単に使用をやめられたとは思えないからだ。
 その証拠の一つとして、彼の宿敵とされ「犯罪界のナポレオン」とまで呼ばれたというモリアーティ教授の存在がある。「存在がある」と書いたが、ワトスン博士の回想録のうち『最後の事件』でいきなりその名がホームズ氏の口から語られ、スイスのピエール…もとい、ライヘンバッハの滝で対決したとされているのだが、記述を読む限りワトスン博士は「教授」の姿を明確に目撃した様子がない。このため「モリアーティ教授」という存在自体が怪しく、一部研究者からはそれ自体がホームズ氏の薬物使用による幻覚だった可能性が高いとの説が出ている。

 前述のようにホームズ氏の後期活動の記録では薬物使用は確認されないが、後期のある事件ではホームズ氏は若い女性をたぶらかして婚約にまで持ち込みながら利用するだけ利用してあとは無視という結婚詐欺並みのことをしているほか、他人の屋敷への家宅侵入や殺人幇助、窃盗といった犯罪行為をした嫌疑もある(『チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン』)
 このようにほじくりかえせば多くの問題を抱えている「名探偵」であることから、世間への影響に配慮して、彼が登場する小説など書籍の出版差し止め、彼が俳優に演じられて登場する映画・ドラマなど映像作品の登場場面カット、それで無理が出る場合は放送・上映の中止、配信停止、映像ソフトの販売中止といった措置がとられる見込みである。最近ではイギリスのTVドラマ「SHARLOCK」やハリウッド映画「シャー六・ホームズ」などが対象になろうし、かつて宮崎駿監督が手掛けたアニメ「名探偵ホームズ」も、キャラクターが犬に変えられていようとも対象範囲になろう。実際、このアニメのために宮崎監督が描いたイメージボードの中には犬のホームズがコカイン注射をしてるイラストがちゃんと含まれているのだ。

 なお、この緊急事態に一部の作品では代役を検討しているという。代役候補として、ロンドンのパーカー街219に居住する私立探偵で、フランスの怪盗紳士アルセーヌ=ルパンとの対決で知られるハーロック=ショームズ(仏語:エルロック=ショルメス)が、ホームズ氏の「そっくりさん」ということで白羽の矢が立っているとのことである。
 


◆そんでイバラキ

 茨城政界が4月1日に迫った「日本国離脱」(イバレジット)の期日を前に大いに迷走している。県知事が示した離脱合意案について、茨城県議会が三度にわたって否決しているのだ。
 茨城県が県民投票により日本国からの離脱を僅差で決定したのは先月のこと。同県が日本国からの離脱という思い切った発想をもつに至った理由は、毎年行われる「全国都道府県魅力度ランキング」において、2013年から2018年まで6年連続で最下位47位を突っ走っていることにある。2012年に群馬県を抜いて46位にあがったこともあるが、それ以前の2009年から2011年までの3年間も茨城県は最下位だった。調査が行われた10年間のうち9年間はビリとされたわけである。

 こうしたランキングに疑問の声がないでもないが、茨城県民も気にはして魅力度アップに努力する人もいた。県庁所在地の水戸市ではこのランキングにショックを受けて「魅力度アップ」を狙って水戸をアピールする映画の製作に乗り出したが、それが「桜田門外ノ変」だったものだから、かえって茨城=過激派・テロのイメージをふりまいてしまう結果に。その後水戸では「水戸黄門」ではない史実の徳川光圀の大河ドラマ化実現を目指しているというが、この光圀という人も少年時代は凄い不良だったり、高齢になってから家老を自ら斬殺するなどなかなか過激な人で、イメージアップになるのかどうか。
 過去に茨城を舞台にした映画と言えば、水戸出身の深作欣二監督によるヤクザ映画「仁義の墓場」は、水戸出身の実在ヤクザの人生を描いた異色作で実録ヤクザ映画の極北と呼ばれるほどの過激な作品。いっぽう怪獣映画では「ゴジラ2000ミレニアム」が茨城県を舞台にしていたが、全編「イバラキ」ではなく「イバラギ」と発音していて茨城人を失望させた。
 映画と言えば、埼玉県を過激にネタにした映画「翔んで埼玉」が異例の大ヒットとなっている。原作漫画でも埼玉県が過激に田舎化され、東京都民からすさまじく蔑視されているのだが、その埼玉に出稼ぎにやってくる「さらなる秘境」として茨城県が描かれており、茨城人が埼玉人から蔑視されるという恐ろしい構造が語られることから、これがまた一部の茨城人の怒りを買って「最下位を脱出するには、もはや日本から離脱するしかない!」との強硬意見につながり、先日の住民投票で賛成票を増やす結果になったとの憶測もある。


 さて茨城県の日本国からの離脱「イバレジット」を実施するとなると、特に経済面手の自立が課題となってくる。その手始めとして、水戸の観光地で日本三大名園のひとつ「偕楽園」について、今後は県外の住民から入場料をとることを検討と先日報じられた。偕楽園の入口で茨城県民とそれ以外をどうやって見分けるのか明らかにされていないが、「ゴジャッペと呼びかけて反応をみる」といった識別法が検討されているという。
 それ以外の観光資源としては、なんといってもアニメ「ガールズ&パンツァー」の聖地巡礼がある。大洗町を舞台にしたこのアニメには同町に実在する風景や施設が登場するため多くのファンたちが「聖地巡礼」に押し寄せる。これら巡礼者のうち県外の人に人頭税をかけることで県の収入増を狙う案も出ており、どうしても納税したくない者には「貢納か、県か」と茨城県民への転入を提案するともいう。ただしこうした強行策に対して「ガルパン」信者たちが聖地奪回を目指して十字軍を発動する懸念もあるとして慎重な対応を求める声もある。
 このほか、県内を通っていながら駅がなく、茨城県民になんの利便性もない東北新幹線についても、「県内通行税を聴取するべき」との声も出ている。

 「イバレジット」が実行されると、茨城県の産物が日本国へ「輸出」されることとなり、関税が生じてしまう。これは茨城にとって死活問題になりかねず、茨城県庁は日本国と離脱条件の交渉を繰り返し、一部産品についての関税免除あるいは軽減を求めている。 
 最初の合意案では「水戸納豆」については関税を免除するとされたが、関西方面への輸出にメリットが薄いことから県議会の採決でこの案は否定された。第二の合意案として「乾燥イモ」の関税免除が盛り込まれたが、生産地がかなり限定されるためレンコンやハクサイの産地からの反発があり、これも否決された。第三の合意案では利根川を越えたところにある一部茨城県の「飛び地」について、経済特区とする案も盛り込まれたが、これも地域によって理解が得られず否決に。繰り返される合意案否決に日本国側も「いったいどうしたいのか」と呆れ顔だ。「合意なき離脱」が現実味を帯びて来たことで、企業の茨城撤退の動きも出てきている。

 茨城県内でも県北・県央・県南で温度差があり、「チバラギ」などと呼ばれる旧下総国地域は離脱に消極的とされる。また県の南西部は「平将門が勝っていれば王都だった」と坂東市が首都候補に名乗りを上げ、旧常陸国府のあった石岡市と共に水戸市や日立市に対抗して主導権争いを演じている。
 こうした混乱から、「結局離脱についての再投票をすることになるんじゃないの」との見方も出ているが、本当にそんなことになったら周囲から「ジョーバンじゃないよ」と言われそうである。



◆フライ・トゥ・ザ・ムーン

 今年2019年は、1969年のアポロ11号による人類初の月面着陸からちょうど半世紀、50年となる。それに合わせて、そのとき人類で初めて月面に降り立ったニール=アームストロングの伝記映画「ファースト・マン」が公開されてもいる。アポロ宇宙船による月面着陸はその後12号、14号、15号、16号、17号まで続いて(13号は事故により着陸せずに帰還)、1972年12月に終了した。以来、人類の月面着陸は47年間行われていない。何度か計画自体はぶちあげられてはいるのだけど、なにせ多額の予算がかかることでもあるので、実現が難しいのだ。

 半世紀も月面着陸が実現しないことを根拠に、いわゆる「アポロ陰謀説」と呼ばれる陰謀論がある。アポロ宇宙船は実際には月まで行っておらず、世界に実況中継されたアームストロングらの着陸映像は地球上のスタジオで撮影された「特撮映像」である、とする説だ。現在ですら大変なプロジェクトなのに、ファミコン以下の能力のコンピュータしかないような当時の技術で月面に到達して地球に帰還することなどできるはずがない、当時のアメリカ政府がソ連に宇宙開発競争で「勝利」を得るために陰謀を仕組んだのだ、という話で、アポロ計画直後からささやかれたものだが、時間がたてばたつほど信者が増えてきている気配もある。映画「ファースト・マン」では月面着陸シーンがまさしくスタジオ撮影されているので、「やっぱりスタジオで撮れるじゃないか」と勢いづく陰謀論者も多そうだ。そういやこの映画、陰謀論者が好んでとりあげる「月面にはためく星条旗」の場面がなぜかカットされていて、これがまた陰謀論者を刺激してしまうような…。

 こうした「アポロ陰謀論」では、NASAの依頼で「月面着陸の映像」を作成したのは、有名な映画監督スタンリ=キューブリックであると主張されることがある。アポロ11号打ち上げ前年の1968年にキューブリック監督が製作したSF映画「2001年宇宙の旅」が公開され、その中で当時としては最高レベルの特撮により地球から月への宇宙旅行、月面における異星人の遺物「モノリス」発見シーン、木星からさらなる大宇宙への旅が見事に映像化されているためだ。あれだけの映像を作ったキューブリックならば、アポロ月面着陸の映像ぐらいリアルに作っちゃうはず、という主張が実際にあるのだ。

 しかし濃いめの映画ファンなら、まずこの話を信じはしない。なぜならキューブリックという映画監督は実に凝り性の完全主義者、どんなジャンルでもリアルさを追求してしまう芸術家肌で、そんなフェイク映像作りに協力するとは思えない人物だったからだ。有名なところで「バリー.・リンドン」という時代劇で18世紀ヨーロッパの風俗再現に徹底的にこだわり、室内シーンも当時実際に使われた照明器具だけを用いて撮影するために特殊なレンズをわざわざ作った、という逸話がある。また作風も前衛的かつ反権威的なところがあって、そんなNASAの陰謀なんかに加担するはずがない、というのもある。

 ところがこの4月1日になって、驚くべき新事実が判明した。NASA本部の資料室の整理をしていたところ、キューブリック監督が撮影作業としていると思しき写真が発見されたのである(右下)。
 これは一見して月面を宇宙飛行士たちが歩いている場面を撮影している風景と見える。すわ、やはりキューブリックはNASAの陰謀に加担していたのか、と早合点してはいけない。良く見れば背景に映っているのは「2001年宇宙の旅」の月面シーンである(映画と方向が違うのは撮影の都合であろう)。やはりあの映画の撮影風景スナップであることは間違いない。

 しかも、キューブリック監督が宇宙服を身に着けてカメラの調整にあたっている。画面に映るわけでもない監督が、なぜ宇宙服を着ているのか?
 この写真が発見されたことを受けて、当時NASA職員であったストレンジラブ博士(84)が会見を開き、報道員らに新事実を明らかにした。
「キューブリック監督は良く知られている通りの完全主義の映画監督でした。彼は『2001年』の月面シーンの撮影を一度はスタジオ内でテスト撮影したのですが、その出来に大いに不満だったのです」と博士は切り出した。「そこで、映画製作のため技術資料の提供などで協力していた我々NASAに、なんとしても月面現地ロケを敢行したい、と驚くべき提案をしてきたのです」

 月面では重力は地球上の6分の1しかなく、太陽光線の照らし方も、空に浮かぶ地球の輝き方も、地球上のスタジオで再現するのは困難だった。完全主義者のキューブリック監督は「それならいっそ本当に月面で撮影すればいい」と破天荒なアイデアを思いつき、NASAに提案した。NASA側も驚いたが、監督の熱意および月面着陸の本番へ向けてのいわば「人体実験」にもなるということで提案を受け入れた。ただしあくまで極秘プロジェクトとされ、1967年11月にサターン5型ロケット完成型によって打ち上げられた「アポロ4号」の司令船にキューブリック監督とスタッフ・出演者を人数を絞ったうえでひそかに乗り込ませた。「アポロ4号」は表向きは有人飛行へ向けて地球軌道を回るだけの無人実験機とされたが、実は本番同様に月軌道まで飛び、キューブリック監督自らの操縦で月面に着陸、1時間程度でロケ撮影を済ませて地球へ帰還したという。
 映画公開後に打ち上げられたアポロ8号が月の裏側を回って地球を映した映像が「2001年」にソックリだと当時話題になったが、ストレンジラブ博士は「それは当然です。実際に現地で撮影したのですから」と平然と認めた。「キューブリック監督は命の危険もかえりみずに現地ロケを敢行し、映画も大ヒットして、我々もアポロ11号の本番へ向けての貴重な練習およびデータの獲得ができた。彼とスタッフたち、出演者たちには感謝の念しかありません」と博士は感慨深く語った。

 ところで「2001年」には当初美術担当として日本の漫画家・手塚治虫に声がかかっていたことは有名だ。手塚は著書の中でキューブリックから「月面を舞台にしたSF映画」の製作のために渡米してほしいと要請されたが、当時虫プロを率いてアニメ製作も行っていたため「200人を食わせなければならない」と断ったと明かしている。その手紙は失われたとされているが、NASAの資料室からキューブリックから手塚あての手紙のコピーも発見された。その内容を確認したところ、キューブリックは「月面で撮影するSF映画」のために一緒に月まで飛んでほしいと手塚に要請していたことが判明した。手塚としてはさすがに危険を感じ、虫プロの経営を理由に断ったというのが真相であったようだ。とてもツキあいきれない、と思ったのだろう。



◆ゲンゴーイットー!

 この4月1日午前11時半をもって、日本政府は5月1日から使用される新元号を発表する。1989年1月7日に当時の竹下登内閣の小渕恵三官房長官が「平成」を発表したあのとき以来、三十年ぶりに見る新元号の発表である。もっとも前回は昭和天皇の死去の当日だったが、今回は200年ぶりの天皇生前退位、しかもパソコン関係の事情で新天皇即位の一か月前に公表するという、異例尽くしの展開だ。この公表だって当初は一年以上前という話もあったし、昨年夏ごろなんて話もあったし…で、かえって混乱をよんだところもあり、僕が商売道具にしている入試問題集もいつもは「平成××年度」となっていたのが「20××年度」と西暦に変更になっていたりして、結局元号離れを加速させた面もあるようだ。

 しかし歴史を振り返ればそんなの混乱でもなんでもない。そもそも元号と天皇在位がリンクする「一世一元」の制度がとられたのは明治以後のことで、それ以前は元号は何かというとコロコロ変わるものだった(保守系論者にこのことすら理解してない人が結構いるのが凄い)。特に災害とか大事件があったというだけで改元することも多く、桜田門外の変を受けて改元した「万延」なんてすぐ翌年に変えられて一年も続かなかった。一方で室町時代の「応永」は特に改元の理由もなかったせいか延々35年も使われ、近代以前の最長記録になっている。

 さらに混乱を呼んだのは南北朝時代だ。ご存知のように天皇家が二つに分裂して「北朝」「南朝」で対峙した時代で、それぞれに元号を定めたため、日本中の人々がそれぞれの立場に応じて北朝・南朝の元号を使い分けた。「建武」というと後醍醐天皇が中国の元号をそのまま持って来たもので「建武の新政」という歴史用語でも有名だが、足利尊氏が後醍醐に叛いて戦乱となると「延元」に改元、すると尊氏側が北朝をたてて「建武」元号使用を続けるといったヤヤコシイ事態も起きている。武将たちの中には北朝・南朝とめまぐるしく立場を変えた者も少なくなく、立場を変えるたびに文書に記す元号が変化していて、同時代人たちもさぞ混乱したのではなかろうか。当時は西暦なんて選択肢もないわけだし。

 「明徳の和約」(1392)により南北朝は合一し、元号も統一されることとなったが、和約の条件であった「今後は北朝・南朝が交互に即位」という約束が北朝によって反故にされたため、南朝皇族の子孫とその支持者による抵抗運動が紀伊山地の山奥で展開された。これを「後南朝」といい、一度は宮中に乱入して天皇の地位の証である「神器」を奪い取ったこともある。こうした後南朝の皇族とされる人物は応仁の乱あたりまで史料上に登場するが、以後は完全に歴史の闇の中に消えてしまう。

 こうした後南朝の人々は、立場から言って「北朝」の元号を使用するはずはなく、独自の元号を使った可能性が高いと思われる。その実例として「応仁の乱」の最中に後南朝の蜂起が吉野・熊野で起こり、「明応」という元号を使用したという伝聞記録がある。しかし彼らの遺した文書が全く現存しないためその存在を確認することはできないままだった。しかしこのたび紀伊山地の山奥に在住している「後南朝」の子孫であると称する人と物から、南北朝マニアの僕に連絡があり、その人物が所有する室町時代以来の古文書に、後南朝の独自元号がはっきりと記されていたのである。
 その「自称後南朝の子孫」は匿名を条件に取材に応じたため、その正体を明かすことはできないが、所有している古文書類は確かに本物と認められた。正体を明かさない理由として、当人はすでに「正統な天皇」を主張する気はないこと、敗戦直後に南朝末裔を称する「自称天皇」が数多く出たが、いずれもろくな運命をたどらなかったことなどを挙げていた。

 彼が所有する文書は、その内容から「応仁の乱」の終盤のものと思われ、応仁の乱で西軍にかつぎだされたという「西陣南帝」が発した文書とみられる。その文末には「令和元年」と書かれていて、恐らく彼が西軍から追放された文明5年(1473)にあたると推測される。この「西陣南帝」なる人物はその後北陸方面へ向かい消息不明となってしまったが、この匿名人物が所有する古文書群には「令和」元号を記した文書が他にも数多く存在していた。
 驚くべきことに、この「令和」元号は二十年、三十年、さらには四十年、五十年を越えて使用されていることが分かった。匿名所有者は「南朝が一度北朝を接収した時の元号『正平』が25年まで使われていた例があります。『西陣南帝』にとって西軍に奉じられたことは久々の南朝の再興だったから、その時期の元号を延々と使い続けたのでしょう」と推測している。

 文書群を調査していくと、「令和」元号の文書はさらに続いて、「令和百年」「令和二百年」といった数字まで現れた。匿名所有者はこれについて「『西陣南帝』の子孫たちは実際の活動はできないものの、南朝の子孫であることを忘れないようにと同じ元号を使い続けたのでしょうね」と語る。「令和」元号はとうとう三百年、四百年を越える数字にまで達し、ついには匿名所有者がつい先日身内にあてて出した手紙に「令和五百四十七年」と記したものが最新となった。「我が家では『一世一元制』などという中国の真似はしませんので」と彼は語るが、そもそも元号制度自体が中国の真似であることは考えてもいないようだ。
 この元号をいつまで使い続けるのか、との問いに、匿名所有者は答える。「我が家に伝わる言い伝えでは、ずっと使い続けていれば北朝子孫の現皇室で同じ元号を決定してしまう時が来る。その時こそ南朝が北朝を接収した『正平の一統』の再現で、我々南朝がついに勝利を得る時だ…と。しかし21世紀にもなった今頃になって、『令和』なんて中世の香りのする古臭い元号なんて制定するんですかねぇ」
 正統天皇を主張する気はないと言いつつも、先祖伝来の「野望」をその目にちらりと輝かせる匿名氏。おりしも公表される新元号に、彼は何を思うのだろうか。


2019/4/1の記事
間違っても本気にしないように!

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