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2019年4月7日

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◆今週の記事

◆「キリスト教会」のモスクでテロ

 ニュージーランドの都市クライストチャーチで、イスラム教徒を狙った銃乱射テロが起きたのは3月15日のことだった。同日に「史点」を更新したため、この話題をとりあげるまでに時間がかかってしまったが、最近起こった事件の中でもかなりショッキングな事件だった。
 
 「クライストチャーチ」はニュージーランド南島で最大、国内二番目の人口を抱える大都市だ。「クライストチャーチ」という名前は直訳すれば「キリスト教会」なので、何か教会が絡んだ名前の由来があるのかな、と思って調べてみたら、1848年に当時の移民団を率いていた政治家がオックスフォード大学の「クライストチャーチ・カレッジ」の出身で、そこから名前を採ったということだった。そのカレッジの名前はもちろん「キリスト教会」に由来するので、ニュージーランドの都市の方も「キリスト教会」に由来するとは言える。事件の一報を聞いたとき、僕がまず思ったのは、犯人がこの都市のモスクを狙ったのは、もしかするとこの都市の名前を強く意識したからではないか、ということだった。

 3月15日は金曜日。イスラム教徒がモスクに集まって金曜礼拝をおこなっていた。そんな昼過ぎのモスクに、半自動小銃2丁を持った白人男性が侵入、老幼男女を問わず乱射して瞬く間に40人ほどを殺害した。男はさらに市内の別のモスクに移動して、そこでも乱射し10人ほどを殺害した。男はそこから移動中に警官に逮捕されたが、さらに第三のモスク襲撃を行おうとしていたという。彼の車には爆弾も積まれていて、より大規模な殺戮を計画していたとみられる。

 さらに恐ろしいことに男はその模様の一部始終を動画撮影し、フェイスブック上で生中継までしていた。その動画がネット上でコピーされまくって、その取り締まりが大変なことになっていたそうだが…。フェイスブックはこの事件を受けて「白人至上主義のコンテンツの禁止」を表明している。
 事件直後、犯人は数人のグループと報じられたが、結局は無関係の人たちが逮捕されただけで、実行犯はオーストラリア国籍の28歳男性ただ一人であった。集団による犯行よりは単独犯のほうが少しホッとする(?)ところもあったのだが、この人物がこんなことを実行しようと思い至る背景には明らかに最近国際的広がりを見せている白人至上主義・反移民思想の広がりがある。実際、彼がそうした団体に寄付を行うなど接触していた事実もあるようだし、2011年にノルウェーで起きた反移民思想の男一人による大量殺害事件に影響を受けた可能性も強いという。

 事件発生直後、ニュージーランドのアーダーン首相は「ニュージーランドにとって暗黒の日」と表現し、後日議会でも「私が彼の名を口にするのを聞くことは決してない。彼は悪名を馳せようとしたのだろうが、ニュージーランドは彼に何も与えない」と縁説した。当記事でもその意を受けて犯人の名前は書かないことにしているが、確かに彼としては「悪名を馳せる」意図がかなり強かったんじゃないかと思う。だからこそ殺戮のネット中継までやってしまったし、実行直前に首相官邸はじめ各所に自身の「マニフェスト」を送りつけて犯行の意図するところを知らしめようともしていた。法廷では自ら「ファシスト」と称したとの報道もあった。
 この件、どうしても連想してしまったのが、日本の相模原市で起こった障害者施設での大量殺人だ。あれも自分の行為を完全に正しいと考えて首相その他に手紙を送りつけていたし、ナチスの障害者抹殺政策を知って賛同もしていた。狙う対象が違うだけでかなり良く似ているように思う。どちらも犯人の周囲の人たちが「あいつは最近おかしくなってた」と証言してるところも似てるし…ニュージーランドの事件のほうも精神鑑定がなされるようだが、医学的な話とは別に広義の「狂人」ではあっただろう。
 ニュージーランドの事件の犯人は、以前世界各地を旅行して見聞を広めていたという。それは大いに結構なんだけど、それでかえってアブない思想にとりつかれていったのではあるまいか。世界をその目で見て来ても正しい判断ができるとは限らない、ということだな。イスラム圏の国ではトルコを訪れて長期滞在していたというが、それが事件と関わるのかどうかトルコ当局も調査はしているらしい。また北朝鮮にまで足を踏み入れているというのも意外なところ。それだけ好奇心は強い人物なのだろうけど。

 犯人がオーストラリア生まれのオーストラリア国籍だったために、オーストラリアのモリソン首相も素早く反応して事件を非難した。オーストラリアはニュージーランドより早く移民を積極的に受け入れ、またそのために一部白人層の反発もあって、いろいろとイザコザは起こっている。また人種や移民の問題とは直接はからまないが1996年に似たような銃乱射事件があったこともあり、他人事とは思えなかったのだろう。
 しかしどこにでもバカな政治家というのはいるもので、オーストラリアのフレーザー=アニング上院議員がテロの直後に「今日はイスラム教徒が犠牲者だったが、たいていは彼らが加害者だ」と発言、首相その他の政治家や国民の多くから非難を浴びていた。そもそもこのアニング議員、移民排斥を唱える極右政党に属していて、これまでも物議を醸す発言をし続けていた。昨年には悪名高い「白豪主義」の復活を唱える演説を行い、そのなかで「最終的解決」という、ナチスのホロコーストを連想せざるを得ない単語を使用して騒ぎになっている。

 乱射事件の翌日、メルボルンで事件について記者の取材を受けていたアニング議員に、後ろから自撮りしながら近づいた少年が生卵をぶつける「テロ」を実行した。怒ったヤニング議員は即座に少年にパンチ2発を見まい、さらに蹴りまで入れようとしたところで止められた。もちろん少年も取り押さえられたが、ヤニング議員が批判を浴びている最中ということもあって少年を「エッグボーイ」と呼んで賞賛する声も上がっているとか。ま、生卵投げもテロの一種ではあろうから感心はしないけど、そのぐらいの「報復の連鎖」なら助かる、という気もする。

 ヘンな発言をする政治家は他の国にもいた。トルコのエルドアン大統領である。イスラム系政党を率いて長期政権となり、クーデター騒ぎもあったが乗り切っている、トルコ現代史においては注目すべき政治家ではあるのだが、これまでも何回か「史点」ネタにしてきたように、ときどきヘンな発言をする人でもある。特にイスラム教徒を煽る意図をもつような発言でだ。
 事件から間もない3月18日はトルコにとって歴史的な「ガリポリの戦い」の記念日にあたっていた。詳しくは当サイトの「しりとり歴史人物伝」のケマル=アタチュルクの記事を見てね、と宣伝しておくが、第一次世界大戦中の1915年、イギリスがオスマン帝国首都イスタンブール占領を狙ってダーダネルス海峡突破作戦を実行、ケマル=パシャら率いるオスマン帝国軍がその阻止に成功した戦いだ。そのケマルがのちに現在のトルコ共和国を作ることにもなるわけでトルコにとってはもちろん記念すべき戦いなのだが、この戦いのイギリス軍の主力は大英帝国自治領であったオーストラリア・ニュージーランドの軍隊で、両国にとっては初の自国軍の戦争ということでガリポリ半島上陸日(4月25ヌ地)を陸軍記念日にしたりしている。
 エルドアン大統領、ガリポリの戦いの記念日にあたっての演説で「敵」がオーストラリア・ニュージーランドの両国であることに触れ、それを今回のモスク襲撃事件に結びつけて「当時、あなた方の祖父はこの戦いであるいは歩いて、あるいは棺桶に入って帰って行った。もし同じことをするなら祖父たちのようにしてやろう」と発言してしまった。オーストラリア、ニュージーランド両国政府は当然だが強く反発し、抗議と発言の撤回を求めているが、エルドアンさんのこれは失言ではなく政治的に計算してやってるのが明らかで、撤回など応じないだろう。

 トルコでは3月末に地方選挙があって、エルドアンさんとしては自身が率いるイスラム政党のためにも有権者の「イスラム教徒意識」に訴える必要があった、ということらしいが、銃乱射事件の映像を選挙活動で流すといったことまでやってたそうだから、事件の露骨な利用であるし、ある意味では事件の犯人の狙いに同調しちゃってるといえなくもない。
 先述のように事件の犯人はトルコに長期滞在していたことがあり、公表したマニフェストではドイツのメルケル首相と共にエルドアン大統領も暗殺対象に挙げていた。移民を受け入れる側と送り出す側、ということでのセットなのだろうが、こうしたマニフェストの内容についてエルドアン大統領は「トルコをヨーロッパから引き離す狙いだ」と批判してもいる。最近EU入りはもう投げたのかな、と思えてしまうエルドアンさんだが、「ヨーロッパ意識」はまだまだ健在、ということかな。



◆何年経とうが罪は罪

 3月25日、メキシコのロペスオブラドール大統領(65)が、同国内のマヤ文明遺跡のある都市で撮影された動画をフェイスブックにアップした。その中でロペスオブラドール大統領は、今年でコルテスのメキシコ上陸(1519年)からちょうど500年となることに触れ、コルテスによるアステカ帝国征服、その後の300年にわたるスペインによる植民地支配で行われた数々の人権侵害や暴虐行為について、スペイン国王とローマ法王に謝罪を求める書簡を送ったことを明らかにした。当人は「これは和解の道のりの第一歩」と位置付けているが、スペイン側は強く反発している。今のところローマ法王の方の反応は分からない。

 スペイン国王の支援を受けたコロンブスが大西洋を横断し、彼が「インド」と勘違いした現在の西インド諸島に到達したのは1492年のこと。やがてこの地域がインドでもアジアでもなく、ヨーロッパにとって未知の「新世界」であることが分かるのだが、スペインはこの西インド諸島で過酷な植民地支配を敷きつつ、そこから西の大陸へ行くのはいくらか遅れた。そしてコルテスが1519年にユカタン半島に上陸、アステカ帝国の存在を知ることとなり、1521年にアステカ帝国を滅ぼして、この地を「ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)」として植民地支配することとなる。その間にスペインがこの地の人々から過酷な搾取を行い、意図したわけではないにせよ病気を持ち込んで多くの先住民の命を奪い、マヤ・アステカの文明の遺産を「邪教」としてキリスト教(カトリック)布教の美名のもとに徹底して破壊する、といったことを行った。
 こうした歴史は歴然とした事実であり、今回、メキシコ大統領が今さらながらとはいえスペイン国王とローマ法王に「謝罪要求」を出したのも無理はない。大統領本人も言ってるように「和解」するための前提としてまず「公式謝罪」をしろということであって、それで賠償がどうのという話ではない。

 だがスペイン政府は「謝罪は断固拒否」と、かなり強く反発した。さすがに他のヨーロッパ諸国と同様に過去の植民地支配を全面正当化してるわけではなく、大統領がスペイン国王に直接書簡を送り付けたこと、しかもその内容を勝手に公表して「謝罪要求」をしたことに怒っている。また「500年前のメキシコへの到達を、現在の価値観で判断してはならない」とも言っていて、これもまぁよく聞く論法ではある。世界史を振り返ればその手の征服、支配といった事例はやたらにあって、それをいちいち謝罪するのも…というのは征服した側の言い分ではあるだろう。ただ植民地化直後のスペインによる中南米支配は当時の感覚でも結構過酷と思われるものだったみたいだけどね。付け加えておくとコルテスがアステカ帝国を滅ぼせたのは、アステカ帝国自体が現地では苛烈な征服者・過酷な支配者であったため、被征服民たちがコルテスに協力した、という背景もあったりする。

 メキシコとスペインは現在でも経済的に関係が深いこともあり、ロペスオブラドール大統領も「両国関係は悪化することはない」と発言、スペイン側も「我々は歴史を共有する兄弟国。怒りを抱かず建設的に…」といった発言をして関係悪化を避けようとはしている。ただこのスペイン側の発言もどっかの国の「未来志向」と同じで都合よく使われかねない気がするな。これを機にそうした負の歴史に向き合って、象徴的存在である国王が表現はどうあれ謝罪めいたことを言ってもいいんじゃないかと。
 メキシコも含めた中南米諸国やフィリピンがカトリック国であるのはスペインによる征服とその片棒を担いだカトリック教会の布教の「成果」ではあるのだが、今やそうした国々の信者がカトリック教会を大きく支えてるわけで、バチカンとしても簡単に「負の歴史」とは認めないかもなぁ。


 もっと近い時代の歴史問題の話題も。
 マレーシアの北部クダ州の州都アロースターに、旧日本軍が建立した慰霊碑があった。なんでこんなところにそんなものが、というと、1941年12月の太平洋戦争開戦時に日本軍は当時イギリス植民地であったマレーシアに侵攻した。その際にこの地の橋の確保のために日本兵三人が戦死、その三人を称えてマレーシア占領中に日本軍が建立した、ということらしい。その後日本の敗戦、撤収があって、慰霊碑は70年にわたってほったらかしにされていた。

 それを何がきっかけか知らないが現地当局の観光委員会が観光資源として整備しようと考えた。そして日本側から資金援助を受けて放置状態だった慰霊碑をきれいに整備したのだが、そこにつけた英文の説明看板の中で三人の日本兵を「英雄」と称えるくだりがあることが問題となった。恐らく慰霊碑の原文をそのまま直訳したのだと思うが(資金援助した日本側がどういう存在だったのかも気になるが)、これが現地住民、特に華人社会の猛反発を買った、実際日本群占領期に華人社会は虐殺など大きな被害を受けた過去があり、慰霊碑の回りに抗議の横断幕を掲げて英文看板の撤去、および慰霊碑自体の破壊を求めるデモ活動も行った。
 現地の観光委員会は英文看板については「誤訳」と弁解して、看板の方の撤去は認めた。ただ慰霊碑自体の撤去にはついては「この慰霊碑は1941年からずっと建ってるんだし」ということで、これはこれで観光資源になるとの判断で今後も維持するとのこと。ま、そこが落としどころかな。ただその慰霊碑が期待するほど観光資源になるのかどうか疑問だが。



◆鉄は早いうちに打たれた?

 「むかしトルコのかたすみで〜鉄はせっせときたえ〜られたとさ〜♪」という懐かしいCMソングが脳内演奏されたのは、先日、「鉄の歴史に一石、ヒッタイト起源に異説か 最古級の遺物発見」という朝日新聞の見出しを見た時だった。このCMソングは川崎製鉄が1980年代あたりに流していたCMに流れていたもので、現在のトルコ共和国領土であるアナトリアで人類最初の製鉄が行われ、そこから世界中に伝播していって最後に日本に来る、という流れをアニメつきで語る内容だった。なかなか軽快でノリのいい歌だったものだから頭に入りやすく、そのおかげで高校以後に世界史を習った際に「製鉄のルーツはアナトリアにいたヒッタイト」というのが頭に入りやすかったものだ。

 さてその見出しの朝日新聞記事、およびテレビ朝日のニュースで話をまとめてみると、トルコの「カマン・カレホユック遺跡」を30年来調査している日本の「中近東文化センター・アナトリア考古学研究所」の調査隊が、一昨年に同遺跡の紀元前2200〜前2500年ごろの地層から、3センチほどの分銅のような遺物を発掘した。こんな大きさのものでも「大きい部類」に入るものだといい、酸化鉄を多く含む明らかな人工物だということで、ニュースでは「世界史の常識をくつがえす発見かもしれない」とまで表現していた。
 そこで紹介される通説では、古代オリエント史に登場するヒッタイト帝国は前15世紀〜前12世紀に強大となったが、その力の源泉は「製鉄法」を独占していたから、とされている。今回の発見(発見自体は一昨年だが成分分析の結果が最近出たということかな)は、それより1000年以上古い鉄製品ということになり、その時期ではヒッタイト古王国もまだ成立していないから、製鉄法はヒッタイト以前からあったんだ!ということで「世界史がくつがえる」なんてフレーズが出ちゃったようである。

 ただ…こうしたセンセーショナルな報道は勇み足過ぎると思う。せいぜい新聞の「鉄の歴史に一石」ぐらいに抑えておくべき。この件について参考にしようと思って図書館から永田和宏著『人はどのように鉄を作って来たか・4000年の歴史と製鉄の原理』(講談社ブルーバックス、2017)という本を借りて読んでみたら、製鉄法自体は前2000年代の「プロト・ヒッタイト」時期にさかのぼれることは書いてあった。隕鉄(隕石に含まれる鉄)を利用した世界最古の鉄剣も発掘されており、アナトリア地方で最初に製鉄法が発明されたことは間違いないようで、銅の精錬を行っていうちに鉄鉱石を混ぜたことで偶然発見したのではないか、という推理が紹介されていた。この製鉄法を知る「プロト・ヒッタイト」の人々が後にヒッタイトに征服され、鉄職人としてヒッタイトに管理されて製鉄法を彼らに独占させることになったらしい、という筋書きもすでに書かれていた。だから上記の報道は知ってる人には「何を今さら」な話なんじゃないかなぁ、と。専門的に調べてるわけじゃないので断言はしないが、少なくとも「世界史がくつがえる」ことはないだろうと。「製鉄といえばヒッタイト」という大学受験的な暗記をしてた人が記事書いちゃったんじゃないかなぁ。


 これだけでは短すぎるので、ちょうど入ってきた発見ばなしをくっつけておこう。
 関ケ原の戦いの直前に来日し、徳川家康に仕えて「三浦按針」の名も与えられたウィリアム=アダムスというイギリス人がいる。アメリカのTVドラマ「将軍」の主人公のモデルになったことでも知られる人物だが、彼の墓というものが平戸にある。当時の平戸は日本の国際貿易港の一つで、かの王直ザビエル鄭芝龍鄭成功など大物の人物のゆかりの地であるが、その系譜にアダムスも加わっている。アダムスは家康の死後に帰国しようとイギリス商館のあった平戸に来ていたが、この地で病を得て1620年に死去しているのだ。
 平戸にはアダムスの墓と伝えられるものがあり、現在その地に「三浦按針墓」と彫られた石碑も建てられている。ただそこが本当にアダムスの墓なのか確証はなかった。そこで没後400年を前に調べておこうということになり、2017年に発掘調査が行われ、人骨を掘り出した…という話題を当時の「史点」で取り上げている。その骨が本当にアダムスのものかどうかは分からないが可能性はなくもない、とか当時僕も書いてるんだけど…

 その人骨の科学的調査の結果が4月1日に平戸市から発表された。さすがに保存状態の悪さから個人特定のできる「核DNA」の抽出はできなかったものの、女系を通じて遺伝される「ミトコンドリア」の解析には成功し、この人骨の持主が北ヨーロッパ、もしくは西ヨーロッパの出身者であり日本人でないことは確定したとのことだ。
 ただなにせ当時の平戸は国際貿易港だから、それでアダムス当人と決められるわけではない。どうも詳しい記録があるようで、平戸が国際貿易港であった1561年から1640年にかけてこの地で亡くなった西洋人はおよそ70人にのぼるという。そこでくだんの人骨からコラーゲンを抽出して炭素年代測定をおこなったところ、この人骨の主は1590年から1620年に死去した可能性が高いとの結果が出た。1620年死亡のアダムスはギリギリこれにひっかかるわけだが、その30年間に平戸で死亡したイギリス人・オランダ人はアダムスを含めて10人になるという。
 ここまでくれば遺骨がアダムスのものである可能性がグンと高まった…のではあるが、遺骨の分析だけからいえばまだ10%、10分の1の確立である。イギリスにアダムスの子孫や縁者がいないか調査もしてるそうだが今のところ成果はなく、決め手を欠いたままだ。
 いよいよ来年がアダムス没後400周年ということになるんだが、この骨については「1割がたアダムスの骨」として再埋葬するしかないのかなぁ。



◆新元号が発表されて

 4月1日の11時41分ごろ、とうとう次の元号が発表された。前回の「四月バカ史点」でも触れたので詳しい話は略すが、菅義偉官房長官が記者会見を行って新元号が「令和(れいわ)」に決定したと発表したのだ。当初11時30分に発表とされていたので、民放の中にはカウントダウンまでして盛り上げてたりもしたが、結局10分以上待ちぼうけを食う形になっていたのが可笑しかった。新元号に関する政令を定める閣議が終わったのが11時25分で、そのあとすぐに会見で発表するのかと思ったら、新元号を天皇・皇太子に報告して「御名御璽」を受ける作業を待ってからの発表とするために10分ほどの待ち時間がとられることになったのだという。

 気づいた方はあまりいないと思うんだけど、今回の「四月バカ史点」では「令和」元号を使ったネタがあって、菅官房長官の発表から2、3分でアップしている。もちろん記事自体は前日にすっかり用意していて、新元号にあたる部分だけ空けておき、発表直後にそれを「令和」に置き換えてサッとアップするというやり方をしたんだが、直後に読んだ人はそんなにいなかったので、それほど効果はなかったかな(笑)。
 菅官房長官の口から「れいわ」という音が出た瞬間、僕の頭に浮かんだのは「麗和」の二文字だった。シャレた名前を、と思った次の瞬間に「令和」の漢字が示されたので、かなり意外の感に打たれた。「平成」の時、なんだか奈良時代くらいにさかのぼったような気分になった覚えがあったので(「平城」につながるからだろう)、どういう元号が発表されても古臭い感覚を覚えるんじゃないかと予想していたが、「令和」は少なくとも新鮮味はあった。過去に似たような元号が全くなかったからだ。

 「和」は、近い時代に「昭和」があるように、過去に何度となく元号に使われてきた。発表前予想で人気上位にあった「永和」も南北朝時代の北朝年号に前例がある(知らない人多いんだな、と思ってたら中国でも有力候補視と予想されてたそうで)。だが「令」となると、まったく前例が思い当たらない。
 発表直後にネット上に出回った話で初めて知ったが、幕末に「元治」に改元する際に実は最有力候補は「令徳」だったという。朝廷側が一押しで「令徳」、次点で「元治」を示すと、江戸幕府では「令徳って、『徳川に命令する』ってことじゃないのか」と問題視した。おりしも将軍・徳川家茂が上洛して孝明天皇に対面するなど、朝廷側が主導権を握りつつあった時期だけに幕府首脳はなおさらカチンと来ただろう。といって「そういう意味かよ」とはねつけるのもどうか、というわけで松平春嶽が「元号ってのは以前使われた文字を使うもので、『令』の字を使った前例はない」という理屈を持ち出し(元号の全てがそうであるはずはないが)、「令徳」をやんわりと拒否して次点だった「元治」にすることになったという。採用されなかった例なのだが、「令」の字が元号に使われそうになった前例はこれしかないらしい。

 「令和」の出典は『万葉集』とされた。元号決定が近づくにつれ安倍晋三首相とその周辺が「日本の古典から出典するという案も」などとチラつかせていたので、発表されてみると「ああ、やっぱり」と思ったものだ。前にも書いた香淳皇后の贈り名が日本最初の漢詩集『懐風藻』を出典としたのが「中国古典からの出典ではない最初の例」になっていて、「平成」の次の元号についてもそうしようという意向は脈々と続いていたのではないだろうか。その一方で早い段階で漢学者に候補の選定を依頼していて、依頼された人もわざわざ湯島聖堂で清書して提出したそうだが、フタをあけてみれば日本古典からの引用だったので当人も「やっぱりなぁ」という感想を抱いたそうだ。

 今回の元号選定過程は当初30年は明らかにしないとかなんとか首相が言ってた気もするのだが、結局発表から数日のうちにその過程はかなり詳細に報じられてしまった。
 三月上旬の段階で元号案は五つ程度に絞られた、という報道はその直後にはあった。あとで判明したところによると、この時点での元号候補は「英弘(えいこう)」「久化(きゅうか)」「広至(こうし)」「万和(ばんな)」「万保(ばんぽう)」で、「令和」は影も形もなかったという。この五案のうち「英弘」「広至」が日本古典由来、残りの三案は中国古典由来だったが、「英弘」および「広至」は人名と一致しやすいので回避の可能性が高かった。そこで政府が『万葉集』の専門家に『万葉集』を出典とする元号案の提案を依頼、それで「令和」が決定直前になって飛び込む形となり、結局それが選ばれることとなった。…という流れだというのだが、どうも政府の意向としては最初から日本古典推し、それも最後に飛び込んだ「令和」が一推しであった、ということなんじゃないかと。有識者会議の決定過程がどうだったのかは分からないが、「令和」は出てきた時点で本命で、みんなそれを忖度したんじゃないかなぁ…

 「令和」の出典が『万葉集』、と菅官房長官が口にしたとき、僕は日本古典から採るなら純漢文の『日本書紀』から引っ張ってくると予想してたので、かなり意外に思った。「え?万葉集ってことは、誰かの和歌の万葉仮名から適当に二字選んだの?」と考えたりもしたが、実際には『万葉集』巻五の梅の花をめでた和歌を並べた部分の序文が出典だった。もちろん、ここは漢文で、やはり漢文からは逃げられないんだなと思ったものだ。
 この序文では、万葉の歌人で名高い大伴旅人が大宰府に赴任していた時の邸宅で開かれた梅を愛でる宴会の様子が描写されている。その中で「于時初春月、氣淑風」(このとき初春の美しい月がのぼり、空気は爽やかで風もやわらか)から「令」と「和」を採ったという。「令和」という二字を見た僕の最初の印象は「それって『りょうわ』じゃないのか」というもので、続いて「和せしむ」と漢文訓読して「強制的にみんな一致団結させる日本的ムラ社会かな」というものだったが、もちろんここで使ってる「令」は「命令」に使われるような「令」の意味ではなく、「令息・令嬢」などに使われる、「よい・うつくしい」といったニュアンスを意味する方である。政府は「令和」の英訳を「Beautiful Harmony」と海外に紹介している。一部海外メディアで「命令」のニュアンスが報じられたのを気にはしたらしい。

 先ほど書いたように元号の出典を日本古典からにしようとする流れはかなり前からあったと思う(「平成」の際にも案はあったらしい)。その上さらに現在の安倍政権が強くそれを志向したのは選定経過を見ても明らかだ。これは一つには「脱中国」であり、「国粋化」の表れではないかとの声が内外で出てもいた。発表直後の世論調査で内閣支持率が10ポイントも上がり、日本古典出典について80%以上が支持、『万葉集』がいきなり売り切れるといった変なフィーバーを見てると、新元号発表を結構ワクワク待ってた僕でもさすがにシラケを感じてしまう。別に日本古典から出典でも構わないのだが、それを高く評価するような人たちはそれまでの日本のほぼすべての元号が中国古典由来であることをどう考えているんだろう。少しむかし、ある保守論客が書いた日本史本で遣唐使の停止を高く評価していたんだが、僕の恩師の一人は「じゃあそれまでずっと遣唐使を送ってたことはどう評価するんだよ」とツッコんでいたのを思い出す。
 
 「令和」の出典となった漢文についても、『文選』に収録された後漢の張衡の『帰田賦』の一節「於是仲春令月時和氣C」を下敷きにしたもの、という指摘も直後からネット上に流れた。そもそも岩波の『万葉集』の注でもすでに紹介されていた。だからといって「やっぱり中国古典出典」と声高に言うのもどうかと思う。漢文の世界ではこうした先例の文を下敷きにすることはよくあるし、そもそも漢文という時点で中国文化そのものの受容なんだから、今さらそれで「脱中国」だの「国粋化」だのと騒ぐのもナンセンス。だいたい四月バカ記事でも書いたけど、元号制度と一世一元制が中国の制度のマネそのものなんだから。

元ネタが懐かしすぎるかな 今回は天皇の生前退位にともなっての改元という初めての事態なので、天皇の死をともなわないので「平成」の時よりお祭り騒ぎになった感はある(ただ僕の記憶では「平成」発表前後のテレビも予想大会やったり、いくらかお祭りムードはあった)。この文章を書いてる時点でぼちぼち一週間になるが、盛り上がったぶん早くも冷めてきた感もあるけどね。
 しかし、保守・右翼勢力の一部では今回の新元号発表について強い不満があった。一か月前の事前発表が決定すると「日本会議」が安倍首相に強い「遺憾」を示す声明を出してたし、僕らから見えない舞台裏では、保守団体・政治家と政府事務方との発表時期をめぐる激しい攻防があったとの報道もある。事務的理由により事前発表を押し切った安倍首相としては保守勢力をなだめるためにも元号の「国産化」にこだわったし、発表の時に天皇への報告を先にするといった「配慮」をする必要があったようだ。それでも発表当日に右翼の男が「元号事前発表」に反発して首相官邸に侵入をはかって捕まったりしている。
 こういう人たちにとっての「伝統」ってのは、やっぱり明治以後、敗戦前の日本というえらく限定された期間於ものなんだなぁ、と改めて思い知らされた。ああm例の「明治天皇の玄孫」を名前にかぶせている、今度JOC会長を辞任するハメになった人の息子さんはツイッターで「聖徳太子は中国に対して独自の元号を使用した」などと書いちゃってたそうで、不思議とこういう「国士様」みたいな人が歴史に無知なんだよな。

 ま、何はともあれ、5月から「令和」を使うことになるわけだ。普通に考えればまた三十年くらいはつきあうことになる。元号と西暦の換算も「平成」と重なって面倒になるよなぁ。外務省が「基本的に西暦を使用する」とブチあげて直後に保守系の反発を受けてトーンダウンしちゃったが、気持ち自体は分かる。


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