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2019年4月24日

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◆ノートルダムの鐘の声

 …諸行無常の響きあり」なんてフレーズが、4月16日(日本時間)朝の起床直後にスマホでニュースをチェックして、「ノートルダム大聖堂炎上」との見出しを見てビックリした直後に頭に浮かんだ。まぁどんなに歴史があろうが、自然物にせよ人工物にせよ、そのままの姿のままであることはないのだな、と。もちろん「もったいないことを」と思いもしたけどね。

 パリに行ったことはないが、あまりにも有名な、パリを代表する観光名所ということもあり、その場所や外観くらいは知っていた。特に「怪盗ルパンの館」なんてサイトをやってると、パリ市内の地理にはそこそこ詳しくなってしまうので、パリ中心を流れるセーヌ川の川中島、シテ島にこの中世以来の古い聖堂がある、というのは知識のうちにあった。小説も映画もアニメも舞台も見たことはないが、文豪ヴィクトル=ユーゴー「ノートルダウ・ド・パリ」の舞台としても世界的によく知られている。
 そのノートルダム大聖堂が大火事、という見出しを見ただけでえらく驚き、さらに報道の写真や動画を見て実際に盛大に燃えていることにまた驚いたわけだが、
「あんな石造りの建物がどうやってこんなに燃えるんだ?」と次に思った。続報で詳しい説明があり、ノートルダム大聖堂に限らずヨーロッパのこうした古い聖堂も全部石造りというわけではなく、特に屋根は雨対策の必要から木造になってるケースが多いと知った。ノートルダム大聖堂の火事も燃えたのはその木造の屋根で、結局大聖堂の屋根全体の3分の2が焼け落ち、屋根の中央にそびえていた高さ90mもある尖塔が崩れ落ちた。甚大な被害には違いないが、外側の石造りの部分はそのままで、よく知られる正面の二つの塔や内部のステンドグラスなどは無事であるという。

 火事の原因については現時点でも確定はしてないが、ちょうど大聖堂で進められていた大規模な修復作業のなかで屋根裏の電気配線でショートが起こったことによる失火、という線が濃厚になっている。修復作業がかえってあだになってしまった可能性が高いが、修復作業のために周囲に足場を組み、傷つける可能性のある外壁の彫刻類などは取り外してあったために無事で済んだ。また火災が屋根から上であったために火災発生直後に聖堂内の歴史的遺物などは運び出されてほとんどが無事。まぁ不幸中の幸いと言ってもいいだろう。

 ノートルダム大聖堂の建設が始まったのは1163年。日本史でいうと平清盛が武士として初めて政権を掌握した頃だ。この手の聖堂というのは建設にえらく時間がかかるのが普通で、また作っているうちにどんどん計画がふくらんで(特に塔など全体的に上へ上へと伸びる)、どうにか完成形になったのは13世紀半ばだから、だいたい百年はかかったわけだ。日本の建築物でいうと東大寺南大門が「同世代」ということになる。
 今度の報道で初めて知ったのだが、ノートルダム大聖堂には「キリストが磔刑の際にかぶったイバラの冠」だの「十字架に使ったクギ」だのといった、十字軍が持ち帰った怪しさ爆発の「聖遺物」が保管されている。確か「クギ」の方なんて第四回十字軍の際に美安津帝国の首都コンスタンティノープル占領時にぶんどってきていたような…幸か不幸かこれらのアイテムは今回の火事も無事乗り切ったそうで。
 1302年には当時のフランス国王フィリップ4世が史上初の「三部会」をこのノートルダム大聖堂で開催した。百年戦争のヒロイン・ジャンヌ=ダルク(1431火刑)の復権(異端無効)裁判が1455年になって行われたのもここだった。16世紀の「ユグノー戦争」では、ユグノー(フランスのカルヴァン派)たちがノートルダムの彫像の一部を破壊したこともあり…と、フランス史と共にこの聖堂は歩んできた。

 そして18世紀末のフランス革命の際には略奪・破壊の被害を受けた歴史もある。フランス革命ではキリスト教会も特権階級・支配層として攻撃され、革命の急進派はキリスト教そのものを廃棄して「理性の崇拝」なんてものを始めたりもした。そんな中でノートルダム大聖堂も攻撃の対象とされてしまったわけ。おかげでほとんど廃墟と化していた時期もあったが、ナポレオンが政権を握ると修復も始められ、1804年のナポレオンがフランス皇帝となった戴冠式もここで行われた。
 ナポレオン以後も半ば廃墟状態ではあったようで、先述のユーゴーの「ノートルダム・ド・パリ」のヒットがきっかけとなって19世紀にようやく本格的な修復工事がほどこされ、今回焼け落ちら尖塔もその時に作られたものだ。その後、第二次大戦のパリ解放時に流れ弾が飛んできて聖堂の一部に損傷を与えたりもしている。そうやってあれこれ乗り越えてきたけど、今回の火事がこの聖堂の歴史上最大の災難とは言えるだろうな(フランス革命児がいい勝負?)

 フランスの元首マクロン大統領は即座に現場を視察し、「大変な惨事だ」と、パリのみならずフランスにとっても象徴的なこの建物の火災を嘆き、「5年以内に修復する」と宣言もした。ただ「5年はさすがに無理では」との声も出ていて、なかには最近あれこれと国民から批判を受けるマクロンさんの人気取りでは…なんて声もある。また大企業トップや大富豪たちからたちまち1000億円以上の多額の支援金が集まったのも凄いとは思うが、「そのカネをもっとほかに回せ」ってな声もあるにはある。

 歴史的建造物の焼失、という例は最近だと2008年、韓国ソウルの南大門(崇礼門)焼失がまず頭に思い浮かぶ。日本では何といっても1950年の金閣放火炎上事件が最大の例だろう。あ、いや、最大、ってことを言うなら東大寺大仏殿と大仏なんか二度も炎上・破壊されてるわけですけどね。なんにせよ、今度のことは「対岸の火事」ではないと、世界中で歴史的建造物の保護方法の見直しが行われているようである。



◆「ルソン原人」確認

 4月10日付の科学誌「ネイチャー」で、フィリピンのルソン島のカラオ洞窟から発掘された化石人類の骨について、これが新たに確認された「原人」のものであるとする論文が掲載された。この原人は学名を「ホモ・ルゾネンシス」と名付けられ、日本語では俗に「ルソン原人」と呼ばれることになる。

 現在の人類学では何を「原人」と呼ぶのか定義が難しいのだが、一応アフリカにいた人類の祖先「猿人」から進化して「出アフリカ」を行い、ヨーロッパからアジアに数十万年前〜数万年前に生息、ネアンデルタール人や現生人類の拡大と入れ替わるように絶滅した人類、というあたりが一応の定義になるだろうか。
 アジアでその存在が確認されているのは、インドネシア・ジャワ島の「ジャワ原人」、中国・北京で発見された「北京原人」、長らくこの二つしかなかった。しかし21世紀に入ってから、インドネシアのフローレス島で発見された身長1mの小型人類「フローレス原人」が見つかって大きな衝撃を研究者に与えた。その後台湾沖の海底から「澎湖人」が見つかって、これでアジアにおける原人の四例目となっていた。そして今回の「ルソン原人」で5例目ということになる。

 この「ルソン原人」が発見されたカラオ洞窟はこれまでにもいろいろと古い人類の骨や遺物が見つかっているところだったが、これまでは現生人類=ホモ。サピエンスのものに限られていた。というのも、フィリピン群島は日本列島などとは違って大陸と陸続きになったことがなく、それまでの考古学の常識ではせいぜい1、2万年前に現生人類が海を渡ってやってくるまで「人間」はいないはずとして、それ以前の年代の地層まで発掘自体をしていなかったのだ。だがインドネシアで「フローレス原人」の骨が発見されたことで「もしかするとフィリピンでも可能性があるのでは」ということでより古い地層を調査するようになったという。

 すると6万7000年前の地層から歯や手足の指の骨など、小さいものばかりで数も少ないながら人間の骨が発掘された。それでも当初は現生人類のものという見方もあって、そうなると6万年も前に現生人類がフィリピンまで到達していたという話になってしまう。諸説あるが現生人類の「出アフリカ」は7万前ごろと考えられているため、6万7000年前にフィリピンまで来ていたとなるとえらくスピードが速いということになってしまう。

 そこでよく調査した結果、これらの人骨は一部に猿人に近い特徴がみられるものの、同時に現生人類に近いところもあることが分かった。だとするとこれはその間に入る「原人」ではないのか、という話になったわけだ。そういうことになると、彼らがいかににして海を渡ってルソン島まで来たのか、またかなり最近(数万年前)まで生息していたのではないか、といった問題も出てくる。それらはフローレス原人にも言える問題で、このルソン原人もかなり小型であった可能性が高いと考えられることから両者はどう系統だてられるのか、という話になって、人類史がますます複雑な状況になってくる。
 ただ、なにしろ今回確認されてる骨はサンプルとしては全然少ない。さらなる発見がないと確たることは言えないだろう。また生活面については同じ層から鹿などの動物を解体したらしき形跡が見つかってるそうで、石器など道具をそこそこ器用に使ったのではないか、と推測はされるが、やはりサンプルが少なすぎるようで。

 また、ルソン原人がいたとなると、東南アジアはもちろん東アジアにも「原人」が広く生息していたという想像もできる。北京原人はすでに確認済みだが、現在ん日本列島にあたる地域にも原人がいた可能性は高くなる。これまでのところ日本国内で原人と断定された化石人骨は見つかっていないし、例の「旧石器捏造事件」発覚のために原人段階とされた石器や遺跡は全て否定された(あれ発覚しないままだったら今頃人類学はえらいことになってたかも)。ただ一部の石器については原人段階の可能性ありとはされていて、原人がいたこと自体が全否定されたわけでもない。ただ日本の場合土壌の特性のために1万年を越える人骨はまず見つからないんだよなぁ。



◆思いでのマニ

 ダジャレでタイトルをつけてみたが、本文を書く前に調べてみたら現地発音では「マーニー」で、ダジャレにならないことが分かってしまった(笑)。でも日本での通例の呼び方に従って以下「マニ」で通します。

 4月13日から奈良国立博物館展「国宝の殿堂 藤田美術館」という特別展が始まった。藤田美術館は大阪にある美術館で、その所蔵品を展示する企画なのだが、その中の目玉展示物として「地蔵菩薩像(マニ像)」という絹絵(縦183.3cm、横67.5cm)がある。これは中国の元もしくは明の時代に作成されたものと考えられ、大きな台座の上に丸い後光を背負った仏様らしき人物があぐらをかいて乗っかっている様子が描かれている。藤田美術館が入手するまでの経緯は不明で、とりあえず「地蔵菩薩像」ということで保管されてきた。しかし地蔵菩薩にしては妙なところもあり、昭和12年(1937)の時点で雑誌にモノクロ写真が掲載された際に「これはマニ像ではないか」との指摘は出ていたのだそうだ。

 今回の展示の前に、京都大学の吉田豊教授らによる調査が行われ、衣の両肩と両ひざのところに「セグメンタ」:呼ばれる赤い四角形がはっきりと描かれていること、特徴的な髪型や手の動き、卵型の光背や衣の色、衣の足先部分の処理などが他のマニ像と共通する、といった点から「マニ像」であると断定した。特にマニ一人だけを描く「独尊像」は世界で初めて確認されるものだというから大変だ。

 マニ(マーニー)は3世紀の人物で、現在のイラク、ユーフラテス川のほとりで生まれている。両親はユダヤ教徒だったが、マニは少年の頃から何度か神の啓示を受け(つまり「預言者」になる)、自ら新宗教を創始する。その教義を一口で説明するのは難しいが、僕が高校時代の世界史教師から聞かされた説明を拝借すると、「当時の宗教全部をごった混ぜ」(笑)。一応ベースは、当時彼が生きていた地域の最大宗教であったゾロアスター教にあるのだが、ユダヤ教・キリスト教(とくにグノーシス主義)はもちろん東方の仏教・道教の要素までが含まれていた。預言者の「先輩」であるゾロアスターも、イエスも、釈迦も認めるなど懐が広いといえば広い宗教で、その禁欲主義も手伝ってかマニが生きているうちから中東地域に広く信者を獲得した。
 マニは当時ゾロアスター教を国教としていたササン朝ペルシャの王族まで信者にして、半ば国歌公認状態で布教活動を行うまでになるが、やがて国王が変わるとゾロアスター教側の反撃・弾圧が始まり、西暦277年にマニは処刑されてしまう。しかし彼の教えはその後も長く、また広い地域で命脈を保ち続ける。ヨーロッパではキリスト教化される以前のローマ帝国各地で流行し、キリスト教神学の基礎を固めた教父アウグスティヌス(4〜5世紀)が青年期にマニ教にハマっていたとか、異端とされた「カタリ派」がマニ教の影響を受けていた、なんてのも割と知られた豆知識だ。

 マニ教はシルクロードを経由してウイグル、中国にも伝わり「摩尼教」あるいは「明教」として広まった。もっとも中国ではよくあることだが仏教・道教と混然一体化した独自の進化もしてゆき(もともと仏教・道教の要素も入ってるけどね)、宋代以後にしばしば農民反乱の精神的支柱となった「白蓮教」もマニ教の影響を受けているとされる。元末の白蓮教反乱から身を起こして天下をとった朱元璋が国号を「明」としたのは、マニ教を意味する「明教」から採った、という説もあるほど。
 このように洋の東西に拡大したマニ教だがヨーロッパでのキリスト教、中東から中央アジアのイスラム教の拡大にともないゆっくりと衰退していった。現在ではほぼ完全に消滅した「世界宗教」と見なされている。元ネタのゾロアスター教徒の方が細々ながら生き残ってるくらいで…大ヒット映画「ボヘミアン・ラプソディー」の主人公、「クイーン」のフレディ=マーキュリーもゾロアスター教徒の家に生まれている。
 結局最後までしぶとく残ったのは中国南部だったようで、福建には今もマニ教寺院が一つ現存しているらしい。藤田美術館蔵の「マニ像」もそうした中国南部のマニ信仰の祭具として製作されたもののようだ。さすがのマニ教も日本まではそれと分かる形で伝わったことはないようだが、こうしてマニを描いた像が奈良の博物館で展示されるという話に、僕は長い歴史の大ロマンを感じてしまうのだなぁ。



◆五年後の新紙幣

 いよいよ「平成」の終わりまで一週間ほどになってしまった。当然ながらこれが「平成最後のニュースな史点」である。それにしても四月に入ってから、萩原健一さん、モンキー・パンチさん、小池一夫さん…と、僕がその作品でいろいろお世話になった人たちが「駆け込み」みたいに世を去ってしまってるなぁ…。
 4月1日の新元号「令和」の発表に続いて、4月9日、2024年から使用開始予定の日本銀行発行の新紙幣のデザイン案が公表された。元号発表の直後ということもあり、政府の思惑をあれこれ憶測する声もあったが(元号発表直後に内閣支持率が急に上がったりしたし)、その後に行われた統一地方選の結果は政府与党にそう有利になったわけでもなく、むしろ7「逆風」の見方も出るくらいだったから、結局影響なんてなかったわけだ。そしたら今度は消費税増税延期論とか衆参同日選論とかがチラつき始めてくるんだよな。

 紙幣デザインの刷新はおおむね20年ごとに行われるので、発表のタイミングはともかくとして今年あたりの公表を想定して準備は進んでいたはず。今回発表された新紙幣の肖像画に採用された人物は、千円札に北里柴三郎、五千円札に津田梅子、一万円札に渋沢栄一となった。千円札は野口英世から引き継いだ「明治の科学者(医者)」枠、五千円札は樋口一葉から引き継いだ「明治の女性」枠、そして一万円札は前回の刷新でもなぜかそのままにされた福沢諭吉からついに交代、明治の言論人から明治の資本家・財政家へと変えられた、全体としては前々回の刷新時、夏目漱石新渡戸稲造・福沢諭吉になった時以来の「明治の文化人」路線が続いてる形になる。

 それぞれの各論だけど…
 千円札の北里は破傷風血清療法の発見など、「日本細菌学の父」とまで言われる人物で、“前任者”の野口英世になんで先を越されたんだろうと思うほどの大医学者だ。野口英世は生前から伝記がやたらに出てた人物だが、個人としてはいささか問題のある人でもあって…北里といえば出身の東大医学部と対立した際に一万円札の福沢諭吉が支援して研究所を設立してくれ、後にその恩返しに慶應義塾大学に医学部を設置して学部長をつとめるという、「お札」どうしの縁がある。

 「女性枠」を引き継いだ津田梅子だが、この人は明治初期の「岩倉使節団」にくっついていった留学生の中に最年少の6歳で入っていた。この年で留学させたくらいだから送り出す方も「欧米的教育を受けた日本女性」に育つことを期待していたのだろう。実際その通りになったが6歳から10年くらいアメリカ生活だったため帰国しても日本語が不自由だったという話もあるし、価値観も欧米的になって当時の平均的な「日本女性」の在り方にはまることもできなかった。やがて女性教育のパイオニアとして津田塾大学を作ることにもなった。前任者に比べれば華麗でお札向き(?)とも思うのだが、明治の女性有名人というとやはり与謝野晶子だよなぁ、でもあれやこれやの理由から敬遠されそうだなぁ、とは思う。津田梅子というのは無難な線ではあるのだろう。
 そういえば津田梅子は欧米人から「源氏物語」について聞かれて「あんなわいせつなもの」と一言で否定した、という話を聞いたことがある。「源氏物語」自体は欧米でもてはやされたのだが、近代欧米人意識を強く持っていた梅子にはむしろ「日本の遅れた、野蛮な文化」という意識を抱いたのではないかなぁ。いま引き合いにした与謝野晶子は「源氏」の現代語訳をしているのと対照をなすかも。今回まったく触れられなかった二千円札には紫式部と源氏物語絵巻がデザインされているので、新五千円札と一緒に財布に入れると相性が悪いだろうなぁ…などと思ったが、そもそも二千円札にお目にかかる機会が全然ない。

 そして渋沢栄一。「日本資本主義の祖」などと言われる人物で、現在の埼玉県深谷の豪農の家に生まれ、幕末の風雲のなかで例によって尊王攘夷にハマってヤバい方向に行った時期もあったが、いろいろあって最後の将軍となる徳川慶喜に臣従、慶喜の弟の徳川昭武に付き従ってフランスに留学、ここで会社経営なや財政などを学んでいる(そういやここ30年の紙幣肖像人物は火繰り一葉以外留学経験者だ)。帰国後は大蔵省の官僚となり、紙幣寮の初代責任者として「明治通宝」という日本発の近代紙幣発行に関わったりもしたが、辞職して実業家に転身、官僚時代に設立に関わった第一国立銀行の頭取になったのを始め多くの銀行設立に関わり、東京証券取引所、保険会社、鉄道会社、ビール会社などなどなど現在まで通いている多くの有名企業の設立に関わっている。
 江戸時代生まれの教養人ということもあって「商売人は道徳心をもたねば」と『論語』を道徳のよりどころにすべいという主張もしていた(一時流行った東アジアの儒教文化圏が資本主義化した、という議論を思い出すな)。慈善事業や民間親善外交にも熱心で、「青い目のお人形」で知られる、アメリカ人形と日本人形の交換プレゼントなんて事業にも関わっている。受賞にはいたらなかったが、ノーベル平和賞候補になったことも二度あったそうだ。文化事業としてはかつての主君であった徳川慶喜の業績を正しく伝えねばという思いから『徳川慶喜公伝』を編纂していて、これは後に大河ドラマ「徳川慶喜」の脚本資料として使われている。

 最高額紙幣・一万円札の肖像はこれまで聖徳太子・福沢諭吉とたいていの日本人は知っている有名人だったが、渋沢栄一というのは正直シブい路線で来たなぁ…と僕は思ったものだが、「日本資本主義の父」と言われるくらいの人物なので高額紙幣にふさわしいという意見でもあったのか、過去にも何度か候補にあがり千円札肖像画で伊藤博文に敗れたことがあったそうだ。敗因は渋沢の顔に「ヒゲ」がなかったこと。カラーコピーやスキャナー普及以前はニセ札防止のためにヒゲの多い人を選ぶ傾向にあったんだよね。

 ところでこの渋沢が一万円札肖像に選ばれたことについて、韓国の一部メディアが批判邸報道をした。渋沢は第一銀行頭取時代の1902年から1904年に当時の大韓帝国内で「第一銀行券」を公式な紙幣として発行していて、その時に自らの肖像をその銀行券に印刷していて、これが実は韓国における最初の近代的紙幣だったりするのだった。これが韓国にとっては「国恥」ととる人もいるだろうし、「植民地支配の先兵を肖像に選んだ」ととる人もいるのは分らんではない。ま、ああの時代の大物実業家・政治家で韓国植民地化にノータッチだった人はあまりいないだろうしなぁ。伊藤博文や福沢諭吉、ずっとさかのぼって神功皇后なんかよりはずっと配慮してる(というかその線は考えてなかった)と思えいいかと。最初は「福沢諭吉がようやく用済み」と喜ぶ報道もあったような気がしたけどね。

 ネット上の一部で話題になっていたが、津田梅子は朝鮮人・文化への蔑視を露骨に出した手紙を残している。その内容を僕も見たが、確かに今読むと強く批判される表現なのだが、恐らく彼女の意識は欧米的な文明観から来ていて、当時の欧米人の非欧米(キリスト教)文化に対する野蛮視に通じるものを感じた。同じ手紙の中で日本に来ている「文明化」された(キリスト教徒になった人も多い)朝鮮人については高く評価してるところにもその意識があらわっれている。まぁこの手の話はあの時代にあってはきりもなく出てくるだろうな。
 キャッシュレスも進行していることだし、紙幣自体が今後いつまで使われるのかという時代。紙幣肖像もいっそのこと歴史人物ではなく犬だの猫だのといった動物や漫画キャラなんかでもいいんじゃないの、という声もネット上では出てましたな。

 この新紙幣デザイン公表にタイミングを合わせたわけではあるまいが、同じ4月9日に台湾では日本の一万円札の偽札22879枚、つまり2億2870万円掃討が新北市内の女性宅の家宅捜索で発見されるという事件があった。過去最大の押収量とのことだが、面白いのがこの偽札、すべて聖徳太子が描かれた「旧一万円札」であったという点だ。1984年に「諭吉一万円」に代替わりしたものの、現在でも使用は可能。どうも中国で偽札製造がおこなわれているらしく、以前にもそれが聖徳太子札だというのは聞いたことがあった。いろいろニセ札防止策がある福沢諭吉札より簡単に作れるという事情でもあるんだろう。
 この大量偽札を隠し持っていた女性は2012年にこの偽札五万枚、つまり五億円相当を中国から持ち込んでいたそうで、すでに半分近く売ってしまっていたという。ということは2億円以上の偽一万円札がどこかで流通してるってことなのか…。
 なお渋沢栄一が関わった「明治通宝」ってのも偽札がずいぶん横行したらしいんだよね。


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