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2019年5月20日

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◆テンノーとゲンゴーが変わって

 前回が「平成最後の史点」なら、今回は「令和最初の史点」ということになる。気が付いたら令和に入ってもう二週間以上が過ぎてしまった。十連休なんてとんでもないことになり、4月30日から5月1日にかけては、特にTVで「ゆく年くる年」状態。全国の神社では両年号の入った御朱印状ほしさに行列ができ、浅草神社のように一部朱印状要求者の横暴やそのネット転売の輩に激怒して三社祭の特別御朱印発行を止めるなんて騒ぎもあった。5月4日の一般参賀には十四万人が押し寄せたといい、なんだかんだでお祭り騒ぎの改元・天皇交代であった。三十年前の昭和から平成への移行の時は天皇の死去という事態もあったのでお祭り騒ぎとはいかなかったからなぁ。あのときは前年から天皇危篤を受けて各種イベントが中止されたりお笑い番組が消滅したりと自粛ムードが蔓延、平成に入った直後にもなぜか高校ラグビーは決勝戦をとりやめて両校優勝にしちゃったりとヘンなことは多かった。生前退位のおかげでそうした混乱は避けられたが、お祭り騒ぎというのもなぁ…と僕などはシラケ気味に眺めていた。あれから二週間もたつと普通に日常になってしまったかな。お祭り気分なんてのは熱しやすく冷めやすい。

 そうしたお祭り騒ぎとは別に、この天皇代替わりという200年ぶりの事態を、僕は歴史を学ぶ者としていろいろと興味深く眺めていた。天皇退位までの一連のイベント、伊勢神宮やら神武天皇陵やら宮中三殿やら武蔵野御陵で退位の報告を行う様子なんてなかなか見られるものではない。このうち伊勢神宮参りの報道でNHKニュースが「皇室の祖先である天照大神」とさりげなく直接的表現を使ってしまい、あとでNHk会長が「適切ではなかった」と釈明する一幕もあった。「祖先とされる」とか「神話で祖先神とされる」とか言えばよかったわけで、まさかNHKの記事書いた人が「天孫降臨」を本気にしてたわけではあるまいが…
 近代天皇制と鉄道史研究で知られる原武史氏は今度の天皇交代フィーバーについて、「大日本帝国に戻す気か」とメディア批判をしていた。また生前退位自体が天皇自身の「意思発動」であり、それに従って政治が動き法律が制定され、国民が盛り上がる、という現象は明治・大正・昭和の近代天皇いずれにも見られなかったことで憲法上も問題があり、結果的に天皇制を強化することになっていないか、という指摘もしていた。心にとどめておきたい。


 4月30日に「退位礼正殿の儀」が皇居内でとり行われ、これが「天皇明仁」としての最後の公務となりった。200年前の光格天皇退位時の先例を参考にしたらしいのだが、その割に参列者一同みんな洋装で、伝統格式というのは正直これっぽっちも感じられなかった。それは翌日の新天皇の即位関連儀式にも共通していたが、とにかく現憲法下、象徴天皇制では初めての事例であり、むしろこれが今後の「先例」とされていくのだろう。「朕の新儀は未来の先例」と後醍醐天皇が言ってたとかいう話を思い出すが、学習院大学史学科出身で大学院修士課程まで進んだ日本中世史研究者である新天皇徳仁さんは当然そんなことは知ってるだろうな。

 「退位礼正殿の儀」が終わって明仁さんが一礼して退出しても、この時点で天皇が交代したわけではない。4月30日から5月1日に変わる瞬間に初めて天皇交代が行われ、皇太子だった徳仁親王が新天皇に即位(昔だったら皇位を継いだ「践祚」だけど今回からまとめて「即位」ってことになる)、前天皇は「上皇」となった。実に200年ぶりの「上皇」出現が、とうとう現実のものとなったわけで、「上皇」という響きを聞いただけで僕なんかは200年ぶりどころか中世の院政時代まで時間を巻き戻された気分になった。さすがに院政をやるようなことはなく、単に隠棲するのだろうけど。
 翌5月1日の午前10時台に「剣璽等承継の儀」が執り行われた。皇位継承のしるしである「三種の神器」のうち「剣」と「勾玉」(こちらをなぜか「璽」と呼ぶ)が箱に入れられて登場して(「鏡」は宮中に安置されている)、そのほか天皇のハンコ「天皇御璽」および国璽などが新天皇へ引き継がれた。中身こそ見せてはくれないが、南北朝史の争奪戦でもおなじみの「神器」がそこにある、というだけでワクワクしたものだが、あっさりと10分くらいで終了してしまった。

 この儀式で神器や国璽を入れた箱が「案」という台の上に置かれていた。そんな説明をTVで横目に見ながら、僕はツイッターで「史学科の漢文素読で『案』とは『つくえ』のことで、その案の上に行政文書などが乗ることから『案件』などの言葉が派生した」という内容のつぶやきを書いたのだが、これがエライことになってしまった。このツイートが瞬く間にリツイートおよび「いいね」押しの嵐に見舞われたのだ。タイミングがよかった、ということと語源豆知識の内容が多くの人にウケてしまったようで、余波は二週間近く続き、なんだかんだで「いいね」を1.3万ほどもらってしまった。当日にはツイッター上でも「勢い」で上位に入ってしまったくらいで、ツイッター歴一年の僕はかなり驚いた。評価されてのことではあるが、ちょっとした「炎上」だよな、と怖くもなった。
 その二日前にも、「史学科出身者が我が国の象徴に君臨するまであとほぼ一日なんだが」なんてつぶやきをしたら、これも数千レベルの反響をもらってしまっていた。新天皇が史学科出身、それも日本中世史(交通・水運)が専門で、天皇としてはそれだけでみ初めてのことだし、大学院進学、イギリス留学など結構「初」づくしの天皇なのだ。案外知られてないよなぁ、これって。天皇になる人がよく日本史研究に進んだよな、と僕の大学時代の日本史教授も口にしていたが、自分自身がいやおうなく「歴史的存在」であることを自覚する歴史研究者というのもどんな感じなのだろうか。

 剣璽等承継の儀が終わると、「即位後朝見の儀」。「朝見」とは天皇が大臣などと顔合わせすることで、新天皇にとって最初の「公務」のようなもの。ここで新皇后となった雅子さんはじめ、これから「皇嗣」となる秋篠宮文仁親王、さらに秋篠宮家・三笠宮家の女性皇族たちも含めた成人皇族が参列する。女性皇族がこの儀式に加わるのはこれが初めてとのことだったが、なるほど、実際に並んだ光景を見て納得。女性皇族を参加させないと皇族があまりにも少なく、サマにならないのだ。
 前天皇退位、新天皇即位により、皇位継承第一位は「皇嗣」となる文仁親王。第二位はその長男で今年中学生となった悠仁親王。では第三位は…?となると分からなくなる人も多いはず。第三位は新天皇の叔父である常陸宮正仁親王、すでに83歳である。現在皇室にいる男子はそれだけなのだ。三笠宮系の男子はみんな早死にしてしまった上にその次の世代はみんな女子。天皇家も秋篠宮家も女子ばっかりで、悠仁くんが生まれるまでは「女性天応」「女系天皇」を認める方向で政府も動き、男系にこだわる保守系が猛反発して伏見宮系の旧皇族の復帰論などぶち上げていたものだ。結局悠仁くん誕生で先送りになったのだが、今回改めて男系がどうのなんて言ってたら時間の問題でアウトになるぞという現実を見せつけられた形だ。実際、今度の天皇交代で女性・女系天皇や女性宮家設立議論などが取りざたされ、それに対抗するようにY染色体がどうのこうのと騒ぐ人がまた産経新聞に出てきたりしている。

 新天皇も即位次点ですでに59歳で先代の即位時の年齢を上回っている。この人が生前退位するのかどうかは分からないが、普通に考えると80代あたりで代替わりになるとして、その場合継ぐのは5歳しか年が違わない弟さんだ。それこそ高齢での即位の可能性が高く、報じられるところでは文仁親王も「即位辞退」の可能性に何年か前に言及しているという。それをアリにしたとして悠仁くんが即位することになって「若返り」は図れるが、その時点で皇族が天皇の直接の家族だけ、という事態が十分に考えられる。女性宮家をどうするか、って話はタイムリミットがかなり近づいているんだよな。眞子さんの婚約内定予定(?)の人をめぐる騒動一つとっても、いろいろ大変だなと思うばかりだが…

 そのことも含めて、最近週刊誌報道などで妙に秋篠宮家バッシングが目につく。皇室関係のバッシング報道は今に始まったことではなく、上皇后となった美智子さんや皇后雅子さんがずいぶん叩かれたことがあるし、秋篠宮家は以前にも怪報道を流されたことがある。こうした報道をするのが保守系論調のメディアであったりするのも興味深いところで、その背後に何らかの発信源があるような気がしてならない。
 特にここ最近の秋篠宮家バッシングは、悠仁くんが学習院に進まなかったことに原因があるのかもな…と思うところもある。皇族といえば学習院、というのは当たり前の時代もあったが、特に秋篠宮家は明らかに意図して子どもたちを学習院以外に進ませていて、将来天皇になることが確実の悠仁くんまでそれが徹底されたことに。学習院がらみの保守勢力の中でかなり不満が積もっているんじゃなかろうか。

 …という話になると、先日の「悠仁くんの机に刃物」事件の話につながることは明白。最近技術も駆使した警察のスピード捜査で平成のうちに容疑者逮捕にいたったこの事件だが、皇族はもちろんのこと将来天皇になろうという人には前代未聞の事件であり、わけのわからない不気味さを持った事件だった。
 逮捕された容疑者は特定の政治団体や組織とは無関係で、一人でやった犯行だという。動機については「今の天皇制では日本は良くならない」などと天皇制批判のようなことも言ってるらしいが、「刺すつもりだった」と言いつつ「自分が来たことを知ってもらいたかった」とも言っていて、一貫性を感じないところも。教室が無人だったのは偶然と言ってるらしいのも妙だし、ナイフを棒の先にくくりつけて刃先をピンク色に塗っておくなど、実際に使う凶器よりはメッセージ性を感じさせる。言ってしまえば精神的におかしくなってるんじゃないかと僕は思うのだが、近頃の秋篠宮家バッシングがどこか影響してはいないだろうか。事件後、連休明け手も週刊誌は相変わらず秋篠宮や皇后バッシングネタを盛大にやってるんだが…

 連動して気になったのが、一部メディアの記事で「愛子さん即位論」がなぜか浮上していることだ。それも本来女性・女系天皇に反対しそうな方面からチラチラと出ている。悠仁くんへの男系相続で当面いくってことで決着してた気がするんだが、なんでそこでそういう話が出てくるのか。やっぱり学習院へ進学しなかったことがよほど恨まれてるのか。見出しだけしか見てないが、早くも「お妃探し」な記事まで出してるところがあったのを見ると、なんか戦前以来のアンシャンレジームなよどみが令和の世になってもまだまだあるってことなんだろうか…。



◆イギリスの聖徳太子?

 変なタイトルをつけてしまったが、調査した研究者が「ツタンカーメンに匹敵」とか言ってるけど時代的には聖徳太子と同時代人の王子様の話なので、この方が日本人としてはしっくりくるかな、と。

 イギリスの首都ロンドンの北東部にあるエセックス州の、パブと安売りスーパーの近くを通る道路わきの草むらの中に、ちょっとした高まりがあった。それが何なのか誰も気づかなかったらしいが、2003年の調査でこれが日本で言うところの「古墳」で、その下に古い墓があると確認された。それでも大した墓とは思われなかったようで、ロンドン考古博物館の研究者も「重要なものが出るとは思わなかった」と報道に話している。
 しかし最近になって40人態勢でじっくり時間をかけて慎重な発掘調査を進めた結果、これが5世紀末から6世紀初めごろの、イギリスの歴史上「七王国時代」と呼ばれる時代のエセックス王国の王族の墓であることが確実となったと、5月9日にその成果が公表された。「イギリスにとってはツタンカーメンに匹敵」という発言はこの発表時に出たもので、こういう古い人物、それも王族の墓の発見はやはり珍しいことなのだろう。

 墓室は4m四方、深さ1.5mほどで、副葬品として当時の金貨やガラスと木でできた杯、ハープに似た「リラ」という楽器、金箔をした十字架などが丁寧に並べられていた。一部の装飾品は墓室の壁にかけられたままになっていたという。埋葬の仕方自体はキリスト教浸透以前の異教的なものだというが、十字架があたことからイギリスにおけるキリスト教信仰の遺物の最古の例ともなるらしい。
 記事からは遺骨は残ってなかったみたいで、遺体が置かれていたと思われる枠の長さが1.72mあり、僕が読んだ記事では「当時としては並外れた高身長」とあった。いまちょっと調べたら現在のイギリス人男性の平均身長は178cmだそうで、当時のイギリス人はずっと身長が低かったのだな。

 イギリス、正確にはイングランドの歴史を確認しておこう。古代にこの地域は全盛期のローマ帝国の支配を受け「ブリタニア属州」となっていたが、帝国の衰退にともない5世紀初めにはローマ帝国はこの地を放棄した。そこへ入って来たのがゲルマン系の「アングロ・サクソン人」たちで、彼らは現在のドイツ方面から移住してきて、グレートブリテン島の中部・南部の各地に多くの王国を建国した。このうち有力なものが七つあったので「七王国時代」と呼ばれ、5世紀から9世紀初めまで続く。中世の始りとされる時期で、史料的にもはっきりしないことが多い伝説的時代で、最近話題になってるファンタジードラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」もこの時代をモチーフの一つにして「七王国」が出てきたりしている。

 エセックス王国はその七王国のひとつで、7世紀初めの国王サベルト(在位604-616)がキリスト教に改宗したことが史実として分かっている。例の墓についても当初は「サベルトの墓では」との推測もあったらしいが、放射性炭素年代測定でこの墓の主の死亡時期は575年から605年との結果が出て、少なくとも616年に死亡したと分かっているサベルトのものではないと判断された。だが副葬品から王族・戦士であると考えられ、サベルトの親族である可能性は高いと考えられていて、イギリス考古博物館のソフィー=ジャクソン主任研究員は、サベルトの兄弟のサークサの可能性がもっとも高いと発言していた。

 ツタンカーメンと比較するのもどうか、と思ったが、考えてみればツタンカーメンはファラオでこそあったけど大した事績を残した人物でもないんだよなぁ。それにしても、この墓の主が誰であろうと死後1400年も経ってから墓が道端の茂みから見つけられて騒がれるとは、墓の主の王子様もそれこそ草葉の陰でビックリしてるんじゃないか。
 


◆暴君ネロと秘密の部屋

 なんだかどっかのファンタジー小説みたいなタイトル(笑)。
 「暴君ネロ」という固有名詞が成立してるくらいで、狂人・変人・暴君の多いローマ皇帝たちの中でもネロは特に悪名高い。単なる暴君というだけでなくその特異な生まれ育ちや芸術を深く愛するなど個性が際立つこと、治世に起こった「ローマ大火」の犯人扱いされてること、ペテロを処刑したと伝わるなどキリスト教徒迫害も行ったことなどで暴君として「彩り」が多いのだ。映画だと「クォ・ヴァディス」ピーター=ユスティノフ演じるネロの悪役っぷりが忘れ難い。

 このネロが建設した大宮殿が「ドムス・アウレア(黄金宮殿)」だ。西暦64年の「ローマ大火」でローマの町が焼け野原となったあとに、その中心地にこれをぶっ建てたのでネロが大火の犯人扱いされちゃうことにもなるのだが、この「黄金宮殿」は宮殿だけでなく庭園、人工池もある壮大なものだった。詳しい記録も残っていて、入り口には巨大なネロのブロンズ像があり、食堂には天井から花弁と香水が降り(笑)、機械仕掛けで動くドーム、モザイクや美術品で埋め尽くされた内奏などなど、まぁいかにもネロらしい、高尚とも悪趣味ともとれるものだったという。

 68年にネロは自殺、最後の言葉は「なんと惜しい芸術家が私と共に死ぬことか」だったと伝えられる。その黄金宮殿はしばらく存続したが、ローマ帝国全盛期の皇帝たちからはネロの時代は忌まわしい過去と映ったようで、その宮殿の敷地にはどんどん新たな公共施設など建造物が建てられて(今もローマのシンボルであるコロッセオもその一つ)、黄金宮殿はいつしかローマの地下へと埋もれてしまい、文献記録や伝承だけで後世に伝えられることとなった。ギリシャ・ローマ文化が再評価されたルネサンス期の15世紀末にその一部が発掘されて陽の目を見ることになり、その美術はラファエロなど巨匠たちに影響を与えたという。

 「トムズ・アウレア」は現在でもごく一部だけが発掘・公開されているだけで、残りは地下に埋もれたまま。2010年にはその地下遺構の天井が大雨で崩壊するなどしていて、全体を掘り出すのはなかなか困難。だいたいその敷地にコロッセオが建っていたりするわけで…
 そんな「ドムス・アウレア」に未発見の「秘密の部屋」が見つかった、と5月10日に公表された。発掘作業チームがその隣接部分を調べているうちに偶然秘密の部屋への入り口となる穴を見つけて発見に至った、というから面白い。「秘密の部屋」というのが本当に秘密になるよう設計された隠れた部屋だったのか、たまたま見つかってなかっただけなのか記事からは分からなかったのだけど、部屋の中はギリシャ神話のケンタウロスやパン、スフィンクスなどを描いたフレスコ画で彩られていて、発掘チームはとりあえず「スフィンクスの間」と命名した。

 「スフィンクスの間」の状況は映像が写真で公開されているが、その大部分はまだ土やや瓦礫に埋もれたまま、うかつに掘ると崩壊する危険もあるとのことで、残念ながら今回すぐに全体を発掘するわけにはいかないという。それでもフレスコ画などの保存状態はよく、当時のローマの雰囲気をしのばせるものがあるという。
 ローマ帝国時代の壁画など当時をしのばせるものが出てくるといえば、火山の噴火で埋もれたポンペイの町が有名だが、あっちは西暦79年だからネロ自殺と10年ほどしか違わない。ローマの町の下にはおよそ2000年も前のものがまだまだ眠っていたりするのだな・



◆古墳と縄文と酒と

 大阪府にある「百舌鳥・古市古墳群」がユネスコの世界文化遺産に登録されることがほぼ確定した。日本だけの現象ではないが、最近の世界遺産は「セット販売」型で、一つの遺跡や文化財では足りないのであれやこれやとひとまとめにして推薦してしまう。それで一部外されそうになるとか、登録自体が危うくなりそうになったりしても、結局は通過してしまう、というパターンも続いていて、どうも世界遺産自体の平均価値もどんどん下がってるように思える。
 今度の古墳群は「古墳」という統一テーマでまとめてるし地域的にもそこそこ集中してるから、産業革命遺産とかよりはずっと無理がないと思うのだが、ああいう古墳ってそれこそ天皇陵に指定されて宮内庁が管理してたりするから観光地化もしにくいだろうし、なまじデッカい古墳って上空からでも見ない限り、ただの住宅地に囲まれた小山でしかないんだよなぁ。

 一番巨大なものが「大仙古墳」だが、報道では多くが「仁徳天皇陵」と呼んでいるのが多いのが気になった。ひとむかし前までそう呼ぶのが通例だったからそう呼ぶ方が通りがいいと報道的には思ったのだろうけど、歴史教科書などではここ十数年ばかりは「大仙古墳」と表現するのが一般的で、最近の教育を受けた人は「仁徳陵」という言葉の方がなじみがない。そもそもあの古墳が仁徳天皇の墓だという確実な証拠はなく、古墳の築造年代の推定からすると仁徳が実在したとして「古事記」「日本書紀」などから推測される生存年代がしっくり合わないとの主張もある。天皇代替わりの記事で触れた「皇室の祖先である天照大神」という表現も含めて、前時代的な、ともすれば「皇国史観」にすら見える報道用語はまだまだ生き残っているようだ。


 考古学ネタというだけのつながりだが、続いて縄文時代の話。
 国立科学博物館などの研究チームが、北海道・礼文島の船泊遺跡から発掘された3500〜3800年前、縄文時代後期の女性人骨の大臼歯からDNAを採取、現代人とほぼ同程度に精細なゲノム解析に成功したと発表した。
 礼文島といえば北海道の北も北、地図で確認してほしいが北海道最北端近くの日本海側に利尻島があり、そこからさらに北西に浮かぶ島。こんな最果てと思える地にも縄文時代の遺跡がある、というのは、この報道で初めて知ったくらいだが、多くの墓が確認されていて、貝で作ったアクセサリーなどの副葬品とともに埋葬された人骨がいくつも見つかっていて、今回ゲノム解析された女性人骨もその一つということだ。

 この女性人骨のゲノム解析により、「縄文人」ひいては現代日本人のルーツを解き明かそう、という話になるのだが、発表によるとこの女性を含めた「縄文人」が現在中国にいる漢民族と共通の祖先から分かれたのは約1万8000年〜3万8000年前のことだという。うーん、思いのほか幅が広い年代だな。2万年も間があっては先祖の分岐といっても上限と下限とで話がだいぶ変わってしまうような。人類の「出アフリカ」が7万前くらいか、なんて話を考えると2万年の違いは大きいよなぁ。
 漢民族の先祖との分岐はそのあたりとして、朝鮮半島や台湾先住民、ロシア極東部先住民など東アジア沿岸部の人々とは遺伝的により近いことも分かり、比較的少ない人口集団で狩猟生活を続けていたことも分かったとのこと。この人口がどれくらいのものなのか分からないが、縄文時代早期の日本全体の人口が2万人くらい、なんて話もあるらなぁ。この女性が生きていた縄文後期では日本全体で十数万人程度だったみたい。

 その女性個人の特徴としては、目の「虹彩」が茶色(現代日本人の多くがそう)、髪の毛が細いといったものがあるという。面白いのが高脂肪食に適応した遺伝的特徴があった点で、これは船泊遺跡からアシカなど動物の骨が出てくることと結びつくという。さらに面白いのがアルコール耐性、つまり「酒に強い」遺伝的特徴も持っていたというところだ。
 前にもここで書いた気がするが、中国・朝鮮半島・日本列島の東アジア人は世界的基準ではかなり酒に弱い。もちろん個人差はいろいろあるし、僕の知る範囲では韓国人はやたら酒に強いという傾向もあるんだが、まとめて平均化すると東アジア人は「下戸」度が高いという。しかし縄文人は酒に強かったのでは、という話は以前から聞いていて(どういう酒か、そもそも酒があったのかわからんが)、あとから日本にやって来た弥生人が「酒に弱い」遺伝子を持っていたらしいと言われていたのだ。

 日本国内でも「下戸度の地域差があり、近畿・中部地方が特に酒に弱いとの分析があるという。これは稲作と共に大陸から渡って来た弥生人が近畿地方を中心にその後の日本国家を形成していき、縄文人の子孫はその周囲に色濃く残った、という歴史を推測させる。今度の礼文島の縄文女性のゲノムを現代日本人と比較すると、東京でサンプルをとった本州人でゲノムの10%程度しか受け継いでないが、北海道のアイヌ人は70%と高く(そもそも礼文島のサンプルだしなぁ)、沖縄人で約30%と本州人より高く受け継いでいたというから、まず縄文人がいて、あとから弥生人が来て近畿を中心に広がって混血、という日本人形成シナリオが改めて裏付けられる。

 現在の日本酒につながるアルコール飲料は、稲作を持ち込んだ弥生人たちが作って飲んでたとしか思えないのだが、実は彼らの多くが下戸だったというのもい肉な話。一方で酒に強い人は縄文度が高いってことでもあるのかな?


2019/5/20の記事

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