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2019年6月26日

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◆まだ90歳でした

 …と言っても、その「まだ90歳」の人は、とうの昔にこの世の人ではない。1929年6月12日に生まれ、1945年3月に15歳の若さで亡くなっている。わずか15年ほどの短い生涯ながら、その名前は彼女の残した日記によって世界史的に不滅のものとなった。そう、生きていれば「まだ90歳」だった人とは、アンネ=フランクのことなのだ。90歳でも「まだ」とつけたくなる気分も分かってもらえるだろう。
 1929年生まれの有名人をウィキペディアであたってみると、さすがに物故者が多いものの、ここ数年内に亡くなった人や、ぼつぽつと存命の人も見つかる。例えば元NHKの名物アナウンサー・鈴木健二さんとか、最近「ヒッグス粒子」確認で話題となった物理学やのピーター=ヒッグスさんなどがそれだ。アンネ=フランクは第二次大戦中に亡くなっているせいで「昔の人」という印象がどうしてもあるが、無事であれば今現在でもじゅうぶん生きていた可能性の高い世代だったわけだ。

 1929年6月12日にアンネ=フランクはドイツの都市フランクフルトのユダヤ人家庭に生を受けた。父親はユダヤ人にはよくある銀行業で働いていたが、アンネが生まれた1929年に世界恐慌が始まり、ドイツも不況になってフランク家もあまり裕福とはいえない状況となった。そうこうしているうちに不況の中でアドルフ=ヒトラー率いるナチスが勢力を伸ばし、1933年にとうとう政権をとってしまう。ご存じのようにナチスは当初から反ユダヤ姿勢を掲げていたため、危険を感じた多くのユダヤ系ドイツ人が国外へ逃亡を始めた。フランク一家もこの年のうちに知人を頼ってオランダへ亡命する。アンネがまだ4歳の時だ。

 1939年にナチス・ドイツがポーランドへ侵攻したことをきっかけに第二次世界大戦がはじまり、翌1940年にはナチス・ドイツ軍がオランダ全土を占領する。アンネ達ユダヤ人への迫害もドイツ国内と同様に厳しくなり、1942年にもなると事実上の「ユダヤ人狩り」まで始まる。この年の6月12日、13歳の誕生日にアンネは父からサインノートをプレゼントされ、そこに後年有名となる「日記」を書き始めている。

 この年の7月、ナチスからとうとう出頭命令を受けてしまったフランク一家は、他のユダヤ人たちと共同で「隠れ家」での潜伏生活に入ることとなる。その潜伏生活についてはアンネ自身の日記に詳しいので省くとして、潜伏生活二年が過ぎた1944年8月にアンネたち隠れ家の人々は当局に発見、逮捕されてしまう。アンネたちはポーランドのアウシュビッツ強制収容所に送られ、ソ連軍の進撃にともないドイツ国内のベルゼン・ベルゲン強制収容所へと移送された。そして1945年3月上旬ごろ、アンネはチフスにより病死いている。ナチス・ドイツの崩壊まであと二か月足らずという時期で、もう少し頑張っていれば今ごろ90歳を迎えていたかもしれない。

 アンネの90回目の誕生日を記念して、ドイツ国内のおよそ250の学校で記念イベントが催され、特にベルリン市内の「アンネ・フランク小学校」では生徒たちがそれぞれ一枚ずつパネルを配られ、それに赤・青・黄の絵の具で色を塗り、それを合計400枚張り合わせて、多様性の重要さを訴える「色のコラージュ」を作成したと報じられていた。この学校の生徒の出身国は22カ国に及ぶといい、ドイツがナチスの反省から移民受け入れに前向きである一つの表れといえそうだが、一方で移民規制・排斥を訴える政治勢力の支持拡大も報じられていて、なかなか油断はできない。

 アンネが生きていれば90歳、ということは、その当時に少女・少年だった世代も存命ギリギリということだ。世界大戦の時代をリアルに知る世代がどんどんいなくなっている昨今、その世代が残した証言はますます貴重なものとなっている。特に「アンネの日記」のように、当人がリアルタイムで書いた証言は。

 6月23日午前3時52分、ドイツ西部リンブルクの畑で突然爆発が起こり、直径10m・深さ4mのクレーターができる、という騒ぎがあった。第二次世界大戦時に落とされた不発弾が今頃になって爆発したものとみられている。日本でも不発弾発見はよくあるが実際に爆発してしまうケースは聞かないような。ドイツ国内でもこうした不発弾はまだまだ埋もれ地底るとみられ、世界大戦が「ほんの70年前」であることを思い知らされたものだ。



◆十四代目が逝く

 今度はつい先日の訃報ネタ。92歳でお亡くなりになったので、上記のアンネ=フランクより年上の方である。
 薩摩焼の宗家の陶芸家で、多彩な活動でも知られた第十四代・沈壽官さんが6月16日に肺炎のため92歳で亡くなった。訃報で僕は初めて知ったが、さすがに「沈壽官」は実名ではなく、「大迫恵吉」が本名として掲載されていた。「沈壽官」はいわば「名跡」のようなものだろうな、とは以前から思っていたのだが、今回「史点」で取り上げるために調べてみると、その経緯はやや複雑で、この人の家系の話だけで一つの立派な「歴史」となっていることを知った。

 薩摩焼宗家の「沈家」の初代は沈当吉といった。沈家は慶尚北道・青松を本貫とする一族で、ハングル制定で有名な世宗の后、昭憲王后もこの一族であるという。沈当吉は優れた陶工だったが、かえってそのために、豊臣秀吉による二度目の朝鮮侵略「慶長の役」(1598)の際に島津義弘の軍に捕らえられて、他の技術者らと共に薩摩へ連行されてしまう。秀吉の朝鮮侵略戦争の際に九州の大名たちが現地の陶工らを多く日本へ連行し、それが有田焼・唐津焼・薩摩焼といった九州各地の焼き物文化のルーツになっていることは中学レベルの歴史でも教わることだから知ってる人も多いはず。
 最近韓国で作られた「火の女神ジョンイ」という時代劇を見たが、これは女性陶工を主人公にした、ほとんどフィクションのストーリーだが(主人公が光海君とラブコメ展開になるんだよな)、ラストで日本に連れていかれてしまう。なんでも一応のモデルはいるそうで、「有田焼の母」と呼ばれる女性がモデルであるとのこと。

 話を沈当吉に戻すと、薩摩に連行された彼は島津家の庇護と管理のもとで窯を開き、この地で「国焼き」と呼ばれる、後の薩摩焼の創始者となった。その技術は子や孫へと受け継がれ、特に三代目は優れた技術を見せたために藩主から「陶一」の名を授けられている。江戸時代を通じて沈家は薩摩藩の手厚い庇護を受け士分にも取り立てられて屋敷に住み、焼き物作りに励んだが、同時に「沈〇〇」という朝鮮風の名前と習俗の維持も命じられていたという。沈家は代々優秀な陶工を輩出したようで、こういうところは歌舞伎や狂言など古典芸能の家に通じるところがあるのだろう。

 しかし江戸時代が終わる、つまり幕藩体制が消滅すると共にピンチが訪れる。そう、それまで薩摩焼を庇護していた薩摩藩そのものが消え失せてしまったのだ。このとき多くの窯元が廃業したとのことだが、沈家にはこのピンチの時に「中興の祖」と呼ぶべき天才が出現した。それが沈家十二代目・沈壽官(1835-1906)である。この沈壽官は自身の窯の「民営化」に成功、それまで薩摩藩内だけで使われていた薩摩焼を大々的に外部に売り出し、世界各地の博覧会に出品して薩摩焼の名を世界にまでとどろかせた。
 跡を継いだ十三代目はこの尊敬する父の名「沈壽官」の名をそのまま襲名し、以後「沈壽官」は古典芸能における「名跡」と同じ位置づけとなって、このたび亡くなった十四代目、その子の現十五代目まで襲名が続いている。十四代目なんていうから、僕は初代からその名前なのかと思っていたのだが、実は明治以後の「名跡」だったわけだ。

 十四代目沈壽官さんは1964年に襲名。陶芸だけでなく、各種文化活動も積極的に行い、司馬遼太郎との交流から彼をモデルにした「故郷忘れじがたく候」という小説が書かれていることでも知られる(僕は未読)。大阪万博に作品を出展して好評を受けたほか、祖先の縁から日韓交流にも尽力し、1989年に大韓民国名誉総領事に就任、1998年には「薩摩焼400年祭」なる国際イベントを成功させたということで当時の韓国大統領・金大中から「大韓民国銀冠文化勲章」(民間人では最高位)を受賞している。その翌年に「沈壽官」の名跡は息子さんに譲っていた。つまり「生前退位」。いつだったか十五代目の方をテレビで見て、もう先代は亡くなったのかなと失礼ながら思ったこともあった。

 沈壽官さんというと、僕が覚えているのはNHKの歴史番組で、朝鮮侵略の際に鉄砲技術を手土産に朝鮮側に寝返って「金忠善」の名を与えられた謎の日本武将「沙也可(さやか)」について、鉄砲集団であった「雑賀(さいか)衆」の一人だったのでは、との推理を披露していたことだ。この「雑賀説」は別に沈壽官さんが言い出したものではなく、知人の司馬遼太郎ほかも言及しているものだが、司馬は「沙也可」は「沙也問」の誤写で「さえもん」が正しいのではないか、という説7も挙げている。僕は専攻の倭寇がらみで朝鮮や明での日本名表記の例を見ているので「さえもん」説に傾いているのだが、その番組内で沈壽官さんは「わしは雑賀の者よ、とか周りに言ってたんじゃないかな」とか笑顔で語っていたのが印象的だった。合掌。



◆千葉の竹やぶ焼けたのバチ

 深い意味はありません。子供の時に千葉県出身の親から教わった回文です。「たけやぶやけた」に千葉がくっついてるだけなんですけどね。

 というヘンな前置きの上で、「チバニアン」の話題である。「チバニアン」という名前を最初に聞いた時には、千葉県に生息する謎の生物か何かと思ったが、これは地質年代というやつで、「千葉時代」という意味になる。一昨年に日本の研究チームから国際地質科学連合の専門部会に名称の提案がなされ、昨年には「ほぼ内定」との報道が出て、ちょっとしフィーバーになったので耳にした人は多いだろう。「ついに千葉の時代が来た!」という歓びの声の一方で、「それは12万年前に終わった」とツッコんでるのをネット上で見かけてウケてしまったものだ(笑)。

 ざっくり説明すると、「チバニアン」は地球の「地磁気」が現在と逆転していたおよそ77万年前から12万6000年前までを指す地質年代だ。磁石をぶらさげるとN極が北を、S極が南を指すのは地球そのものがデッカい磁石だから、という説明は小学校でも習う話だが、それはつまり現在の地球では北極の近くにS極が、南極の方にN極があるということだ。「N」{S」という名前自体が北(North)と南(South)に由来するので一瞬頭がこんがらがるが、この状態が地球の生成以来不動だったわけではなく、結構ヒョイヒョイN極とS極が入れ替わってきた歴史がある。調べてみると平均して100万年に1.5回くらいのペースで逆転が起こったそうだが、白亜紀には1000万年も変かしなかったとかで、結構気まぐれな現象である。

 話がわき道にそれるが、茨城県石岡市には気象庁の地磁気観測所があり、地磁気の変化を常時観測している(今や公式HPで常時一般公開してる)。この地に観測所が設置されたのは1912年というから実に一世紀以上の歴史があるわけだが、この観測所の観測には直流電流が影響を与えてしまうということで、茨城県を貫く常磐線や、県南各地の私鉄の電化計画がことごとく却下されてきた歴史もある。常磐線は茨城県最南部の取手までが直流、そこから北は交流という形で全線電化が実現したが(取手-藤代間に「デッドセクション」があり、昔はそこを通過すると車内の電気が消えたものだ)東京方面於他の幹線との相互乗り入れに支障があるし、関東鉄道常総線のように首都圏では珍しい長距離・複線の非電化路線が生まれたりしている。茨城県最南部在住の筆者としては地磁気というと、どうしてもこの話題に触れざるを得ないので触れておいた(笑)。

 話を茨城から千葉に戻そう。で、その地磁気逆転の時代が明確に分かる地層が千葉県市原市の養老川流域、田淵の地にあることが茨城大を中心とする研究チームによって確認され「千葉セクション」と名付けられた。研究チームはこの「千葉セクション」が地磁気逆転時期のいいサンプルになることを根拠に、その地質年代の名前を「チバニアン」にしようと提案したわけだ。地質年代の名前の多くはそのサンプルとなる地層があった地名が使われることが多く、「カンブリア紀」はイギリス・ウェールズのラテン語名から、「デボン紀」はイギリスのデボン州から、「ジュラ紀」はフランスとスイスにまたがるジュラ山脈から、といった調子。「白亜紀」「第三紀」「第四紀」といった区分もあるが、それぞれその中で「〜イアン」といった細かい地質年代が設定されている。「チバニアン」もそうしたものの一つになる予定、とされてるのだが…

 すでに昨年、「チバニアン」内定が報じられた直後から、疑念を唱える主張は聞いていた。ややこしいことにその疑念主張の中心人物は茨城大学の名誉教授。彼によると、「チバニアン」を提唱している研究チームはサンプルの一部を市原市田淵以外の地から持ち出していて、それを田淵の地層のものと偽っているのだという。週刊誌に出ていたこの人のコメントでは「第二の小保方事件」とまで呼んで激しく糾弾しているのだ。
 こうした主張に対して「チバニアン」の研究チーム側も反論している。確かに他の地からサンプルを採った事実はあるが、それは現地の地層の高さが足りなかったためで、田淵から地層がつながっていることを確認してのことだし、論文の中でもそのことは明記している、と。論文も読んでないし門外漢の僕にはどちらが正しいか判断はできないが、学問的には何でも慎重に進めるべきだろうなぁ、くらいには思っていた。

 ところがその名誉教授、「チバニアン」を断固阻止するべく強硬手段に出た。「千葉セクション」の現地の地権者と10年間の土地貸借権の契約を結び、そこを「自分の土地」とした上で他人の立ち入りを禁じるという行為に出たのだ。地質年代の名前の由来となる地は「いつでも立ち入れる場所」という条件があるそうで、くだんの名誉教授は立ち入り自体を不可能にすることで「チバニアン」阻止を図ろうとしているわけだ。
 週刊新潮の記事によると、現地には名誉教授が立てた看板があるという。ネットで画像検索してみたらすぐ見つかった。そこには
 
 崖崩(ガケクズレ)で危険。ここより立ち入り禁止です。

 科学の過信(かしん:思い上がり)
 瑕疵(かし:失敗)の壁

 科学の落とし穴はどこだろう?
 “正しい科学の目を養いましょう”

 その目が「人生を好転」させる。

(フリガナや色も原文のまま)
 
と大書してある。名誉教授の怒りの凄まじさの一端がうかがえるが、同時にその文面からは「壊れた人」特有のトッパズレた味わいも感じる。最初に崖崩れの危険を挙げておいてそのあとのポエムな文体。ここまでくるとこれは学術的良心の問題というより、何かのスイッチが入っての個人的感情がかなり入っての行動ではないかと思えてくるのだが…
 記事にあった研究チーム側のコメントによると、2015年8月の現地説明会で別の場所のサンプルを説明なく使ったことがあるそうで(学会と違って一般向けだったので説明しなかったらしい)、どうもその時にこの名誉教授の怒りのスイッチが入ってしまったのではないかと。研究チームも言うように批判があるなら学術的にやるべきで、実力阻止みたいなことをするのは筋違いではなかろうか。

 この事態を受けて市原市では「研究調査の目的に限り、立ち入り拒否を禁じる」という条例の制定を検討しているとのこと。現地の土地は地権者と名誉教授の私物ということになるが、「千葉セクション」は国の天然記念物に指定されて市原市が管理する形になっているため、公的利益のために私権を制限できると判断したそうだ。

 個人的には「チバニアン」が命名されようがされまいがどうでもいいのだが、チバに絡んでイバラキの学者たちが騒動を繰り広げているのを「チバラキ人」として興味深く眺めているところだ。



◆天安門から三十年

 更新が遅れたので、いささか時期を外した話題になってしまうが、去る6月4日は、中国で起こった「天安門事件」(厳密には「第二次天安門事件」)発生からちょうど三十年目の節目の日だった。ことし2019年から30年前の1989年は日本では昭和から平成になった年であり、世界ではベルリンの壁崩壊と東欧ビロード革命があり、米ソ首脳が冷戦終結を宣言するといった、世界史的節目の年だった、そしてこの「天安門事件」もこの年の大事件の一つに挙げられ、当時一応歴史学の道に進み始めていた僕に「歴史的事件」というものをいきなり見せつけた事件でもあった。

 1989年4月15日、中国共産党元総書記で改革派の代表とみられていた胡耀邦が急死した。その葬儀にあわせて、改革を唱える学生たちが天安門広場に集まりだしたことが事件の発端だった。当時ソ連ではゴルバチョフが「ペレストロイカ」を推し進めていて、5月にはそのゴルバチョフ当人が訪中する予定になっていたことも学生たちの気分が高まる原因の一つだったと思う。当時の中国では最高実力者・ケ小平のもとで「改革・開放」政策が進められつつあったが、保守派とのせめぎあいで改革派の胡耀邦が1987年に失脚、改革派の趙紫陽が総書記を引き継いだが中国における民主化が進む気配は薄く、学生たちの不満が鬱積している状況だった。
 胡耀邦の死をきっかけに天安門に学生たちが集まり…という光景には前例があった。1976年4月に周恩来が死去した際に学生らが天安門広場に集まり、当時毛沢東のもとで権勢をふるって文化大革命を推進していた「四人組」への批判を叫び始め、慌てた四人組から「反革命」と決めつけられ鎮圧されるという展開があり、これを「第一次天安門事件」と言う。このとき政権復帰していたケ小平は事件の責任をとらされてまた失脚するのだが、「四人組」に対する批判の声がおさまることはなく、9月に毛沢東が死去すると、たちまち四人組は失脚、ケ小平の復活という展開になる。

 そんなわけで13年後の1989年4月に天安門に学生たちが集まりだしたのは、自然発生的でもあったがやはり前例が意識されたのだと思う。天安門に集まる学生たちの数はどんどん膨らみ、民主化を求める知識人なども合流、政治改革を求める若者たちの運動として世界にも大きく報じられることとなる。
 だが前例があるだけに中国共産党幹部はこれを体制を揺るがしかねないものと早い段階で危険視した。党内の改革派で学生たちに歩み寄ろうという声がなかったわけではないのだが、前述のように党内のせめぎあいが激しいときでもあり、基本的には改革派側のケ小平も含めて学生たちの運動を早期に解散させないと、と共産党幹部たちは判断した。それで4月26日付の共産党機関紙「人民日報」にいわゆる「四・二六社説」が掲載され、その中で学生たちの運動を「動乱」と決めつけ、「下心のある者」が学生たちを利用して政府指導者を攻撃している、と全面的に否定していた。これがかえって学生たちの怒りに火をつけてデモが強硬路線へと突き進むことになるのだが、これがそうするようにわざと仕向ける作戦だったのか、あるいは計算違いだったのか、三方の分かれるところだ。

 5月に入って天安門広場は全国から押し寄せた数十万の学生たちであふれかえり、ゴルバチョフ訪問もあって世界が注目する「民主化運動」となった。僕の記憶ではこのあたりまでは共産党政権側も趙紫陽総書記らが学生たちとの対話を試みるなど、平和的に事態を解決できて一定の民主化が実現するのでは、という後から思えば甘い観測も広がっていた。しかしゴルバチョフが帰った直後の5月19日に北京に戒厳令が布告され、人民解放軍が天安門周辺を包囲、武力鎮圧の可能性が高まる。それでもかえって強硬姿勢を強めたデモ参加者たちは「民主の女神像」をシンボルに立てて(アメリカなど海外の支援を期待したのだろう)天安門広場にとどまり続ける。このあたりで党内の誰かの手引きでもあったのか、学生運動の指導者たちは現場を離れて一部は国外まで逃げている。そういうところを見てもこの事件はなかなか複雑な構造になっていて、単純にみると危ないな、と僕は思っている(まぁ歴史的事件なんてみんなそうだが)

 そして6月4日の未明、人民解放軍の戦車部隊が天安門広場に突入、デモを実力で「排除」し始める。デモ参加者たちも反撃して戦車に火をつけたり戦車兵を殺害したりしている写真や映像がTVで流れもした。もちろん共産党政府は厳重な報道管制を敷いていたから事件のごく一部の映像が繰り返し流されてるだけなのだが、相当な流血の惨事が起きたことは間違いなかった。中国政府の公式発表では事件の死者は319人だけとされているが、数千、一万にのぼるとする見解もある。
 先日NHKで三十周年ということで事件のドキュメンタリーを放送していたが、その中で事件の犠牲者の遺族たちが犠牲者たちの亡くなった場所や状況を三十年かけて確認作業を進めている様子が紹介されていたが、それでも百人と少しばかりの犠牲者についてしか確認ができず、全容はほとんど分からないようだ。一方で当時解放軍側にいた人の証言で、当時兵士たちの一部にはさすがに市民に武力を用いることに抵抗・拒否する人たちもいたということが明らかにされていた。

 その番組内で新事実として紹介されていたのが事件直後のケ小平の発言だ。「200人の死が、中国に20年の安定をもたらすだろう」というもので、実際の犠牲者数のことはさておき、この発言のショックなところは、その後の歴史を知る者からみると結果的に「的中」している、というところだ。もちろん政権側、体制側からの物言いなのだが、あのとき武力を使ってでも鎮圧しなかったら、あるいは中国共産党政権は一気に崩壊したかもしれない。この年の秋に始まる東欧革命、翌翌年のソ連崩壊という歴史を見れば、それは十分ありえたと思う。ソ連・東欧の社会主義体制の崩壊を見て「では中国でも」という見方も広がり、特に日本では「中国崩壊本業界」ができるくらいの状況が続くのだが、御承知のとおり20年どころか30年経った今でも中国共産党政権は揺るぎもしていないし、民主化も進んでいない。ただ経済発展だけは当時の誰も予想しえないほどのスピードで進み、気が付いたら世界第二位の経済大国となり、アメリカと経済的にやりあって状況だ。あくまで体制側の言い草と繰り返しておくが、天安門事件をやった結果としてその後の中国の安定と発展がある、という見方は残念ながら全否定はできない。
 当時、僕の恩師の一人も事件に激怒し、「民衆にこんなことをする政権はすぐにも倒れる!」と断言していたそうだ。それを僕はだいぶ後になってから聞いたが、当人もあれは読み違いだった、と語っていた。一つの見方として、天安門に集まった学生デモ集団は果たして「民衆」を代表していたのか、結局はエリート層同士の権利獲得闘争で大衆とはスズレていたのではないか、という話もしていた。その話を聞いたのも二十年くらい前のような気がするが、事件も三十年も経つと「歴史」としていろいろな見方がなされていくとは思う。

 ところでそのNHKの番組では、天安門事件に対する国際政治の反応、とくにアメリカのそれが実は非常に中国政府に融和的であったことが暴露されていた。事件直後にアメリカをはじめとする「西側」諸国では中国政府に対する強い批判の声があがったが、直後のサミットでの共同宣言において中国を「過度に」非難する文言はアメリカと日本の意見によりカットされていた、という事実が、当時のアメリカ大統領ブッシュ父自身がケ小平に送った書簡の中にはっきり書いてあったのだ。この書簡でブッシュ父はケ小平に「親愛なる友」と呼びかけ、「アメリカ議会は中国との経済関係を断てと言っているが、波風をたてないよう尽力している」「今は厳しい時期だが国際平和のために米中で共に前進していきましょう」と、事件の直後に送る内容としてはかなり「甘い」態度を見せていた。
 その文章にちょっと驚きもしたが納得するところもあった。それは事件で国際的に孤立した中国に最初に元首クラスを公式訪問させたのが日本だった、という事実(つまり天皇が訪問した)があって、そんなことを日本政府が勝手にやれるはずもなく、親分アメリカの意向があったはず、とは前から思っていたからだ。アメリカと中国があれで案外仲がいい歴史がある、というのはここでも何度か書いてきたが、経済的将来性と当時のソ連に対する牽制とがあいまっての態度だったのだろう。

 事件からちょうど30年ということで、中国国内ではインターネット上で事件関係の情報へのアクセスが規制されたり、事件に関わる隠語のたぐいまで削除対象となり、国内で放送するあ以外ニュースでも事件を扱ったとたんに画面が真っ暗、というおなじみの現象が見られた。こういう監視体制のために大量の雇用がもたらされてるなあ、などと思ってしまうものだが。30年前に比べて圧倒的に豊かで解放された気分の社会になったのは確かだが、政治的な締め付けは相川らう、というより習近平時代になってから圧力は強まっている感もある。
 それだからでもあろう、6月は香港で学生を中心とする大規模デモが起こり、ちょっとした「天安門」の光景が再現された。デモの原因は、香港政府が「中国から逃げてきた犯罪者の引き渡し」を定めるい条例を制定(厳密には従来の条例の内容変更)しようとしたことにある。学生や民主運動家たちはこの法律ができると中国で民主化運動をして香港に逃げてきた人たちが「犯罪者」ということにされて中国に強制送還されてしまう、として反発したのだ。

 ちょうど天安門三十周年にぶつかったせいもあるだろう。デモ参加者はどんどんふくれあがって100万人を越した。一説に200万人ともいうが、その大群衆を写して世界中に拡散した画像が実は加工がほどこされていた、なんて話もあったりした。それでも大規模デモだったことには間違いなく、5年前の「雨傘運動」を上回る勢いすら感じさせた。その勢いに香港政府も折れた形になり、問題の法律の制定はひとまず先送りとなり、香港行政長官が混乱を謝罪する異例の事態となり、デモは一定の成果を上げた形になった。ただデモが要求している条例の撤回については言明してないし、とりあえず嵐をやりすごそう、という雰囲気は感じる。
 中国政府はもちろん面白く思わない展開だろうが、表面的には静観している。それこそ「天安門」と結びつけられては厄介、と考えてもいるだろうし、「雨傘運動」のようにいつの間にやら収束、という展開を期待してるようでもある。日本の学生運動でも覚えがあるんだが、一見猛烈に盛り上がったように見えて…ということは実際あるからなぁ。個人的には香港のデモには頑張ってもらいたいのだけど、進む方向によっては規模は小さいながらも「天安門」が再現されかねないと危惧もしている。

 三十年ぶり、といえば東欧革命がおこった国の一つであるチェコ(当時はチェコスロバキアだが)でも、それ以来となる大規模デモが起こっている。デモが要求しているのはアンドレイ=バビシュ首相の退陣。バビシュ首相はチェコと一体だった時期のスロバキア出身の実業家で、実業化として成功した勢いで政界に進出、2017年からチェコ首相に就任しているが、EUからの補助金を自身の事業につぎこんだ利益は違反の疑いが持ち上がっている。この人、スロバキア共産党に入っていたこと自体は時代からしょうがないとしても、警察の秘密工作員だったという疑惑が持ち上がっているそうで、それも大規模デモにつながっているらしい。これもまた、30年を経て因果はめぐるというか…


2019/5/26の記事

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