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「古典派からのメッセージ・1999年〜2000年編」目次へ戻る
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「低金利・円安」は国益に叶うか

 

 日銀はついにコール市場の金利を実質0%にまで誘導した。また、長期金利の上昇を牽制するため、政府では新発国債の日銀引受さえ検討されているようだ。

 低金利・円安を求める論拠は次のようなものであると思われる。即ち、金利上昇は企業の設備投資意欲をさらに冷やし、中小企業の負担を増加させる。また、円高は輸出企業の業績悪化を招く。このように金利上昇や円高は、浮上を図ろうとしている日本の景気の足を引っ張るので、何としても阻止しなければならない云々。しかし、これは一面的で誤った見方であると思われる。低金利政策とそこから誘発される円安は、景気回復策として有効とは思われず、日本の国益にも叶っているようには思えない。

 日本の部門別資金循環表を見ると、個人部門が伝統的に大幅な黒字(資金余剰)であることは誰もが知っているが、今や企業部門もまた赤字(資金不足)ではなく黒字であることに注意しなければならない。日銀の「資金循環勘定」によれば、フローベースで一九九三年までは赤字であった企業部門は、永年の富の蓄積の結果、一九九四年に初めて約三兆円の黒字に転じ、以降毎年フローで資金余剰になっている。つまり、企業も今やマクロでは資金調達者ではなく資金運用者なのである。こうした事実から見て、本当に低金利が企業の投資マインドを高める効果があるのか、極めて怪しい。むしろ市場での自然な金利上昇が、景気底打ち、「変化の胎動」を企業に連想させる心理的プラスの効果を重視すべきではないだろうか。企業向け景気対策として今最も必要なのは、あらゆる産業に存在する過剰設備の償却・廃棄を支援する税制措置や規制緩和である。中小企業へのファイナンス円滑化は確かに重要な課題だが、それは低金利や通貨供給で解決できる問題ではなく、銀行や機関投資家が中小企業や成長企業の信用リスクをとれるように、企業の過剰設備リストラを進め、さらに将来の経済・社会の展望が示されることによってのみ解決できる問題である。

 また、個人部門にとっては、自らの預貯金の利回りの低さに加え、公的年金や企業年金が今のような低金利での資金運用を余儀なくされるのでは、老齢化社会を迎えての将来の年金受取が心配で、消費者として財布のヒモなどゆるめようがなく、景気に大きなマイナスである。ここでも必要なのは将来の経済・社会の展望である。

 一方、「資金循環勘定」によれば、政府部門(中央+地方)は一九九二年以降継続して赤字になっている。個人部門、企業部門とも資金黒字の中、政府部門が大幅な赤字なのであり、低金利は、資金循環上、「民」の低利資金で「官」を支援していることになる。低金利は、政府が必要なリストラを回避するための方便になりかねない。肥大化した公社・公団やその裾野企業群の国民経済上の評価と整理、経営難の第三セクターや財政投融資の出口たる政府系金融機関の不良債権対応など、官のなすべきリストラは多いはずである。官のモラルハザードを招きかねない低金利政策は止めて、自然な市場の反応に委ねるべきである。

 また、海外部門も恒常的に赤字であるが、これは、史上最大の債務国である米国をはじめ海外の借入人に日本が資金供給していることに他ならない。歴史的に債権国は低金利が必然との理屈は一応もっともではあるが、市場金利の自然な上昇を押え込むために政策金利をゼロにまでする必要があるかどうかは疑問である。海外への資金供給も、日本にとって望ましい内容になっているかどうか、「債権者」としてよく吟味する必要がある。


 次に、円安が国民経済にとって望ましいかどうか考えてみよう。まず貿易取引については、円高で困るのは輸出企業であるが、日本には素材産業をはじめ輸入企業も数多く存在している。輸出入差のネットでの円高リスクはさほど大きくない。しかも「国際金融年報」によれば、輸出は三十六%が円建てであるのに対し輸入は二十二%だけが円建てであり(平成九年度実績)、それをも考慮すると正味の円高リスクは一層小さいものになる。また、一九八〇年代に貿易摩擦が激化した時、直接投資と海外現地生産を推進し、これ以上の摩擦を避けようとしたはずではなかったか?円安で輸出を促すことは、再び貿易相手国に迷惑をかけ摩擦を惹起することになり、八〇年代の教訓を生かさないことにならないか?

 また、資本取引について考えると、低金利・円安は投資家に円よりも米ドルでの資金運用を選好させる。こうした資金流出、ドルでの資金運用は日本にとって望ましいのだろうか?二十一世紀を展望して、あるべき姿に経済・社会を改革するには、日本国内で膨大な資金が必要になるはずである。そうした国内の構造改革、社会基盤整備に加え、日本と最も利害関係の深いアジア諸国の経済再生のためにこそ、「民」の余剰資金を使うべきである。日本が主体となったアジア版マーシャルプランが必要という正論もある。金利を引き下げ円を弱くして「民」の資金でわざわざ米国債や米国株を買うように仕向けるのは国益に反する行為である。

 かつてのアメリカ人には、カネについての節度があった。プロテスタンティズムは勤勉と貯蓄を基本道徳にしていたはずだ。個人部門までが貯蓄率ゼロと、消費と借金漬けになり、マネーの奔流に個人の年金まで委ねてしまう今のアメリカ経済は、決して我々日本人が見習うべき或いは目指すべきモデルではない。アジアにはアジアのモラルと経済スタイルがある。堅実な貯蓄に支えられた製造業を中核とする経済モデルを放棄する必要などさらさらない。消費と借金漬けの米国の資金繰りを日本の「民」のカネでこれ以上支える必要がどこにあるのだろうか。米国に経済の節度を求めることこそが「同盟国」としての務めである。


 以上のように、低金利政策とそこから誘発される円安は、政府部門と米国を支援することだけに効果があり、日本の国益や国民経済全体の利益に叶っているようには思えない。

 債券市場における金利上昇は、景気刺激のための国債大量発行という政策に対する健全な市場の反応と見るべきだ。官のリストラを欠いた国債増発は、財政状況の一層の悪化、日本国の格付低下、国債価格の暴落、金利急上昇といった連想を呼んでいるのである。また、日銀の低金利誘導と通貨供給によって、マーシャルのK(マネーサプライ残高を名目GNPで除した比率)は、既に第一次石油危機前の過剰流動性やバブル経済発生時と同規模に膨れ上がっている。中東や極東での大規模な戦争などを契機に、一ドル二〇〇円というような激烈な円安と、ハイパーインフレ等のとんでもない「つけ」が国民経済に回されるリスクは日々高まっているように思われる。日本経済新聞、東洋経済新報、エコノミスト等の経済誌が、国債増発を伴う財政発動と低金利政策を容認し、政府部門のリストラの必要性を訴えず、過剰流動性に伴うリスクを警告していないのは、一体どうしたことか?


 結論 : 政府は次のように政策を転換すべきである。まず、当面の課題である企業のリストラをサポートするための税制措置等をとること。次に、財政の状況を正直に開示し、官のリストラを含む何通りかの処方案を示し、国民に選択してもらうこと。また、二十一世紀にむけて、国民が安心して生活できる経済・社会の展望を示し、そのために必要な構造改革の絵を示し、国民の理解を得ること(それは決して米国をモデルにすることなどではないのは先に述べたとおり)。財政出動はそうした改革に役立つものに重点を置くこと。また、改革に必要なカネを自国に還流させるため、無理な低金利政策や通貨供給は止め、当面の金融政策は緩和でも引締でもない「中立」とし、市場金利上昇は容認して自国通貨をこれ以上弱くしないこと。

 日本は貯蓄超過の資金運用国なのである。我々国民は、国としての資金運用の妥当性についてもっと留意すべきである。自分のカネは、自分(日本)と自分に最も利害のある人たち(アジア諸国)のために使うのが当たり前である。

(一九九九年三月一〇日)