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「古典派からのメッセージ・1999年〜2000年編」目次へ戻る
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古事記をめぐって〜T 古事記の面白さ

 

 古事記の様々な物語を読んでいると、僕は、自分自身の内に蓄積した遠い過去の無意識の記憶が呼び覚まされるような感覚に襲われる。そのファンタジーの豊かさ、深さは、僕の五感を揺さぶり、軽い目眩さえ覚えさせる。古事記は僕を古代人の世界に運び去る。古事記の描く日本の豊かな古代世界に分け入ってみよう。

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 古事記の持つ野趣、グロテスクさ、滑稽味といった味わいは、世界各地の古代神話と共通のものである。自分の嘔吐物や糞尿から神々を生み成す女神の伊邪那美命(いざなみのみこと)、自分の子である火の神を切り殺してしまう伊邪那岐命(いざなぎのみこと)など、古事記は冒頭から野趣とグロテスクさに満ちているが、それらは決して不愉快なものではなく、明るさと素朴さにあふれており、かしこまった道徳の彼岸に住む古代人の力強いエネルギーを感じさせる。自分の口、鼻、尻から食材を取り出して須佐之男命(すさのおのみこと)にごちそうする大気津比売(おおげつひめ)の女神は、乱暴者の須佐之男に殺されてしまうが、殺された女神の体からは稲や蚕や粟や麦や大豆が生えてくる。穀物の起源を語ったこの物語も、汚いし残酷だしシュールだが、実際に読むとむしろどことなくユーモラスな味わいがある。

 また、伊邪那岐が伊邪那美に「吾が身の成り余れるところをもちて汝が身の成り合わざるところに差し塞ぎて云々」とプロポーズする、男女神の「結婚」の場面や、天照大神(あまてらすおおみかみ)を天の岩戸から連れ出そうとして天宇受賣命(あめのうずめのみこと)が恍惚状態になってしどけない姿で踊る場面や、大物主神(おおものぬしのかみ)が美しい乙女に惚れて丹塗り矢に化けて乙女の用便中に侵入する場面などからは、儒教や仏教の人倫や道徳に縛られる以前の、古代人たちの性に対する素朴で伸びやかな感性がうかがわれる。

 人の世になってからも、例えば仁徳天皇の后、石之日売(いわのひめ)の激しい嫉妬の話など、実に人間的な生の感情がストレートに出ている。夫が側室に逢うと「足もあがかに(激しくじたんだを踏んで)」嫉み、全ての側室を実家に帰してしまった石之日売の強烈な性格! それにもめげず、「淡路島の視察に行って来る」と偽って愛する側室のところに通ってしまう仁徳天皇も、何と人間臭く描かれていることか。今も河内に残るあの巨大な前方後円墳に葬られている専制君主が超嫉妬妻に悩まされていたとは何と愉快ではないか。

 古事記には、また、美しい人間愛も描かれている。例えば、兄と夫の権力争いの板ばさみとなった沙本毘売(さほひめ)の苦悩と夫である垂仁天皇の沙本毘売への尽きせぬ愛情を美しく描いた物語、或いは、軽太子(かるのみこ)と軽大郎女(かるのおおいらつめ)の悲恋を切々と胸に迫る歌の数々を連ねて描いた心中物語などは印象的である。また、倭建命(やまとたけるのみこと)とその后、弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)の夫婦愛の美しさは、最近話題になった美智子皇后様の読書記録でも取り上げられている。倭建命最後の遠征の時、海が荒れ、船の航路が閉ざされる。この時同乗していた后、弟橘比売命は、自分が海神の生け贄となるので倭建命は使命を全うして欲しい、と言って入水する。別れの際に弟橘比売命は――

 さねさし 相武の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも

と詠う。この少し前、二人は、広い枯れ野を通っていた時に、敵の謀に遭って草に火を放たれ、燃える火に危うく九死に一生を得たが、弟橘比売命の歌は、その時燃え盛る火の中で倭建命が自分の安否を気遣ってくれたことを思い出して詠ったものだ。愛と感謝を自分の人生の最期に詠う、美しく満たされた弟橘比売命の心に、男女の最も気高い愛情の通い合いを見出していらっしゃる美智子皇后様の素晴らしい感性に敬意を表したい。

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 古事記の神話は、七世紀の宮廷知識人が空想に任せて創作した物語ではなく、何らかの歴史的事実を象徴、反映した古来の伝承をまとめあげたものである。物語の背景には何らかの歴史的事実が存在していることを、鋭敏な読者なら誰しも強く感じさせられる。例えば、古代出雲には「高天原」王国(大和朝廷の祖型か?)とは別の強大な王権があったことが様々の神話から読み取れる。即ち、伊邪那美命(いざなみのみこと)を出雲に葬ったこと、須佐之男命(すさのおのみこと)が高天原を追放されて降り立った地が出雲であったこと、大国主神(おおくにぬしのかみ)を主人公とする出雲の物語が古事記上巻のかなりのスペースを占めていること、「高天原」王国からの軍事力を背景にした強圧的な交渉で大国主神の一族が「国譲り」をさせられること等々である。最近発見された鳥取県の弥生時代の遺跡、麦木晩田(むきばんだ)遺跡は、規模が弥生遺跡有数の巨大さで、鉄器が数多く出土し、日本の他の地域にないユニークな形状の四隅突起墓墳が多数発見された。この麦木晩田遺跡などは、どう考えても大和朝廷に服属する以前の古代出雲王国の遺構の一部であろう。

 「高天原」王国と南九州の日向、隼人地方との関係はもっと不可思議である。邇邇芸命(ににぎのみこと)は高天原から日向の地に降臨したことになっており、海洋的、南洋的な海幸彦・山幸彦の伝説を経て神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと)即ち神武天皇の誕生となり、この伊波礼毘古が九州から「東方の青山に囲まれた良き国」を目指して東征し大和王朝が成立する物語になっているわけだが、このいわば大和朝廷にとって「父祖の地」とも言うべき南九州に対して、朝廷はその後特に敬意を払ったり尊崇している気配が見られないのは不思議である。のみならず「熊襲征伐」の対象にさえなっている。南九州の古代の文明がいかなるものであったのか、古代の皇室との関係がどうだったのか等、この「天孫降臨」から「神武東征」に至る南九州神話には謎が多い。僕自身は「神武東征」の話にはどうも作り話的で不自然な気配を感じるのだが…。

 「魏志」倭人伝によれば邪馬台国の女王卑弥呼が亡くなったのは三世紀中葉だが、白石太一郎氏は、奈良県桜井市にある日本最初期の巨大な前方後円墳「箸墓古墳」の年代がそれとほぼ合致すること、日本書紀で箸墓古墳の埋葬者が孝霊天皇の娘で三輪山の大物主神に仕える巫女であった倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)とされていることから、この箸墓古墳が卑弥呼の墓である蓋然性は高いと述べておられる。古事記や日本書紀に出てくる、神と結婚したり神に仕えたりする巫女たちの誰かが卑弥呼を象徴している可能性は高いと僕も思う。

 古事記の神話は、九千年の長きにわたった縄文時代の記憶をも反映しているのだろうか? 青森県の三内丸山遺跡に見られるように、縄文時代にも既に相当大規模な集落ないし小国家が成立していたことが近年判明した。縄文社会は、我々が一九七〇年代に高校で習ったような「小人数からなる階級のない平等な原始共同体」などではないのである。そこでは既に相当複雑な言語生活が営まれ、共同体の来歴についての言い伝えが積み重ねられていたかも知れず、古事記の神話はそうした記憶すら反映しているのかも知れない。

 古事記に見られる北方系神話と南方系神話の混在は、日本人という民族が、北方の朝鮮半島や中国大陸からの渡来者と南方の海洋地域からの渡来者との混交で成り立っていることを如実に示している。例えば、次田真幸氏によれば、邇邇芸命(ににぎのみこと)の高天原から日向への降臨(天孫降臨)の神話は、新羅の始祖や加羅国の始祖が神の子として天下ったと伝える古代朝鮮の神話と同型であり、古代朝鮮から満蒙諸族の間に広く行われた北方の信仰につながっている。一方、因幡の白兎がワニをだまして隠岐島から本土に渡る話は、知恵ある陸の動物が愚かな水中の動物をだまして川を渡ることに成功する話がインドネシアや東インド諸島にもあり、南方から伝わってきた神話であるという。また、火遠理命(ほをりのみこと)即ち山幸彦が、兄(海幸彦)から借りた釣り針を失って、これを捜し求めて海神国に至り、釣り針を取り戻す美しさに満ちた伝説は、インドネシア各地に伝わる説話との類似が著しいともいう。

 このように、古事記には、日本の起源や古代の史実が何らかの形で反映されていることを強く感じさせるが、僕が古事記で一番驚いたのは、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の黄泉(よみ)の国伝説とギリシア神話のオルフェオ神話の驚くべき類似性である。死者の世界である黄泉(よみ)の国で、見てはいけないと言われたけれども待ちきれなくなって愛する妻を見てしまう伊邪那岐。そこには、膿わき蛆たかる死体があった(この死体の描き方の迫力はすごい)。このモチーフは、オルフェオが妻エウリディーチェを死者の国で見てしまうギリシア神話と全く同じだ。死後の世界の物語の、古代日本と古代ギリシアのこの共通性は一体何なのだろう?


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 古事記の中でも特に上巻は、各神話の「つなぎ方」が巧みで、ストーリーが立体的に浮かび上がって来る。神々の世界から人の世の世界への綿々たる連なりと広がりを感じさせる素晴らしい文学だ。下巻の歴史時代に至ると、天皇一代毎に出来事がまとめられ、これを皇位継承順に並べるという平板な記述になるが、皇位継承を巡る争いや恋物語は生き生きとして人間的であり、読む者を飽きさせない。そしてここでは歌が重要な役割を果すようになっている。それらの古代歌謡も野趣あふれて味わい深いのである。

 古事記を素直に読めば、我々は、古代人の息遣い、笑い声、おしゃべりの調子、衣擦れの音、嘆息、泣き声、怒りの発作などを生々しく追体験できる。文献資料と考古学資料のみに頼った頭でっかちの「理解」と「認識」では、古代人の営みは見えて来ない。彼らがどう感じていたか、その感情を実感し味わうことが大切だ。稗田阿礼や太安万侶ら七〜八世紀の古事記の編集者たちは、ただ漫然と古来の伝承を記録したのではない。漢字や儒教や律令制度など中国文明が圧倒的な勢いで流入してくる現実を目の当たりにして、古来の日本人の心のありようを忘れぬように保守し、伝統と新文明の調和を図ろうと企図してこの書をまとめたのだ。そうした積極的な意図がなければ、古代人の情感はこんなに切実に我々の胸に迫っては来ないだろう。

(一九九九年四月一一日)

 

天武天皇(?〜六八六年)

 父は舒明天皇、母は宝皇女(のちの皇極天皇)で、大化の改新を断行した天智天皇の同母弟。幼名は大海人皇子(おおあまのみこ)。兄天智帝の没後、その子大友皇子を擁する近江朝廷軍との戦い(壬申の乱)に勝利し、飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)で即位。公民制確立、律令編纂など、唐に倣って律令国家の形成を推進。頭髪の形さえそれまでの「みづら」を「まげ」に変えるなど、明治維新の「洋化」にも比すべき「中国化」によって、東アジアにおける文明国家としての地位を確立せんとした。「日本」の国号を初めて使い、唐、新羅の膨張政策に対し、日本各地を要塞化して侵略に備えた。武勇にも優れた古代日本の偉大な帝王。

稗田阿礼(ひえだの あれ)(七世紀)

 天武天皇の舎人。身分は高くなかったが、宮廷の祭儀に通じ、学識も豊かで、記憶力に優れていたため、二十八歳のとき、天皇から「帝紀」「旧辞」の誦習を命ぜられ、これが後の「古事記」の母体となった。

元明天皇(六六一年〜七二一年)

 白鳳、奈良前期の女帝。天智帝の四女。その在任中、藤原不比等が政権を担当。最古の貨幣「和同開珎」を鋳造、藤原京から平城京へ遷都した。

太安万侶(おおの やすまろ)(?年〜七二三年)

 奈良時代の官人。七一一年、元明天皇の詔により、稗田阿礼が誦していた旧辞などを撰録し、翌年「古事記」三巻を献上した。経歴未詳ながら、古事記序文から察するに、漢籍にも通じた相当な知識人であったと思われる。

 

〈参考にした文献〉

「古事記」倉野憲司校注(岩波文庫)

「古事記」次田真幸訳注(講談社学術文庫)

出雲井晶「教科書が教えない日本の神話」(産経新聞社)

森浩一「日本神話の考古学」(朝日新聞社)

小林行雄「古墳の話」(岩波新書)

白石太一郎「古墳とヤマト政権」(文春新書)