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「古典派からのメッセージ・1999年〜2000年編」目次へ戻る
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古事記をめぐって〜U 本居宣長の人間学

 

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 中世、近世において、古事記は忘れられた史書であった。本居宣長以前は、古事記と同時期に編集された日本書紀の方が古代日本についての由緒ある歴史書だとされており、古事記は読み習う人も少なかった。

 本居宣長は、それまでの定説を覆し、古事記が日本書紀よりも価値が高いと主張した。確かに書紀は、中国の史書に倣って体裁も整い内容も詳らかである。しかしその文体は、中国の史書を意識するあまり、漢文調に飾られたものであった。一方古事記は、稗田阿礼によって口誦された古い倭語の文体をそのまま伝えようと、太安万侶らが苦心して文字(即ち漢字。ひらがなという便利なものは平安時代の女流文学者たちが作り出すまでは存在しなかった)に写したものである。蔵している内容、心栄えを忠実に表現するには、それが語られていた言葉と文体をそのまま用いなければならない。漢文調に「翻訳」してしまっては、儒仏伝来以前の古人の事蹟や心の本当の姿が見失われてしまう。心と事と言葉は一致していなければならない。古事記は正規の漢文と比べて拙劣な文章に見えるが、それは、虚飾を排してひたぶるに古えの語を伝えることを旨とする故である。古事記には、中国風にアレンジされた日本書紀では失われている古代日本人のまことの言葉と心を伝える固有の価値が存在する、と宣長は述べる。

「彼れ(=書紀)はもはら漢(から)に似るを旨として、その文章を飾れるを、此れ(=古事記)は漢にかかはらず、ただいにしへの語言を失はぬを主とせり。およそ意(こころ)と事(こと)と言(ことば)とは、みな相稱(かな)へるものにして、…(中略)… 書紀は、後の代の意をもて上つ代の事を漢国の言を以って記されたる故に、あひかなはざること多かるを、此の記は、いささかもさかしらを加へずて、いにしへより言ひ伝へたるままに記されたれば、その意も事も言も相稱(かな)ひて皆上つ代のまことなり。」(「古事記伝」の冒頭「古記典等総論」より)

 古事記は、単に文字になった文章を読むのではなく、古語の調べを味わい声に出して朗読すべき書物である。その文章はしばしば和歌の起源ともなっているのだ。例えば、伊邪那美命(いざなみのみこと)が伊邪那岐命(いざなぎのみこと)に「まあ、何と素敵な男の方!」と呼びかける言葉「阿那邇夜志、愛袁登古袁」は、男女神の愛の唱和であり、「あなにやし、えをとこを」と、歌うように訓まれなければならない。宣長当時の訓に「あなうれしや、うましをとこにあひぬ」などとあるのは、調べも整わず、和歌の始源の面影は失せ、ただの日常言語に翻訳してしまっており、古を知らぬ訓み方である、と宣長は言う。

 宣長の言語に対するこうした感性の冴えは特筆すべきだ。彼は言語学的知見によって古事記の価値を江戸時代中期に蘇生させたのである。彼は漢字の羅列を読み解き、古代に古事記はこう訓まれていたに違いないと、極めて厳密に学問的に推定していった。そして三十数年に渡る勉励の末、六十九歳で古事記の包括的注釈書「古事記伝」を完成した。古語を「一字一言といへども、みだりにはすまじき物ぞ」と言う彼の言葉からは、学者としての純化された志と良心が立ち現れている。


 その仕事の始まりは中々劇的である。契沖の歌学に触発された宣長が、古事記を通じて儒仏伝来以前の古代日本人のありようを探求しようと深く志し、しかし、それを解き明かす方法を見つけあぐねていたまさにその時、あたかも彼を手引きするが如く、賀茂真淵が彼の前に現れたのだ。この出会いによって、宣長は、真淵から万葉集や祝詞といった文献から古代の言語を理解する術を学び、古事記注釈の方法論を確立したのである。松阪での劇的な二人の学者の出会いは、宣長の味わい深い独特の擬古文で、次のように回想されている。時に真淵は七十歳近く、宣長は三十歳を越えたところであった。

「かの契沖が歌ぶみの説になずらへて、皇国(みくに)のいにしへの意(こころ)を思ふに、世に神道家といふものの説くおもむきは、皆いたく違へりと、早く悟りぬれば、師と頼むべき人もなかりしほどに、我いかでいにしへのまことのむねを考へ出でむと、思ふ志深かりしにあはせて、かの冠辞考(注:真淵の著作)を得て、かへすがへす読み味はふほどに、いよいよ志深くなりつつ、この大人(うし)を慕ふ心、日にそへて切なりしに、一年、この大人、田安の殿の仰せ事を承り給ひて、この伊勢の里にも、二日三日とどまり給へりしを、さることつゆ知らで、後に聞きて、いみじく口惜しかりしを、帰るさまにもまた一夜宿り給へるを、伺ひ待ちて、いといとうれしく、急ぎ宿りに詣でて、初めて見(まみ)え奉りき。さてつひに名簿を奉りて、教へを受け賜ることにはなりたりきかし。」(「玉勝間」二の巻より)

文中の「かへすがへす読み味はふ」とか「伺ひ待ちて、いといとうれしく、急ぎ宿りに詣でて」といった表現から、志を共有する師を見出した宣長の心の躍動が伝わってくる。


 宣長は最良の歴史家の感性を有していた。古代の事跡を、ただ観察や分析の対象として調べるのではなく、古代人の心情や想像力の世界に入り込んで、彼らの残した伝説に心から共鳴することができる人であった。例えば、彼は、暦法が無かった古代の「こよみ」の曖昧さを、「原始的」と軽蔑するのではなく、機械的な時間の区切りではない自然のリズムの中で生活していた古代人の、自然に対する深い信頼や自然への自己同一化に深いシンパシーを寄せている。この古代人へのシンパシーなしに、ただ個別の考証がいかに精緻に行われても、それは単なる「資料作りの作業」にすぎず、そこに歴史を学ぶ喜びなどあろうはずもない。

 江戸中期にあって、儒仏伝来以前の「原始日本人」を知らむとする宣長の問題意識も真の歴史家と呼ぶにふさわしく、かつ、そうした問題意識から発した民俗学者的、考古学者的な知見は驚くほど近代的である。彼は、各地の田舎に残存する古代の雅言、伝承、冠婚葬祭の様式などを収集しており、畿内の古代天皇陵や各地に残る岩屋〔自然に出来た洞穴ではない人造の穴〕にも並々ならぬ関心を寄せている。宣長は柳田国男や折口信夫の民俗学の祖なのである。


 本居宣長の感性の柔らかさ、しなやかさは、和歌や物語に親しむことによって育まれたものであり、彼自身数多くの和歌を作っている。当時の儒教道徳からは和歌や源氏物語の男女は淫らなものに見えるかもしれぬが、「歌物語はいづれもその時の風儀をよくよく心得て、その時の人の心になりて見るべき」なのである。和歌や源氏物語の本意は儒仏の言う善悪とは関わりないものであり、それは、善悪以前の人間の真情、物のあはれを人に教えるものなのである。彼は、「あはれと言ふは、深く心に感ずる辞也」と言い、認識や道徳ではない「深く心に感ずる」ことの重要性を和歌や物語の中に見出していた。彼の目には、江戸時代人は既に認識や道徳の虜になり、瑞々しい感性が摩耗しているように見えたのであろう。

 「玉勝間」の中で彼は、源氏物語を読もうとしたある人が、絡まり合った糸の緒がないような文章で何のことか解からなかったと言ったのを諌めて、そんな小賢しい考えを捨ててただ慣れよ、暗がりに入ったばかりの時は何も見えないが時間が経てばよく見えるようになるのと同じだ、と言う。これには僕自身も頭を殴られる思いだった。解釈とマニュアルが氾濫する現代、古典を「体で覚える」「体に刷り込む」ことの重要性は忘れられている。古典や詩文を頭で「理解する」だけでなく、心で「感じ」「味わう」ことが、僕自身の生活の中でも何と少なくなっていることか。

 

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 本居宣長の「漢意(からごころ)を捨てよ」のメッセージは、一見、反中華思想や日本魂を称揚するナショナリズムに見えるが、そうではない。そうした政治的、イデオロギー的スローガンや宣伝文句とは異質のメッセージである。宣長は儒者を批判したが、儒教の創始者孔子は高く評価し、孔子賛嘆の和歌まで作っている。人間と歴史の本質を掴んでいた柔らかな知性の持ち主であった孔子の真価を宣長が理解しないはずがない。宣長が反発したのは、抽象的で偽善に陥りがちであった後世の儒教の道徳的側面やイデオロギー的側面であった。

 例えば、この世の全てを説明しようとする陰陽五行説などの抽象的世界観 や朱子学の抽象哲学は、人を「物知り顔」にさせるだけで、人が物事をありのままに観察し感受するのを妨げ、先入観の無い素直な感性を衰弱させるものだ。

 また、儒教の言う「天命」は、単なる権力の簒奪の繰り返しを正当化し美化するための偽善である。中国の王朝交代時に、古に舜が堯から「天命」によって国を譲り受けたのに倣って、形だけの権力の移譲を装うなどは偽善の極みである。「天命」がそれほど正しいものならば、何故始皇帝や王莽など人民を苦しめる者たちが権力を掌握したり、蛮族に国を奪われたりするのか。

 さらに、世の儒者は、身が貧しくて賤しいのを憂えず、富貴を願うなと言うが、これは人の真情ではなく、多くはただ自分が清廉であるという名を貪るための偽りごとである。正当な努力で富み栄えるのは孝養の道にも適うではないか、と宣長は言う。同様に、親の弔いのために子がひどくやつれるのを美徳としたり(子のやつれた姿を親が喜ぶだろうか)、雪や蛍を集めて本を読んだ貧しい人を賞賛したり(自分の家に燈油がなければ隣家で借りればいいではないか)することに、彼は、人間の素直な感情に反したわざとらしさ、偽善の臭気を感じとっているのである。

 また、仏者である吉田兼好が「徒然草」の中で、花は盛り、月は隈なきだけが良いわけではないと言ったり、恋しい人に逢えない辛さこそ味わい深いと述べたり、長生きは見苦しく適当に早死にする方がいいと説いたりするのは、全て、人間の自然な感情に反する、仏教の教説に惑わされた「ひねくれ」だと非難する。宣長は、儒教だけでなく、抽象的な道徳やイデオロギーによって生ずる人間の認識の歪みをこそ「漢意(からごころ)」と称したのだ。

 宣長と上田秋成との古代日本についての論争を記録した「呵刈葭(あしかりよし)」には、期せずして漢意(からごころ)に冒された秋成の知識人的皮肉主義が浮かび上がっている。この論争については、宣長の唯我独尊的で非合理的なナショナリズムを謗り、秋成の相対主義に肩を持つ論者が多い。もちろん、ここで宣長が強調する「皇国の万国に優れたる」論は不合理であり狂信的である。しかし内容の是非よりも、僕は宣長の言葉に、態度物腰の潔さ、自己の言説への深い確信と責任感を感ずる。一方、秋成の言説には揺らぎがある。全てを相対化し、知識人たる自分だけがその上に特権的に居座っているような高慢さも感じる。言論への責任感の欠如した小利口な思い付き、腹の底から声を発していない誠実さの欠如といったものも感じる。例えば、オランダ人を軽蔑するスタイルを見せながらも、オランダ人の世界地図を権威に立てて日本は小国に過ぎないと述べたり、太古の伝説の不思議さを疑うべきではないと言っておきながら、この国の人は宣長先生同様に素朴に伝説を信じているなどと民衆を軽蔑する不誠実さ…。この秋成の言説は、現代にも数多く存在する皮肉屋知識人の典型的態度である。宣長は秋成の相対主義を批判して、十枚のうち九枚は贋物で一枚だけが本物の小倉百人一首色紙の中から一枚の本物を見抜く眼力がないため、これは全部贋物だと言い逃れをするのと同じだと言う。皮肉屋知識人の責任感を欠いた言動の本質を衝いた比喩である。

 現代の代表的漢意(からごころ)は、マルクス主義とフロイト主義である。あらゆる人間性の偉大さを悪い意味で相対化し、歴史と人間の営みを物欲(唯物主義!)や性欲に還元してしまうこれらの思想は、歴史や人間を侮蔑する特権を現代人に与えた。こうした漢意(からごころ)に囲まれながら素直な心や瑞々しい感受性を維持するのは容易なことではない。しかし人間を幸福にするのは「皮肉な知性」ではなく「豊かな感受性」と「他者への共感」つまり宣長の言葉で言えば「物のあはれを解する心」である。皮肉な知性はその空しさをまぎらわすために刹那主義、享楽主義に走るしかなく、いつまで経っても人間らしい情感と幸福に満たされた生活を送ることはできない。

 漢意(からごころ)を去った「やまとごころ」とは、例えば、古事記の中では、弟の須佐之男命(すさのおのみこと)の乱暴狼藉に対しても少しも咎めだてしない天照大神(あまてらすおおみかみ)の人を憎まぬ優しい心や、どんな人の言うこともまっすぐ聞きいれる大国主神(おおくにぬしのかみ)の素直さがそれであろう。宣長は、倭建命(やまとたけるのみこと)が、度重なる遠征を命じる父、景行天皇を恨み、泣き言を言うのをさえ、「やまとごころ」の素直さととらえる。中国の英雄なら虚勢を張ったり強がったりするところだが、古代日本の英雄、倭建命は、自然な感情を素直に表わすのだ。また宣長は、「伊勢物語」の最後の段、在原業平の

つひにゆく 道とはかねて聞きしかど きのふけふとは 思はざりしを

の歌も「やまとごころ」の素直さの例とする。業平は、死に臨んで、儒者のように大言壮語したり、仏者のように悟ったようなことは言わない。死が身近に迫ったことに率直に驚き、悲しみ、そしてそれを受容しようとする。


 宣長が古代の人間のありようを基に、我々に向かって称揚しようとした人間像は、豊かな感受性と他者への共感に満ちた、つまり「物のあはれ」を解する人間であり、道徳やイデオロギーの偽善性や皮肉主義に毒されない素直さを持つ初々しい人間なのであった。

(一九九九年五月三日)

 

本居宣長(一七三〇年〜一八〇一年)

 伊勢国(三重県)松阪の商家に生まれる。少年期から読書と和歌を好む。商人には向かず、医師になる勉強のため二十二歳から二十八歳まで京都へ遊学。この時期に彼は本来の目的たる医業習得に加え、和漢の諸学問を修めたが、学問研鑚の傍ら、仲間と神社、仏閣へ参詣し、四季折々の物見遊山をし、しばしば観劇に出向き、酒食その他の遊興生活も楽しんでいた。彼は良い意味でのエピキュリアン的な青春時代を過ごしていたのである。
 松阪へ戻ってからは、小児科医を営む傍ら国学の研究に献身。源氏物語をはじめとする平安文学の価値を「物のあはれ」に見出す。古学の分野では三十数年かけて古事記の注釈書「古事記伝」を完成。学問論「初山踏(うひやまぶみ)」やエッセイ「玉勝間(たまかつま)」の他、古典注釈書、語学書など数多の著作あり。

 

〈参考にした文献〉

本居宣長「古事記伝」(岩波文庫)

本居宣長「玉勝間」(河出書房新社:日本の古典 二十一)

本居宣長、上田秋成「呵刈葭」(河出書房新社:日本の古典 )

本山幸彦「本居宣長」(清水書院:人と思想 四十七)

小林秀雄「本居宣長」(新潮文庫)