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「古典派からのメッセージ・1999年〜2000年編」目次へ戻る
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古事記をめぐって〜V「本居宣長」を読む

 

 本居宣長の鋭敏な感性に支えられた誠実な知の営みはあまりに同時代で卓越し巨大であったため、その全容を継承する者は現れなかった。その実証的学問の部分は伴信友に継承され、ナショナリズムの情熱の部分は宣長の死後の弟子である平田篤胤に受け継がれた。和歌を詠むことが生活の一部となっている宣長の世界に居る限り、国学のナショナリズムの情熱が狂気を帯び、テロリズムや軍国主義に至ることはあり得ない。しかし、柔らかな感性の発露たる和歌の世界と保守的な実務者の生活を欠いた篤胤の国学は、観念的なイデオロギーと化して人々に大きな影響を与えた。それは幕末の激越な尊王攘夷運動と軍国日本のファナティックな皇国絶対主義の情熱の源泉となった。国学の実証的学問の伝統は、その後の民俗学の母体になったが、パッションの部分は不幸な道を歩むことになったのである。

 現代における本居宣長の継承者は小林秀雄である。小林秀雄の「本居宣長」は、自ら言うように、宣長を訓古しようとした試みである。したがって、引用が多く、僕のような無教養者にとっては、引用された宣長や賀茂真淵の擬古文を読みこなすのに骨が折れ、小林の意図が直截に伝わって来ないもどかしさがある。しかし、根気強くつきあえば、小林にしては珍しいほど自己を抑えた語り口からは、伝統に推参しようとし、宣長の言葉を現代に蘇らせんとする熱い心が伝わってくる。小林が森鴎外について述べた「無常ということ」の一節は、そのまま次のように小林自身に当てはめることができる。

「晩年の小林が訓古家に堕したというような説は取るに足らぬ。あの厖大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。」

 小林は宣長をありのままに見ようとする。どうしてあんなに聡明な実証主義の学問を築いた人が、あんなに無邪気で狂信的とも見えるナショナリズムの情熱にとらわれたのか。自らの「近代的思考」の枠組みから外へ出る想像力を欠き、そのことについての反省心すら持ちあわせない奢った知識人たちは、それを、宣長の学者として人間としての「矛盾」だとか、あの面は評価するがこの面は嫌いだとか、めいめい今日の視点からの批判や観察をする。しかしそれは、歴史上の宣長の思索の実相―小林流に言えば「思想劇」―を見失った勝手な解釈にすぎない。思想や人間はもともと矛盾した存在だ。何故現代人は、学者や思想家に完全無比な「論理と人間性の整合」などを求めるのだろう? 宣長のパッションを正したら宣長でなくなってしまう。宣長はたいへん偉大だったから間違いもあった。小林は、宣長のそうしたありのままの思想の営みを描くことで、彼がどう偉大だったのかを我々に感受させようとする。宣長を訓古するとは、そういう意味合いのことである。小林自身の言葉を引こう。

「私達の持っている学問に関する、特にその実証性、合理性、進歩性に関する通念は、まことに頑固なものであり、宣長の仕事のうちに、どうしても折合いのつかぬ美点と弱点の混在を見つけ、様々な条件から未熟たらざるを得なかった学問の組織として、これを性急に理解したがる。それと言うのも、元はと言えば、観察や実験の正確と仮説の合法則性とを目指して、極端に分化し、専門化している今日の学問の形式に慣れた私達には、学者であることと創造的な思想家であることとが、同じことであったような宣長の仕事、彼が学問の名の下に行った全的な経験、それを想い描くことが、大変困難になったところから来ている。」

 小林は何故宣長に惹かれたのか。もちろん、古典学者としての目の確かさへの深い信頼が第一にあろう。しかし、それと同時に、賀茂真淵や平田篤胤と異なり、神道の色のない生活者として、医業を営む傍ら学問を大成させた宣長への共感があったのではないだろうか。観念論やイデオロギーを嫌う「実務者」「職人」たる江戸町人の系譜に連なる小林が、「実務者」である宣長に自己を同一化しているのを僕は感ずる。



 宣長の古学の目的は、あたかも物の味を嘗めて知るが如き親しい関係を古典との間に築くことである。それは決して特殊な能力を必要とせず、「結ぼうと思えば、誰にでも出来る、私達と古言の間の、尋常な健全な関係」なのである。古典はいつでも素直に耳を傾ける人の心に蘇生する。問題は、素直な感受性を摩耗させていないか、に尽きる。宣長や小林の言葉が心に素直に入ってくるかどうかは、その人の歴史や古典に対する感受性を試すリトマス試験紙といってもよい。

 古典に接して、新鮮に、個別に、彼(彼女)の自省を伴った心にメッセージが届き、彼(彼女)の読後の言動を変化させるような働きかけがあったか。それとも、読み終わって感涙にむせんだ次の瞬間には、古言の意味は忘れられ、読む前と同じ日常生活に自己を埋没させるだけの、まさに「論語読みの論語知らず」にすぎないのか。この読み方の差は大きいのである。

 古典や歴史の研究者は、もともと対象への限りない愛着から出発しているはずだが、いつのまにか、客観的であること、実証的であることに足を取られ、古典や歴史を研究の対象物としてしか見られなくなる陥穽に陥りがちである。これは我々一般の読者も陥りやすい罠であり、心したい。小林はこうした事情を次のように巧みに表現する。

「研究者達は、作品感受の門を、素早く潜ってしまえば、あとは作品理解のための、歴史学的社会学的心理学的等々の、しこたま抱え込んだ補助概念の整理という別の出口から出て行ってしまう。それを思ってみると、言ってみれば、詞花を玩ぶ感受の門から入り、知性の限りを尽くして、また同じ門から出て来る宣長の姿が、おのずから浮かび上がってくる。」

「証言、証拠のただ受け身な整理が、歴史研究の風を装っているのは、ごく普通のことだ。そういう研究者達の心中の空白ほど、宣長の心から遠いものは無い。」

「古人が生きた経験を、現在の自分の心のうちに迎え入れて、これを生きてみるということは、歴史家が自力でやらなければならない事だ。」

「過去の経験を回想によって我が物にする、歴史家の精神の反省的な働きは、人間経験の多様性を、どこまで己の内部に再生して、これを味わうことができるか、自分の能力を試してみるという事だろう。…(中略)…歴史を知るとは、己を知ることだという、このような道が行けない歴史家には、言わば、年表という歴史を限る枠しか掴めない。」

 真に偉大な学者は、どれほど知性の限りを尽くして実証研究の細部に入り込んでも、古典や歴史への瑞々しい感性を失うことはない。大実証家でありながら、対象への深い愛を赤裸々に語ってくれる誠実な学者として、僕の頭に思い浮かぶのが、仏教哲学における中村元氏と、ヨーロッパ古典派音楽におけるロビンス・ランドン氏である。我々はこうした人たちをこそ導き手として古典に入門すべきである。



 「本居宣長」は、最後に、人間の運命と死生の省察に至る。この本の最後の第四十九章、第五十章は、散文でありながら、僕には、小林の高い調子の「歌」、絶唱のように響く。それにしても小林のこの仕事は何と孤独なことだろう。一体何人の人が小林や宣長の真意を解するだろうか。この、自己を滅却して古人の心を自らの心に映ずることのできる柔らかな感性を要求する世界に、どれだけの人が入り込めるだろうか。自然人が本来持つ、率直な先人への敬愛の心を曇らせる情報と概念が氾濫し、「心で書物を読む」鍛練がおざなりにされている今日、先人の思想を辿って共鳴し、これを継承し、現代に蘇生させるということは、これほどまでに孤独で困難な仕事となっているのだ。

(一九九九年六月三〇日)

 

小林秀雄(一九〇二年〜一九八三年)

戦前、戦後を通じて我が国を代表する評論家。戦前はプロレタリア文学運動に対抗して同人誌「文学界」を創刊。戦後は、歴史、芸術などを素材に、古典主義の美学を貫いた思想を展開した。昭和四十年から十余年をかけて「本居宣長」(昭和五十二年刊行)を執筆、自己の思想を集大成した。

 

〈参考にした文献〉

小林秀雄「本居宣長」(新潮文庫)