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「古典派からのメッセージ・1999年〜2000年編」目次へ戻る
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古典派音楽の悦楽

 

 「北とぴあ音楽祭」の催し物のひとつであるヴィーラント・クイケン・オーケストラの演奏会に出かけた。今夜のプログラムは、十八世紀ベルギーの作曲家ピエール・ファン・マルデレの交響曲変ホ長調(作品六の三)、モーツァルトのニ長調のフルート協奏曲(K三一四)と弦楽のためのアダージョとフーガハ短調(K五四六)、そして最後にハイドンの交響曲第八一番ト長調(Hob.T‐八一)といった、古典派の有名曲と無名曲を取り混ぜた魅力的なメニュー。


 何は置いても有名曲であるモーツァルトのフルート協奏曲は素晴らしかった。有田正広さんのフルート・トラヴェルソは、はじめ、モーツァルトにしては少し端正すぎるような気もした。しかし聞いているうちに、ブッファの挿入曲のような、ケルビーノの歌のようなメロディが、単に愉快に弾むだけではなく、次第に高貴な風貌を帯びてじわじわと胸に染みわたって来、終いには目も耳もステージの有田さんに釘付けになり、手足を動かすことも息をすることも忘れてしまいそうだった。清冽な演奏だった。ブッファ的な悦楽だけではない、清らかさや気高さといったこの曲が持つ別の魅力を教えられた。

 それにしても、モーツァルトを生で聞くのは僕には刺激が強すぎる。いつもそうだが、涙がとめどもなくあふれて来るのだ。何と生き生きした新鮮な音楽だろう。この曲の前に演奏された、モーツァルトの少し前に活躍したマルデレの交響曲も悪くなかった。あたかも品の良い博物館で十八世紀ヨーロッパの美しい工芸品を鑑賞するような楽しみを味わった。当時の人々はこんなわかりやすく親しみやすい音楽を愛していたのだな、と思う。しかしモーツァルトと並べてみると、何とひからびて聞こえることか。モーツァルトの音楽は博物館どころではない。つい今しがたそこで書かれたような新鮮な情感が直裁に耳に飛び込んで来、それが胸に染み渡るのである。それは歴史的感慨を超越した普遍的な情感なのだ。モーツァルトを聞いて強く感じるのは、音楽の「生気」である。この「生き生きした」という言葉で表わすしかない生命力は、同時代の他の音楽家にはない、彼の音楽の大きな特色である。


 ハイドンのあまり知られていないト長調の交響曲も良かった。特に第二楽章の美しい変奏曲は、こんな曲を聞けばどんな乱暴者でも戦争をしようという気など起こらなくなるのではないかと思わせる。それほどこの曲は、素朴でいて、しかも慰めに満ちたメロディーが連なっている。ハイドンのこんなマイナーな曲を取り上げてくれた指揮者のヴィーラント・クイケンに拍手!

 ハイドンはモーツァルトやベートーヴェンと比べるとはるかに聞かれる機会は少なく、演奏会で取り上げられることも多くない。たまに演奏されても、たいていは「驚愕」とか「時計」とかいったニックネームのついた最後の一ダースほどの交響曲ばかりで、今日のように中期の作品が演奏会のプログラムに載ることは滅多に無い。しかしこんなマイナーな曲でも楽しみは随所に溢れている。例えば、第三楽章メヌエットのまん中のトリオに出てくるファゴットのソロが、東欧民謡風のチャーミングな旋律を長調と短調で繰り返す面白さ! 今日の演奏でソロを吹いていたファゴット奏者が、アンコールの時にこの部分を少し装飾して吹いていたのは本当に楽しかった。これこそハイドンやモーツァルト自身も実践していたに違いない、古典派の即興の楽しさである。会場のお客さんもオーケストラの団員たちもこの場面でみんな愉快な微笑みを交わしていたのがよくわかった。人を楽しませることをいつも考えていた心優しいハイドン! 彼は百を超える膨大な数の交響曲の一曲一曲にいつでもちょっとした工夫を凝らし、心ある聞き手を飽きさせない。


 僕は、一度でいいから、心から愛してやまないバッハ、ハイドン、モーツァルトの墓参りをしたいと念願している。彼らの墓に額づくことは僕の義務だとさえ思う。これほどの喜びと慰めを与えてくれている人たちの霊に、心からの感謝を捧げないわけにはいかないと思うのだ。

(一九九九年一一月九日)