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蘇東坡を愛す

 

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 蘇軾、号で呼んで蘇東坡ほど笑顔の似合う人はいない。彼は、二二歳の若さで科挙に合格し、翰林学士にも推挙されたエリート官僚であり、また、詩人、文章家としても宋代随一の存在であった。しかし彼は、大官として悠然とその地位を楽しんだ人ではなかった。その生涯は政治に翻弄され、何度も地方への左遷や流謫を余儀なくされた。六〇歳を超えた晩年に、はるか海南島に流され、ようやく許されて都へ向かう帰路に六六歳で亡くなっている。満たされ幸福な晩年とは言い難い。こうした苦難の連続にも拘らず、蘇東坡の生涯には暗さや皮肉の影が感じられない。辛さ、悲しさを内に抑えて常に微笑みで人を迎えている。そういう勁(つよ)さ、たくましさ、真の楽天性が僕は好きだ。

 この人の文章を読んでいると、明るく伸びやかな気分になる。漢文に時折みられる空疎な硬さがなく、いつも柔らかで、そこはかとないユーモアと余裕を湛えた文章のたたずまいは、「心の漢方薬」とでも言いたくなる。その妙味を味わうためには、何としても現代語訳ではなく、漢文読み下し文で読まねばならぬ。

 

 蘇東坡の代表的文章「赤壁の賦」には彼の楽天性が最も典型的に現れている。名月の夜、舟遊びをする蘇東坡と友人。酒を酌み交わし、詩を吟じ、笛を吹く。自分たちは、広大な長江の悠久に比べて、何と小さくはかない存在だろう、と無常を嘆く友人に対し、蘇東坡は、変化するという視点に立てば万物変ぜざるはないが、変化しないという視点に立てば万物は永劫である、月は満ち欠けするが結局元の満月に戻るのをごらんなさい、と友人を諭す。かつ、全ての物に所有権が主張される人間界と違い、清風や名月、ひいては自然界はいくら味わっても禁じられもせず尽きることもない。この造物主の無尽蔵を大いに味わいましょう、と蘇東坡は言い、喜んだ友人とまた飲みなおす…。

 美しい風景描写を背景に伸びやかな思想が語られる。まるで小演劇を見ているような印象的な文章である。「赤壁の賦」は大抵の漢文の教科書に載っているはずである。是非一度高校の漢文の教科書を引っ張り出して朗読してほしい。

 「超然台の記」も彼の良質の楽天性が心地良い文章である。この文章は、蘇東坡が、前任地よりはるかに劣悪な環境の密州に知事として赴任した時に書かれたものである。交通は不便で土地は痩せ、しかも凶作続きで盗賊が溢れ、決すべき裁判が溜まっている。こんな密州だが、彼はこの地の風俗が人情厚いのを楽しむようになり、自分は前よりも顔がふっくらし、白かった髪も黒くなったと述べる。この文章の冒頭に彼の「楽観主義宣言」が置かれる。

「凡そ物は皆観るべきところ有り。筍くも観るべきところ有らば、皆楽しむべきところ有り。必ずしも怪奇偉麗なる者に非ざるなり。糟を食らい漓を啜るも、皆以って酔うべし。果蔬草木、皆以って飽くべし。この類を推すや、吾れ安くにか往くとして楽しまざる。(物は何でも皆どこか見るべき価値があるものだ。見るべき価値があれば全て楽しめる所がある。不思議な物、変わった物、珍しい物、美しい物に限らない。酒のかすを食べ、金魚酒をすすっても、酔うことはできる。肉が無くて、果物や野菜や草や木だけでも腹をふくらませることはできる。このように考えてゆけば、私はどこへ行っても楽しいのである。)」

 これらの文章に見られる良質の楽天性の背景には、蘇東坡の透徹した人生哲学がある。彼は仏教徒であると同時に老荘思想の徒でもあった。自分の今の肉体は滅びても、魂は生まれ変わって、生きとし生けるものをはぐくみ、支える。生きとし生けるもののうちで、今の自分は一時の現われ、一分子にすぎない。自分が偶々どの分子になろうとも、たいして重要事ではない。このように考えれば、人生は永遠であり、良きものであり、楽しむべきものである。これが、蘇東坡の、仏教と老荘思想が結合した透徹した楽観哲学であった。彼は死の二週間前の手紙で「生死はささいなことであり、語るに足らぬことです。」と述べている。

 

 こうした楽天性から、蘇東坡の文章には随所にユーモアのセンスが溢れている。ある人からの手紙の返事では、「朝酒をしてしまい酔っ払ったので、あまり詳しく書けませんでした」と、返事が短いことへの軽妙な言い訳を添えて終えている。六〇歳を超えてから流された海南島にあっても、彼はユーモアを絶やさなかった。ある僧への手紙で彼は自分の境遇について「私のことを、小さな百姓家に閉じ込められ、粗末な農夫の食べ物を食べ、マラリアなど熱帯性の病気も心配しなければならない哀れな身だとお考えでしょう。確かに当地に医者はおりませんが、都では毎年いかに多くの人々が医者に殺されているかを考えてみて下さい。」と、ユーモラスに語る。

 二六歳で亡くなった最初の妻、王弗の墓誌銘への文章は、蘇東坡自らをピエロにして、妻の賢夫人ぶりを、そこはかとないユーモアに包んで暖かく描いている。人を信じやすく、誰とでも親しくなってしまうタイプだった蘇東坡に対し、この賢夫人はしばしばその軽率さを諌めていたらしい。

「軾、客と外に言えば、君、屏間に立ちてこれを聴き、退けば必ずその言を反覆して曰く『某人や言えば即ち両端を持し、惟だ子の意の向かう所のままにす。子何ぞこの人と言うを用いん』と。来たって軾と親厚せんことを求むること甚だしき者あり。君曰く『恐らくは久しきこと能わざらん。その人に与すること鋭ければ、その人を去ること必ず速やかなり』と。既にして果たして然り。(私が来客と表座敷で話をしていると、君は衝立ての間に立って耳を澄まし、私が奥へ入ると必ず客との会話を繰り返してこう言ったものだ『某氏は、何か言うといつもどちらにでもつくことが出来るようにし、ただあなたの意向のとおりに相槌を打っていらっしゃる。あなた、こんな人と話し合うことはありますまい』と。また、私と親しくしようと、とても熱心にやって来る人があった。君は『多分長持ちはしませんよ。友達になろうとあまりに熱心になる人は、離れて行くのもきっと速いですから』と言ったが、やはりそうなったのだった。)」

 

 蘇東坡は酒を愛した人でもあった。例えば、「東皐子(とうこうし)伝の後に書す」の文章は、心楽しい酒飲み讃歌である。東皐子は蘇東坡と同時代の官吏で、素朴なスタイルの詩文を書き、道家の思想を実践すべく隠遁した人であるという。この文章は東皐子の伝記の「あとがき」として書かれたもので、蘇東坡が恵州流謫中の作。その書き出しはこんな風である。

「予、酒を飲むこと終日にして五合に過ぎず。天下の飲む能わざる、予の下に在る者なし。然れども、人の酒を飲むを喜び、客の盃を挙げて徐ろに引くを見れば、即ち予は胸中これが為に浩浩然、落落然として、酣適の味、即ち客に過ぐ。閑居に未だ嘗て一日として客無くんばあらず。客至れば、未だ嘗て置酒せずんばあらず。天下の飲むを好む、亦、予の上に在る者無し。(私は一日中酒を飲んだところで、五合(日本の升では一合半)を超えない。世界中で私ほど酒を飲めない者はいない。けれども、人が酒を飲むのを見るのは好きだ。友人が盃をかざしてゆっくりと酒をあおるのを見ていると、私は胸の内が広々としてからっとした気分になる。酔い心地の良さは、私の方が友人に勝るかもしれない。私のわび住まいには、一日だって客の来ない日はない。客が来れば酒を出さない時はない。世界中で私ほど酒を飲む事を愛する者はいないのだ。)」

一合半しか飲めない蘇東坡だが、皆で飲んで愉快に心がうち解け合うのを無上の喜びとしたのである。この文章で蘇東坡は、自分には「身に病無く、心に憂い無し」と言い切り、さらに、死を平然と受け入れた東皐子の強い精神を称えて、自分もそれに近い境地にあると言う。六〇歳近くになって南方の僻地恵州に流された身の上の人が書いたとは思えない楽天性に満ちている。置かれた境遇に恨みがましいことを言わず、人生を楽しもうとし、しかも自分の周囲の人の幸福も願ったのである。

 

 政治家としての蘇東坡は、派閥を嫌い、「独自の思考」と「不偏不党」を信念とした自由主義者であった。宋王朝はそれまでの諸王朝と比べ、中央集権的色彩が濃い王朝だったが、それだけに中央集権の孕む危険性も大きかった。蘇東坡の政治的自由主義は、皇帝の強大な権力への牽制として機能してきた御史諌官の制度が形骸化しつつあることに危機感を抱き、権力への牽制の必要性、御史諌官の重要性を皇帝に直言していることに端的に現れている。

 彼は宋王朝を二分した新法党と旧法党の争いでは、司馬光を盟主とする旧法党に属していたが、文学仲間としては親密な間柄だった司馬光にも、個々の政策論ではしばしば反対意見を述べるなど、あくまで独立不羈を貫いた。

 彼が王安石の新法を憎んだのは、王の政策そのものというより、そのやり方の強引さを嫌った面が強い。王安石は、屈辱的にも宋が貢ぎものを差し出す事で宥和していた北方の蛮族、遼や金を討伐するために、富国強兵策を強力に推進したが、成果を性急に求めすぎて強権政治を敷いた。王は経済・社会政策だけでなく、文学も自分と同じスタイルに統制しようとし、自分の著書を科挙の標準参考書にした。自由を尊び、統制を嫌う蘇東坡は、弟子である張文潜に宛てた手紙の中で、王安石が文学の方向を統一しようとしたことを、地味の痩せた土地にたとえて痛烈に批判している。

「文字の衰うること、未だ今日の如き者あらざるなり。その源は実に王(安石)氏より出ず。王氏の文、未だ必ずしも善からざるにあらざるなり。而れども患いは好んで人をして己に同じゅうせしむるに在り。孔子より人をして同じゅうせしむる能わず。顔淵の仁、子路の勇、以って相移す能わず。而るに王氏その学を以って天下を同じゅうせんと欲す。地の美なる者は、物を生ずるに同じきも、生ずる所によりて物同じからず。惟だ荒痩の地のみ、弥望皆黄茅白葦なり。これ則ち王氏の同じきなり。(文学が今日ほど衰えた時は今までありません。その根源は、実は王安石氏から出ております。王氏の文章は必ずしも悪いものではありません。しかしその欠点は、人を自分と同じようにさせたがるところにあります。孔子でさえも人を同じようにすることはできませんでした。顔回の仁、子路の勇というように、それらを変えることはできなかったのです。それなのに王氏は、自分の学問で天下を統制しようとしています。土地の肥えた所では、物ができるという点では同じでも、できる産物はそれぞれの土地によってヴァラエティがあります。ただ荒れて痩せ果てて塩分を含んだ土地だけは、見渡す限り、黄色の茅と白い葦ばかりです。そういうのが王氏と同じということです。)」

 このように、蘇東坡はあまりに率直に新法党を批判したため、彼らから深く憎まれ、新法党が政権を取ると、いつも身分を落とされた。一時は死罪にされそうだったこともあるが、蘇東坡のファンである皇族のとりなしで何とか地方流謫で済んだりしている。彼は何より自由を尊ぶ人であり、派閥争いに骨身を削るような政治的人間ではなかった。それだけにむき出しの権力闘争の渦中での世渡りは下手であり、この時代の党派争いに翻弄されたのである。

 

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 僕は中国の詩人の中では陶淵明や王維も大好きだ。世俗に流されず、自然を愛する悠然とした生き方と、そこから生まれる美しい詩に深く共鳴する。(そういえば、僕の父方の祖父の部屋には、陶淵明の詩「田園の居に帰る」の一節「月を帯び鋤を荷いて帰る」の五文字が額縁に掛かっていた。明治に生まれた人たちにとって、王維や陶淵明は今よりずっと身近な存在だったのである。)

 王維や陶淵明の通俗を嫌った真剣な生き方は、確かに僕の精神を解放し、頭を柔軟にしてくれる。しかし、彼らの孤高には、権威の高みから人々を見下ろすような尊大さや青白きインテリのひ弱さが感じられなくもない。民衆と自分を切り離してしまうような過剰な自意識が感じられなくもない。

 蘇東坡は彼らよりもずっと自然に民衆の間に入り込んでいる。彼の四川省の実家は貧しいというわけではなく、父蘇洵も知識階級に属していたが、生活ぶりは庶民的であったようだ。蘇東坡は天性の闊達な人であり、えらぶりや神経質な自意識とは無縁の人であった。彼が弟に語った次の言葉は、彼の自然な庶民性をよく表わしている。

「天に登れば、玉皇大帝と交わることができるし、地に下れば、貧しい人々と交わることができる。この世には、一人として悪人はいないと思う。」

蘇東坡はあらゆる人と交際した。皇帝、閣僚、詩人、隠士、薬屋や酒屋の主人、文盲の農婦…。彼の最も親しい友人たちは無名の詩僧や道士であった。州知事としての蘇東坡は、嬰児殺しの悪習の廃絶に努め、困窮者が負っている中央政府からの理不尽な借入の債務免除を要請し、中央政府が対応しない飢饉への備えを行い、水路を整備し、孤児院や病院を建設したヒューマニストであった。

 蘇東坡は、文学者として、政治家として、民衆から圧倒的な人気を博していた。晩年、彼が海南島から放免され、運河を溯って帰って来た時は、各地にセンセーションを巻き起こし、人々は運河の両岸に群れを成して彼を歓迎した。死後も民衆に愛され、近世中国の多くの戯曲や小説に主人公や脇役として登場することになる。

 蘇東坡のヒューマニズムの源泉には荘子の斉物論の思想がある。物の是非、美醜、高低は、人間の認識の慣習にすぎないのであって、一切の価値は相対である。相対の価値にとらわれず、超越することで、絶対的な認識の自由が得られる。この境地に立てば、人間の社会的地位も相対化され、人間ひとりひとりに必ず何らかの価値が見出されるのである。

 蘇東坡の生き方は、僕に、社会的指導者層や知識人と民衆との関係はどうあるべきかを深く考えさせる。

 

V

 

 ある日僕は、遠藤周作氏の講演会に行った。あの真摯なキリスト者に、まるで「旅行コンダクター」に対するように、イスラエル旅行のノウハウを質問する「大衆」と、大衆の低級な質問に答えなければならない「文学者」――まさに大衆消費者が王様である日本社会の縮図を見たような気がする。しかしこの「平均的に豊かになった国」「ホモ・エコノミカスの国」は、未来に一体どんな「文化」を残し得るのだろう? 恐らく後世の歴史家は、二〇世紀後半の日本を「幸せなる民の国」として描くだろう。しかし同時に彼(彼女)は、源氏物語や能楽を生んだ日本が、二〇世紀後半、何ら実りある文化を残さなかったことを嘆息するだろう。オルテガが、大衆消費者とその代弁者であり扇動者でもあるマスコミの作り出すムードによって動いている現代日本を見たら、何と言うであろうか?

 遠藤周作氏もこうした大衆社会にはさぞ辟易していることだろう。しかし氏は、民衆を軽蔑しておらず、また、社会的リーダー候補としての若者には希望を抱いていると言う。それは、彼が世界の果てともいうべき地域を旅していると、必ず日本の若者――それも目の輝いている――に出会うからだ。そういう若者は皆、人生や社会の意味を問うために、矢も楯もたまらず世界の果てまで旅していることが多いそうだ。遠藤氏が言及しているような、働きながらメキシコ奥地を巡っている若者に会って話をしてみたいものだ。

 僕の銀行の先輩にFさんという人がいる。F先輩も学生時代、内から突き上げてくる「矢も楯もたまらぬもの」に駆り立てられて、欧州へ放浪旅行したり、北海道の牧場で働いたりした人である。銀行でも、従来「ユーティリティ」として存在していた銀行に欠けている「顧客マーケティング」の発想で考えることができる数少ない人である。交友も広く、人生で何事かをなさんとするロマンを持っている。話していると、頭脳に刺激を受け、体に力が湧いてくるような人間的魅力を発散している。F氏型人間こそまさに今後求められる銀行のリーダー像だと思う。

 これらの「真剣味」ある生き方は、田中康夫の「なんとなくクリスタル」風の生き方とは全く対極にある。真剣な生き方をすれば個性的にならざるを得ない。流行を追い、ただ漫然と生きている人たちから見れば「なぜそんな苦労の多い変わったことをするのか」ということになるのだろう。けれども僕は、真剣な、触れると切れるような生き方をしている人たちと生きる姿勢を共有したい。僕は、マスコミに作られたムードに流された生き方を決してするまい。

 だが、「孤高の精神」や「貴族主義」や「大衆への反逆」が、浅い意味でそうであってはならない。真のエリート主義は、大衆を軽蔑するような鼻持ちならない特権階級意識や選民意識とは無縁の存在だ。むしろ大衆を惹きつけるたくましさ、明るさが基礎になければならぬ。権力志向の強い尊大な官僚や、気難しく青白い思想家もまた、我がめざすところに非ず。蘇東坡の闊達さとともに、かのメキシコ奥地を巡る若者やF先輩のような人間としての輝きこそ大切だ。

 僕は、世の中に流されない、真剣味ある生き方をしたいと思う一方、それが、大衆的基盤から遊離した高慢な特権者意識であってはならないとも思う。その意味で蘇東坡の精神のありようは、真のエリートとはどうあらねばならないかの一端を僕に示唆してくれている。

(一九八四年一二月一日)

 

 

蘇東坡(一〇三七年〜一一〇一年)

本名蘇軾。中国北宋時代の政治家、詩人、文章家。父蘇洵、弟蘇轍と共に「三蘇」と呼ばれ、唐宋八大家に数えられる文豪である。彼の詩文は、平易自然な構えの中に、老荘思想や仏教に裏打ちされた独特の個性を織り込んでいる。

陶淵明(三六五年〜四二七年)

中国晋時代の大詩人。一時仕官するも職場に折り合えず、在職わずか八十日にして「帰去来の辞」を残して帰郷。以降、自然を友とし、土を耕し、書を読み、詩を作り、琴を弾じ、酒をたしなんで、天命のままに生きた。その詩は、平易さの中に無限の滋味を宿している。

王維(七〇一年〜七六一年)

中国唐時代の大詩人。政府高官を務める傍ら、長安南方に別荘を営み、深く仏教に帰依した。世俗を離れた生活を好み、その詩は陶淵明の流れをくんで自然美を詠った。山水画、書、音楽にも深く通じ、当時最高の「サロンの文化人」であった。

 

〈参考にした文献〉

 清水茂訳注「唐宋八家文(四)」(朝日新聞社:中国古典選三十八)

 林語堂「蘇東坡」合山究訳(明徳出版社)