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司馬遷のリアリズム

 

 僕は司馬遷の「史記」を通読したことはない。いくつかの本紀、列伝をかじり読みしたにすぎない。それ以外には、史記を下敷きにした中島敦の「李陵」や司馬遼太郎の「項羽と劉邦」や武田泰淳の「司馬遷」を読んだ程度だ。こんな限られた知識の範囲内ではあるが、僕は司馬遷を心底尊敬している。

 「史記」のいくつかの紀伝を読んで僕が感ずるのは、彼の透徹したリアリズムということである。彼はナイーヴなロマンチストでも夢見がちな理想主義者でもない。もちろん、孔子を敬愛し、儒教的教養のバックグラウンドも豊かでもあった司馬遷は、一方では政治的理想主義者、ヒューマニストでもあった。匈奴の捕虜となった親友、李陵のための熱い弁明に、彼のヒューマニズムが噴出している。しかしこの弁護が武帝の逆鱗に触れて投獄され、彼は去勢の罰を受ける。司馬遷は身に受けた屈辱によって、リアリストたらざるを得なかったのである。世の中の厳しさ、くつがえりやすさがこれほど身にしみている人も少ないであろう。


 司馬遷の見事なリアリズムの世界を垣間見てみよう。まず「貨殖列伝」を見てみたい。これは、司馬遷の経済観察であり、庶民の中から出て金もうけに成功した富豪たちの伝記であり、経済地理誌でもある(しかしこの経済地理誌の部分は、古代中国各地の産物の詳細に興味の無い人には退屈な個所である)。こうした国民の経済活動の叙述は史記以降の正史にはないユニークなものである。古今東西を問わず、近代以前の歴史書は人物中心、政治史中心だが、偉大な歴史家は、政治・社会の基礎にある経済現象を決して見落としてはいない。司馬遷のリアリズムは、驚くべきことに、利潤動機と市場経済の有効性を既に明瞭に認識している。貨殖列伝(小川環樹訳)に曰く――

「物が食べられるのは農夫の力だし、山林資源を供給するのは山番の力、それらを加工品に仕上げるのは工人の力、それらを流通させるのは商人の力である。これらの仕事は、政府の命令でいついつまでに集めろと指示されたからするのではない。一人一人が己の才能に応じ、力の限り働いて、自分の欲しい物を得ようと思うからのことである。だいたい、物の値段が安ければやがて高くなる前兆で、高ければやがて安くなる前兆である。…(中略)…この四者[農夫、山番、工人、商人]は、人民の衣食の源である。源が大きければ物資は豊かに、源が小さければ物資は少なくなる。この四者の働き次第で、上は国を富ませ、下は家を富ます。」

この一節はアダム・スミスの「国富論」か何かに入っていてもおかしくない。また、司馬遷は、巨額の富を得た人たちの列伝を紹介した後、彼らの利益が「正当な自助努力」によって得られたことを次のように強調する。

「以上に挙げたのが、殊に目立った人々である。彼らは、政府から領地などを与えられたのでもなく、法を曲げ悪事を働いて富んだのでもない。いずれも物の理法を見抜き、時勢にうまく歩調を合わせ、人より多く利益を獲得したのであった。」


 次に「項羽本紀」を見てみよう。「項羽本紀」における登場人物たちのリアリズムもすごい。「項羽本紀」から題材を得た司馬遼太郎氏の小説「項羽と劉邦」は、こうしたリアリズムを生かしながら、鋭い直覚による中国文明についての考察を交えて、始皇帝、趙高、項羽、劉邦、張良、范増といった人間たちの生き様を浮き彫りにしている。しかし、本家の「項羽本紀」の方が、ドラマ性では勝っている。中でも、一代の英雄項羽が劉邦に敗れ、最期の時を迎える場面のドラマ性は際立っており、あまりにも有名な永遠の名文である。曰く――

「項王の軍、垓下に壁す。兵少なく食尽く。漢軍及び諸侯の兵、これを囲むこと数重。夜、漢軍の四面、皆楚歌するを聞く。項王、大いに驚きて曰く『漢、皆既に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや』と。項王、即ち夜起きて、帳中に飲む。美人あり、名は虞、常に幸せられて従う。駿馬、名は騅、常にこれに騎す。是において項王、即ち悲歌慷慨す。自ら詩を為りて曰く『力は山を抜き、気は世を蓋う。時利あらずして、騅行かず。騅の行かざるを奈何すべき。虞や虞や、若を奈何せん』と。歌うこと数回。美人、これに和す。項王、涙数行下る。左右、皆泣き、能く仰ぎ見る無し。」

この項羽の最期の場面は、単に司馬遷が創作した空想歴史小説なのだろうか。否、司馬遷の透徹したリアリズムは、そんな安易な空想を許すような柔弱なものではない。

 十九世紀末に至るまで、司馬遷の描く「殷王朝」は伝説上の王朝とされてきたが、一八九九年、河南省安陽県の小屯村で、象形文字を刻んだ多数の亀甲や獣骨が発見され、ここが司馬遷の記す殷王朝最後の都「商邑」の遺跡であることが判明した。殷は実在したのである。そして最近、殷の前の「夏王朝」すら、遺跡の発掘によって、実在していた可能性が高いと言われている。この歴史家のリアリズムは、その叙述した古代王朝の存在が実証されることによって、ますます輝きを増している。

 彼のリアリズムの形成には、若い頃父に同伴して中国各地を旅行し、歴史的遺物や史料に触れる機会を持てたことが大いに貢献している。こうした旅行が、彼に、単なる空想や理念で物を書くのではなく、「ジャーナリスト」的な取材に基づいて記述するというスタイルをとらせるようにしたのではないだろうか。項羽の最期の場面も、各地に残る項羽の伝承に取材した「事実」を記載したものではなかろうか。取材した伝承の中から最小限の事実を切りつめて記述したからこそ、最大限のドラマ性を獲得できたのだと僕は思う。


 公孫弘という人物についての、司馬遷の苦い記述については、武田泰淳「司馬遷」の「公孫弘批判」に印象的に描かれている。公孫弘は、司馬遷と同時代の儒学者、政治家である。常に控えめに物を言う謙譲の美徳と儒学者としての博(ひろ)い学識で有名になり、武帝にも重用された。しかし彼は政治的人間であった。諸公卿の間で前もって議事を約定してあったのに、武帝の前に行くと、彼はことごとくその約定を破って武帝の意志に従ったことがあった。諸公卿が後で難ずると、公孫弘は、これは自分の「謙譲と忠誠心のなせるものである」と言い放った。また、儒学者としての実力は同僚の董仲舒よりも劣っていたが、それが露見するのを恐れ、董仲舒を憎むあまり、武帝に言上して廉直な董仲舒を乱暴無残なある王のもとへ遣わした。

 公孫弘の、一見寛容で謙虚で博識な仮面の裏に存在する、巨大な陰険さと嫉妬心と権力欲とが苦い筆致で描かれる。司馬遷は、こういう人物を重用している武帝の独裁の危うさをも間接的に批判しているのである。

 この「公孫弘批判」の章は、司馬遷と武田氏の人間観察が火花を散らし、ぶつかり合い、共鳴し合っている。僕は、その激しさ、真摯さに、勤め先からの帰りのバスの中で読んでいて、思わず体の震えを覚え、涙があふれそうになった。何と苦く辛口のリアリズムだろう! と。

(一九八五年二月一二日)

 

司馬遷(紀元前一四五年?〜紀元前八六年?)

中国前漢時代の偉大な歴史家。十歳にして古文を誦した秀才。若い頃から、歴史編纂官であった父の伴をして中国各地を歩いた。父の代から保管していた帝室の古記録や自分が各地を巡った時集めた見聞など豊富な資料を用い、「史記」一三〇巻を完結した。その内容は、伝説の太古の天子黄帝から彼自身の時代(漢の武帝時代)までをカバーし、形式、組織もよく整ったものであり、後の史書の規範となった。

 

〈参考にした文献〉

 司馬遷「史記 一」田中謙二・一海知義訳(朝日新聞社:中国古典選 十八)

 司馬遷「史記列伝 一」小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳(岩波文庫)

 司馬遷「史記列伝 五」小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳(岩波文庫)

 武田泰淳「司馬遷―史記の世界―」(講談社文庫)