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「古典派からのメッセージ・1999年〜2000年編」目次へ戻る
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退職発令日の感慨

 

 今日は月末、定例の退職者への辞令交付の日である。特に今回は、六十数名という、当行始まって以来の大勢の退職者が出る。これは、当行が有していた不良債権を整理回収機構に移管したことに伴い、同機構への四十名弱のまとまった数の転籍者が出ること、人員削減策に基く外部職域開拓の結果、当行行員を受け入れてくれる先へ転職する人が相当数出たことによるものだ。

 辞令交付自体は、簡単な儀式である。「何々殿、願により職を免ず」と書いた辞令を、人事部長が読み上げて交付するだけである。しかし、退職者たちの思いは複雑だ。この人たちは実際は願いによって退職する訳ではない。当行が一時国有化されたことで、いやおうなく人生の選択を銀行から迫られ、それに応じたのである。なぜ自分が退出者に選ばれたのかという無念の気持ちの一方、自分の年齢を考えると厳しい再就職環境でとりあえず次の仕事が確保されたことの安堵感が織り交ざった、何とも複雑な気持ちなのである。送り出す我々人事部も、何度も自問自答して悩んだ末の決断である。今でも本当にこれで良かったのか確信が持てないでいる、というのが正直なところだ。なぜこんな悲しいセレモニーを当行は催さねばならなくなってしまったのか、という苦い思いを僕は禁じ得ない。

 順番に辞令を受け取る人たちの中には、僕が新入行員の頃に親切に仕事を教えてくれた先輩や、厳しく叱ってくれた先輩や、いっしょにコーラスを歌った先輩や、飲み仲間の同期がいる。そういう人たちが背を丸くして辞令を受け取る姿を見ているうちに、僕の目に涙が溜まってきてどうにもならなくなってきた。

 会社とは自分にとって何なのだろう。今、日本のマスコミでは、会社から自立せよとか会社から距離を置けとかが声高に叫ばれている。そうした動向に同調して、政治学者の猪口孝氏は、「日本は戦国時代までは個人主義が基調であり、徳川時代に初めて藩組織の生き残りが全てに優先する集団主義へと転じたのであり、超長期で見れば日本人は組織依存型の人間ではない」と論じ、最近ようやく徳川時代以来の集団主義から脱し、「会社などクソくらえと言って辞める人が増えている」と煽っている(二〇〇〇年一月四日付日本経済新聞「経済教室」)。本当にそういう考え方でいいのだろうか。

 

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 その起源がどこにあるかは知らぬが、日本の会社は確かに、労働力の売買の場であるだけではなく、共同体であり、人間が一緒に生きてゆく場であり、会社に入ることは人間として仲間になることである。戦前はむしろ会社は労働売買の場としての「機能集団」であったが、戦時下に形成された総動員体制をそのまま持ち越して戦後の会社「共同体」が出来上がったとの意見も有力である。いずれにせよ、戦後日本の会社本位とも言うべき集団主義には、確かに行き過ぎた面があった。僕も、会社ぐるみの運動会だの社員旅行だの保養所だのは、無くもがな、と思ってきた。司馬遼太郎氏の、日本の会社員が上司に接する姿はあまりに卑屈であるとの指摘もおおむね当たっている。部下を自分の私兵と勘違いしている上司もいなくはない。これらは是正されるべきだ。そして何よりも、会社は、株主のために利益を上げ、顧客や取引先の役に立つために存在するのである。官僚化した組織は、往々にしてその目的を忘れて内部の論理で動きがちである。会社共同体の利害が株主や顧客の利益に優先するようなことがあってはならない。このような会社本来の目的を最優先させるための企業統治については、アメリカの経験から学ぶべき点も多い。

 しかし、会社は、日本の経済の原動力として無くてはならない存在であり、猪口氏が無責任に放言するような「捨て去るべき悪」などではない。猪口氏のように自立や個人主義を唱える人に問いたいのは、会社がうんと社員との距離をとり、社員を人間全体とは見なさず、単に「労働力」を雇っているだけと考える流儀が、そんなに賞賛に値する企業経営のあり方か、ということである。会社を人間の集団と見なさず、単に自分のキャリアアップの道具と考えたり、短期的な売買の対象としか考えない人たちが、一体どんな豊かな人生観、世界観を宿しているというのだろうか。飢えたハイエナのような、カネ儲けしか頭にないホモ・エコノミカスに日本人は本当になりたいのか。それが人生の理想たりうるのか。そうした真剣な問いを発すれば、日本人が培ってきた「お互いに協力し合いながら自己実現をめざす共同体」という会社観はなかなか奥が深いことに気づかざるを得ない。

 古今東西を問わず、人間はどこかに所属すべき共同体を持たずには生きられない存在である。そして教会共同体や村落共同体が崩壊した現代にあっては、会社が共同体であることは極めて自然なことなのである。僕もさすがにアメリカの会社は共同体ではなく純粋に機能集団であって、アメリカ人は他に共同体を持ちあわせているのだろうと漠然と思っていた。ところが、アメリカ生活の長い、僕の敬愛するY先輩によれば、大手米銀でも内部の懇親活動やOB会活動などは極めて活発で、社内の親分・子分関係も日本人に劣らず濃厚だという。アメリカにおいても、会社は、従業員の精神の拠り所としての共同体の面を持ちあわせている。このことは、企業統治のノウハウが優れていることと何ら矛盾しない。むしろ会社が共同体であればこそ、目的と手段を混交しないような統治の仕組みが必要なのである。

 僕は、自分は決して会社と心中するようなタイプではないし、会社に呑み込まれない自己を持つべきだと以前から思っている。しかし退職発令を見て目の潤んできた自分は、明らかに会社が善き共同体であると無意識に信じている。そうでなければ、屈折した心情のまま辞めてゆく「仲間」を見て涙など出るはずがない。

 

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 自立とはそんなに格好のいいものではない。気軽にカッコよく組織を捨てることができる人を僕は決して信頼しない。責任ある人なら、会社が自分を育て、自分の生きがい(の少なくとも一部)であることを正直に認め、そしてそこを去らなければならなくなった時は、心からの感謝とほのかな心の痛みを感じ、それでも敢えて別の理想や希望のために自分の人生を選択するという、屈折した決断のプロセスを経るはずだ。それが全うな人間というものだ。幸い僕の知る限り、これまで当行を辞めていった人たちには、流行りに乗じたような軽率な人はほとんどおらず、みんな今でも当行を心から応援してくれていると思う。

(二〇〇〇年一月三一日)