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「古典派からのメッセージ・1999年〜2000年編」目次へ戻る
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古典的資本主義宣言―資本主義のあり方を考える―

 

 共産主義が破綻し、アメリカ流の資本主義が唯一の経済原理であるかのような喧伝が目だつ一方では、アングロサクソン流資本主義に対抗する日本・ドイツ流の資本主義擁護論もある。しかし現実には、我が国の資本主義は、自動車産業を中心にした製造業では優位にあるものの、国内には国際競争力の乏しい産業も数多く抱えたままである。特に、アメリカの政治力にしてやられた金融セクターの敗北は顕著である。不良資産を処理しきれず一時国有化という名の破綻に至った僕の勤務先銀行をはじめ、日本の金融セクターは何故失敗したのか。アメリカとの「金融戦争」に何故こうもあっけなく敗北したのか。そこには、日本の金融セクターの「資本主義」のあり方に何か間違いがあったのではないか。

 こういう問題意識から、僕は「資本主義とは何か」をあらためて考えてみようと思い立った。そこで「古典に立ち戻るべし」と、資本主義について最初に体系的な著述をした近代経済学の祖、アダム・スミスの「諸国民の富」(通称「国富論」)を読もうと思い立った。

 

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 スミスは想像以上に現代的な課題に直裁に答えてくれており、思いの外面白く読んだ。「国富論」には、後世のありとあらゆる経済学の基本概念や検討課題が叙述されているのだ。産業分類(ただしスミスでは、サービス産業は、家事労働とともに「非生産的」とされているが…)、貨幣価値(名目価値と実質価値)やインフレ・デフレの問題、ROE(資本利益率)の考え方、独占・寡占産業や公共事業の非効率と腐敗の問題(特に高等教育についての官製教育批判は印象的)、過労死の問題、経済バブルの発生と崩壊、リターン(期待収益率)とリスク(その分散)の関係、労働の流通市場の必要性、隣国窮乏化政策(輸出振興と輸入規制)の愚、植民地主義への反対、公共設備についての受益者負担や目的税の合理性、国債発行の累積が国家を破滅させる必然性等々…。今日の経済問題を考えるにおいても示唆されるところ大である。

 またスミスは、われわれ銀行が守るべき経営の要点もしっかり指摘している。すなわち銀行業における信用リスク・モニタリングの重要性、貸出金利は平均的信用リスクをカバーするように設定されるべきこと等々。二百年以上も前に銀行の原理原則とされたことを、当行は何故怠ったのか。スミスのこの一節を読んでいて、僕は、基本に忠実に仕事をすることがあっけなく忘れられてしまう人間の弱さを前提に企業経営は考えなくてはならないことを身に沁みて感じた。


 スミスは、宮廷や特権階級による贅沢品の浪費や金銀財宝の海外からの収奪は一国の富ではなく、勤勉と資本蓄積によって国民大衆の「生活の必需品」を満たすことが国富であるとした。そしてそういう方向に人間の行動が赴く誘因は「利潤動機」であるとする。我々が美味しいパンを食べられるのは、パン屋の慈悲心によるのではなくパン屋の利己心によるのである。彼は日本では、本居宣長とほぼ同時代の人だが、偽善を嫌い人間の利己心を素直に肯定的にとらえる宣長と同様、極めて冷静で現実的な人間観察をしている。

 一方、二十世紀人であるマックス・ウェーバーは、資本蓄積の誘因をプロテスタンティズムに求めたが、僕には、神経質で自意識過剰な思索に思われる。ウェーバーが資本主義の源泉と見なしたカルヴァン派プロテスタントの祖であるカルヴァンは、ヒステリックで偏狭な宗教活動家であり、素直に考えれば、こんな潔癖症の宗教から資本主義のエトスが生まれるわけがない。僕は、利己心が公益に通ずるというスミスの逆説は信ずるが、宗教心による節倹が富と資本蓄積をもたらすというウェーバーの逆説はにわかには信じられない。ウェーバーのように、どうしても宗教や思想や哲学を人間を動かす誘因と見なしたがるのは、二十世紀のインテリの過剰な自意識である。十八世紀人であるスミスや宣長は人間に対してもっと素直な見方をしている。ウェーバー説の証明のように言われるフランクリンも、その自伝を読む限り、宗教的情熱よりもむしろ「儲けたい」「一旗挙げたい」という自然な利己心がフランクリンを突き動かしているように僕には感じられる。


 スミスの学問は、専門分野としての「経済学」ではなく、当時の学問がすべてそうであったように、百科全書であり、全人的学問であった。グラスゴー大学教授として彼が講義したのは、神学を含む自然哲学、倫理学、正義についての思想を含む法学、そして後年「国富論」にまとめられることになる経済学と、きわめて多岐に渡った。スミスの経済学は、人間観や道徳と無縁ではなく、むしろ、人間とは何か、人はどう生きるべきか、政治はどうあるべきかといった問いに答えようとするものだった。スミスの最初の著書は「道徳情操論」だったのである。スミスは人間を全人として考察した人だったからこそ、骨太の経済の基本原則を定立できたのである。人間を切り刻んで一面だけを観察する「専門家」に本当に正しい政治経済のあり方がわかるのだろうか。経済理論の区々たる断片の勉強で象牙の塔にこもっている現代の「経済学者」にまともな人間観察を期待できるだろうか。我々現代人は、百科全書的な幅広い教養をあまりに粗末にして来はしなかったか。

 スミスは、生涯結婚もせず、九十歳で亡くなった母に、六十歳すぎまで身の回りの世話をしてもらっていた。伝記作家たちは、スミスの逸話に乏しい単調な生涯と、非常に広範な学者としての業績のギャップに苦しむことになる。スキャンダルや異常さを見つけることに血道を上げる現代の伝記作家には、スミスやハイドンや本居宣長など、十八世紀の偉人たちに共通の「健全な勤勉さ」の素晴らしさが見えなくなっているのである。

 

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 今また、資本主義の原点に還る動きがアメリカで巻き起こっている。例えば、KKRなど投資ファンドによる株主のガバナンス回復運動がそれである。内部役員の腐敗から経営が破綻に至った企業の株式を新しい経営者に持たせ、経営者と株主が同じ目的に向って邁進できる仕組み、アダム・スミス流の「素朴な欲望」に訴える仕組みによって、企業を再生しようという動きである。現代は、また、インターネットの発達などにより、情報の機会均等が進み、スミスの「完全競争」の成り立つ条件が整いつつある時代でもある。

 資本主義のあり方として、アメリカ企業はあまりに短期収益指向であり、日本企業の恒久的、安定的利益指向のほうが望ましいと言われることもあった。今述べたKKRの「長期」的改革でさえ、せいぜい数年のスパンのことであり、投資ファンドは数年後の売り抜けが商売の基本なのである。日本のように恒久物として企業を見ていない。しかし、そこには、短期志向だからこそ長期的な企業統治が実現されるという逆説があるのではないか。あたかもスミスが言うように、エゴこそ公益をもたらすというような…。逆に恒久的な存在であることを許された日本企業は、官僚的腐敗を免れない。



 官僚制の腐敗については、スミスも厳しく糾弾しており、昔からしばしば取り上げられてきたテーマである。自分たちの安全と収入を守ることにしか関心のない腐敗した役人どもは現代日本の全国あちこちにも見られる。しかし官僚化は、公的セクターのみの問題ではない。民間の「官僚化」した組織にも腐敗が見られるのだ。この夏、大阪工場で事故が発生した際の雪印の重役たちの対応を見よ。現場の事実を知らないトップたち――記者会見の場で工場長に「君、それは本当か」と問うた役員は、まさに裸の王様である。寡占業界のトップ企業という地位にあぐらをかいていなければこんな事態にはならなかっただろう。三菱自動車のリコール隠しも、組織の悪しき官僚化による腐敗であった。恒久的な存在であることを許された日本企業の腐敗が近年目につくのは、資本主義のあり方が過度に企業の永続を前提にしすぎたせいではないか。



 戦後日本の銀行業もまた、恒久的存在であることを保証されてきた。それはまさに、大蔵省を本部とする「社会主義」「統制経済」であった。今考えれば、資本自由化の波が押し寄せた一九七〇年代にこの仕組みを変えるべきだったが、この堅固なシステムは容易に壊れない。

 本来、行政は、自由な競争原理の中で、法令違反が無いかどうかをチェックする審判役に徹するべきであるが、大蔵省は審判役を大きく逸脱して商品名や店舗の位置や毎月の貸出運営にまで口出ししていた。一番傑作なのは、生保・損保の相互乗り入れを自由化した時の子会社の命名である。自由化とは名ばかりで、大蔵省保険部は子会社の会社名にまで干渉したのである。親会社の権威で顧客に保険購入を迫るのを防ぐため、と称して、東京海上「あんしん」生命保険といった具合に、ひらがなの形容詞挿入を各社に強要したのだ。全く余計なお世話である。

 日本は金融業全体が国営事業であった。日本の金融業の事実上経営者であった大蔵官僚たちは、バブルの発生とその崩壊後の金融混乱、言い換えれば、アメリカにいいようにやられた一九九〇年代の対米「金融敗戦」の責任をキチンととったのだろうか。何人かの幹部の退任や金融庁への金融行政の移管くらいで、誰かが責任を痛感して切腹したと聞かないのはどうしたことか。大蔵官僚の「下僚」たる銀行経営者も同様である。



 銀行内部も官僚的内部論理優先の病理に陥っていた。例えば、僕の所属銀行でも、人事部のある幹部は、同期の者の出向からの復帰後の処遇について「出向の苦労に報いるために部店長で戻してやるべき」というようなことを平気で言っていた。部店長はその素養のある人材にしか任せることはできない。当人の苦労に報いるためにポストを用意するなどという発想は資本主義ではない。会社は社員の慰安施設や福利施設ではない。人事の判断尺度はその職位にふさわしい能力(管理能力も含む)を有するかどうかだけである。まさに伊丹敬之氏の言う「人本主義」がゆきすぎて歪んでいたのだ。

 また、官僚的自己増殖の病理も数多く見られた。電機メーカーにも、「総合」電機メーカーと称して、儲けの出ない分野にやたら進出するという病弊が見られたが、当行もまた、単に隣もやっているからという理由で、合理的な損益計算もまともなマーケティングも無く、業務分野を拡充し続けた。



 開発期(経済の離陸期)と成熟期とで政策は異なるべきである。日本型経済発展モデルは、離陸期の国民経済に適するのである。アメリカでさえ、独立後間も無いハミルトン大統領以降しばらくは保護貿易主義であった。スミスも離陸期の国では政府主導の経済発展モデルが成り立つことを認めている。しかし成熟した現代日本経済においては、官僚的腐敗を防ぐために、「原則自由」「競争重視」の原理的な資本主義に切り替えるべきである。

 いまや政府は経済ヴィジョンなど示さぬ方がよい。民間のとてつもない利己心が最大の「公益」を生ぜしめるというスミスの逆説的人間観を信ずるに若くは無い。離陸期を過ぎた経済で「政府主導」がうまくいった試しはない。今必要なのは、「需要喚起策」ではなく、「供給サイドの改革」である。とてつもない企業家、野心家が出るような仕組みを作ることである。デフレ時代は野心的な資本家こそ最も価値がある。「供給サイドを改革して新産業育成を」という中前忠氏の主張は、文化産業論の日下公人氏の主張と相通ずるものがある。

 正しい人間観察に基づいて骨太の議論のできるエコノミストである下村治氏も、「今はケインズ主義やマネタリズムや合理的期待派よりも、古典派の方が有効である。健全な経済運営とは、内外諸要素が均衡を保って発展すること」であると述べている(「日本経済の節度」)。この本は、中高年の失業必須も予想するなど、現代の動きを見通した発言を多く含んでいる。

 

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 平成十一(一九九九)年十一月十一日に発表された、ソフトバンク、オリックス、イトーヨーカ堂、東京海上火災の四社連合による当行買収提案の記事の第一印象は、「非常に面白い!」の一言だ。中途半端な半官銀行からリテールを取り込んだ純民間の金融機関へ! 創造性と感性と戦略力が問われる面白さ! 胸がわくわくする。(注:その後イトーヨーカ堂は自身のビジネスモデルに合わないとして連合から離脱、単独でアイワイ銀行を設立した。当行はソフトバンク、オリックス、東京海上火災の三社連合を主要な株主とし、系統金融機関や多数の地域金融機関にも出資していただき、平成十二(二〇〇〇)年九月に国有化から脱し、民間銀行として再出発することになった。)

 結局三社連合の中では、ソフトバンクが半分弱の当行株式を保有することになった。当行の最大のオーナーは孫正義氏になったのである。新銀行立ち上げのプロジェクトチームの一員として、僕は孫氏と新しい銀行のあり方を議論する機会を与えられた。僕が受けた孫正義氏の印象は、透き通った性格と大きな志と冷徹な計算が同居した偉大な革命家、資本家といったものであった。

 孫氏は、利潤動機をフルに活かせば人間は善性に至ることを信じ実践している。当行にも導入したいと彼が提案したストックオプションは、アメリカ式に経営トップ層だけに付与するのではなく、全行員に付与する案であった。孫氏には大衆の力を信じきる明るさがあり、インテリ的青白さが無いのだ。人を引き付ける話術、部下をその気にさせるリーダーシップ、顧客を囲い込む構想力――こうしたことにかけて彼は天才である。「利潤動機」がある日突然「利他動機」に変じて彼が宗教家になっても、僕は訝(いぶか)しむまい。

 孫正義氏は、「現実的かどうか」というような官僚的な濁った思考をせず、子供のような素直さで資本主義の原理、原則だけを凝視し、かつ、資本家として冷徹な計算をする人である。マスコミから「破綻した銀行なのに何だ」と叩かれる恐れがある全行員へのストックオプション付与も、こうした仕組みこそ全行員が一致団結して力を出すのに必要であると素直に考えたのであり、実務の都合を積み上げて行くと実現が困難と思われる、不良債権の急激な圧縮や固定経費の大幅削減の指示も、この銀行の基礎体力涵養のために必要なことと、資本家として率直かつ冷徹に計算したのである。僕は孫氏の諸提案に賛成する。当行を、横並びの前例主義経営からいち早く脱させて、資本家らしい資本家による古典的資本主義に律せられた「自分の足で立ち、自分の頭で考える」企業に改革したい。

 孫氏は古典的、スミス的資本家であるが、それでいて彼は、ビル・ゲイツのようなアングロサクソンの欲深さ(脂ぎった強欲)、表面的には正当性を装って裏で相手を貶めるえげつなさ、非人間的なまでの搾取といったものとは無縁な、無私で無欲な性格である。彼を動かしているのは、金銭欲だけでは無く、もっと透明な志である。自分と同じように事業を起こそうとする起業家の後輩たちを金融面から助けたいとの志から、ナスダックジャパンを設立して直接金融の手だてを整え、当行を買収して間接金融の手段を起業家たちに提供しようというのだ。

 孫氏が鞍馬に旅行に行った時、たまたま出くわしたのが、やはり当行大株主でありアメリカ流資本主義の権化のように言われるオリックスの宮内義彦社長ご夫妻だったという話を伺ったのが印象的でよく覚えているが、この人たちは日本の原理を決して捨てたり軽蔑したりしていない。むしろ自らのアイデンティティをしっかり保持するために日本の伝統文化に触れる旅をしていたのだ。孫氏も宮内氏も、「制度」や「慣行」はうまくアメリカ式を使うが「原理」は意外に日本式なのである。

 

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 「素朴な欲望」に訴えること、私欲の拡大が公益になること――これらがスミスの説くところである。民間企業の官僚化を防ぐためには、利潤動機に基づいた資本の論理で経営者に緊張感を与え続けなければならない。しかし、現代人の欲望は、スミス時代の人たちの「富みたい」「貧しさから脱したい」という切実な欲望に比べ、何と、無理やり人工飼料を与えられ肥大化させられた存在なのだろう。また、そのことに気づいても尚欲望を拡大している(需要喚起政策!)とは、何と屈折した欲望だろう。個人金融資産に占める株式の割合が五割近くに達し、政府が株価維持政策を採らざるをえず、そのことが人々の株式に対する強気をさらに醸成させ、バブルを膨らませているアメリカの現状は、まさに「屈折した欲望」に依存しており、決して健全とはいえまい。

 物質的にほぼ満たされた時代は、スミス式の単純な物質的欲望だけではなく、「自己実現」とか「社会への貢献」とかいった、より次元の高い人間の欲望で動く資本主義の原理が必要とされているのかも知れない。

 さらに問題なのは地球環境の有限性である。今は、スミスの時代のように、人間の活動が地球環境に与える影響など無視して差し支えなかった時代ではないのだ。今だにスミス時代の前提に立つかのようなアメリカ型欲望無限発散モデルは、地球環境を破滅に追いやる危険がある。江戸時代の日本のような資源循環型ないし自然との共生型の資本主義を打ち立てるべき時が来ていると思う。

平成一二(二〇〇〇)年八月三一日

 

〈追記一〉
 トヨタの奥田会長の発言(「中央公論」二〇〇一年四月号)に感銘を受けた。日本の原理を活かしつつ改革を行うとはこのことである。即ち@「財テク」とは距離を置くこと:現場でほんの一円の製造原価を下げるために汗流す人たちのモラールを台無しにしない。A労働者との「信」の重視:解雇は決してしない。これら@Aはいずれもトヨタの強さの源泉が製造現場のモラールにあることを熟知し、即ち「原理」をよく承知し、その原理に忠実であることなのだ。その上でBトヨタにつきまとう「おじさん車イメージ」打破を徹底的に指示し「ヴィッツ」を産んだ。これはまさにマーケティング手法という「制度・慣行」の改革である。

 企業経営において「原理×環境変動=制度・慣行」が恒等的に成り立つ中で、環境変動に伴って変えなければいけないのは企業の「制度・慣行」であって、日本企業としての「原理(自分が何に依拠して存在しているのか)」は変えてはいけないのである(伊丹敬之著「経営の将来を見誤るな」)。

 

〈追記二〉
 二〇〇二年の世界経済フォーラム年次総会(いわゆるダボス会議)で、クルーグマン米プリンストン大学教授が次のようにコメントした。曰く「アジア経済危機の時、米国など先進国は、政治的なつながりを利用した取引や財務情報の開示の遅れを挙げてアジアを批判した。今やエンロンの破綻の後では、そうした批判に後ろめたさを感じるだろう」と。この指摘に会場から大きな拍手があがったそうだ(二〇〇二年二月五日付日本経済新聞)。エンロンの政界への莫大な献金(まさに政治的つながりを利用した取引!)や不正経理(財務情報の開示に偽り!)は、アメリカの資本主義も、日本とはまた違う種類の腐敗を免れないことを雄弁に語っている。

 資本主義のあり方や企業のあり方に一般解などありはしないのだ。日本的経営もアメリカ式資本主義も、ただそれらを真似ればうまくいくわけではない。それぞれの企業が、自らの強みと弱み、依って立つ基盤(すなわち「原理」)をよくよくわきまえて、それを生かしつつ、時代の環境変化に対応して「制度・慣行」は大胆に変革して行くしかない。肝要なのは、自分たちにとって何が譲れない「原理」で、何が改革すべき「制度・慣行」であるかをしっかり見極めることだ。

 

〈参考にした文献〉

アダム・スミス「諸国民の富」(中央公論社「世界の名著 三十七」)

伊丹敬之「経営の将来を見誤るな」(日本経済新聞社)

下村治「日本経済の節度」(東洋経済新報社)