伊勢物語について―或いは恋愛賛
伊勢物語は、ごく短い詩文の寄せ集めであり、簡潔な表現が特徴である。そこには雄渾さは無く、源氏物語の祖たる大文学というより、おとぎばなしあるいは童謡のような味わいがある。「古今集」や「大和物語」でははっきりと在原業平と名指ししている歌の作者を、伊勢では「男」とか「中将なりける翁」とか称して、わざとぼかしている。このぼかしによって叙情性と余韻とが創造されている。僕は高校時代に古文の授業で伊勢物語に出会って以来、この小品をこよなく愛している。
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一見とりとめもない順序で並んでいるかのような物語であるが、ところどころにまとまった話が連なっている。例えば第三段から第六段までは、業平と思しき男と二条皇后高子との禁断の恋物語であり、スキャンダルである。有名な第四段の―
月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にして
の歌は、高子への懐旧の念がほとばしり出た絶唱である。業平の歌は「その心あまりて詞(ことば)足らず」と言われるが、確かにこの歌は、情感があふれ出ていて、言葉ひとつひとつの意味の詮索を寄せ付けぬ風情がある。
第七段から第十五段までは「東下り」の物語である。都で藤原氏との権力闘争に敗れた業平らが東国へ傷心の旅に出る。第九段の冒頭「八つ橋」では、業平が辺りに咲いていたかきつばたにちなんで―
から衣 きつつなれにし妻しあれば はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ
と歌う。これを聞いて、都に残してきた妻や恋人への思いが噴き出して、皆が涙をこぼし、そのため乾飯がふにゃふにゃになってしまった…。切なく悲しいけれど、どことなくユーモラスである。泣いていてもすぐ笑いが戻ってくる子どものような、透明な悲しさを僕は感じる。
三河八橋は我が故郷にある。一度かきつばたの美しい季節に、伊勢物語ゆかりの地と言われる無量寿寺を訪ねたことがある。この寺は、名古屋鉄道の三河線というのどかなローカル線の三河八橋駅から徒歩五分くらいの所にある。寺内のかきつばた園を散策すると、五月晴れに紫の花の群れがあでやかで、まるで桃山時代の屏風絵のような光景であった。
第二十一段が、ふとした心の行き違いから壊れてしまう恋のはかなさを描いているのに対し、第二十二段は、愛する男を忘れかねた女の素直な歌がきっかけで再び愛し合う男女を描いている。このふたつの段の情緒は繊細である。とりわけ、第二十二段の―
秋の夜の 千夜を一夜になずらへて 八千夜し寝ばや飽く時のあらむ
の歌は、恋の喜びを経験した人なら誰もが深く共感することだろう。
伊勢物語の中で最も長い第六十五段は、とどめることのできぬ深刻な灼熱の恋を描く。帝に仕える女性と深く愛し合った男が、思うに任せぬ恋に激しく懊悩する。この恋心を取り払おうと神仏に祈願しお祓いもするが、「いとど愛しきこと数まさりて、ありしより怪に恋しくのみ」思われて、どうにもならない。やがて二人の恋は帝の知るところとなり、女は蔵に閉じ込められてしまう。行方のわからなくなった女を探し求めて、男は笛を吹き歌を口ずさみながらさ迷い歩く…。ビスコンティの映画にでもなりそうな、激しさと虚ろさの入り交じった物語である。
第六十九段は、文徳天皇の娘で伊勢斎宮の恬子(やすこ)と、使者として伊勢に出向いた業平との、夢のような一夜の契りを描く。斎宮とは、天皇即位の際に未婚の皇女の中から占い定められて伊勢神宮に奉仕する女性である。聖域で神に仕える未婚の皇女との恋はもちろんタブーである。人目をはばかりながらも、愛し合う二人の情熱は止めることができず、ついにある夜、女は男の宿を訪ねる。そのはかない契りは―
君や来し 我や行きけむ思ほえず 夢かうつつか寝てか覚めてか
というほどであった。この「ぼかし」による余情は神秘的でさえある。
第百三段の歌は僕の好きな恋歌のひとつだ。曰く―
寝ぬる夜の 夢をはかなみまどろめば いやはかなにもなりまさるかな
真剣に人を愛した経験のある人なら、逢瀬の翌日、昨夜のことがまぼろしのようにはかなく思えるこの感覚はよくわかるはずである。
第百十九段の、別れた恋人が残していった品々を見てその人を忘れられぬのを嘆く歌も、愛した人とのつらい別れを経験した人なら誰にでも身に覚えがあることだろう。すなわち―
形見こそ 今はあだなれこれ無くは 忘るる時もあらましものを
という歌である。
小式部内侍本にある「玉くしげ」の話は、ひそかに思いを抱いていた女の子が成人し他の男と結婚する時に、髪に挿すかんざしを贈り「自分のことも忘れないで」との願いを和歌に託した男の物話である。つきあっていた女が成長し、やがていろいろの経緯があって自分から離れ「卒業」して行くのは、男にとってはつらいがほのかな喜びでもある。この時男は、悲しく寂しい気持ちと祝福する気持ちの入り交じった何とも言えない情感に包まれるものだ。僕はこの話にもしみじみ共感を覚える。
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以上見てきたように、伊勢物語は、男女の愛の諸相を描いた、もののあはれに満ちた童謡である。主人公に仕立てられた在原業平は、女と向き合う男の理想像のように思われる。彼は、純粋で心やさしく、気転が効き、人に対する気遣いのできる、寛容な男なのである。また、自然な教養を持ち情感豊かで、主君への敬愛も欠かさず男同士の友情にも厚い。そうした、女にもてる様々な要素を備えた男として業平は描かれている。彼は自然な恋の達人なのである。
兼好法師は「徒然草」の中で、よろづに長けていても「色好まざらん男は、いと心づきなく、玉の盃の底抜けたる心地こそすれ」と述べている。また、藤原俊成は―
恋せずば 人は心も無からまし もののあはれもこれよりぞ知る
という歌を詠んでいる。僕は、これらの古人のメッセージに心の底から同意する。人を愛することや人に愛されることを知らない人間は、男であれ女であれ、どんなに仕事や勉強ができても、どこか油の切れた機械のようだったり、心に空虚さを潜ませたりしている。恋の経験こそが人を人たらしめるのだ。
高校の国語教師としての経験を踏まえて、現代の高校生たちが伊勢に興味を持つように解説したのが俵万智さんの「恋する伊勢物語」である。この「恋する伊勢物語」だけでなく、「チョコレート革命」など、俵万智さんの短歌集やエッセイは、僕の心の琴線に触れることが多い。それは、彼女自身が人間的な良き恋愛を経験し、恋の喜び、悲しみをわかっているからだ。「恋する伊勢物語」に載っている彼女らしい歌をひとつ紹介しよう―
恋せじと いう禊(みそぎ)あり されど吾(あ)は 恋して傷つく方を選ばむ
この歌が伊勢の第六十五段を踏まえていることは言うまでもない。
(二〇〇〇年一一月九日)
〈参考にした文献〉
阿部俊子訳注「伊勢物語(上)(下)」(講談社学術文庫)
俵万智「恋する伊勢物語」(ちくま文庫)
(追記)
伊勢の和歌評(この歌は上手くないといったような)について、僕は実感を伴って共感することができない。悲しいことに、平安時代の人々の和歌に関する審美眼を共有することはもはや不可能なのだ。