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「古典派からのメッセージ・2001年〜2002年編」目次へ戻る
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ドヴォルザーク頌

 

 七月某日、久しぶりにコンサートに足を運ぶ。サントリーホールでの東京フィル定期公演。プログラムはオール・ドヴォルザークで、序曲「オセロ」、チェロ協奏曲、第七交響曲という内容であった。指揮はヤノーシュ・コヴァーチュ、独奏チェロはセルゲイ・スロヴァチェフスキーという、いずれもスラブ系の人たち。堅実で、しかもきびきびとした躍動感のある良い演奏だったと思う。

 チェロ協奏曲には泣けた。僕が昔から愛してやまない曲のひとつなのである。何と胸が締め付けられるような郷愁に満ちたメロディ(特に第一楽章の第二主題)と、力強く簡潔なオーケストラの饗宴であることだろう。そしてドヴォルザーク特有の、広々とした野原にいるようなあの解放感! この人は天性のメロディメーカーだ。コンサート会場にいながら、僕はずっと、自然と村落の風景の中に身を置いているような心地良さにひたっていた。森の緑、太陽の光に照らされた草原の輝き、草いきれの匂い、木々を渡る風、鳥たちのさえずり、遠くに聞こえる村祭りの喧騒、朝市の叫び声――そうした全てを自然児ドヴォルザークは音楽にした。この音楽の鳴っている間、自然や村落の景色が会場を覆い尽くしていた。そこには革命だとか心理分析だとか経済成長率だとかいった近代社会の混濁物の入り込む余地は無かった。

 チェロ協奏曲は主調にロ短調をとるが、決して「暗い」曲ではなく、むしろ曲全体では長調の部分も多い。この曲を支配する情調は、自然の息吹きであり、また、陽気な微笑、暖かな抱擁、家族愛、郷土愛といった親密な人間的感情である。ただ時々スラブの民族的な誇りが力強く短調で歌い上げられるのである。この曲からは古典派のディベルティメント(喜遊曲)のような楽しみさえ味わうことができる。というのは、独奏チェロが、時折、フルートやクラリネットやソロ・ヴァイオリンと一緒になって文字どおり協奏するからである。

 この曲の最後で、独奏チェロが全てを奏し尽くしてから現れる、胸のすくような金管の咆哮!それはまるで歌舞伎役者が「見得」を切った時のようなかっこよさである。ドヴォルザークは本当に使うべき箇所でしか金管楽器を使わない。近代の作曲家は安易に金管の音量や威嚇効果に頼りすぎている。トランペットやトロンボーンの大音響の安易な使用は僕を辟易させる。何故こうも音楽美学に節操が無くなってしまったのだろう。「秘すれば花」ということを知らない音楽が十九世紀後半から急に増えてくる。ブラームスやドヴォルザークは例外だ。彼らは古典的な音楽美学を守った人たちである。しかしブラームス、ドヴォルザークのように、古典を理解し古典を愛し「古典的」な音楽を作った人々でさえ、時折、その交響曲の終楽章に見られる芝居じみた大袈裟さは、十九世紀の風潮に犯されており、時代の影響は免れていない(本日の最後のプログラム、第七交響曲の終楽章もやや大袈裟すぎる作りだ)。

 ロマン派以降の時代において、僕が毎日の主食のように愛してやまない音楽は、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームス、ドヴォルザーク、フォーレ、ドビュッシーである。それらの音楽家は一人たりとも欠かせない我が情緒の主食である。あとは副食として、ラハナー兄弟、グノー、R・フックス、ラインベルガー、グリーグ、フランク、ヤナーチェク、スクリャービン、ルクーなどを時折かじり聞きする。ワグナーとリストは新奇なものを志向した興味深い人たちと言うに留まる。ブルックナーの交響曲は霧深い森を散策する気分でなかなか良いが、メロディがあまりにも貧弱だ。リヒャルト・シュトラウスでは、ホルン協奏曲や管楽器のためのセレナード等が木管楽器に対する色彩感覚が冴えた美しい音楽だと思う。

 僕にとって重要度が低い有名作曲家は、チャイコフスキー、マーラー、ショパン、ラフマニノフといった人たちである。彼らのわかりやすさが僕にはいかにも安易に聞こえる。彼らの醸し出す底の浅い情緒は、ディズニー映画やハリウッド映画の音楽のようだ。知性に支えられた研ぎ澄まされた感性ではなく、近代大衆の慣習的、惰性的な情緒にもたれかかっている。同じスラブ派でもドヴォルザークとチャイコフスキーは全く違う。二人とも古典をよく知っていたが、古典の素材を生かして良質の料理を作ったのがドヴォルザークであり、古典に砂糖や生クリームをたっぷり加えてお子様メニューにしてしまったのがチャイコフスキーだ。チャイコフスキーの曲は繰り返して聞く気にはならない。

 イタリアものにしろドイツものにしろ、ロマン派以降の巨大オペラに僕は興味が持てない。自然さを欠いた、文学や哲学が入りすぎて混濁した音楽には近づく気がしない。オペラで許容できるのは「人の歌」を楽しむことができるドニゼッティ、ベッリーニまでである。

 話が逸れてしまった。ドヴォルザークのお勧め作品は多い。まず、弦楽セレナードと管楽セレナード。いずれも懐かしく美しいメロディに満ちている(オルフェウス室内管弦楽団の絹のような滑らかな演奏で両曲をカップリングしたCDが出ている)。室内楽はほとんどが傑作であり、僕も目下全曲を探索している。今時点では、ピアノ三重奏曲第三番を特にお勧めしたい。スターバト・マーテルやレクイエムといった宗教音楽も、敬虔さと歌心の調和した佳曲である。新世界交響曲に食傷気味の人を、ぜひ、ドヴォルザークの多様な世界にご招待したい。そこには、彼の故郷ボヘミアの美しい自然が満ちているのである。

平成一三(西暦二〇〇一)年七月二二日