日本の近代音楽
ナクソスから「日本作曲家選輯」シリーズの第一弾「日本管弦楽名曲集」が発売された。大変興味深いCDであり、大変楽しく聴いた。このCDにはこんな晴れやかな近代日本音楽再生宣言が寄せられている。
「日本にも現代(無調)音楽に汚染されていない『クラシック(古典)音楽』が存在する。しかし、それは、恥ずかしいほどに「音楽」であり、肺腑をえぐるほど「日本的」であるがゆえに、逆に前衛の時代には不当に封印されてきたことをご存知だろうか。
祭りのビートとダイナミズム、民謡や神楽のメロディ、雅楽の典雅さ、浪花節の哀調、闇と静けさの美学、東洋の夢と西洋へのあこがれ、日本の作曲家たちは、そんな自分たちの国の「音の記憶」を元に、自分たちの時代の音楽を確実に生み落としていたのだ。
そんな「日本のクラシック音楽」が、今、二十一世紀を迎えて封印を解かれ、新しい時代の若き指揮者とオーケストラの手によって蘇る!」
「レコード芸術」十一月号に記された、作曲家・吉松隆氏のこの文章は、近代日本音楽の見事な復活宣言である。このマニュフェストを読んで心が動かない日本人の音楽好きがいるだろうか。近代日本産の「クラシック」は、確かに異様に冷遇されてきた。「クラシック」といえば、西洋伝来のものでなければならず、土着の音楽と西洋音楽を融合させる試みは、おおむね「前衛音楽」となり果て、一般の日本人の興味をひかなかった。しかし、衒学に堕することのない、人の心に訴える誠実な音楽も実は作られ続けてきたのだ。明治に西洋音楽を採り入れて以来約百年を経て、今ようやく私たちは、成熟の時を迎え、親近感を基調にしながらも、適度な距離感を以ってこうした近代日本音楽に接することができるようになったのではないだろうか。このCDの中にそうした精神と感性の成熟を読み取ることができる。
では、このCDの内容を紹介しよう。最初の二曲、つまり、外山雄三(一九三一年〜 )の「管弦楽のためのラプソディ」と近衛秀麿(一八九八年〜一九七三年)の「越天楽」は、日本の民謡や雅楽のいわば西洋音楽への「直訳」である。日本人である僕にとっては、「ちょいと出ました三角やろがぁ〜」の八木節をオーケストラでやられても何だか気恥ずかしく、滑稽にしか感じられないし、今更「越天楽」をオーケストラ編曲で聞きたいとも思わない。しかし、このCDの発売元のナクソスは、香港に本拠を置き、世界中にCDを供給する会社である。当然、この企画も、主に西洋人のためのものである。それを考えれば、確かに、西洋の人たちはこうした「直訳」を通して日本の伝統音楽に入門するのだろうな、と感じさせる音楽ではある。
三曲目の伊福部昭(一九一四年〜 )の「日本狂詩曲」は、日本と西洋が最も巧みにしかも自然に融合していると僕は感じる。日本的な情念や風景を、見事に西洋音楽の器の中に表現している傑作である。戦前にこのような音楽が存在したことは驚嘆に値する。伊福部は、初代「ゴジラ」の映画音楽の作曲家でもあるが、このCDの中でも最もひらめきと才能と情念の深さを感じさせる作曲家である。
四曲目の芥川也寸志(一九二五年〜一九八九年)の「交響管弦楽のための音楽」は、都会の日本、高度成長の日本を音楽に仕立てたような、ガーシュウィン風の音楽であり、これはこれでけっこう楽しい。
最後の、僕と近い世代の吉松隆(一九五三年〜 )の「朱鷺(トキ)に寄せる哀歌」は、朱鷺の鳴き声や羽音を素材にした、実に透明な音楽である。僕は、美しくも悲しいこの曲に自然な親近感を覚える。
あなたも騙されたと思ってこのCDを購入してみてはいかがでしょうか。何と千円(秋葉原の石丸電気なら七八〇円!)で手に入ります。
(二〇〇一年十一月十七日)