日本の自己喪失
久しぶりに京都へ行く用事があり、初めて京都の地下鉄に乗車した。地下鉄などというものに乗ると、京都もいよいよ凡庸な現代の大都会になってしまったか、と思う。学者たちが徒歩で行き来して情報交換した、路面電車の走る人間的な街が、僕にとっての京都だった。まして、フランス風の橋を鴨川に架ける計画があると聞いたが、そは何ぞや?
自身パリよりも古い歴史と伝統を持つこの街が、何故フランスの物まねをする必要があるのか? これが日本のアイデンティティの危機でなくて何であろうか?きちんとした体系と論理を持っていた旧仮名遣いを放棄し、安易で中途半端な表音主義で国語を破壊した戦後の国語政策。この経緯については福田恒存氏の「私の国語教室」に正確に指摘されている。最近では、日本語を記載するための紙なのに何故か「国際標準」に合わせてA版の用紙の使用を強要しようとする役所。実務的にA四とB五やB四のどちらが使いやすいか、無駄が少ないか、誰に聞いても明らかだろう。そして、最悪なのは、黒髪の美しさや色香を解さず、風土と全く調和しない下品で悪趣味そのものの茶髪に髪を染める現代の女たち。美意識が正常だった時代には、茶髪や金髪は水商売や娼婦たちの専売特許であった。今や堅気の女も水商売や娼婦と同じ水準の知性と感性しか持ち合わせていないことを自ら宣言している。これらの現象は、日本人の魂のアイデンティティ喪失を示す現象以外の何物でもない。
尤もジェラルド・カーティス氏の地下鉄での観察によれば、髪の毛を茶色に染めたOLも扉の閉まりかかった地下鉄に慌てて駆け込むが、これは、会社に遅刻してはいけないという日本人の良き伝統に基づく責任感、労働意識の現れであるという。確かにそうかも知れない。変わる日本人がある一方、変わらぬ日本人もある、ということなのかも知れない(平成一四年元旦の東京MXテレビの「東京の窓から」での、ジェラルド・カーティス氏と石原慎太郎東京都知事との対談による)。しかし僕は、全体として日本人の自己喪失の進行は要注意の領域まで進んでいるような気がしてならない。
歴史家たちは、文明は外部からの圧力によって衰退するのではなく、共同体内部の魂の分裂、自己喪失によってこそ衰退するのである、と述べている。自分が何者であるのか、何を受け入れ何を排除すべきかの基準を喪失してきた日本の精神状況は、魂の分裂、自己喪失以外の何物でもない。
平成一四(二〇〇二)年一月一日