ヴァンハルは疾走する
六月二四日、「ハイドン・シンフォニエッタ・東京」の演奏会で市ヶ谷ルーテルセンターへ出かけた。ハイドンの疾風怒濤時代の交響曲をメインに、周辺作曲家の同趣向の交響曲も添えた演奏会シリーズの第二回であった。今回は、ヨハン・バプティスト・ヴァンハルの二曲のト短調交響曲(ブライアン番号g−1とg−2)とハイドンのト短調交響曲(ホーボーケン番号T−39)が演奏された。ヴァンハルは、ボヘミア出身でハイドンやモーツァルトとも親しい間柄だった音楽家である。この演奏会は、一八世紀啓蒙主義時代の作曲家たちの「疾走する悲しみ」という語法を充分に堪能できる素晴らしい企画だと思う。演奏にはいろいろと難はあるが…。
ヴァンハルの二曲は、深い悲しみを湛えて疾走する。オーケストラはこの疾走を無心に追いかける。たとえ今日の演奏会のお客の入りが十数人だろうが、ナチュラル・ホルンの音が割れっ放しだろうが、弦の出だしが時に不揃いだろうが、アンサンブルに偶にスカッと穴が空こうが、ヴァンハルは疾走する、一六分音符の低弦のトレモロに乗って…。僕も無心にこの疾走を追いかける。ヴァンハルは、魂の奥底から噴き出す情念をただそのまま噴き出すに任せるのではなく、美しい形式を装わせて昇華する。それが却って悲しみの深さを感じさせる。知性ある一八世紀の音楽家のこういう流儀を、僕はこよなく愛する。
それにしても、こんなに美しい旋律に満ちていて劇的で演奏効果たっぷりの曲たちを、世間の名の通ったオーケストラは何故演奏しないのだろう?
ベートーヴェンやマーラーの交響曲を何十回も演奏するなら、ヴァンハルのこの二曲をぜひ一度でも取り上げてほしい。ハイドンのト短調交響曲は、まさに名匠の名技。全休止(ゲネラルパウゼ)の驚くべき効果。終楽章で激しく吹き上げる四本のホルン。まさに嵐の中の疾走である。僕は、あたかも自分がハイドンの雇い主エステルハージ侯爵になったような満ち足りた気分だった。
「ハイドン・シンフォニエッタ・東京」は、自身位置づけておられるとおり、究極のインディーズ(独立系)オーケストラである。誰もやらない隠れた一八世紀の名曲を掘り起こそうというその心意気は素晴らしい。いろいろ演奏にケチをつけたが、アンコールで演奏されたモーツァルトのト短調交響曲(K183)のメヌエットでの弦は、ウィーンフィルに勝るとも劣らぬ絹のような滑らかさであった。がんばれ、ハイドン・シンフォニエッタ・東京!
がんばれ、リーダーの廣実陽茂さん&指揮者の鈴木真樹さん!平成一四(二〇〇二)年七月七日
〈追記〉この文章を主宰者宛てに電子メールで送ったところ、指揮者の鈴木真樹さんから以下のようなお返事をいただき、若干のやりとりがありました。音楽ファン(特に古典好き)にとって興味深いコメントや古典派音楽演奏の要所についてのコメントを鈴木さんから寄せていただきましたので、ご紹介します。
その一(鈴木氏から生方へ)
鈴木と申します。突然のEメールで失礼致します。先日、ハイドン・シンフォニエッタの演奏会にいらして戴いたとの事、主宰者の廣実から連絡がありました。また生方さんのHPも拝見させて戴きました。実は、以前に訪れた事があり(古典の作品の検索をしていて偶然ヒットのだと思います)、記憶に残っておりましただけに、取り上げて戴き、光栄に思っております。
私はこの演奏団体の指揮を一時的に任されている者です。この演奏団体は廣実氏が自主的に立ち上げたもので、彼の「私企業」のようなものです。奏者は約二〇名のうち、前回の場合など、社会人は、廣実、曽雌、鳥橋、私の四人だけで、後は全て音大卒(三〜四人学生)です。セミプロにはギャラ(小額)を支払いますし、会場費、練習場代、楽譜代(出版社から直接取り寄せます)もかかりますから、廣実氏の毎回の出費たるや、なかなか大変なものがあります。一番カネがかかるのに効果が出にくいのが指揮者ですので、自主公演を増やす為に非常に苦しくなるこの一年を私の勤労奉仕で乗り切ろうという事のようです。古典に優れ、低額で指導してくれる指揮者が見つかった時点で、私の役割は終わります。
私自身はまったくのアマチュアです。高校から音楽を始め、先輩の池辺晋一郎氏に(彼はまだ大学院生だったのですが)個人的に教わりました。その後、大学でオーケストラをやったり卒業後も続けたり離れたりといった、ごくどこにでもいそうな愛好家です。ただ、レパートリーが古楽から古典にやや偏向しているというわけで、以前に私が二五年指揮を続けてきた(そしてあまりに進歩が無いので辞めた)室内オケに廣実氏が手伝いに来てくれた事があり、きっとその時の印象があったので、声をかけてくれたのだと思います。
二五年も古典中心に演奏してきていますから、どのようにしたら効率よく仕上がるかは、ある程度わかっているつもりです。実は、このハイドン・シンンフォニエッタは、一回の演奏会に対して練習が三時間×三回しか取れないのです。しかも、練習には欠席者もいます。(欠席覚悟で出てもらわなくてはならない人もいます。)奏者も、一部は同窓だったり顔見知りだったりしますが、初顔合わせもいますから、練習では一瞬の無駄も許されません。休憩も、一斉に取るのではなく、交互に取らせ、私は三時間ぶっ通しで付き合うのです。
「随分ひどいな」と、感じられるでしょう。でも、私も本業が忙しいですから、練習に三回出るのがやっとです。練習が三回しか無いから手伝えるようなものなのです。決して、道楽ではありません。古典の隠れた名作をナマで聴かせてくれるオケなどそうそうありませんから、私で良いなら使ってもらって、何とかこのオケを生き長らえさせたい、それだけです。その意味からも、廣実氏には何とか頑張ってもらい、オケに体力をつけ、また、早く正指揮者を見つけて欲しいものです。
前置きが長くなりましたが、本題です。私の本職は、海外の音楽個人旅行専門の旅行会社の経営です。とは言っても、実質的に私一人の会社です。年間五百名以上の愛好家の皆様のプランニングをし、格安航空券+ホテル+公演チケットの手配をしています。
実は、顧客の皆様向けにメールマガジンのようなものを不定期(月二回くらい)お届けしているのですが、その中で生方さんのHP(と、該当部分の内容)を紹介させて戴けないか、という事なのです。お届け先は約六百件、全員が当社の顧客およびその予備軍であり、音楽愛好家です。これまでに、ハイドン・シンフォニエッタの事はその中で数回紹介してきました。古典の隠れた名作をナマ演奏で聴ける、という切り口です。如何でしょうか?お許し戴ければ、アドレスと該当部分のコピーを次のメールマガジンで紹介したいと思います。前回の演奏会の報告の中で、あるHPの中で取り上げられた、という書き方になると思います。
ご迷惑はおかけしないと思いますが、ご検討下さい。よろしくお願い申し上げます。
平成一四(二〇〇二)年七月三〇日
その二(生方から鈴木さんへ)
生方です。お忙しい中、メールをいただきありがとうございました。
そうですか、このオケはホルンの廣実さんが主宰されているのですか。まったく背景も知らず、お茶の水のディスクユニオンに置いてあったチラシを見て衝動的にコンサートに行ったものですから、何も知らず多々失礼なことを書かせていただき恐縮です。
小生のHPなど、たいしたHPでもないのに、こんな形でご紹介いただけるのは大変光栄です。よろしくお願いします。また、もしよろしければ、鈴木さんの出されているメールマガジンを小生宛にもお送りいただけないでしょうか。もし費用等必要であれば喜んで負担させていただきます。
これを縁に今後もよろしくお願いします。
平成一四(二〇〇二)年七月三〇日
その三(鈴木さんの会社のメルマガより)
生方さんの文章の最後の部分は、正直に、ありがとうございます。(でも、やっぱり誉めすぎかな?)しかし、私には十分な時間が無い(のは皆さんご存知のとおり)ので、そう長くは続けられない。現状、練習が唯一仕事が空く日曜の夜で僅か三回だから、何とか緊縮財政の意を汲んで代打を務められるようなものです。いずれにせよ、早いうちに古典に優秀な指揮者を見つけてバトンタッチしなくてはなりません。
なお、名誉のために、聴衆は確かに少ないですが、十数人よりは多かったです。とはいえ、首都圏に古典愛好家は千人以上いると思いますから、やはりPRが足りないということなのでしょう。生方さんは某ディスク・ユニオンに置かせてもらったチラシを見てご来場されたそうですが、なかなか愛好家に的中しません。
演奏上の多少のキズは、僅か一〇時間の練習ですから致し方ないかもしれません。残念ながら、最善を尽くしても全てを拾い上げることはできません。しかし、同種の音楽を定期的に同じ方法で練習し続けていけば、精度は確実に上がってくるでしょう。狙いはそこです。
この手の音楽を演奏する際の問題ですが、全ての音を十二音平均率で取ってくる奏者には、いかに技巧が達者であろうと、合奏は困難だということです。殆どのモダン・オーケストラの古典の演奏が退屈なのは、そこに原因があるのではないでしょうか? 要は、「指揮者が音楽を作れない」から退屈なのではなく、奏者が正しくスケールを弾けたりハーモニーを出せるという認識と実感に乏しいから、拍節もはっきりせず転調も決めらず色彩感に乏しいワクワクしない退屈な音楽になってしまうだけなのではないかと思うのです。(十二音平均率の電子チューナーが古典音楽の最大の敵かもしれません。いったんあれに洗脳されてしまうと…。)
一〇時間は、なかなか上手く行かないのですがなるべくその方向の練習をするようにしています。リハで行われ易い「音楽を作る」という事の逆に徹底して進むのです。アレグロの疾走感も、そこから自然に生まれてきます。奏者の皆さんは殆どが音大卒で、プロのオケの常トラの方も何人かいます。「弾ける」皆さんを相手に、基礎錬のようなことを圧縮して緊張感を持って要領よく一〇時間やっても時間が全く足りない、というのが古典です。
次回の演奏会は一〇月一四日(月・祝)の一九時二〇分開演で、ヴァンハル二曲とハイドン一曲になりそうです。媒体も予算も無くPRが足りないようなので、また次回のニュースでご案内させてください。
平成一四(二〇〇二)年八月一四日
その四(鈴木氏から生方へ)
補足ですが、練習では、奏者の技術レベルに関係なく、基礎的なことしかやりません。
・常に調性を意識させる。
・一小節が何拍のビートで出来ているか意識させる。
・ユニットが何小節でできているか確認する(ハイドンは四小節単位でないことも多い)。
・ユニット内の「起承転結」を考えさせる。
・ユニットがどのように合体して「構造」になっているか確認する。
・転調しそうなパターンを教え、その音の発音の仕方を教える(強調するにも、テンポや音の長さとの関連もあっていろいろな方法があります)。
・特に、通常の三和音でない和声になった時に、同じ音を出している人を抽出し、一音ずつ音色の確認をした上で全員で和声の展開を実感する。
・アレグロっぽく聴こえる発音、プレストっぽく聴こえる発音を注意させる(同じ楽譜を、同じテンポで演奏しているのに、アンダンテに聴かせることもアレグロに聴かせることもできます)。
といったことばかりやるわけです。
「音楽を作る」という事こそ、徹底して回避されなければなりません。奏者に「そこを指揮者はどう演奏したいか」といった雑念を抱かせた時点で、古典は演奏できないのです(音楽の力の無いそんな奏者も御免ですが)。
練習では、抽象的、文学的、感情的な言葉は一切用いませんが、例えば、
・上向音型<、下降音型>
・スタッカートはまず「均一」に
といった、楽譜に書かれていない暗黙のルールの数々は徹底してやります。もちろん、アレグロのスタッカートとアンダンテのそれとは使い分けなければなりません。「どの手で行くか」は、練習中に奏者と協議して即決します。私のほうで予めいくつかの方法を予習(予測)しておき、奏者が提案してきた奏法がその中にあってそのような音が出るなら、それが仮に「次善の策」であっても即決というわけです。
私からパート譜に何かを書き込むということは一切しません。全員で探す「解」はオケの力になりますが、予め個々に「解」を与えて練習で添削しても、オケの力にはなりません(パート譜への書き込みは、奏者の対応がマニュアル的になり不自然な音楽になりがちなので、一切行っていません。各奏者がメモするのは構いませんが)。
各奏者が細部までこだわって弾けているかどうかは、各人に任せています。合奏が整っているかどうかも、奏者の範疇です。合奏が難しい箇所でも構わず奏者の自主性に任せています(上記のような事は放任しておくと合奏に統一感が無くなってダルになってしまいますが、単に合わせるくらいの事だったら彼らに任せても多少は何とかなりますので、「合わせる」目的の為のメカニカルな練習はまったくしません)。
他に避けてとおれない問題では、たとえば、「ヴィブラートはどの箇所でどの程度すべきか?」といった問題がありますが、奏者が普段は「無意識にヴィブラートする団体」で演奏している以上、ヴィブラート全廃に拘るのはナンセンスです。慣れていないことを強制すると、他の面で(悪)影響が出がちになります。ヴィブラートするか否か、ではなくて、ヴィブラートしないほうが美しく響く音律が見つかったら、奏者は自然とヴィブラートを控えるようになるものです。
特に、和声の箇所では、モダン・オケであろうと優れた演奏では奏者のほうからヴィブラートを(控えめに)調整しています。ただ、十二音平均律愛好家(信奉者)は、この件に限っては概ね極めて鈍感です。自分の音程を譲ろうとはしません。和声の箇所であっても旋律のように演奏しようとした挙句、曲が退屈だと言ったりします。多分、興味が別のところにあるのでしょう。それはそれで(自覚しているのなら)構わないのですが。
この団体も、この点ではまだもう少し時間がかかりそうです。上手く続けられれば、もう少し「音程の芯から少し下がったスリムな響き」が出せるようになるかもしれません。そうなった時は、奏者は自分では気づかないうちにヴィブラートを自然に使い分けるようになっているでしょう。
平成一四(二〇〇二)年八月二〇日