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「古典派からのメッセージ・2001年〜2002年編」目次へ戻る
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官僚時代の終焉

 

 日本における「行政官僚=エリート」という価値観が崩壊しつつあるのは良いことだと思います。国家においては、法をつくることが創造であり、それが出来る人がエリートでなければなりません。民主制の国家ではこうしたエリートを国民が選挙で選ぶことになっています。行政官僚とはエリートによって定められた法を実施する行政府の使用人にすぎません。いわば立法者の下僕です。下僕に事実上ほとんどの法をつくらせて何とも思わない国民の感覚を今こそ正すべきです。

 現代は、官僚がそれなりの使命感と見識を保っていた時代ではありません。マックス・ウェーバーの言うように、「最高の官僚は最悪の政治家」であることが、今や日本の随所で証明されつつあります。日本の行政官僚の使命感の無さ、見識の欠如は覆うべくもありません。日本ハムに見られるような企業の不祥事も、社員が企業家から官僚化して、前例絶対主義や事勿れ主義や内輪主義や秘密主義等々の官僚的病理に陥っていることが原因です。

 官僚ないし官僚的資質の人間を育てる教育機関はもはや不要です。優れた政治家や起業家や学者を育てる私立の高等教育学校こそ今の日本には必要だと痛感します。その意味では、早稲田や慶應も今や亜流の東大と化していて、こうした役割を果していないのは残念です。松下幸之助氏が「松下政経塾」を作ったように、志ある資本家が現れないものでしょうか。個人資本家に頼れないとすれば、それこそ「二一世紀の日本を担うエリート養成ファンド」でも組成してお金を集めるのが、金融マンとしての小生の務めかもしれない、などと妄想を抱く今日この頃です。

平成一四(二〇〇二)年八月二五日