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「古典派からのメッセージ・2001年〜2002年編」目次へ戻る
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本物の思想家、本物の自由人

 

 小室直樹氏は本物の思想家である。僕がそう感じたのは、不登校の生徒の教育に携わっておられる大越俊夫氏との共著「人をつくる教育、国をつくる教育」(日新報道)の何気ない箇所からの直観である。

 ひとつは、大越氏の運営されている「リバースアカデミー師友塾」のある生徒から、

「小室先生は今の日本に愛国心を抱いておられますか?」

と尋ねられて、何のケレン味も無く、

「はい、抱いております。」

と答えた箇所である(同書二〇八頁)。

 邪心ある偽者の思想家はこうあけすけに素朴に聞かれると、照れたり誤魔化したりしがちであるが、小室氏には何の邪念も無い。彼の愛国心は偏狭な国粋主義などではない。人として自然な情緒を率直に表現しているだけだ。それは本居宣長が愛した人間としての率直さである。

 そしてもう一個所は、同書「まえがき」で大越氏が紹介している小室氏のエピソードである。小室氏は、歌手の故・三波春夫さんの書いた歴史人物に関する物語を高く評価していたが、大越氏が三波さんのヒット曲「チャンチキおけさ」の一節を披露すると、小室氏は、

「えっ、三波さんは歌手だったのですか。私は、すっかり物語作家とばかり思っていました。」

と言い、居合わせた皆が大笑いした、というエピソードである。この小室氏の世俗からの超脱ぶりは何と見事ではないか。「情報」という名の表面的な事象の移ろいにとらわれず、常に歴史と古典に立ち返り、人と国のあるべき姿を、氏は平易な言葉で人々に語って倦まない。

 小室氏は、また、本物の自由人である。論壇、文壇、学界といった閉鎖的で馴れ合いの仲間内世界から超絶している。そうした仲間内世界では、相互の切磋琢磨ではなく、傷の嘗め合いと嫉妬とが渦巻いているが、氏はそうした仲間内のしがらみや人付き合いとも無縁である。

 論壇、文壇、学界に属するいわゆる知識人たちは、我々サラリーマンを、会社に囚われた自由無き奴隷だとか、会社に飼い習された社畜だとか呼んで冷笑するが、そうした先生方もまた真の自由人ではなく、学界や論壇の中での「座敷牢の中の自由」しか持っていないのである。しかも、日本の学界、とりわけ文科系の学界は、世界に通用する独創的な成果をほとんど挙げていない。それは米国や欧州の学問の翻訳業でしかない。米国の誰某はこう言った、欧州の権威がかく宣ったといった類が「学問」として認められているのである。

 福田和也氏の近著「日本及び日本人の復活」によれば、日本人が英語で書いた著書、つまり日本人が海外で出版した本で、最も読まれているのは、岡倉天心の「茶の本」、内村鑑三の「代表的日本人」、新渡戸稲造の「武士道」であるとのこと。いずれも明治時代の知識人の著書である。英語力や情報量から言えば、今の学者先生の方がこうした明治の知識人たちよりはるかに恵まれているはずであるのに、今の学者たちには、世界において、明治の知識人が示し得た存在感が無い。彼らには、明治人にあった「日本人として切実に世界に訴えるメッセージ」が乏しいのである。つまり「コンテンツ」不足なのである。

 戦後日本の文科系学問で世界に通用するのは、新・京都学派の学問(今西錦司のすみわけ論や伊谷純一郎の類人猿学等)である。例えば、梅棹忠夫の「文明の生態史観」は、日本と西欧だけが、世界史の中で例外的に、部族制でも中央集権絶対君主制でもない「封建制」を持ち、このことにより両地域は世界に先駆けて近代化を成し遂げた、と説いているが、これは今や世界史の通説と言っていいであろう。現代日本で真に世界に通じる人々は、一部の理工系の学者、研究者やメーカーの技術者、中小企業の技能者たちである。

 狭い身内社会で互いを慰め合いながら非創造的な翻訳学問に明け暮れている文科系知識人たちは、酒場で上司の悪口を言って憂さ晴らしする「社畜」たちと精神構造においてさほどの差は無い。

 小林秀雄や福田恒存がそうであったように、真に創造的な自由人は孤高たらざるを得ず、僕は小室直樹氏にもそうした孤高を感じる。

平成一四(二〇〇二)年九月一日、九月八日