武士道の蘇生
―日本におけるノブリス・オブリージュ確立のために―
(承前)
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武士道的な生活文化を日常生活の中で学ぶ試みとして、斎藤孝氏の「身体感覚を取り戻す」を興味深く読んだ。自己規律によって鍛錬された生活の善き「型」を重視する斎藤氏の主張には首肯できる点が多い。氏は何よりも近年の日本人の生活習慣の崩れに危惧を抱き、その原因は伝統的な身体に関する文化が伝えられなくなり衰弱していることにあると指摘する。氏は、二〇歳代の若者たちと同宿したとき、彼らが宿の浴衣を着るのに帯をヘソよりはるかに高い位置に巻いたことにショックを受ける。彼らは腰と下腹を結ぶようにキュッと帯を締めた時の落ち着いた充実感を体感として知らないのである。このような立ち居振舞いにおける「腰・肚を重視する文化」や「息(呼吸)を重視する文化」、また、生きた教養としての「暗誦文化」
などが衰弱しつつあるのを憂え、氏は教育者として実践的にこれらの文化の復活を試みておられる。これらは、暗黙知の形式知化の試論、日本の生活文化の科学化の試みとして大いに評価したい。例えば暗誦の効用とは何だろうか。「小さい子に意味もわからない難しい言葉や文章を覚えさせるのは可哀想なだけだ」というのが近年のもっともらしいインテリの言い分である。しかし、精選された古典を小さいうちに「意味もわからずに」暗誦することは、実は、その人の一生の宝となると斎藤氏は述べる。それは幼い時に見た原風景のように、人生の折々に立ち現れて心を潤してくれる。そして幼少期の自分が老年の身の内にも生き続けているという実感によって、老年期の生が力強く肯定されるのである。斎藤氏はそれを「身体知」と名づけ、湯川秀樹博士が小さい頃受けた漢文の素読という教育に感謝していることなどを紹介している。僕の妻の祖父母が僕らの結婚式のときに詩吟を和してくれたが、明治生まれの人々は子供の頃暗誦した名文のレパートリーを数多く持ち合わせていた。それに引き換え、僕が暗誦できる古典は「伊勢物語」の八つ橋の段くらいという貧弱さである。小学生にはせめて百人一首くらいは全部暗誦させたいものだ。要は、子供に楽をさせるのが教育だと勘違いしている輩が多すぎる。教育は人の生涯のことを考えてされるべきである。その時だけ楽をさせるために教育カリキュラムをどんどん易しくするなどというのは、人を馬鹿にしたやり方である。一生残る古典を身体に刷り込むことは、子供には一時的に苦痛かもしれないが、その人の生涯にとっては宝となるのである。子供は馬鹿ではない。たとえ意味がわからなくても、実は、古典の持つ豊かな韻律やリズムは鋭敏に感じ取っているのである。
「暗誦」の復活、「腰・肚を重視する文化」や「息(呼吸)を重視する文化」の復活という斎藤氏の提案は、「文化」とは生活の態度、様式そのものであり、「文化の継承」とはそうした生活の中で使われるひとつひとつの言葉や動作が確かに受け継がれてゆくことであるということを私たちに気づかせてくれる。「文化」とは生活習慣である。家の中が乱雑で言葉遣いや生活習慣が乱れているのに、生活から逃避して非日常的な「教養」を身につけること、例えばストラヴィンスキーの音楽を聴いたりクリムトの絵を見たりすることは、「文化」とは何のかかわりも無い高踏趣味にすぎない。それは、次世代に受け継ぐべき生活価値を喪失した人の単なる自己満足である。僕より五歳ほど若い斉藤氏の論は、自らの静岡高校時代の国語教師の教えを基礎にしているという。思春期の教育おそるべし、である。
さて、生活習慣の問題を扱ったもうひとつの論文にも僕は心動かされた。医師である西原克成氏の「健康は呼吸で決まる」(学士会報・第八三四号。同名の本が実業之日本社から出ている)がそれである。西原氏は人類の発達史から説き起こして、現代日本人の健康管理や子育てで大きく誤っていることを何点か指摘している。ひとつは「口呼吸への依存」。口はしっかり閉じて鼻で呼吸しないと万病の元になるという。次に「冷たいもの中毒」。腸を冷やすことがあらゆる難病を呼び込むと警告されている。そして「でたらめ睡眠」。現代人の夜型生活化、慢性的な睡眠不足は不健康そのもので、大人で一日八時間は睡眠をとるべきだという。このほかにもアメリカの「スポック博士の育児書」がいかに有害なもので、本国では追放されているのに、日本ではまだ推奨されている現実など、教えられることが多かった。生活習慣を正しくすることは、武士的ストイシズムの第一歩である。
平成一五(二〇〇三)年四月一三日
〈参考にした文献〉
新渡戸稲造「武士道」矢内原忠雄訳(岩波文庫)
李登輝「『武士道』解題―ノブリス・オブリージュとは」(小学館)
笠谷和比古「武士道と現代」(産経新聞社)
福田和也「日本及び日本人の復活」(三笠書房)
斎藤孝「身体感覚を取り戻す」(NHKブックス)
西原克成「健康は呼吸で決まる」(実業之日本社)