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「古典派からのメッセージ・2003年〜2004年」目次へ戻る
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「風姿花伝」についての断片的考察

 

 世阿弥は能役者、劇作家であったばかりでなく、実践的な能楽論、演劇論をいくつも残した。「風姿花伝」もその一つである。彼は、芸の奥義を言葉で説明し尽くすことなど出来はしないことを充分承知した上で、「その風を得て、心より心へ伝ふる花なれば、『風姿花伝』と名づく(=先人からの芸の『風姿』を継承しつつ、心から心へ『伝』えてゆく『花』が大切だという意味で、この書物を『風姿花伝』と名づけるのである)。」と述べ、広大な暗黙知のエッセンスを形式知にして、芸の継承と新たな創造の一助になさんと試みたのである。

 世阿弥の真作とされる能の作品はいずれも詞章が殊の外美しいが、この演劇論「風姿花伝」もまた簡潔にして要を得た文章である。初めのうちこそ室町期の文語特有の表現に馴染みにくさを感じるが、何度か読むうちに、これ以上付け加えることも削ることもできない自己完結した美しい文章だと感じるようになる。声に出して読むとその意がすっと頭に入って来る達意の文章である。この人の卓越した知の営みに、僕は親近感を伴った敬愛の情を抱く。その敬愛の気持ちの赴くままに、「風姿花伝」のいくつかのキーワードについて感じるところを述べたい。

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 まず、世阿弥が「めづらし」という言葉に込めた意味、ニュアンスについて考えたい。「めづらし」は「珍奇な」という意味ではない。それは「美しい」という意味を含んでいるが、「美しい」という言葉はあまりに抽象的で、世阿弥が「めづらし」に込めた正しいニュアンスは伝わらない。「めづらし」には「新鮮な美しさ」とか「鮮烈な美」といったニュアンスが感じられる。世阿弥は、能役者に、観衆に飽きられないためにレパートリーをたくさん持つことを推奨し、また、同じレパートリーでも演技や演出に工夫を凝らすことで観衆に「めづらし」と感じさせるよう諭している。要は、マンネリやルーティンワークに陥らず、いつも作りたての新鮮な美を観衆に感じさせるべきだということであろう。

 僕は、以前、ハンブルグ北ドイツ放送交響楽団の演奏会の印象を、「手垢の付ききった『新世界交響曲』も、熟達したオーケストラが気合いを入れて演奏すると、こんなにも新鮮に聞こえるのか、と、驚き感動しました」と書いたことがあるが、「めづらし」とは、こういう新鮮な美に打たれた人が発する感嘆の言葉ではないだろうか。その意味で、「めづらし」は、能役者だけでなく、あらゆる芸術家が観衆に与えなければならない驚嘆と感動なのである。そうした「鮮烈な美」の観点から言えば、概してNHK交響楽団の演奏は、その技術的な優秀さにもかかわらず、サラリーマンのルーティンワークのような味気無さを感じさせられることが多く、「めづらし」と感じさせられることは少ない。

 一九七〇年代から活発化した古楽器によるバロック時代、古典派時代の音楽の演奏も、ロマン派以降の積もりに積もった過剰で大袈裟な表現法の塵を取り払い、その時代の演奏法に忠実に演奏したことによって、却って音楽を「蘇生」させ、まさに「めづらし」の感動を私たちに与えたと言える。

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 次に「花」について考えたい。「花」という言葉は、能の美について、世阿弥が象徴的に用いる言葉で、その意味合いは多義にわたり、一言では尽くし難いニュアンスを有するが、芸の最も大切な勘所、一世一代の見せ場といった意味でも使われる。「風姿花伝」第七「別紙口伝」において世阿弥は、「秘する花を知ること。『秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず』となり(=秘めておくことが大切だということを知ること。『秘めておくからこそ、それが花となる。あからさまにしてしまったら、もはや花ではない』という言葉がある)。」と諭しているが、「秘すれば花」とは、そうした芸の勘所としての「花」は「秘伝せよ」ということである。

 「風姿花伝」の目的は、芸を習得するために必要な無限の暗黙知のエッセンスを形式知化することにあった。しかし芸の奥義を全て言葉で表現することなどできようはずもなく、また、奥義を正しく身につけることのできる人もまた限られていることは世阿弥自身が一番よく分かっていた。奥義の通じない不器量の者にこの口伝を読ませることは、却って能を誤解させ、正しい芸の伝承が不可能になる。芸は才覚優れた者のみに秘伝してこそ正しく発展させることができる。「秘すれば花」とはそんな意味合いだと思われる。それは特定の流派の秘密主義などではない。世阿弥は「観世の子孫といえども不器量の者には伝えるな、血縁が家ではない」と明快に述べている。彼は恩愛にとらわれ易い人間の弱さと芸術の厳しさを熟知し、真に値する人にのみ「花」を継承すべきだと言うのだ。

 能における形式知の限界、その奥義の深さに関して、演劇評論家の渡辺保氏が、喜多流の名人、友枝喜久夫の仕舞を見聞した記録の中でこんなエピソードを紹介している。

 ある時「蝉丸」があまりに良かったので、「あの『走り井』のところで、井戸をのぞくのは、どういう気持ちでおやりになるんですか」とつい聞いてしまった。愚問だと思うが、天気の話ばかりしていても仕方ないと思ったからである。

 笑いながら、友枝さんは少し恥づかしそうに、「やはり、そういう気持ちになってやりますね」

 とりつく島が無い。

 そうしたらば、すかさず白洲正子さんが「ああいうところは型通りやれば、それで生きてくるのよ。現に友枝さんは、井戸の底よりずっと深いところを見ていらっしゃるでしょう」

 全くその通りであるし、そのくらいは私にもわからぬではないが、どうしてそうできるのか、それが知りたい。

「渡辺さんは理屈で来るからね」

 白洲さんが友枝さんの顔を見て笑って、友枝さんも笑っている。

 全く二人の老人にはかなわない。

 二人の笑顔に芸の秘奥が輝くかのようであった。まるで秘密を分かち合っている少年と少女のようであった。芸の秘奥。確かにそれは理屈やテキスト・クリティックを超えるものだろう。

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 最後に、世阿弥の「衆人愛敬(しゅうにんあいぎょう)」の思想を見てみたい。「衆人愛敬」とは、広く一般大衆の人気を得ることが芸能の基本であるという考え方である。世阿弥の能は、足利将軍家を始めとする室町社会の上層階級の鑑識眼を得ることによって、古典文学を踏まえた幻想的で繊細な美を生み出したが、世阿弥は、こうした品格の高い曲だけに価値があるとは考えていなかった。むしろ一流の能役者は、時と場所、観衆の知的水準などに応じて、いかなる人たちをも楽しませることができなくてはならないと述べている。衆人愛敬の考え方は、「風姿花伝」第五「奥義に云ふ」で、次のように簡潔かつ明瞭に述べられている。曰く「そもそも、芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさんこと、寿福増長の基、加齢延年の法なるべし(=そもそも芸能とは、諸人の心を和らげて、上下あらゆる階層の人々に同じく感動を催させることである。そしてそれが人々の幸福増進の基となり、寿命を延ばす方法となるのである)。」

 僕はこの思想が大好きだ。幽玄の芸術に到達しながらも、広く人々に幸福をもたらす事こそ芸術の使命であると世阿弥は何の衒いも無く述べる。純粋芸術と大衆芸能の区分などといった現代の「ゲイジュツカ」の混濁した自意識などみじんも無い。何と健全な職人意識だろう。世阿弥の「衆人愛敬」には、自分に英才教育を施し申楽を芸術にまで高めながらも、地方巡業も積極的に行ない、得意の物まね芸で大衆の喝采を浴びていた父、観阿弥の姿が投影されている。観阿弥という人は上下を問わず観衆を魅了した天才的な能役者だったのだろう。

 能の「衆人愛敬」を現す演目は現在も生きている。例えば、「紅葉狩」や「舎利」や「土蜘」などには、良い意味での娯楽性がふんだんに盛り込まれており、誰でも素直に楽しめるように出来ている。しかもそれらの曲も、能らしい型の美しさや品格は充分保たれているのである。僕もこれらの曲を観能した後は幸福感や爽快感に満たされ、まさに能は「寿福増長の基、加齢延年の法なるべし」と感じたものだ。

平成一五(二〇〇三)年十二月七日

 

〈参考にした文献〉

世阿弥「風姿花伝」 川瀬一馬訳注(講談社文庫)

林望「すらすら読める風姿花伝」(講談社)

ドナルド・キーン「能・文楽・歌舞伎」吉田健一ほか訳(講談社学術文庫)

三宅晶子「世阿弥は天才である」(草思社)

渡辺保「能のドラマツルギー―友枝喜久夫仕舞百番日記―」(角川ソフィア文庫)