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「古典派からのメッセージ・2003年〜2004年」目次へ戻る
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日本の政治の論点

 

 日下公人、田久保忠衛、志方俊之、西村眞悟の四氏の対談「国益会議」(PHP)は、日本の外交を考える際の論点をしっかりと押さえて議論されており、我々日本人必読の書だと思う。この本に触発されて、日本の外交、内政について考えてみた。

 日本の政治の論点は大きく言えば四つある。一つめは、対米関係に関わる論点で、「現状の対米協調、米国依存の外交・防衛で行くのか、それとも自主独立の外交・防衛で行くのか」という問題である。自主独立とは、昔の日本社会党など進歩派が主張していた「非武装中立」などと言う非現実的な考えではなく、軍事的な米国依存から脱して(在日米軍の順次撤退を前提に)、自ら軍事力を養い自らの軍事力で防衛をまかない、外交的にも米国依存ではなく独自の思考をしようとする考えである。対米協調路線か自主独立路線かを選択する上では、過去三百年のアングロサクソンの世界支配がいつまで続くのか、の見極めが重要である。米国の「心の腐敗」がどこまで進んでいるのか、それによっては、米国の世界支配が短命に終わる可能性も否定できない。文明は外圧によって衰退するのではなく、内部の結束力の弛緩によって衰退に向うものだ。我々は、米国の運命を注意深く観察して、自らの運命を切り開かなければならない。

 二つめは、アジアとの関係に関わる論点で、「大陸(中国・韓国)を含めた大アジアの中で比較的控え目な役回りを演じるのか、大陸を外して東南アジアとオセアニアに深く関与して『東アジア海洋国家』の盟主の役割を果たすのか」という論点である。海洋国家論の典型として、梅棹忠夫氏の「日本よ、タテに飛べ」論がある。日本は、古代の白村江の戦い、近世の豊臣秀吉の朝鮮征伐、近代の日中戦争と、大陸へ出て行くと必ず失敗しており、かつ、中国や韓国が今だに反日教育を行なうなど対日感情が親密でないという歴史的教訓と、東南アジアやオセアニア諸国と日本との経済的な紐帯や彼らの日本に対する親密な感情に鑑み、ヨコではなくタテに飛んで海洋国家の盟主たるべし、との論である。

 三つめは、政府の役割に関わる論点で、「大きな政府か、小さな政府か」という問題である。言い換えると、「貧しい人、弱い人に手厚くすることを重視し、結果平等を重んずる重税社会を目指すのか、企業家を尊敬し理想として、自由と競争を重んじ、優勝劣敗を容認する軽税社会を目指すのか」という論点である。

  そして四つめが、政治の担い手に関する論点で、「ポピュリズムかエリーティズムか」という問題である。エリーティズムの論者は、ポピュリズム民主政治の衆愚化を憂え、参議院への制限選挙制(政治見識についての試験や納税額に応じて選挙の一票の重みを変えることで議員を選出する制度)の導入や、参議院の役割を目前の法案・予算案の審議ではなく中長期の我が国のあり方を議論し設定する場に変えることを提案する。また、旧制高校のようなエリート育成を目的とした高等教育機関の設立を唱える。エリーティズムの言論例として、元外交官の枝村純郎(すみお)氏が「学士会報」の平成一三(二〇〇一)年第四号に寄稿された文章を次に挙げる。

「政治家がエリートでないのは日本だけです。日本は大衆政治家をもってよしとする。私は、それは間違っていると思います。(中略)エリートはどんな時にも泰然自若としているからエリートなのです。たとえ、頭がパニックになったとしても弁解などしない。そういう甘えを持たない。エリートというものは、自ら律するにいちばん厳しい人たちでなければならないのです。まさに『ノブリス・オブリージュ』という言葉の通りでして、テレビのワイドショーなどでウケることが政治家としての人気を得る所以である社会は、どこかおかしいなと思わざるを得ないのです。」

 こうした重要な四つの論点に対し、旗色を鮮明にしないような政治家や学者先生を僕は信頼しない。「思想軸」の定かならぬ政治家や学者先生を僕は尊重しない。政治家は主義主張で政党を作るべきで、その点、自民党もそうだが、特に、右から左まで混在し得票獲得のためなら小沢一郎氏の一派まで取り込もうとする民主党という政党は最悪の政党である。思想軸と主義主張で政界が再編されることを強く希望する。

平成一五(二〇〇三)年四月二九日