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「古典派からのメッセージ・2003年〜2004年」目次へ戻る
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人間の結晶

 

 さる五月四日の金沢定例能で演じられた狂言「口真似」について記したいと思います。「口真似」はこんなあらすじの小話です。

樽酒と酒肴を入手した主人が、太郎冠者に言いつけて、共に賞味する相手を探させます。太郎冠者の才覚で連れて来たのは、大の酔狂人で知られた某殿です。困った主人はこの客人を帰すわけにもいかず、太郎冠者に才覚で行動することを禁じ、何事も主人の真似をするように命じます。融通の利かない太郎冠者は、主人が自分に命じたり叱ったりする言葉や仕草までそのまま真似て、気の張る客人を叱ったり殴りつけたりしてしまいます。

 この狂言の楽しさは、太郎冠者が、主人の期待に背いて、客人を殴ったり放り投げたりしてしまう可笑しさや、主人の仕草と太郎冠者の仕草がうりふたつである滑稽さにあるのですが、この日太郎冠者に扮した少年は、この辺の機微を押さえて実に堂々と演じていました。

 さて、室町時代に奉公に出された少年たちも、この日の太郎冠者役の少年と同じ十二、十三歳くらいだったことでしょう。彼ら「太郎冠者」たちは、実際に奉公先の主人から殴られたり放り投げられたりが日常茶飯事だったに違いありません。しかし、そんな辛い日常生活の中でも、少年たちは明るく健気に生きていたのではないかと僕は想像します。「太郎冠者」は「次郎冠者」と主人の悪口を言い合い大笑いしていやなことはすぐ忘れ、天衣無縫の明るさでわずかな自由の時間を遊びに興じていたことでしょう。この狂言を見ていて、僕の頭の中には、そうした室町時代の健気な少年たちの姿が思い浮かんできました。命の力はこれほどたくましい。子どもの、そして人間の生きようとする意思の力の尊さ、素晴らしさといったような感慨が胸に押し寄せてきて、滑稽劇なのに、僕の目には涙が溢れてきたのでした。

 能もそういう所がありますが、狂言も、切り詰められ様式化された所作の中に、かえって人間の悲しみ、喜び、健気さが凝縮されて表現されていると改めて感じた次第です。そこには、いわば「人間の結晶」が表現されているのです。

平成一五(二〇〇三)年五月一七日