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「古典派からメッセージ・2003年〜2004年」目次へ戻る
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松阪の人たちとの出会い

 

 今月一三日(土)から一四日(日)にかけて、小生が運営しているホームページを通じて知り合った「宣長電子データの会」の皆さんを訪ねて三重県の松阪へ出かけました。松阪は江戸時代の偉大な国学者、本居宣長が生まれ育ちそして亡くなった所です。「電子データの会」の皆さんは、本居宣長記念館に伝わる豊富な史料を基に、「ようこそ宣長ワールドへ」という宣長をわかりやすく紹介したCD−ROMを出しておられます(このHPの「リンク集」に掲載した本居宣長記念館のHPからもアクセスできます)。

 二日間にわたり、会の皆さんに宣長縁の地などをご案内いただいたり、楽しくも知的な会食の場を設けていただいたり、と、何から何までお世話になりました。はじめに伺った本居宣長記念館では、宣長自筆の原稿やら勉強帳やらを見ましたが、一〇代の頃から晩年まで字体がほとんど変わらず、宣長が几帳面で読みやすい字を書いていたことに驚きました。本当にこの人は規則正しい生活をし情緒のブレの少ない人だったのだと実感できました。ご案内いただいた記念館の吉田主任研究員の言葉を借りれば「まるで機械のように」毎日変わらず医業に励むかたわら研究や教育や歌会に打ち込んだ生涯だったのです。この規則正しさと勤勉さは、同時代の作曲家ハイドンの仕事振りに似ているな、と感じました。

 また、宣長が源氏物語などの古典に興味を持った入り口が、実は、少年時代に習った謡ではないか、との吉田主任研究員のご意見も大変新鮮でした。確かに宣長は習った謡の曲名をメモに残しており、その中には「竹生島」や「羽衣」の名前も見えました。「竹生島」は小生も習った曲であり、この偉大な国学者と文化を共有できていたことに少なからず興奮を覚えました。謡というのは、つい最近までは日本国中で庶民に至るまで幅広く謡われていたことを考えると、古典文学への入門教材として、また、国民の共有財産として、大変大きな存在だったことを改めて感じた次第です。

 その日の午後は、小生の希望もあり、小林秀雄の「本居宣長」の冒頭に出てくる、宣長の二つのお墓に詣でさせていただきました。一つは松阪市街の樹敬寺にある先祖代々の墓で、彼の墓は巨大な石碑などではなく、本当に先祖と家族に囲まれたささやかな墓であることに驚きかつ感動しました。もう一つは松阪市街から八キロほどの山室山にある、いわば彼の「個人墓」です。この日は残暑厳しく、大汗をかきながら山道を登ると、自筆で「本居宣長之奥墓」とだけ書かれた簡素な石碑が立っていました。原初の日本を探求し仏教を外来思想として嫌ったと言われる宣長が、樹敬寺に仏式で自らを葬るよう遺言していたのを訝(いぶか)る向きもあるようですが、小生は、宣長は仏教の空理空論(さかしら)の部分を嫌ったのであって、だからといって庶民に根づいた仏教慣習まで否定するような石頭ではなかったのだと理解しています。

 

*       *       *

 

 さて、松阪は、城下町であると同時に三井家発祥の旧い商都であり、今でもここかしこにそうした雰囲気を残す街です。そのうえで、宣長の故地であり、その遺風を本居家や周辺の人々が育んできたことが、この街で生まれ育った、或いは一時的にでも住まいした人々に強い影響を与え続けてきたことは特筆に価します。

 本居宣長記念館の吉田主任研究員が書かれた中日新聞連載のエッセイ「続・松阪の宣長さん―語り伝えた人々―」を頂いて、その辺の事情を大変興味深く読みました。歌人の佐佐木信綱がこの地で豊かな芸術的霊感を受けていたとは知りませんでしたが、とりわけ印象的なのが、日本画家、宇田荻邨(てきそん)の少年時代の思い出です。宣長旧宅の「鈴屋(すずのや)」に出入りして遊んでいた荻邨ら少年たちは、町の老人から「宣長先生はこの部屋で三十年もかかって有名な『古事記伝』を書かれたのだぞ」と聞かされ、何とも言えぬ深い感銘を覚え、「少年時代の感化というものがいかに大きいかということを痛感している」と荻邨は回想しているそうです。そして吉田主任研究員曰く「これが(中略)偉人の旧宅保存の意義である。可能性を秘めた子どもの心には、(中略)偉大な生涯に触れることが必要だ。それが未来を切り開いて行く時の指針になる。『鈴屋』保存の意義もそこにあるし、またそこには『町の老人』のように、それを語り伝える人が居ることが大切である。」

 郷土の歴史や歴史遺産をなぜ大切にしなければならないか、の最も正しい答えがこれなのです。郷土の歴史遺産は、「町興し」や「観光客誘致」といった「経済効果」のためにあるのではありません。そこに住む人たちの深い自己同一感を支え、子供たちに出自への根源的な自信と誇りを抱かせ、訪れる人に街の香気を感じさせ、霊感を授ける…これこそ郷土の歴史を保存することの意義なのです。我が国には自分の郷土の歴史について教えること(ふるさと教育)が全く足りないと小生は思います。

 ちなみに小生は愛知県三河出身ですので、その出自の思い(アイデンティティ)は「三河武士」にありますが、三河武士の勇猛さ、忍耐強さ、忠誠心と団結力の強さといったことがらについて教えるふるさと教育は、残念ながら当時の我が故郷には無かったように思います。小生はその飢餓感を司馬遼太郎の小説や随筆を読んで癒していたように思います。

 吉田主任研究員が書かれたエッセイを読んで、まさに「宣長電子データの会」の皆さんが、宣長を「語り伝えた人々」に連なっておられることに気づき、改めてその活動に敬意を表する次第です。

平成一五(二〇〇三)年九月二三日