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「古典派からのメッセージ・2003年〜2004年」目次へ戻る
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歌舞劇の普遍性―宝生流新作能「朝顔」を見る

 

 加賀の千代女をご存知ですか? 松尾芭蕉より少し後の時代の加賀の国松任の女流俳人です。千代女の父も俳句をよくし、芭蕉が北陸路を訪れた際に直接教えを受けたそうです。

 千代女の

     朝顔に 釣瓶(つるべ)取られて もらひ水

という句はよく知られています。井戸の釣瓶にまで蔓(つる)を這わせる朝顔の命のたくましさに対する畏敬の気持ちと、それをそっとしておいてもらい水をする優しい心持ちが、夏の朝のさわやかさに混ざり合って印象的な句です。

 千代女は幼い頃から俳句の才を顕し、十七歳で名人とまでいわれますが、十八歳で金沢に嫁いだもののすぐに夫と死別し実家に帰ります。その後は、家業がうまくいかなくなったり、敬愛する父母や兄弟に死に別れたりして、一時は苦悩で俳句を詠めなくなった時期もあったようです。しかし、周囲の人たちに励まされたりしながら再び己の道をしっかりつかみ、生涯俳句と仏門に精進する人生でした(以上は後記「千代物語」による)。

 さる十一月四日、石川県立能楽堂で催された、第七回藪俊彦「能の会」で、千代女生誕三百年を記念して、篠笛独奏と「千代物語」の朗読、それに平成二(一九九〇)年に作られた宝生流新作能「朝顔」の演能がありました。

 この新作能は、正統な古典能の形式で作られており、俳句に心を寄せる諸国一見の僧が、松任の里で里女(実は千代女の霊)から千代女の物語を聞き、あわれに思って夜すがら回向をしていると、歌舞の菩薩に変じた千代女の霊が現れ、過去を回想しつつ舞を舞うという物語です。後半、華麗な歌舞の菩薩姿の千代女の霊が、命の尊さを慈しむように朝顔の咲いた井戸に寄り添う美しい所作が小生の心に強く残りました。シテの藪俊彦師の安定感ある優美な舞姿もほれぼれとするものでした。薮師は、平成二年に初演して以来、今回でこの曲を六回演じておられます。会報に「能では、人の世のはかなさ、生きとし生けるものの命の大切さ、いとおしさ、道ひとすじに生き抜いてゆく誇り等々を、自分に言い聞かせ乍ら稽古を重ねる所存です。そして、今回の公演を『朝顔』のしめくくりにと決意しています。」と書いておられますが、この曲をめぐる様々な師の思いが伝わってくる演能でした。

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 さて、この曲は、能楽という室町時代の器に、加賀の千代女という江戸時代の物語を載せて、現代劇として作られています。通常、能は、平安時代など過去の物語を載せて過去を舞台として作られています。その意味で、能に、より新しい時代の素材を載せて現代劇に仕立てるという試みは大変困難に思えます。下手をすると能の滑稽なパロディになりかねません。しかし「朝顔」は、古典としての風格をしっかり保っており、完全に成功しているように思われました。現代人との設定である間狂言の里人が、裃(かみしも)を着て出て「今年は千代女生誕三百年にて候が…」と「そうろう言葉」で語っても違和感はありませんでしたし、千代女が後半歌舞の菩薩として現れるという設定にも無理が無く、江戸時代人を主人公にした現代劇の世界から自然に中世の歌舞の世界に入り込めました。

 こうした融通無碍な時間の行き来は、能という「歌舞劇」の持つ優れた抽象性のおかげです。この能の特性を、歌舞伎や浄瑠璃との比較で語った、三宅晶子氏の「世阿弥は天才である」(草思社、平成七年初版)から引用して紹介しましょう。

「…一方、能はストーリーがはるかに単純で短く、それだけ何を表現するか、どういう人物を演じるかを、単刀直入に本質だけをずばりと示している。能が歌舞劇として発展せずに、大勢の登場人物による複雑な筋書きを売り物にした劇形態を志向していたとしたら、当然、浄瑠璃や歌舞伎と同様、時代の制約を受けていたであろう。ところが能は、その大成期において、歌の美しさと舞の美しさを志向した。…(中略)…世阿弥は、時代時代の社会を直接的に反映させることよりも、普遍的な人間性を捉えることに目が向いていたのであろう。世阿弥の能は非常に本質的で普遍性がある。…(中略)…現代まで演じられ続けているような能の秀曲における主人公たちは、古今東西を問わず共感を得られる場合がほとんどである。能は、どうしてこんなものを作ることができたのか、不思議なほどに、時空を超越した演劇なのである。」(同書一七六頁)

 まさにこうした特性ゆえに新作能が成功する可能性があるわけです。今年九月に観世流の新作能「渇水龍女」がテレビで放映されたのを見ました。この曲は、厳密には原曲が存在した復元能とのことでしたが、様々な現代的な演出が施されており、新作と言った方がいいように思いました。「渇水龍女」は、「朝顔」のような歌舞劇としてのオーソドックスな古典能ではなく、三十人以上の登場人物を伴う大スペクタクル劇で、これ以上やると能ではなくなるぎりぎりのところまで演劇的要素を強く打ち出していましたが、これはこれで、能の劇的な一面を楽しむことはできました。

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 さて、「朝顔」が演じられた第七回藪俊彦「能の会」では、四人の若手能楽師ないしその卵たちによる仕舞も披露されましたが、これがまた良かったです。出処進退からして若さの華やぎ、さわやかさ、清新さを強く感じさせてくれました。謡の声も伸びやかによく通る美声で、舞姿も力強くかつ初々しいものでした。これこそ「風姿花伝」冒頭の「年来稽古条々」に「よそめにも、すは上手出で来たりとて、人も目に立つるなり。」と言われる「時分の花(=若い時分ゆえの魅力)」だ、と感じた次第です。この人たちが、さらに精進されて、「時分の花」を「真(まこと)の花」に変じてゆかれんことを心から期待します。

平成一五(二〇〇三)年一一月九日