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「古典派からのメッセージ・2003年〜2004年」目次へ戻る
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ハイドン・フェスティバル金沢にて

 

 さる一一月一二日から一六日までの五日間、石川県立音楽堂で、ハイドン・フェスティバル金沢という催し物があった。ハイドン所縁のオーストリアのエステルハージ宮殿を本拠地に活動しているハイドン・アカデミー管弦楽団と地元のオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)が分担して、ハイドンの音楽の連続演奏会を行なったもの。古典派音楽とハイドンの「信者」である僕にとっては見落とせない企画であり、ほとんどのプログラムを聞き通した。

 初日は、ハイドンの交響曲「朝」と交響曲「告別」の間にモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第四番が挟み込まれたプログラム。交響曲「朝」を実演で聞くのはこれで三回目だと思うが、ハイドン・アカデミー管弦楽団の各楽器のソロは実に達者なもので、食後のスイートのように楽しめた。モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第四番のソリストは地元金沢出身の若手女流ヴァイオリン奏者、坂口昌優(まゆ)さん。なかなか堂々として、しかもソロを弾くのが楽しくてしょうがないといった明るさに好感が持てた。「告別」交響曲も生で聞くのはこれで三回目だと思うが、終楽章で、ハイドンが実際にエステルハージ候の前でやったように、演奏者が次々に退出してしまう「演技」もあり、それがこんなに美しくも効果的なのかと、改めてハイドンの機智に感心した次第。

 二日目は所用で行けず。三日目は、交響曲「悲しみ」と交響曲「帝国」の間にモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第五番が挟まれたメニュー。交響曲第四四番ホ短調「悲しみ」は、僕が最も愛するハイドンの交響曲のひとつだ。ハイドンの短調の曲は、大部分が、最後までは短調の情調を維持せず、途中で社交的な長調の世界に回帰してしまう。いわば「なんちゃって短調」である。四日目に演奏された弦楽四重奏曲ヘ短調「かみそり」も先の交響曲嬰へ短調「告別」も然り。だが、このホ短調交響曲は違う。最後まで悲しみが嵐のように駆け抜ける。唯一長調に転じる第三楽章も、祈りに満ちたような簡素で美しい旋律を聞かせる。大好きなこの曲も、実演で聞くのは今回初めてだと思う。ハイドン・アカデミー管弦楽団の演奏は、古楽器奏法も踏まえたシャープなもので、この曲の時に会場には緊張感が満ちていたのが感じられた。きっとハイドンをあまり聞いたことの無い観客は、ハイドンにこんな峻烈な曲があったのか、と、驚き息を呑んだのではないだろうか。

 四日目は、弦楽四重奏曲の夕べで、「かみそり」と「皇帝」の間にモーツァルトの「狩り」が挟まれていた。「皇帝」は、かつて、モザイク弦楽四重奏団の精緻な名演奏を聞いたことがあるが、ハイドン・アカデミー管弦楽団の弦楽主席奏者たちによる演奏も、なかなかメリハリのある、各声部が良く見える好演だった。「皇帝」はまさにハイドンの音楽技法の円熟の極みだ。

*       *       *

 そして最後の五日目はOEKとその合唱団ほかの演奏によるオラトリオ「天地創造」。この曲も実演で聞くのは初めてだった。さすがに円熟期の音楽だけに、ハイドンの音楽は充実しており、殊に合唱の部分はポリフォニーも織り交ぜて大変な迫力である。そして岩城宏之さん指揮のOEKの演奏も殊の外素晴らしかった。合唱もよく鳴り響いていた。

 これまで僕はこの曲をCDでしか聞かなかったので、歌詞はあまり意識しなかったが、この演奏会のように歌詞が日本語でスクリーンに映し出されると、いやでもそれを意識させられる。はっきり言って、旧約聖書の「創生期」とミルトンの「失楽園」を基にしたというスヴィーテン男爵の台本は実にくだらない代物である。啓蒙主義時代の、何の起伏も無い能天気な聖書表現の軽薄さは耐えられない。アダムとイブも単に神を賛美するだけの呆けた存在に成り果てている。ハイドンは様々な生き物が生み出される様を音画で表現することを強いられる。鷲が空を飛ぶ姿、雲雀や鳩の鳴き声、獅子が吠えるあり様、虎が駆ける様子、獣が地を圧する場面等々。既に交響曲と室内楽であれほど見事な絶対音楽の様式を確立していたハイドンが、ここではこんな幼稚な描写表現に付き合わされているのだ。そうは言え、ここでもハイドンの音楽自体は充実しており、かつ、岩城宏之さん指揮のOEKの演奏が良かっただけに、この台本の馬鹿馬鹿しさが余計に目に付くのである。

 ハイドンは、この「天地創造」の次に、スヴィーテン男爵の用意したもうひとつのオラトリオの台本「四季」に曲をつけることになるのだが、さすがのハイドンも「自分は相当勤勉な方だと思うが、まさか『勤勉』を音楽にする羽目になるとは…」と描写音楽にうんざりしていたようだ。後期のハイドンの完熟した音楽技量を、キリスト教音楽以外のジャンルで発揮させたかったと思うのは僕だけだろうか。

*       *       *

 それにしても、「天地創造」に見られる、旧約聖書的、ユダヤ教的世界観にはついて行けないものを感じる。中東の乾いた世界、苛烈な世界の世界観だと僕は感じる。まず、善悪二元思想。「天地創造」の冒頭で「地獄の霊の群れは恐れおののき…彼らの破滅につきまとうのは絶望と激怒と恐怖…」と、敵を絶対許さずに追いつめる執念深さ。次いで、唯一絶対の一神教。唯一の神が全てを創造し、天使も生き物も人間もこれをひたすら賛美する。そして、人間中心主義。諸々の生き物が作られ、最後に神に似せて人間が創造されるという。何と傲慢な思想!

 現代のイラクやパレスチナの問題も、全て、一神教の世界観同士の内輪揉めである(イスラム教対ユダヤ教、キリスト教)。それはまさに非寛容で傲慢な文明同士の衝突であって、容易に解決できまい。日本的アニミズムないし神道の、八百万(やほよろづ)の神が並び立つ多元的世界観の方がはるかに豊穣であり、人間だけでなく全ての生き物に慈愛の目をむける仏教の方がはるかに寛容で科学的であると僕には思われる。

平成一五(二〇〇三)年一一月一六日